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毎度おなじみ…

再開予告です。

長らくのご無沙汰です。
毎度のことながら面目ない。

相変わらずそれなりにはやってました。
例によって余談系の話題でお茶を濁して再開といきたかったのですが、どうも納得いく余談(なんだそりゃ?)が書けないので、次回からそのまま続きを再開したいと思います。まあ、未完成なりに膨大に書き溜めてあるんだけどね。
そうですね……数日中にはなんとか。

現在継続中のこのテーマ、某研究合宿では、口頭と資料によっていちおう最後まで話し終えたのですが、まあその強化版ということになるのでしょうか。
それでも、継続して追跡中のテーマが複数絡んでいて、とてもとても完成とはいえないのですが。

ええと、「小玉石を巡る冒険」は、分量でいうと、だいたい現状アップした分で半分弱といったところ。飽きっぽいので、今後も何度か寄り道(といっても必要に応じた寄り道)を差し挟んでいくつもりです。
とりあえず予定しているのは、自分では継続中のつもりであるところの「御子神十三柱の覚書」シリーズ、「片倉辺命」編。
それから、神社訪問記もちらほら入ってくるかと思います。

あと、もっと雑談もしたいな……。

登場人物紹介

お世話になっている方々

実践上の必然から、幾人かの先達の方々が文中に登場する機会が多くなってきました。その都度解説を入れているとただでさえまだるっこしい文章がますますまだるっこしくなってしまうので、サイドバー常駐項目として「登場人物紹介」の項を用意しておくことにしました。むろんこの項は、随時追加されたり加筆されたりすることでしょう。
ついでに書き添えると、ご厚誼ををいただいているみなさんの名を晒しながら己の実名を晒さないことについて多少の抵抗を感じており、機会を見て実名ブログへと転換すべきなのかなあ、なんてことも考えております。


田中 基 氏

縄文図像研究家。伝説の「古部族研究会」設立メンバーにして、これまた伝説の考古学・民俗学専門季刊誌『どるめん』(なんとJICC出版局!)の元・編集長。
『どるめん』廃刊後は諏訪に移住、以降、井戸尻考古館を拠点とする縄文図像研究に携わり続けている。アカデミズムとは一線を画したその大胆な研究内容によって、口さがない人々からは「井戸尻一派」「井戸尻一味」等と呼ばれることもある。現状、諏訪信仰研究に関しては、御室神事(というより、上社一連の冬祭~春祭)に特化している。研究成果として、著書に『縄文のメデューサ』。
大柄でもっさりとした印象的な風貌と独特のボディランゲージが、シャーマン的かつキュートな存在感を醸し出し、会う人を惹き付けてやまない。ずいぶん昔のとある論考を根拠として、名だたる現代舞踏家たちからも敬愛されている。要するにとても「身体的」な人なのであろう。諏訪土人でこそないが、疑いなく「野性の人」、すなわち土人である。
しばしば神社訪問等に付き合ってくださるのだが、私にとっての「伝説の人」と、地勢に立脚する観察意識や信仰史における価値観等を共有しながら軽口を叩きあうようなお付き合いをさせていただいており、幸せを噛み締めている次第である。

原 直正 氏

諏訪信仰研究家。『オール諏訪』、『長野日報』等に発表した論考多数。諏訪信仰研究史上、ほとんど無視されてきた感のある神仏習合の分野(今井黙天という昭和前期の異端郷土史家を唯一の例外とする)を専門とする貴重な存在である。陰陽五行や風水にも強い。なにより、上社生まれの上社育ちの上、研究キャリアが長いということもあって、上社周辺古跡に関する見識の深さにかけては余人を寄せ付けない。直近では、「長野県地域発元気づくり支援事業」にのっとった諏訪市神宮寺地域(本宮周辺)の古跡整備事業で中心的な役割を果たし、「神宮寺歴史散策マップ」を監修・制作した。そのいっぽうで、各地へのフィールドワークも精力的におこなっている。
ネイティブ諏訪土人ゆえ完璧な諏訪弁を操るが、それでいて、いかにも諏訪人臭い因業さを感じさせない、軽やかにフレンドリーなお方である。「おらぁ、ほのへんはよくわかんねぇだけぇどぉ」などと仰りながら、素晴らしく的確で鋭い助言を幾度もいただいている。
ついでにいうと、本職が床屋さんだけあって、さりげなくお洒落な方でもある。

有坂 理紗子 氏

謎の覆面小説家。リアル存在については、私も詳しいことは知らない(多少の断片は聞き及んでいるけれど)。ていうか、お会いしたことがない。剛腕と呼ぶべきすさまじい筆力と、文献史学におけるプロ級のスキル及び知識を持ち併せているのだが、ネット上人格においては、ごくまれにしかその片鱗を窺わせてはくれず、あくまでも軽やかに振る舞っていらっしゃる。また、美術分野にも通暁し、自らも絵筆を執るというマルチな才媛である。
諏訪地方に多少の縁があるらしく、また信濃國水内郡在住ということもあって、諏訪信仰と善光寺(を中心とする北信地方)との関係に非常に強い。こちらから発信した質問のメールで縁が生まれ、以後、大変お世話になっている(→出会いの詳細はこの項)。
呆然とするような高密度の超長文メールが立て続けに来たかと思うと、しばらくの間、パタリと止まる。まあ、当ブログでご存知の通り自分も似たようなものであって、個人的になんの違和感も感じないのだが、その行動様式からは……はなはだ失礼ながら……いわゆるアスペ的なお方なのではないか、とか勝手に想像している。いや、その手の友人が何人かいるので、なんとなく……ごめんなさい。
アスペを自称できるほどの突出感がない(のに社会不適応な)自分が口惜しい……。

Y H 先生

まだまだ畏れ多くて多くを語れず。この文章の趣旨に反してイニシャルだし(笑)。
蓼科の山荘でちょくちょく開催される研究合宿で大変お世話になっている。
私自身の興味と追及の方向性とはちょっと違うジャンルでの大先達なのだが、その圧倒的な基礎教養、志向性のブレのなさ、さらには孤高の思想の恐るべき強靭さによって、常に勉強させていただいている。
その合宿の参加者や教え子たちも、素敵な方たちばかり。

菅谷 淳夫 氏

十代の頃からの旧友にして、畏友。畏友という表現に、なんの誇張も上手もない。文字通りの畏友。
ただ単に「ライター」といえば同業者だが、オタクとかエロ方面でうろうろしていた私とはフィールドがまったく違い、アカデミックな方面で活躍している。荒俣宏の『博物学大図鑑』の編集スタッフでもあった。
別に信仰史の研究をしているわけでも、諏訪信仰に格別の興味を持っているわけでもないと思うのだが、ただ当ブログをきっちりと読んでくれた上で、自分なりの興味を示してくれるありがたいお方。それでいて、私が「そのうち調べなきゃな~、ン年後のことかな~」などと思っていたことを一晩で調べ上げ、突っ込んだり報告したりしてくれる。まさしく、畏友である。
以前はペンネームでコメントをくれたこともある。
人となりは……とても複雑だが、まあ、浅い範囲での印象として、「アッパー系怪人」とでも言っておこう。ガタイがいいのにチャーミング、という点では、そういえば田中基氏にも共通するなにかを感じるのであった。


※冒頭に書いた通り、この項はサイドリンクに加えるつもりで書きました。
 でも、すっかり操作を忘れていて今はなんだかわかりません。
 おいおいなんとかします。

小玉石を巡る冒険 その9

コダマ石あれこれ(前編)

諏訪の海 水底照らす小玉石 手には取るとも 袖は濡らさじ

前項でフライング気味に紹介したが、もともとはこの歌を軸に話を進めていこうと考えていたので、通しタイトルを「児玉石」ではなく強いて「小玉石」としたのであった。
構想は変わってしまったが、まあ、「小玉石」のほうがより普遍的な感じがするので、それはそれでよしとしておこう。
非常に有名な歌であり、里謡ともいわれるが、嘉禎(鎌倉時代)の奥書を持つ諏訪社の祭文集「根元記」及び「祝詞段」にもしっかり載っている以上、失われた諏訪神楽の祭文の一節であることに疑いの余地はない(祭文では「小玉石」の部分がリフレインされる)。
たとえば下諏訪町高木の津島社(「高木鎮守」として根元記にも登場する古社)では、戦前ころまで湯立神事がおこなわれており、その際にこの歌が唱えられていたという。歌の内容は盟神探湯を連想させるところがあり、湯立神事にはよく似合っているように思う。

さて、児玉石神社の社伝には、この歌を関連付けた伝承がある。原典には当たれていないのだが、『御柱祭公式HP』によると、

「諏訪宮神徳記抄」には “神が諏訪湖より大石を取り上げたが、袖はぬらしませんでした。中に2個の大石があり「児玉石大明神」と称しました。” とあります。


とのこと。児玉石神社には5つの巨石が連なるように並んでおり、そのうち2つだけを特別視するというのも奇妙だが、なによりも、前項で触れた通りこの歌の内容から巨石は連想しづらい。手長、足長、デエラボッチと、巨人神になじみのある諏訪だからこそなんとか受け入れられているのだろうが、このイメージだと、もとの歌の雅やかな感じが台無しになってしまう感は否めない。この歌の主人公としては、どちらかといえば、たおやかなお姫さまでもイメージしたいところである。
また、本シリーズ最初の児玉石神社の項でも触れたが、この神社の社殿配置からいうと、社頭の磐座を主祭神の依代と見るのは無理がある。むしろ本殿の中に収められているという無数の石棒、丸石、石皿等が児玉石神社の御神体とみるのが当然である。
となると……この石棒、丸石、石皿群もまた、児玉石なのではないか?という疑問が生ずる。

というのも……これらの石器群は、おそらくは付近からの出土物が順次奉納されたことによって数を増してきたと思われるのだが、その経緯が玉依比売命神社の児玉石にそっくりだからである。
前述した通り、玉依比売命神社の周囲には多くの古墳が見られ、特に山稜を隔てた北側には、積石塚群集墳で知られる大室古墳群がある。農地の開削によって煙滅した古墳は数知れず、そこからの出土物が奉納されたとみるのが定説になっている。
当社の記録によれば、児玉石が一気にその数を増したのは江戸後期で、これは、国学によって古墳や勾玉、さらには式内式外の古社に対する注目度が急速に高まった時期とも重なる。と、まあ、背景となる事情は非常に現実的なものなのだが、注目すべきは、「増えれば吉兆、減れば凶兆」とし、そのために毎年奉納が繰り返された、という点である。

すなわち、児玉石というものは「増えること」にその神性を見出されている面もあるのではないか。

「さざれ石の磐となりて」と歌われるように、古人は、岩というのは長い長い時間をかけて成長するものだと考えていた。たとえば小袋石を見ると、その存在感の唐突さに我々は圧倒される。峻烈な山岳地帯や渓谷ならいざしらず、おだやかな地質の里や森の中に、突如地中から湧きだしたか、それとも天から降ってきたかのように唐突に存在する巨石に対し、人々は神秘と畏怖を感じたことだろう。木が枯れ、水が流れ、土が容易に造成できるいっぽうで、岩は不変かつ不動である。「苔のむすまで」不動であったがゆえに、それがどこから来たのか、どうしてそこに在るのかが想像しにくい。その圧倒的な存在感と「生成の神秘」こそが磐座信仰の原点であり、ゆえに、誕生や生命力の神性へと通じていくのだろう。
石は育つものであるとする世界観の中で、なおかつ生命力の霊性を持った特別な石なのであれば、増殖するのも「当然」というべきである。

また、玉依比売命神社においては、決して「児玉石=勾玉」ではない。ひと抱えもあるゴツゴツの自然石もあれば、穴だけ穿った自然石、管玉、球形の宝玉、トンボ玉も、旧石器時代の石斧すらある。それらすべてが児玉石なのだ。
であるならば、児玉石神社の磐座の見事な連なりっぷりも「増殖する石=児玉石」のイメージにすんなりとなじんでくるし、本殿の中で密やかに増殖してきた石器群(石棒と石皿のペアは、繁殖の象徴そのものだ)も、やはり児玉石と呼ぶべきなのではないだろうか。

諏訪大社と諏訪神社』の八ヶ岳原人氏は、中世の七石にいう児玉石は、本来児玉石神社のそれではなく、上社のお膝元にあったのではないか、という疑問を提示している。
氏も発見できていないようなのだが、ここで「高部児玉石」が紹介されている。私もこれを確認できていないのがもどかしいのだが、なるほど、中世にいう七石の児玉石は、こっちが本来だったのかもしれない。しかし、だからといって、「児玉石神社の児玉石は、本当は児玉石ではない」ということには決してならないはずである。
児玉石というのは、本来、ひとつの磐座なり宝玉なりに特定されるべきものではないのだ。そして、中世の諏訪神官が既にそのことを忘却していたのだとすれば、その信仰の根は相当に古いということにもなる。

塩沢瀬神社本殿裏

この写真は、磯並各社の祭神比定の項でも紹介した塩沢「瀬神社」の、本殿覆屋内部である。
本殿の背後に、多くの丸石と石棒が集められている。
これもまた、児玉石……の、少なくとも類縁とはいえるだろう。
間違いなくいえるのは、児玉石神社本殿の中で起きているのとまったく同じ現象が、ここにも起きている、ということである。

塩沢瀬神社境内末社

こちらは、同神社の境内末社。
「天満宮」と刻まれている。丸石だの石棒だの奉納されて、天神様もさぞかし困惑していることだろう。
こうした例は、特に八ヶ岳山麓の各所で見られる。いっぽう、里の宮で見られる似た風景は、村の若衆たちの力比べに供された「力石」であることが多い。力石は全国的に見られる習俗だが、諏訪ではやはり丸石や石棒が目立っている。まず石集めの信仰があって、それは村の辻や集会所の前に置かれることが多いため、結果として両者が「混じっている」可能性は高いように思われる。
この丸石集めの習俗は、同じ八ヶ岳山麓文化圏という共通性から見ても、甲斐の丸石道祖神(好例)と根を同じくする信仰とみてよい。生殖と豊穣の神でもある道祖神の丸石集めと、生命の石たる児玉石信仰を比較した際、そこに通低する信仰思想があることは否定できまい。まして、児玉彦命が古代における神長家の宗主とされている以上、背後に潜む石神としてのミシャグジの存在も否応なく浮かび上がってくるのである。

武石子檀嶺神社の児玉石の性質については、「若宮」について考察したこの項をご参照願いたい。
分祀という行為によって引き渡されるエネルギー……すなわち、「若宮=別け宮」に内在するミシャグジ的な再生のエネルギーが、この小石には籠められている、と考えておきたい。

次回後編は、その他の児玉石の例をいくつか挙げ、さらにその本質に迫っていく。

(つづく)

【110501:「力石」の件、ちょいと修正】

小玉石を巡る冒険 その8

武石 子檀嶺神社(後編)

疑問は募るばかりであった。
まず、古文書の存在を確認したい。目の前に現物を出されたところでそれを読むスキルなど持ち合わせてはいないのだが、とにかくその存在と奥書の年代(たとえ嘘でも)を確認したいのである。それなりの文献であれば『長野県史』(これがまた、膨大かつ検索性の低い手強い資料で…)なりに収録されている可能性もあるし、自治体の教育委員会に管理委託されていることも考えられる。
そして、近代においてなんらかの変化、変革があった気配も感じる。御柱祭が健在で、しかも昨年おこなわれたというのに、あの中宮の打ち捨てられ方は尋常でない。また、「慶徳殿」などという怪しげな名前から感じられるのは、「戦前」の空気である。国家神道ならまだいいが、「玉諸武彦」あたりからはオリジナル新宗教の臭いがしてこないでもない。

というわけで教育委員会の武石支部に電話してみたのだが……とことん! 徹頭徹尾! ラチが明かない。ただひとつだけ、『武石村誌』が存在することを聞けたことのみが収穫だったが、この本、県内の図書館でもなかなか所蔵していない。特に諏訪には皆無(諏訪圏のデータベースで類書を探して空振ったことがあるために、その存在を知らなかったのだ)。しかも、御柱祭の歴史についての考察があるだけで、神社そのものの歴史にはほとんど触れていないようなのである(教育委員会・談)。
『武石村誌』はそのうち機会を見て当たることとして、当面ほかに手の打ちようもなく、再度、宮司さんに電話してみることにした。前回の印象として、物腰柔らかで、少しも権威的でなく、教員を本業としていらしたとの話(教育委員会・談)にも肯ける立派なお方なのである。

--たびたびすみません。まず、古文書についてもう一度おうかがいしたいのですが、どこか教育委員会なりに委託されていたりするのでしょうか?
「いや、あの、基本的には神社の所有ということになるんですが、今はうちの方に引き上げて保管しています」
--え? そうなんですか……それで、社伝とか、造営帳とか、どんな種類の文献があって、おおよそいつごろのものなのかとか、少しでもわかりませんかね?
「うーん、それが……いや、まだちゃんと整理できてないんで……」
--そうですか……(整理できていない……?)。
「どのへんのことがお知りになりたいんでしょうか? まあ社伝は社伝としてありますから、そっちのほうは機会があればお渡しできますが」
--あ、ありがとうございます、ぜひ(印刷物でもあるのだろうか?)。あの、先日お宮のほうに参拝させていただいたんですが、なんていうか、こう、近代あたりの時代になにか断絶があったような……そういう印象を受けたんですが。
「そうですか? うーん……いや、大正7年、いや8年かな、大きな火災がありまして」
--あ、なるほど、その時に再建したということですか。それじゃあ、あの「慶徳殿」というのはなんなんでしょうか?
「もとは神楽殿なんですがね。今は直会とかのね、氏子さんたちの集会所というか」
--そういうことですか。しかし、そうすると……あの、神社庁のほうから、わりと最近先代から引き継がれたとうかがったんですが、宮司さんのお家がこの神社の神官を務められるようになったのは、いつごろからなんでしょうか?
「いつごろといいましても……うーん……まあ、私で29代めということになりますが」
--え? ええっ!?

予想もしなかった展開であった(まあ、主に観光課の「嘘」のせいなのだが)。
29代というのは相当なものである。むろん、かつては珍しくもなかったろうが、代々続いた神官家の多くが明治政府の専制的愚行によって絶やされてしまっている。出雲、阿蘇などの有名どころを中心になんとか続いたところはけっこうあるのだが、こういう知られざる雛の宮で29代の神官家が健在であるという事実は、ちょっと感動的ですらある。一代20年と想定すれば、室町時代も初期にまで届いてしまうのだ。
ということは……内容がどこまで信用できるかはさておき、社伝の出所だけははっきりしたわけである。
この神官家が代々受け継いできた家伝、ということだ。
そりゃあ、どこにも書いていないわけだ!
って……いや、しかし……ちょっと待てよ?
この町のお役所の感じだと、郷土史云々という風土でもなさそうだし、古文書もどうやら正規に調査されてはいないようだ。ということは、つまり……もしかして、この神社って「手つかず」なんじゃ……。

…………。

いやいやいやいや!
私ごとき浅学に本当のところはまったくわからないのだが……。
それでもまあ、とりあえず。
この狭い日本にも、まだまだ秘境と呼べる場所が残っているわけだが、しかし、それ以上に多くの、「探検に値する文化的秘境」が存在しているのではないか……ということを強く思わされた次第である。

改めて思えば……確かに「子檀嶺神社」は式内社であり、その名はよく知られている。だが、武石のこの宮と青木村の同名社とを比較したとき、論社としての説得力に圧倒的に優るのは青木村のほうなのだ。「子檀嶺岳(こまゆみ・だけ)」という名を持つ存在感抜群の神体山があり(→紹介例)、その山をとり囲む3方の村に里宮があり、中宮を持つものもあり、子檀嶺岳の山頂には3方それぞれの郷の本殿が並んで建てられている。まず、信仰圏の規模と厚みが圧倒的に違うのだ。しかも代表的な里宮は東山道に面していたと考えられ、遠からぬ町村境を越えると馬背神社(三代実録記載「馬背神」の最有力候補)がある。子檀嶺とは「駒斎(こまゆみ)」、すなわち、馬背神社ともども馬関連の信仰だと考えられているが、それは周囲が延喜式にいう塩原牧であったと考えられているからである。当然、中央に任命された牧官もいたはずで、そこから東に広がる塩田平には国魂社的な性質が色濃い生島足島神社があり、金刺氏、他田氏が上古以前における痕跡を強烈に遺しているのだ。

いっぽう武石の子檀嶺神社はといえば、のどかで広大な谷がいくつも交わる場所に位置する、山奥の小村の鎮守社である。遥か離れた美ヶ原から続く山稜に「子檀倉岳(こまくら・だけ)」と称する神体山を設定している。山頂下には清水の湧く磐座と奥宮があるといい(宮司氏・談)、地形的に見ても水源信仰は成立するものの、正直なところ、里宮から見上げていったいどの山なのか、まったくピンとこない山である。
式内社子檀嶺神社に比定される三代実録記載神は「駒弓神」なので、その点でも「こまゆみ」の呼称を今に伝える青木村が有利だ(ただし、現在の祭神は木股神)。古い時代において両社に直接的な繋がりがあった可能性ももちろんあるが、とりあえず、民間で「こまみね」と呼ばれ、中宮を駒形、奥宮を「こまくら」、古名を「獄石宮(たけしのみや)」とする武石の場合、おなじみの「あわよくば式内社」パターンで、江戸後期以降に子檀嶺神社を名乗るようになったと考えるのが自然であろう。子檀倉岳に「子檀」の字を充てるのも後付け臭く、本来は「駒倉」あたりが想定される。「倉」は磐座の「くら」とも考えられるが、倉稲魂(当社では「宇賀御魂」表記だが)の「倉」とも考えられる。馬を軸に考えれば「鞍」ということもあるかもしれない。
「こまみね、こまがた、こまくら」と来ればこちらも馬信仰の宮と考えられるが、いちおう「高麗」の可能性も考慮に入れておく必要があるだろう。
(あ、それは青木村のほうも同じか……)
あともうひとつ、善光寺奥宮ともいわれ彦神別を祀る「駒形駒弓神社」と両・子檀嶺神社の関連も、諏訪信仰研究の立場からは大いに気にかかるところだが……それはまた無期限の「後ほど」ということで(←パクリ)。

以上、10人研究者がいたら10人が青木村を式内社に比定するだろう……と、いうわけなので、武石の子檀嶺神社はおそらくほとんど注目されてこなかったのではないか。
しかし、式内社でないとしても、別の一神社として注目する価値があるかないかは、まったく別の問題である。
とりあえず私としては、「児玉石伝承」に注目せざるをえない。現時点でその伝承の根拠や古さについて確かなことはなにもいえないが、諏訪から遠からぬ山奥の雛の宮にそういう伝承があるという事実だけでも、十分注目に値するだろう。
なぜというに、近現代の諏訪信仰において、こうした小石や宝玉を対象とする児玉石信仰の表れは確認できないからである。今の諏訪にあるのは、児玉石神社の磐座だけだ。そのいっぽうで、古き諏訪神楽の残欠「諏訪の海 水底照らす小玉石 手には取るとも 袖は濡らさじ」に見る小玉石は、どう考えても小石である。つまり、小石を小玉石とする信仰の形は、諏訪ではとうに失われた形、おそらくはより古い形なのである。ゆえに、たとえ文書が偽書的なものだったと仮定したとしても、この「伝承自体はある程度古い(中世までは遡り得る)」といえるのではないか。

なお、「児玉石(玉石)によって分霊」というパターンについて、玉依比売命神社がそうであるかもしれないという可能性を除けば、今のところ類例は見出せていない。

ところで、近世以降の諏訪神社は、分霊時の御神体として、おなじみの薙鎌を授与している。その形態から、もしかして勾玉の代用品として始まったのではないか……などということも前のめり気味に考えていたのだが、とりあえず武石の宮の児玉石が自然石であったことによって、そっちの仮説は引き下げることと相成った。

さて、次回は、「コダマ石」とはいったいなんなのか?という問題を、多くのサンプルを取り上げながら検証していきたい。

(つづく)


【110429付記】

その後、『武石村史』を手に取ることができました。
あまり時間がなく、禁帯出本だったため、つまみ読みしかできませんしたが……

ごめんなさい!
武石村のことナメてました!

ちゃんとこの神社に関する記述がありました。しっかりした考察でした。
(ということは……やっぱり教育委員会に騙されたわけだが)
古文書もしっかり参照してます。
でも、体系だった調査と、整理・管理は、やっぱりなされていないような感じです。
また機会をみて追加報告をまとめたいと思いますが、本項で主題とする児玉石伝承については特に新情報がなかったため、とりあえずは話を先に進めさせていただくこととします。

小玉石を巡る冒険 その7

武石 子檀嶺神社(前編)

今回は、予告してあった「もう1社、訪ねなければならない神社」の件である。
ちなみに社名の読み方は、正式には「こまゆみね」、地元の通称では「こまみね」と呼ぶ。「子檀嶺神社」は式内社だが、北側の山を越えた青木村に論社がある。こちらでは正式名称通りに「こまゆみね」、もしくは「こまゆみ」と略されることもある。
まずは、長野県神社庁HP「子檀嶺神社」の項からの引用で話を始めさせていただくことにしよう。

だが……その前にひとこと言っておきたい。
長野県神社庁HPのデータベースは御世辞にも立派なものとはいえず、祭神や沿革等については、やる気のある宮司氏の自主性によってのみ記入されており、住所以外の情報がまったく表示されていない神社が大半である。その時点でガッカリだが、逆にそんな中で見られる少数の解説は、自主性に任されているからこそであろう、なかなか役に立ち、新たな発見も多い。だがそうした場合でも、肉筆文書によって委託されているためか単純な誤字や誤謬が目立ち、HP管理側の仕事の粗さとやる気のなさ、呆れ返るほどの知識の貧弱さがあからさまに露呈している。まあ、実際には入力を外注会社のバイトに任せたとかいうような話なのだろうが、「こういうもの」を世間に曝し続けているという管理責任は当然免れ得ない。「長野県神社庁の職員ってのは、古事記もろくに読んでないのか…」と思われたとしても、己の怠慢の代償として受け入れるほかあるまい。
風俗狂いの葬式坊主と似たようなもので、そんなことでは、氏子にしても神様を拝むに拝めないというものだろう。

長野県神社庁職員諸氏におかれましては、せめて最低限の志を持ち、最低限の仕事だけはしていただきたい。

と、きつく苦言を呈しておく。

というわけで……怒りを鎮め……以下、引用である。
ニュアンスを伝えたいので、解説部分の全文引用をさせていただく(問題を指摘されたら即座にurl表示に切り替えるが、注記は残す)。

式石郷八ヶ村の産土神として信奉されている子檀嶺神社は、奥宮である子檀嶺獄[※引用者注:「子檀倉獄/こまくら・だけ」の誤り]山頂の子檀倉社、中宮である余里の駒形神社、里宮である当社からなっている。御祭神は、奥宮は宇賀御魂神・高れい神[※引用者注:表示不能漢字の読みとしては「高オカミ神」がベター]、中宮は建御名方刀美命、里宮は宇賀御魂神、建御名方刀美命、八坂刀賣命の三柱である。 和銅5年(712)に山城国紀伊郡稲荷神社より宇賀御魂神を[※引用者注:「分社、」が脱落か]子檀嶺獄[※引用者注:子檀倉獄]山頂に鎮座しこれを奥宮と称し、里宮は旧下武石村五日町に御遷座、お祀りしていた。大同元年(806)3月15日当国一ノ宮上諏訪神社より建御名方刀美命、八坂刀賣命を宝珠児玉石三個に添いて分社し二柱の命を左右の殿に遷祀した。古くはこの三柱を合わせて子檀嶺神社獄石宮大神として祀っていた。貞観2年(860)2月神位従五位下を授けられ、延長2年(924)御勅改、延長5年(927)延喜式に選ばれ名神小社に列した。寛冶元年(1807)[※引用者注:1087の誤り]源義光公本殿再建され元暦元年(1184)当郷の豪族武石三郎平胤盛本殿吠殿[※引用者注:「吠殿」はおそらく誤混入]を修理された。 天正4年(1576)依田川の大洪水により社地・社殿が流失し、当時の地頭大井大和守信廣現在地へ遷座し祭典料として28貫文の地を寄付された。慶長12年(1607)9月28日領主真田候社領として18石余寄付され、以降領主が変わる毎に社領は寄付された。延享3年(1746)烈風のため大破損を被り、翌4年領主松平伊賀守忠愛候巨木を寄進された。


以上、源義光(新羅三郎)、武石胤盛など、雛の宮にしては意外なほどの有名人も名を連ねているが、個々の部分の真偽はとりあえず置くとしても(特に創建年代の古さは、にわかには信じがたい)、まず、その社伝の詳細さに驚かされる。そのわりに、郷土史等の書籍でまったくお目にかかったことがないのが、なんとも奇妙な感じだ。
しかし、今回注目したいのは、もちろん「上諏訪神社より建御名方刀美命、八坂刀賣命を宝珠児玉石三個に添いて分社し」の部分である。
これを知った時点で、私はまず、「この児玉石」は勾玉なのではないか、という印象を持った。むろんそれは、玉依比売命神社の児玉石が頭にあったからである。児玉彦神社のような磐座ではない、小さな児玉石……とくれば、当然の連想である。児玉彦神社にいた玉屋命のことも思い出される。
もしそうであれば、玉依比売命神社の児玉石も、建御名方分祀の際に諏訪神社から持ち込まれたものが元になっているのではないか……そう考えたのだ。

とかく疑問が多いので、まずは自治体の観光窓口に電話してみたのだが、神社に関する専門的な知識は当然得られず、「専任の神主さんはいなくて、よその町からきてもらっている」との話(結果的に間違っていた)。誰か詳しい氏子さんを、と頼んでおいてもナシのつぶてだったので、仕方なく担当の宮司さんを調べ、電話取材を試みた。というか、最初からそうすべきだったのだが。

--長野県神社庁のHPで子檀嶺神社の解説を拝見したのですが。
「ああ、あれは……なんか変なことになっちゃってて、直さなきゃいけないとは思ってたんですが……」
--あ、じゃあ、もとは宮司さんご自身でお書きになられた?
「はい、そうです」
--ああ、よかった。では、いくつかご教示いただきたいのですが、あそこにあった社伝というのは、根拠となる古文書のようなものがあったりするんでしょうか?
「それは、ええ、ありますね」
--それは、いつごろのものなんでしょうか?
「うーん……ええと……それはちょっと、今、わかりませんが」
--そうですか……では、社伝にいう児玉石についてなんですが、あれって、もしかして現存してたりするのでしょうか?
「はい、ありますよ」
--えっ!? あるんですか? そ、それは……素晴らしい……あの、それで、それはどういった? たとえば……勾玉とか?
「いえ、勾玉ではないですね。小石が3つ。黒っぽいような……」
--自然石、なんですかね? 3~4センチとかそれくらいの?
「ええと、そうですね。それくらいですか。こう、表面がすべすべした感じの……」
--河原石のような? あの、平たい感じですか? それとも丸い?
「丸いですね。ああ、そう……白に茶色が混じったようなやつもあったかなあ」
--あの、それは、御神体ということですよね?
「そういうことになりますね」
--そうすると……拝見させていただくわけには……いきませんよねぇ?
「んー、いやあ……そうですねえ。あの……去年あったんですが、御柱祭の時だけ、三宝に載せて移動する機会があるので、その時なら……」
--見られるチャンスがあると?
「そういうことです」

うーむ……。
長野県内のたいていの御柱祭は諏訪と同時期におこなわれるため、諏訪人として、なかなか他所の御柱祭を見る機会には恵まれないのである。
ま、例外もあって、小野・矢彦神社と松本千頭鹿神社の建御柱は、通常の御柱年の翌年……すなわち、これを書いている時点で来月、おこなわれるのだが(小野に繰り出す予定!)。

ともあれ、現地を見ておくことにしよう。


より大きな地図で 武石子檀嶺神社 を表示

武石村自体、広々とした谷の明るい雰囲気に包まれているため、門前の雰囲気も非常に明るい。急斜面に向けて蛇行するように階段が駆け上っている。

一ノ鳥居を振り返る

登り口から見上げる

背後山?

背後の山は……神体山ではないらしい。武石川を主流とし、小沢根川、余里川などいくつもの支流が合流する地点の内側に里宮が鎮座しており、背後山は低く長い尾根状を成している。中宮とされる駒形神社は、小沢根と余里の谷に挟まれた尾根の途中にある。
奥宮のある子檀倉獄は、里宮から谷の奥を眺めて見ても、いったいどれなのか判然としない。

階段から背後を振り返ると、浅間山が美しい。

子檀嶺神社から浅間山

階段を上っていくと、段状になった削平地にぼつぼつと境内社が散らばっている。

子檀嶺神社境内社2

子檀嶺神社境内三間社

中にひとつ立派な三間社があり、その背後に注連縄が掛けられた石棒……ではなかった、なにやら刻まれた碑がある。

日月紋の石碑

「■石平胤盛」。
後で調べたら、どうやら「■」は「武」の旧字というか、ナントカ体らしい。
日月紋も刻まれており、なるほど、社伝にいう武石胤盛との縁がここにしっかりと遺されているわけだ。
ちなみに、この地域から白樺湖へと抜ける大門街道の奇勝「仏岩」には、県宝指定された鎌倉時代の宝篋印塔があり、一族の名を刻んだ銘文がある。千葉を本拠とした武石氏だが、このあたりに領地なりがあったことは確かなようだ。

一本御柱

そして、一本御柱。
ここの御柱祭は、天明年間におこなわれた記録があるという。それ以前からおこなわれてはいたろうから、分社の御柱祭としてはまあ古い部類といえる。
天明といえば大飢饉。しかも、間近な浅間山が大噴火している。そんな時期に敢行しているのだから、村が豊かだったか、それほどまでに重視されていたか……。

本殿を見上げる

一番上の段に、建物がふたつ。
……なんというか、神社の境内としては非常に風変りな印象がある。
参道の正面にはなにもなく、左右に振り分けられた建造物が広場を挟んで向かい合っていて、それが回廊で結ばれている。

子檀嶺神社本殿

本殿も、見なれない感じだ。瓦葺で、全体の印象としては寺っぽい。拝殿と本殿が一体化したスタイルで、しかし覆屋という造りでもない。正面が4間(というか、中央の2間がぶち抜きで1間の向拝のようになっている)、奥行が5間。最奥の1間が仕切られていて、そこが本殿という扱いになっているようだ。

本殿内部

正面の格子から内部を覗き見ると、奥に3つの神座が並び、扉が閉まっている。これが3柱の祭神に対応しているのだろう。

慶徳殿への回廊

慶徳殿

本殿と回廊で結ばれた向かって左側の建物は……舞屋なのだろうか? しかし、ガラスのはまった戸で全面が塞がれており、「慶徳殿」という額がかかっている。
なんだろう?

まあ、現時点で氏子衆の寄り合い所として機能しているであろうことは想像できるが、なんとなく違和感があるのは、やっぱり瓦葺であることと、加えて、棟の両脇にシャチホコが屹立しているせいだろうか。

慶徳殿裏

これは慶徳殿の裏。燈籠が唐突であり、その背後なりから「なにか」が丸ごとなくなっているのではないかという気もする。

とにかく、全体に、奇妙な神社である。
言っちゃ悪いが、正直、式内の格式は感じられない。

山宮にまで行く余裕はなかったのだが、とりあえず中宮の駒形神社はさほど離れていないようなので、向かってみた。

駒形神社1

駒形神社2

駒形神社3

ひとことでいって……倒壊寸前である。
打ち捨てられた感が強く、氏子の健在を感じさせない。

駒形神社栃の木

立派な栃の木。これは、市の文化財指定を受けている。

荒れているせいもあるのだが、境内の印象は暗い。気分的にもなんだか暗くなってくる。

境内裏に荒れた古民家があり、境内地に隣接するその入り口に奇妙な石柱があった。

玉緒武彦霊

「玉諸武彦霊」。

むむむむむむ……。
神名とも取れるが、人名とも取れる。
ちなみにネット検索ではまったくヒットしない。
石柱の裏には寄進者等と思われる文字も刻まれていたが、判読不能(拓本でも取れば十分読めるだろうが)。
「玉諸」は非常に気になるが……なんだかとても怪しい臭いもする。
のちに宮司氏に聞いてみたところ、「心当たりがない」とのことだった。
とりあえず……神社には無関係、と判断しておこう。

なにかとすっきりしないので、もう少しだけ、追跡調査を続けることにした。

(つづく)
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