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小玉石を巡る冒険 その13

玉依比売命神社と安曇族(後編)

そもそも、信濃における安曇族の痕跡というのはいわれるほど濃くはない、ということを、ここではっきりといっておきたい。いや、確かに、はっきりと遺されている安曇族の痕跡は少なからずあるのだが、その隅々にまで、諏訪信仰の影響が入り込んでいるのである。長野県内で神社巡りをしていればイヤでもそのことに気付くだろう。
いくつか重要な例を挙げよう。

穂高神社は、現状、さすがに表立って諏訪神を祀ってはいないが、拝殿は諏訪造で、社殿配置も諏訪の下社系である。しかも中世には、穂高造りの本殿と並んで「南宮社(諏訪社の別名)御宝殿」が存在していたことが古図に確認できる。

安曇の象徴ともいえる泉小太郎伝説の主人公は穂高神の化身ともいわれるが、中世説話において、その母である犀龍は諏訪明神である。

長野市南部、千曲川を隔てて松代にもほど近い川中島~稲里町周辺に「氷鉋」とか「斗女」という語を共通項とする多くの古社が点在しており、安曇系の神社といわれている(先述の更科斗女神社もそのひとつ)。その大元である式内社に比定される氷鉋斗女神社こそ、今でも安曇神のウツシヒカナサクを祀っているが、そこにも諏訪神夫妻が配祀されており、その他すべての系列社では、単純に諏訪神のみを祀っている。

穂高神社の真南7~8kmばかりにある住吉神社は、信濃では貴重な純正の海神系神社といえる。規模、歴史とも注目に値する存在だが、そんな神社にすら、ちゃっかり建御名方が相殿している。しかもそのすぐ南の広大なエリアは、承久の乱に至るまで諏訪神官家の出である大妻氏が治めており、今でもプチ諏訪システムの遺構を数多く残している(上下社と想定される諏訪社、それぞれのムロ山、御射山の疑いが濃い「三社宮」、十五社など)。

つまるところ、信濃における安曇族は、相当に早い段階……遅くとも平安中期までに、諏訪勢力の支配下に入ってしまったものと考えられるのである。
穂高神社の神階上昇が、名神大社に相応しい階に達することなくぱったりと止んでしまうのも、そのことを示している。

いっぽうで、安曇族から諏訪勢力への影響というものも確実にある。

穂高神社にもっとも近しい古社である式内・川会神社では、八坂刀売が綿津見の娘であるとの社伝を残している。

その八坂刀売を祀るとされる諏訪大社下社には御舟祭があり、また、安曇野一帯を中心に、御柱祭ならぬ御舟祭をやっている諏訪系列社が少なからず存在する。

以上の材料をもって導き出す私の見解は、
諏訪勢力は、穂高神社に象徴される安曇族のプライドと文化の独自性を担保した上で、融合という形で安曇勢力を支配下に収めた。
というものである。
そう、守矢ら諏訪古族に対してそうしたように……だ。

こうしたやり口は中古までの金刺一族のお家芸であり、最大の強みだったのではないかと私は考えている。それが御子神、孫神たちの柱数の膨大さとなって表れているのではないか、と。
だから諏訪勢力は、安曇族に対しても、その信仰の痕跡を消し去るようなことはしなかったはずだ。現実に、御舟祭をおこなう諏訪系列社があり、安曇族の宮はそのまま安曇族の宮として存続しつつ、諏訪神が同居している例がいくつも見られる。ゆえに、もし玉依比売命神社の玉依比売が海神の娘であったのなら、海神としてのなんらかの具体的な痕跡が残っていてしかるべきであろう。
それなのに……。
どうして玉依比売命神社では、信濃における安曇族の合言葉、御舟祭をやっていないのか?
合計3柱も祀るなら、どうして1柱くらい海神一家やウガヤフキアエズ、さらにはイワレビコを祀らない?
社宝である玉類のことも、「児玉石」などと呼ばず、上社物忌令に倣って「満玉、乾玉」とでも呼べばいいではないか(だったら玉依比売ではなく豊玉比売を祀るべきだが)。

とにかく、根拠がなさすぎるのだ。

では賀茂なのか?という疑問も検証する必要がある。状況を鑑みれば、海神説よりは幾分有力であろう。
信濃において、純粋な海神系神社としては、安曇の住吉神社、川合神社というたった2社しか見つからないのに対し(摂末社や小祠は除く)、賀茂神社はそれなりの規模のものがあちこちでぼちぼち見受けられること。
鴨都波神社や飛鳥座神社に諏訪神がいる(いた)こと。
しかしながら、それらの要素と玉依比売命神社を直接結び付ける材料は特にない。玉依比売が単独で祀られているのであればまだしも、わざわざ三柱を合祀しているのであれば、やはりそこに別雷なり建角身なりがいてくれないと賀茂系だという説得力は出てこない。

もうひとつ、丹塗矢による懐妊という賀茂の玉依比売と同じエピソードを持ちながら、夫神と子神を異にする「活玉依毘売」(セヤダタラ)の存在も無視するわけにはいかないだろう。こちらははっきりと三輪神であり、大神神社神官家の祖神である。もし、よくいわれるように諏訪信仰と三輪信仰が古層で繋がっているのだとすれば、玉依比売命神社の祭神の正体としては、ここで取り上げた3神の中で最有力といえそうだ。
しかし……。
三輪と出雲を直結させてしまうのも個人的には問題が多いと思っているが、出雲と諏訪の縁という側面から見るならば、その関係の根拠は上社古族ではなく、金刺氏の側にこそ見出せる。
善光寺の間近に国史見在の美和神社があること。
同じく水内に鎮座する式内・伊豆毛神社のこと。
中央の神話(すなわち、建御名方という出雲神とその神名)を諏訪に持ち込んだのは金刺氏と考えるのが自然であること。などなど。

付け加えておくと、以前にも書いたかもしれないが、「本殿を持たずに神体山を拝む形が共通する」という見解は、思い込みを通り越して完全に誤謬としかいいようがないので、その件で諏訪(特に上社の古信仰)と三輪とを関連づけるような説は、論外である。
ただ、大神神社神官家の始祖である大田田根子はほかならぬ多氏なわけで、であるならば金刺氏とも同族であるという建前が成立する。金刺氏(またはその祖先)が北信~東信あたりをウロウロしていた時代、水内の美和神社や伊豆毛神社とともに祀ったという可能性も考えられなくはないだろう。少なくとも、綿津美の娘と考えるよりは遥かに多くの根拠が見出せる仮説だ。
しかしながら、活玉依毘売を主祭神とする神社は全国的に見てもほとんどなく(現時点で私はまだひとつも見つけていない)、あまりにも特異である。そしてまた、玉依比売命神社が三輪信仰の宮であるのなら、そのことを示すなんらかの痕跡(特に祭祀において)が遺されていてしかるべきなのだが、それもまったくない。アマテラスの代わりにオオモノヌシでもいれば非常に確度は上がるのだが……現時点で、この説を推すことはやはり難しいように思う。

と、どれを取っても決定打に欠けており、玉依比売命神社の玉依比売については、その正体が霞んでゆくばかりなのである。
式内の古社にしてこの得体の知れなさは、いったいなんなのだろうか?

といったところで私が思いついたのが、玉依比売一般名詞説に基づき、「既知の玉依比売のどれでもない、独自の玉依比売なのではないか?」という、無謀とも思われる仮説である。
といっても、正直、海神の娘とみるよりは遥かに穏当な推論だと思っているのだが。

ただ……個人的な思考の作法として、古代の神について、たとえば「Aという神とBという神は同神」というような決め付け方は極力避けたいという気持ちがある。「Aという神の正体は、本当はB」という表現も同様である。
たいていの場合、「Aは同時にA´でもあり、A´はB´と混じっているので、結果的にAとBは同じ神のように見える、場合もある」みたいな、ややこしい話なのである。
逆も真なりで、「Aという神はA´という神とは本来別神である」などというのも、迂闊な表現だと考える。
オオクニヌシの例がもっともわかりやすいのだが、たとえば「オオクニヌシ=オオナムチ=ヤチホコ」というのは、これはもう、記紀の述べるところなので否定しようがない。だがその実態を考えるとき、大方の学者は「オオクニヌシという習合神」という理解を前提に、「オオクニヌシ≠オオナムチ≠ヤチホコ」なのは当然のことと考えている。
古代の神のほとんどが、多かれ少なかれ同様の性質を持っているとみていいだろう。

玉依比売命神社の玉依比売も同じことだ。
名前に齟齬がないのでややこしいが、古層では「玉依比売≠玉依比売」だったとしても、今現在、祭祀者や氏子がこの神を海神の娘だと思っているのなら、それを否定はできないし、する必要もない。というか、神社である以上、歴史より現在進行形の生きた信仰を重んじるのが当たり前である。
まあ……「あーあ、恵比寿様だとカン違いして武居恵美酒に商売繁盛なんかお願いしちゃってるよ(笑)」などと内心ニヤニヤするシーンは現実にあるわけだが、その祈願者たちに「あんたら間違ってるよ!」などと指摘する気はないし、むろん、その必要もない。というか、そんなことをする意味がない。
宮内庁のいう「たとえ天皇陵の比定が間違っているとしても、百年そうやって祀り続けてきたので、魂はもう移っている」みたいな話である。愚かしいことなのかもしれないが、それもまた信仰というものだ。(※主題から外れる個人的な見解とか感想とかの補足を読んでいただけるのであれば、末尾の「つづきを読む」参照)

というわけで、私は「この玉依比売」に吸収されてしまった「名無しの玉依比売」の存在を想定したわけなのだが、のみならず、その「名無し」の部分にあてはまるのではないか、という土着神を見つけてしまったのである。
それは、イコール、諏訪信仰の秘奥「謎の磯並社」の正体が見えて来た、ということでもある。

ようやく、最初に言った「とんでもないこと」を言えるところまで辿り着いた……。
というわけで、

(つづく)

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小玉石を巡る冒険 その12

玉依比売命神社と安曇族(前編)

舞台は再び松代、「児玉石神事」で知られる玉依比売命神社へと戻る。
当シリーズ中にアップした以前の記事もチェックしていただければ幸いである。

一般に、玉依比売命神社はその主祭神ゆえ、穂高神社同様に安曇族が持ち込んだ信仰、安曇族が興した神社だと考えられている。現状、それは通念とまでいえるほど流布しているのだが、調べてみればそれほど古い通念ではなく、おそらくは宮地直一の『穂高神社の研究』が拠り所になっているのではないかと思われる。
今回は、この通念に対する疑義を呈しておきたい。
なぜというに、私は、この宮をれっきとした諏訪信仰系列社だと考えているからだ。

第一に、玉依比売命神社の祭神、その組み合わせの特異性に注目しなければならない。「磯並三社大明神」の「三社」が示すところは、玉依比売命、建御名方命、天照大神の三柱である。よくあるように明治の合祀で結果としてそうなったわけではないので、非常に特異な組み合わせだということを認識する必要がある。と同時に、この地で海神・玉依比売を祀る必然性についても探ってみる必要があるだろう。
もちろん、各神社についていちいち祭神の必然性を問うていたらキリがないのだが、信濃国においては、賀茂神社(別の玉依比売のほうだが)の分社のようなわかりやすい例を除くと、玉依比売を祀る神社という存在自体が著しく希少なのである。
逆にいえば、「賀茂神社ならぼちぼちあるんだけど…」という事実を無視してまで安曇族の宮だという、その前のめりな恣意性をまずは指摘しておきたい。
アマテラスに関しては、「本来は豊受比売だったのではないか?」という仮説に以前触れた。もうひとつ、ひょっとしたら、このあたりに点在する御厨(伊勢神宮の領地)に関係している可能性もある。この件についてはほとんど調べていないので確かなことは言えないのだが、点在する御厨と諏訪勢力支配の相互作用の結果であろうか、水内周辺には建御名方とアマテラスが相殿している小社を結構な数見つけだすことができる。もしこの仮説を妥当とするならば、三社の組み合わせが成立した時期としては、相当に時代を遡ることができるだろう。早ければ平安時代、中世でも後半まで下ることはないだろう。

そしてなにより、玉依比売命神社に建御名方が祀られている点を軽視するわけにはいかない。信濃國の神社としてはむしろ「標準」とすらいえるが、いずれにしても、それはこの宮が、ひいてはこの地域が諏訪勢力の支配下にあった時期があるということを示す。
数多ある諏訪神分霊の経緯としては、まず、鎌倉時代、諏訪信仰及び諏訪勢力が幕府(特に北条氏)に格別に重視された結果、各地の武将によって勧請されたというものがある。頼朝の命で八幡神社が増えまくったのと似たような経緯といえよう。
それから、諏訪神社を奉祭する職人や開拓民らの移住に伴うものがある(例:東京の海岸近くに見られる諏訪神社は、諏訪から移住して海苔産業に従事した人々が勧請したものだという)。そうした歴史の反映を伝説から読み取れるような古いケースもあるが、基本的にこうしたパターンは江戸期の事例が大勢を占めそうだ。
全国的に見ればこの2つのパターンが主たるものだが、信濃國内においては少々事情が違ってくる。「諏訪神官家の分家が施政者として派遣されたケース」もしくは、「当地の勢力が諏訪勢力の傘下に入ったケース」が、数多く見出せるのである。このケースが想定される時代としては、諏訪神党が跋扈した鎌倉後期~室町前半あたりが中心になるだろうが、南安曇の大妻氏のように、鎌倉時代最初期(平安末期までは十分に想定できる)からの存在を確認できる例もある。さらには金刺氏が諏訪に入る以前の動きまで「諏訪勢力の動向」として理解するのであれば(そのように理解すべきだと私は思っているが)、当然、奈良時代にまで根拠が求められる例も少なからず見出すことができるだろう。
そこで、「御子神」たちが重要な手がかりになってくるのである。式内社、すなわち平安中期までに存在したことが保証される神社で諏訪御子神が祀られていて、しかもその神の名が三代実録などの国史に登場している場合、平安期の時点でその宮と周辺地域が諏訪勢力の傘下であった証拠となる……可能性が出てくるのだ。「可能性」と限定したのは、その神がいつから諏訪系列の神と定義されたか、その点が定かではないからだ。
……このテーマには、本項の大詰めでもう一度接近することになる。

といったわけで、玉依比売命神社における諏訪神の勧請はどうなのだろう?
格式高い式内の古社である以上、後世の住民移住に伴っての合祀という線は、まず考えられない。

鎌倉~室町期の武将によるもの……これは、いわゆる諏訪神党の時代、擬制的に神氏を名乗ることになったこの地の氏族が諏訪神を勧請した可能性が考えられる。もしそうであるならば、候補となる氏族を割り出すことはそう難しくなさそうである。とはいえ、苦手分野なのでよほど腰を据えてかからないとどうにもならないのだが(最終的には有坂先生に泣きつくことになるだろう)、ごくおおざっぱに調べた範囲では、玉依比売命神社が鎮座する松代東条近辺の施政者をはっきりと確認できるのは室町時代に至ってからで、その時代、関屋氏、寺尾氏、杵渕氏といったところを拾い出すことができる。
言うまでもなく、戦国時代真っ盛りになると施政者はころころ変わり、真田氏、村上氏といったおなじみの名前が次々に顔を出してくることになる。

まず、関屋氏はれっきとした諏訪神党である。皆神山の西南山麓に位置する彼らの奉祭神社、源関神社の伝承によれば、諏訪大祝為盛が(退位後という意味だろう)延久元年(1069)当地に住まい、関屋氏の祖となったという。神氏系図に一致した記事はないが、為盛の付近に関屋姓の人物が登場することは確かだ。諏訪神党の中でも後期の擬制的な神氏とは違い、由緒正しい血族である可能性が高い(つまり、伝承通り平安後期の分家である可能性も考えられる)。
そして、寺尾氏と杵渕氏は関屋氏の傘下であった。

また、諏訪には室町~江戸期における造営時の普請記録が豊富に遺されているわけだが、このあたりの地方はそれぞれの郷村ごと、頻繁に諏訪社の祭事で御頭を務めている。
というわけで、少なくとも室町時代において、松代近辺はほとんど100%近く諏訪勢力の支配下にあり、その余波は江戸時代に至っても残っていたということである。であるならば、玉依比売命神社に建御名方が勧請された事情について、この時期の施政者によるものと考えるのが穏当であろう。

だがしかし。
今回最初に書いた通り、私はこの宮は最初から諏訪系列社だったと考えているわけで、その場合、諏訪勢力に属する施政者が、平安期以前、この地を治めていたという前提が必要になってくるのである。と同時に、当然のことながら、まず第一に、なぜ諏訪系列社で玉依比売を祀っているのか?という理由づけが必要になってくるわけだ。
……というか、それこそが本項のメインテーマであり、今回の段取りを終えて、ようやく次回、その本丸に攻め込むことができるのである。

といったところで……もったいぶるようで恐縮なのだが、この話はひとまず置いて、玉依比売命神社の周辺をざっと地図上で見渡してみることにしよう。その気のある方は、グーグルマップを拡大して参照してみてほしい。
東南方向から時計回りに、桑井神社、源関神社、藤澤萩神社、熊野出速雄神社、祝神社、会津比売神社、西寺尾頤気神社、槌井神社、柴神社、小島田頤気神社、名立神社、高井大室神社……といった神社が目に入ってくると思うが、以上、すべて諏訪系列社である。しかも、国史見在社に比定し得る古社が複数含まれている。
むしろ周辺で諏訪系以外の神社を探すのが困難で、まず、金毘羅、愛宕といった江戸期の庶民信仰の宮が見つかり、あとは一瞬目を疑う「黒猫神社」も見つけることができるだろう。これは北信~東信付近に散見されるカラネコ社系列に属する神社だと思われるが、その系列自体、荒唐無稽な民間伝承に関連しているという以上のことはわからない謎の神社である。
いずれにしても、圧倒的な数を占める諏訪系列社に対し、安曇系の神社など影も形も見当たらない。皆神山の南麓にある白鳥神社が一見唐突に思えるが、これは当地の古族、滋野氏の奉祭神社である。滋野~海野~真田という系譜ゆえか、記録に残る範囲では真田氏が熱心に普請している。
北西方向、更科の範囲に至って、ようやく安曇系といわれる更科斗女神社が目に入ってくるが、その祭神も実は建御名方であり、「安曇系といわれる」件についても疑わしさがついてまわる。唯一確実なのが安曇神ウツシヒカナサクを祀る氷鉋斗女神社だが、この宮についてはしばし後に触れることにする。
先に述べた室町期の事情があるとしても、この圧倒的な「諏訪エリア」の中にポツンと孤立して、安曇の宮と安曇の神が今にまで伝わるということがあり得るのだろうか?

そしてなにより、玉依比売命神社は、口碑とはいえ「建五百建命創建」とする伝承を持つのである。
建五百建は、崇神によって任命された初代信濃国造として旧記にその名を残しており、金刺氏の祖とされる。古代史マニアの間では、森将軍塚の被葬者と目されることも多い。しかしここでは、それらが史実であるか否かはまったく問題としない。下社大祝金刺氏(おそらく平安期の時点では、上社も含めた諏訪社全体の運営統括者だったろう)が、その裔であることを自認し、名乗り、それが中央公認の上で広く受け入れられていたという史実(三代実録に記事がある)にこそ、意味があるのである。
金刺の名は、同族の他田とともに、奈良時代から平安時代にかけ、諏訪、水内、埴科(松代を含む地域)、小県、筑摩、下伊那、そして遠州にもはっきりと刻まれている。血統の連続性については知ったことではないが、同じ時代に、同じ國、同じ体制の中で、同じ姓(しかも公式な権威と正統性の証である舎人直姓)を名乗っていた以上、「金刺・他田グループ」としての連絡と協力体制があったのは当然であろう。
この時代、もちろんそれは、共有する信仰を基盤としてのみ成り立ち得るのである。
すなわち、「建五百建命創建」の伝承は、それが事実であれ後付けであれ、玉依比売命神社が相当に古い時代から金刺グループ管轄下、もしくは諏訪信仰グループ傘下の神社であったということを自ら主張しているに等しい。

そんな宮の、どこをどう見れば安曇族の宮だと判断できるのか?
正直、理解に苦しむのである。
唯一の根拠が「玉依比売」という神名だ。しかし、「他の玉依比売」についての検証をいっさいせずに、「海神の娘の玉依比売がいるから安曇族の宮」と断じてしまうのは、乱暴を超えて「思い込み」でしかない。「近在にウツシヒカナサクがいるから」という極めて薄弱な材料を論拠にするというのであれば、私は対抗して、「もっと近くに建御名方がたくさんいるし、池生命もいるし、八杵命もいるし、伊豆早雄命もいるから」と答えよう。

さらに、古式の御田神事からも、児玉石神事からも、御判神事からも、海人族の匂いはしてこない。御田神事、御判神事は明らかな農耕儀礼であって、しかも古式。
いや、確かに、農耕神事については、安曇族こそが水田稲作の伝播者だとする説を持ち出すことも可能かもしれない。しかし、信濃においてもそうだったのかといえば、穂高神社、川合神社、住吉神社……どこを見ても、祭祀における農耕神としてのビビッドな特徴の顕れは認められない。そもそも安曇族が信濃に入ったのはそんなに早い時期ではなく、考古学的な見地からは、古墳時代も後半になってからのことと考えられている。もはや水田稲作の伝播云々という時代ではなかろう。

海人たちが山国にやってきた結果として、その信仰形態や伝承には相応のアレンジが加えられた。それが穂高見命と穂高神社であり、御舟祭であり、また、八坂刀売もその範疇内である可能性がある(詳細はまたそのうち)。いずれにしても、山国にやってきた以上、海神をそのまんま、生のままで祀っていて満足できるはずがないのだ。なぜなら、そこでは荒波からの加護も、豊漁の祈りも、海の彼方や海の底に異界を観想する信仰も、すべて無用だからだ。だからこそ、海の彼方の異界に代わる高山上の異界を観想し、自分たちの神として穂高見を祀ったのだ……というのが、柳田系民俗学の定説である。
実際問題、水内~埴科~更科において、海神を生のままに主神として祀った神社というのは、ただのひとつも見当たらない。穂高神社の至近距離までいってようやく、住吉三神を祀る住吉神社、綿津美を祀る川会神社が見つかるのみだ。両社とも、信濃においては極めて希少な「特異例」である(このあたりは、長野県神社庁監修『信濃の神事』の神社リスト、祭神リストから判断しているので、明治期の合祀で消された海神がいた可能性については否定も肯定もできない)。
なお、他國の住吉系列社では、神功皇后と習合したような「八幡系玉依比売」を祀っている例が時に見受けられるが、この住吉社に玉依比売はいない。

付記しておくと……明治の合祀で、松代東条にあった住吉の小社が他のいくつかの鎮守社とともに玉依比売命神社に合併吸収されているという記録がある。この点は無視できないが、しかし、現時点では検証のための材料がまったく見出せていないので、保留とさせていただく。

20111213:伊勢御厨の件と関屋氏の件、加筆修正。

(後編につづく/今回は「中編」はないです)

小玉石を巡る冒険 その11

コダマ石あれこれ(後編)

「コダマ」に充てる文字として、「コ」に対しては「小、児、子、木、蚕」があり、「タマ」に対しては「玉、珠、魂、霊」がある。ただ、その順列組み合わせすべてが見られるわけではなく、ポピュラーに見られる組み合わせとしては、小玉、児玉、木魂、木霊、蚕玉、蚕魂あたりまでだろう。仏教の影響が色濃い場合「珠」も好んで使われるが、そう書いてしまうと単に「球状の貴石」の意味になってしまい、呪物としての意味こそ変わらないものの、「魂」の意味が後退してしまうため、古神道やアニミズムにはそぐわない。
ともあれ、これらの「コダマ」を性質別にざっと分類すると、

1.小玉、児玉
 アニミズム的な呪物としての石。豊穣と生命力の霊性を持つ。
 勾玉のような古代以前の宝玉類も、基本的にはこの範疇に入る。

2.木魂、木霊
 「ヤッホー!」と呼べば返してくるコダマ。西欧でいうところの「エコー」。
 その本来的な意味として、樹木の精霊。

3.蚕玉、蚕魂
 養蚕/製糸業を前提に、その犠牲となるカイコ蛾の霊。

ということになる。
とりえず本題である1は置き、2から見ていこう。

純粋、かつ抽象的に樹木の神性を祀る「木魂神社」というのは、まず存在しない。猟師はもちろん、樵人たちの信仰も「山の神」に集約されており、漠然とした概念、もしくは集合体としての「木々」を祀るといった形態を取ることはない。
いっぽう、神社には社叢(鎮守の森)や御神木が付きものだが、そもそも「モリ」という言葉自体が、神の宿る場所という意味を内含している(小学館『日本国語大辞典』の「森」の項でも、その旨は確認できる)。森や木々が神の依代であるということは、逆に言えば、森や木々そのものを神と看做しているわけではない、ということだ。
依代としての樹木信仰の名残を今に伝える好例が、諏訪信仰における「タタエ木」である。タタエ木において、その代替りはごくごく普通のことである。どんな巨木もいつかは枯れるが、以前と同じようにそこに神が降りて来てくれさえすればいいのである。樹木の品種が変わったとしてもまったく問題はない。タタエは祭祀の「場」であって、そこにおける神木は代替可能な存在なのだ。つまり、木そのものへの信仰とはいえない。この点で、最終的にミシャグジを木の神と断じてしまった柳田の思考は間違った方向にいってしまった、と断言していいように思う。

古木大木に限っては、実在する一個体そのものがアニミズム的な信仰の対象となり得る。といっても、まず神社があって、その境内地の樹木が神聖視され、大切にされた結果「御神木」と看做されるまでに育つ、というのが現状見られる一般的なパターンであって、これを樹木信仰と看做すには順序が逆である。が、実際問題として、巨木信仰に端を発する神社はおそらく少なからず存在するだろう(おそらく、といったのは、端緒となった樹木が遥か昔に枯れてしまっていては、実証のしようがないからである)。たとえば、独立した大木の前に小祠が置かれているという状況、これは今でもあちこちで見かける。こうした素朴な形がアニミズム的な樹木信仰の原型にもっとも近いわけだが、ただその場合、「神を祀った小祠の背後に御神木がある」と読むべきではなく、「この木が信仰対象なのだ」という「記号として祠が置かれている」とみるべきであろう。「木の神を祀った神社」ではなく、あくまでも「木が神様」なのだ。本来はそこに名の通った祭神などを勧請すべきではないのだが、祠があれば祭神を定めたくなるのはサガのようなもので、高木神や木股神といった樹木の神性をもった神が勧請されるケースが多い(巨木は水を蓄え、その根元から泉が湧くこともあるので、水神が勧請されることも多々ある)。だが、そうしてしまった瞬間にアニミズム的な樹木信仰ではなくなり、あたりまえの御神木を備えたあたりまえの神社という形態に転じてしまうのだ。

大きな神社でこうしたアニミズム的樹木信仰の形を今に伝える代表例が、ほかならぬ諏訪大社下社である。斎庭内の双本殿(宝殿)は左右に振り分けられ、参拝ラインの正面奥に御神木が立っている。この御神木には当然代替わりがあり、また、タタエ木という信仰形態が身近にあった諏訪だからこそ、こうした形が今に残ったのだろう。とはいえ、今現在、「じゃあ、諏訪大社下社の本質って樹木信仰なの?」と問われたとき、肯首する者は皆無だろう。
要はそういうことなのだ。

以上、神社と樹木の関係という時点でこのような状況なのだから、まして「玉石に樹木の神性を祀る」といった高度に抽象化された信仰形態があるとは、ちょっと考えにくい。
ただ、知る限り唯一の明確な反例として、本項「その3の補足」で触れた、真田町小玉神社を見ておく必要がある。この神社の旧名は割石明神といい、3つに割れた巨石の上に諏訪神を奉じた祠が祀られている。「割石/さくいし」の名は、当然「さくじ」の音に重ねた可能性が考えられるのだが、長野県神社庁HPに登録された由緒書に、「小玉は木魂にして、木魂明神ともいいます」とある。根拠はわからないが……磐座信仰に諏訪神、サクジと来て、「木魂」という神性を想定するのは非常に難しく、単純にコダマの音から連想された後付けと考えるのが妥当なように思われる。
磐座一般には、大地も森も水も含む大自然そのものの神性を見るほうが相応しい。強いて樹木に限定するのなら、それは森全体、木々のすべてを育む偏在的な霊性であって、それがたとえばタカミムスビという名の下に集約され、大木なり磐座なりにそういった神が降りてくる、という構造になるのである。
やはり、磐座や玉石に樹木のスピリットそのものを見る、という信仰形態は存在しないとみていいのではないだろうか。

次は3の「蚕玉、蚕魂」である。

養蚕業が盛んだった長野や群馬などでは、「蚕玉(こだま)神社」や「蚕影神社」を無数に見ることができる。だが、まず確認しなければならないのは、「蚕玉信仰」そのものは、さほど古くないという点である。もちろん、信濃近辺に養蚕による製糸・織物加工技術が伝わった時期としては、十分に奈良時代まで想定し得る。だが、「蚕玉信仰」のバックボーンとなる思想は、仏教の「供養」という概念の直接の影響下にある点に注意しなければならない。
養蚕が近代的な意味での「産業」となり、かつ、供養の概念が庶民にまで定着した時期として、中世まで遡ることができるかどうか。現実問題として、近在の蚕玉神社の創建記録や、無数に見られる関連文字碑の年号など、江戸初期まで遡るものはほとんど存在しないのではないかと思う。きちんと調べたわけではないので断言はできないが……。

と、ここで、前回の最後に触れた榛原郡のコダマ石の問題へと立ち返る。
野本寛一氏の観察と分析(と、なによりもフィールドワーク)は大いにリスペクトしているが、この件についてはちょっと肯けない。なるほど、綿でくるむことに関しては、確かに養蚕との関係なしには語れないかもしれない。だが、扇に綿の膜を添えて神社に奉納し赤子の誕生を感謝する習俗や(中沢新一の『精霊の王』では沢底鎮神社の例を挙げているが、上伊那の神社全般で見られる)、諏訪神社上社の御頭祭で、かつては神使が綿にくるんだ烏帽子を被って姿を現したこと(新婦の被る「わたぼうし」も直接的に連想される)などを思えば、特に諏訪信仰において、綿が「誕生」と「生命」に関わる性質を持っていたと考えることにさほど無理はないように思われる。
まして、衣替え神事によって児玉石が少しずつ巨大化していくという神秘を思えば、そこに生命、成長、豊穣の霊性が籠められていることに疑いの余地はないだろう。
この児玉石は「胎」のイメージを強烈に発散しており、それを養蚕信仰由来に限定してしまうのは信仰の矮小化でしかないように思う。
高勝寺の例に限っては確かに「蚕玉石」そのものとしかいいようがないが、諏訪神楽の伝播という前提を鑑みるに、やはり「小玉石(という観念、もしくは呪物)に蚕玉の性質を仮託した」とみるべきなのではないかと思う。

ただ、綿を胞衣とみなすような発想自体が蚕の繭玉そのものに立脚する可能性は大いにある。「生命力の玉」ということを考えたとき、再生を象徴するカイコの繭は、まさに「児玉(石でこそないが)」であるともいえるからだ。
養蚕に深い縁を持つ諏訪信仰だけに、「生命力の玉:児玉石」という概念が生成される中で、繭玉のイメージが作用していたと考えるのは自然なことだ。同じように、榛原郡のコダマ石にも繭を観想していた可能性は高い。だが、それでも……やはり、本質は養蚕業にあるのではなく、生命力と誕生の神秘にこそあるとみるのが筋だろう。
長野県ほかでは、小正月のどんど焼きの際、米粉の餅を丸く(または繭形に)整え、木の枝に鈴なりに刺して火で炙り、「おまいだま(繭玉)」と呼んでいただくという習俗もある。そこに養蚕業成功への祈りも含まれていたかもしれないが、むしろカイコの繁殖力と再生の神秘にあやかろうという面のほうが大きいのではないだろうか。どんど焼きは道祖神信仰に基づく正月の祭(すわなち、季節の循環を願い、太陽の再生を祝う祭)なのであって、別に養蚕業者たちがその神を祀る儀式ではないのだから、これは一族郷村の繁栄と豊穣を願う呪術とみるのが筋であろう。

しかしまあ、どちらが由来にせよ、「コダマ石」が豊穣と多産の神性を持っているという軸は揺らがない。
結論として、榛原郡の例の場合、より普遍的な神性である豊穣と生産の祈りが籠もった児玉石に、養蚕の繁栄への願いも包含されている、とみるのが妥当かと思う。
つまるところ、1の児玉石は、2の性質も3の性質も包含し得る、より広範で普遍的な呪性を持った存在だといえる。

以上見てきた通り、コダマ石はその表象や形態を限定しない、変幻自在の存在である。
「諏訪七石」というのは(おそらく)中世の諏訪神官による創作なのだろうが、なるほど、そのキャッチーな伝説は庶民にまで浸透した。しかし、現実に、その他たくさんの児玉石がこうして現存しているのである。ゆえに、「どれが本来の児玉石なのか?」という問題にはさほど意味がないように思う。そこには、「守矢満実に代表される中世の諏訪神官が児玉石だと思っていたのはどれなんだろう?」という、本質とかけはなれた各論的テーマがあるにすぎない。

自然石であろうと、加工された宝玉であろうと、丸石、石棒、ゴツゴツの磐座であろうとも、大きかろうが小さかろうが、「生命力の霊性を秘めた石」は、すべてコダマ石なのだ。
現状からみる限り、そうとしかいいようがないだろう。

(つづく)

小玉石を巡る冒険 その10

コダマ石あれこれ(中編)

ここまでに、信濃國内のいくつかの児玉石を見てきた。
さて、それでは信濃國の外でも児玉石(もしくは類例)を見出すことはできるのだろうか?
答えとしては……できる。
できるのである。
それも、ごく限られた地域に集中して見出すことができる。
三信遠……すなわち、三河、信濃、遠江にまたがる山深き芸能の里。
そう、芸能の聖地として知られる天竜川下流を中心とする地域である。

この地域に伝わる花祭や雪祭、霜月祭は、神楽の最古態を遺すものとされる。かつてそれは、西から伝わってきて隔絶山村の中で保存、熟成されたものと考えられていたのだが、武井正弘氏らの研究により、逆に諏訪から天竜川沿いに伝播していったものだということがわかってきた。
残念なことに源流たる諏訪神楽は完全に滅んでしまったわけだが、現に三信遠の神楽では、今も「~水底照らす小玉石」がしばしば歌われているのである。
つまり、かの地は児玉石信仰の伝播先として申し分のないモデル地域といえるのである。

では、具体例を挙げていこう。

まずは「コダマ石」の名を伝える例として、磐田郡水窪の山住神社を挙げておきたい。
式内「芽原川内(はきはらかわち)神社」に比定される古社で、山犬信仰という非常に特異な信仰の宮として知られている。その本質には無関係なのだが、社の楼門の前に「こだま石」と呼ばれる岩があり、注連縄が掛けられている。溶岩と思われる高さ1メートルばかりのゴツゴツした自然石で、「磐座」と呼べるほどのサイズはなく、どちらかといえば立石の部類だろうか。こうした際立った特徴を持っているわけでもない自然石も、「コダマ石」足り得る、ということである。

いっぽう、裸祭で知られる磐田市の式内社矢奈比売神社と、その近在の府八幡宮では、非常に印象的な呪的祭祀として浜の小石が用いられる。祭日に臨み、あらかじめ浜辺で海水に濡れた丸石十二個を拾っておき、これを白紙でくるみ、十二支の文字を書き入れて出発前の神輿の周りに並べるのである。
ここには「コダマ石」の名称こそ認められないが、海岸での石拾いの習俗は「~水底照らす小玉石」の歌を直接的に想起させる。

もっとも、単なる浜石拾いの習俗であれば、この地域に限らず各地で見受けられる。たとえば和歌山潮岬では、節分の日、あたかも若水のように海水と浜の小石を迎える。
ただ、これらの信仰形態は浜の砂とともに用いられることが多く、直接的に小玉石信仰の影響下にあるとみるのはちょっと難しいかもしれない。とはいえ、やはり諏訪信仰の直接的な伝播範囲に多くの例が見られるという事実を無視することはできまい。

静岡市西大谷付近では、正月など節目の行事として、桶に海水を迎え、中に白い小石を3個沈め、松葉で塩水を撒いて清めをする。
小石3個といわれれば、いやでも武石子檀嶺神社の児玉石を思い出さずにはおれない。

また、浜名湖西岸でオオモノヌシを祀る二宮神社には飛玉伝承がある。この宮では神宝として多くの玉類を奉っているのだが、それは「飛来した宝玉」に基づく信仰だというのである。面白いのは、その宝玉というのがひとつやふたつではないという点である。社伝によるとその内訳は、「丸白大玉1、黒大玉1、石剣頭1、特選種玉26、大曲玉48、中曲玉29、小曲玉80、雑玉99、白玉1」とのこと。多くは勾玉だが、大玉というのは丸石の類と思われる。決定的なのは「石剣頭」というやつで、実見しなければなんともいえないが、これはおそらく縄文晩期の石剣か、さもなくば弥生~古墳時代の「石造模造品」とみて間違いないだろう。付近から出土した太古の遺物を集積して祀っている気配が濃厚であり、すなわち、二宮神社の宝玉類は玉依比売命神社の児玉石と完全に同種とみてよいのではないかと思う。
江戸後期に流行った「飛び神明」など、「タマ」の飛来伝承は分祀の伝説的表現として普遍的に見られるものだが、そこに呪物としての石が直接絡んでくると、やはり児玉石の匂いがしてくる。

参考までにもうひとつ、これはネット上で拾ったのだが、千葉県匝瑳市の「六社大神、御神宝“玉石”の由来」というのをそのまま引用しておこうと思う。
中臣定次という神官が遺した文書を現代語訳したものらしい。
引用元

応永二十三年(1416)九月三日の夜半、下総の国匝瑳郡野田の浦で、一人の漁夫が海をながめていたら、はるか玉崎の神原沖の波の合い間に何か光るものがある。翌日も同じ刻限に海岸へ出てみると、やはり光るものが現れ、野田の浦を照らしている。
 不思議に思った漁夫は、さっそく産土神(うぶすなのかみ)に参詣し、そのもようを私(中臣定次)に伝え海上の安全を祈った。私はこのことを広く村人に話したところ、すぐ村人たちは境内に集まってきて、みんなで海の平穏と魚の盛んになることを祈った。そしてその夜、村人たちはこぞって野田の浦へ行き、光を見ることになった。
 やがて、玉崎の沖の水底に光が見え、それが日の出のように波の上に現われて、カッと海面を照らした。私も村の老若男女も、その霊光ともいえる輝きに驚き、九拝して退いた。
 六日になって、一人の漁夫が波打ちぎわに玉のような小石が二つあるのを見つけ、私のところへ持ってきた。私はうやうやしくこの玉を受け、神殿に供えた。
 それ以来、野田の浦では大漁が続き、諸民こぞって豊かで楽しい暮らしができるようになった。それもこれも神様のおかげである―ということで、この地に海神を祀(まつ)り、私がその祭主となった。何と不思議なことであろう。この玉は神様であろうか。
 応永二十四年丁酉九月五日に、野田龍神にご神幸があり、翌六日六社(神社)に来て祭祀(さいし)を行った。それから玉崎に還幸となったが、私はこれらのことを後世に伝えんとして、ここに由来を記すことにした。


これもまた、「水底照らす小玉石」のイメージそのものである。
ただし、六社大神の六柱のうちに諏訪系の神は特に含まれていないので、直接の繋がりがある可能性は低い。

それからもう一例、非常に重要と思われるものを挙げておきたい。

大井川上流、駿河遠州の最奥部ともいえる榛原郡に、コダマ石神社がある。
(※「コダマ」は「谷偏に牙」+「谷偏に令」、すなわち「木霊」を意味する文語的表記だが、その表記自体は明治時代に宛てられたもの。中世時点で「児玉石」表記が確認されている。本稿では、以下「コダマ石神社」とさせていただく)
以下は、基本的に『神社と聖地 東海編』(白水社)からの抄録である。

『榛原郡神社誌』掲載の由緒によると、文明年間、山城国の梅津大納言なるものが信濃国飯田を経由して(※わざわざ経由地を記すあたりは注目に値する)この地に居住、姓名を改めて当社を創立。もとは大井大明神といった(※水源信仰を意味するのだろう→対応する祭神はミヅハノメ)。のちに砂金採集を生業とする当地の住民が、見事な鉱石を採掘、これを神体として石凝姥命(※イシコリドメ/天孫降臨チームの一員で、八咫鏡を造ったという鋳造の神)を勧請した、と。

『駿河志料』では児玉石権現社の名のもとにその秘祭の様子が記されている。曰く、

「三年目閏月ある年神事あり、旧例にて浜垢離沢へ神輿を出し、社家神楽を捧げ、神輿へ沢水を振り注ぎ清む。此社神体は円石なり、神事の度、いにしへよりの例にて、真綿に包み、封するなりと社家伝えり。」

この神事は「衣がえ」と称され今も伝わっており、閏年の11月23日におこなわれているという。極めて興味深い祭であり、引き続き『神社と聖地 東海編』(当該個所は野本寛一氏筆)から、以下しばらくは、直接引き写させていただく。

 まず正午を期して拝殿で例祭があり祝詞奏上、礼拝を終えると、宮司が本殿にのぼって御神体をおさめた祠を覆う弓・矢・鉾・御幣などを取り除く。禰宜や神役がそれらをリレー式に手渡しして拝殿の外に居並ぶ村人たちに渡すが、渡す前に。それら弓・矢・鉾・御幣に一枚ずつ新しい四手(しで)が付けられる。それらは新しい四手を加えられることによって威力を新たにするのである。
(中略)
 そうして禰宜や神役が御幣や武器を処理している間に、実にひそかに、宮司の手によって「こだま石神事」がとり行われる。この神事は秘儀であり、何びとも見ることを許されないが、その概略はおよそ次の通りである。まず、「左束の和紙」二枚を敷き、その上に真綿二枚を広げる。さらにその上に御神体を置き、真綿と和紙で御神体を包み、麻紐で三か所を縛って三方の上に置く。神事のたびに前回の包みの上にさらに包みが加わるのだから、御神体は雪だるま式に大きくなってゆくはずであるが、実際にはあまり大きさが変わらないという。


……以下、この御神体を神輿に乗せて浜垢離沢に向かい、沢の水を振りかける清めの儀式をおこなった後、神社に還坐する。
御神体の「芯」になっているであろう『駿河志料』いうところの「円石」については、歴代宮司も含め、当然これを目にした者はいない。

というわけで、私はこの「こだま石」に、諏訪系児玉石と共通する性質を強く感じた。
だが筆者の野本氏は、付近で養蚕が盛んであったこと、愛知県北設楽郡(これまた三信遠芸能エリアど真ん中)高勝寺の田楽で、白い河原石2個を奉じ「~白玉の御神、よき蚕の種とよろこんで」といった祭文を唱えること等から、最終的に養蚕業を前提とした「蚕玉/コダマ」に立脚する信仰であると判断している。
この結論には少々異を唱えたいので、その点も含め、次回「コダマ石あれこれ(後編)」にて、挙げてきた多くの例を俯瞰的に分析してみたいと思う。

(つづく)

※今回、及び次回の内容は、白水社『神社と聖地 東海編』を大いに参考にしています。
 原直正氏が、本稿との関連において同書をご教示くださいました。多謝!

重ねてのおしらせ

fb はじめました。

再開予告をしたにも関わらずなかなか再開しないわけですが、なぜかというと、次の回は人さまのちゃんとした論考のあらすじをいくつか抜き出す、という作業がありまして。文章を書くのは好きなんですが、国語の授業や試験問題みたいなことは嫌いなので難儀しています。なんつう言い訳だ。

さて、それはそれとして、blog全体の大河化・大作化がどうにも止まりません。前に自分でも言った通り、気楽なやつも随時はさんでいけばいいだろうと言われればごもっともなのですが、なんかこう、しっくりこないのです。
そこで、facebookにおいて、日頃の雑感等とともにblog用の小ネタを垂れ流していくことにしました。
とにかく、ネタも考察もどんどこ溜まっているのですが、溜まる一方でなかなか出力ができず、なんかもうフン詰まり状態で死にそうなんです。

ついでのついでで、懸案の本名開示もすませておきます。隠棲3年、そろそろ前業における悪名もみんな忘れてくれたでしょう。いや、本当はお世話になってる某研究会のblogでとっくに(なんの断りもなく)開示されちゃってるんですが(笑)。

というわけで、fbのページは「石埜 三千穂」でお探しください。プロフィールにもそのうち手を加えておきます(そのうち……)。
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