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小玉石を巡る冒険 その14

「馬背玉依比売」の発見

江戸末期、松沢義章という国学者が編纂した『奉令集』という文書がある。諏訪社の神楽を取り仕切っていた外記太夫・茅野氏の命で、国史上に現れる諏訪及び信濃全体に関する記述を抜き出し、まとめ上げた博覧強記の一大労作である。
「国史上」と書いたが、実際にその採集範囲は六国史に限られるものではまったくなく、『諏方大明神絵詞』以下地元の文献はもちろんのこと、『源氏物語』、『万葉集』といった文学作品にまで及んでいる。
さすがにパーフェクトとまではいかず、自分程度でも「あ、あの記事が脱けてる!」と気付く部分もあったりするのだが、ネットやデータベースはもちろんのこと、図書館すらなかった時代である。その苦労と執念は察して余りある。と同時に、人並み外れたライブラリ・スキルには感嘆を禁じ得ない。

なにしろ私の興味は諏訪信仰中心なので、なかなか文献を通読するということがない。必要な部分を拾い読みするばかりである。まっとうな研究者としては失格だが、まあ……そこは少しずつ、少しずつである。
そんなわけだから、この『奉令集』は非常に都合がいい。延喜式だ続日本紀だ三代実録だと、必要部分を探し出すだけでひと苦労なのだが、自分にとっての必要部分が最初から抜き出してあるわけで、こんなに便利なものはない。のだが……そこには大きな問題があるのだった。

まず、松沢義章のミスがバグのように含まれている可能性があるわけだが、これはまあ原典で確認を取るようにすれば問題はない。しかし、当時の文献というのは写本か、版木で刷った原始的な印刷物である。それも、いくつかのバージョンがあったことは間違いない。そのバージョン間での「誤差」が相当あったものと思われるのだ。
三代実録の神階授与記事が典型なのだが、同じ年の同じ項目の記事で、神名が微妙に異なっている場合が少なからずある(今後の展開の中で具体的に触れることになる)。察するにこれは、国学全盛の時代にあって、その写本なり版木本の制作者たちそれぞれに独自の解釈の自負があり、その恣意性が入り込んでいるのではないだろうか。過去の手書き文献を解読する際、難読字をどう判断するかによって記事内容は簡単に変わってしまう。それでも周囲の文脈があれば検証可能だが、固有名詞をねじ曲げられてしまうと、もうお手上げだ。

つまり……松沢義章が参照した原典はどういった素性の本だったのか? それがわからないと、文献史学的にはまったく学問にならないのである。
さすがにこれは、プロでなければ太刀打ちできない世界である。ゆえに現状の私は、足場の不確かさを認識しつつも、恐る恐る歩を進めるほかない。

さて、ここからが今回の本題なのだが、こうした当時の文献のアナログ性が、逆に、大きな発見をもたらしてくれることもある。

『奉令集』四、貞観7年の項、三代実録からの引用部分。

授信濃國従五位下馬背神従四位下
(信濃の国の、従五位下・馬背神に、従四位下を授く)


という記述の下に、注記だということを示す小さな字で、

馬背玉依比売神
之誤カトアリ


と書いてある。
この記述は、つまり松沢による「引用者注」ということなのだが、「トアリ」がなにを意味するのかといえば、松沢の参照した本に、松沢以前にこの本を手に取った何者かが書き入れた注記がすでにあり、そこに「馬背玉依比売神の誤りか」と書いてあったのだ、ということを松沢は伝えてくれているわけである。
その「何者か」が本当に何者かまったくわからず、また、松沢の参照した本の素性すらわかららない現時点において、なにも確かなことは言えないだろう。しかし、この時代に『日本三代実録』などという代物を手に取り、まして熟読し、注記を付けるような人物は、国学者以外にあり得ない。まあ在地の趣味人レベルかもしれないが(ちなみに言っておくと、松沢義章は諏訪の人間ではあるが、いちおう全国区でそれと知られた国学者であった)、それにしても、当時の国学者が「馬背神なんて知らないなあ。馬背玉依比売神なら知ってるけど」という意味のことを言っているわけである。

ああ、先走ってしまった……。
ここは馬背神についての前提説明をしないと、話の趣旨がまったく見えてこないのだった。

この神については「御子神十三柱の覚書」シリーズの中で何度か触れてきているが、ここで改めて概略をまとめておこう。

馬背神は、三代実録に神階授与の記事が複数回登場する国史見在の神である。最終的には従三位にまで達しており、これは諏訪御子神の中での最高位に当たる(六国史終了時点)。名神大社は別格として、それ以外だと、式内社に祀られた神であってもここまでの神階を授けられた地方神はそうそういない。
いっぽうで、延喜式神名帳には比定し得る神社が見出せない。
式外社としての比定社は確定できないが、塩田平の西端、青木村との境近く、旧東山道と推測される街道沿いに、東宮、西宮という2宮に分かれて祀られた馬脊神社が最有力候補と考えられている。
隣の青木村には式内・子檀嶺神社(児玉石の件で紹介した武石村の子檀嶺神社とは別社)があり、その神体山である極めて印象的な山容を誇る子檀嶺岳から尾根続きの「飯縄山(高名なそれとは別)」の山麓に、この東西宮は位置する。

論社は、(私の知る限りでは)ほかに2社。
ひとつは、上高井郡山ノ内町の馬脊神社。しかしここでは、スサノオを祀っている。

北信の山中から東信にかけて「柵口(ませぐち)神社」というのがいくつかあり、また、「柵(しがらみ)神社」というのもある。諏訪人としては、ついつい「さくじん(しゃ)」とか「さぐち」とか読みたくなるところだが、「柵口(ませぐち)」というのは牧場の入り口のことであり、また、「馬背」というワードからも、また、子檀嶺(こまゆみね)を「駒斎(こまゆみ)」とする解釈からも、このあたりの一連の神社は、信濃國に数多ある官牧の管理者に関係した宮であるとみるのが定説である。

もうひとつは、前項で触れたばかりの芸能の聖地・三信遠ど真ん中、浜松市佐久間の馬背神社である。ここは建御名方を祀る諏訪社だが、遠江国式内社「馬主神社」に比定する説がある。また、信濃國と遠江国の国境の変遷の結果、現在は静岡県にある馬背神社が、信濃國の神名帳に載っているのだ、という説もある。当地に相当数の諏訪系列社が見られることからも、確かにその可能性はあるだろう。

それからもうひとつ、飯田市に馬背塚と呼ばれる前方後円墳があるのも気になるところだ。もちろん、前方後円墳の形状から馬の背を連想するというのはいかにもありそうなことなので、まったく無関係かもしれない。しかし、諏訪信仰にとっての大動脈ともいえる天竜川沿いという関連から、佐久間の馬背神社との縁も疑ってみる必要はあるように思う。

そして……馬背神は、北信の信濃国造勢力と諏訪勢力との関係を探る上で最重要とも思われる諏訪神子神の長兄、「建御名方彦神別命」の御子とされているのである。
さらに興味深いことに……これはきちんと文献で確認できていないのだが……建御名方彦神別命の御子としては、「麻背神」という表記もあるらしい。
「麻背」というと、これはもう、異本阿蘇氏系図に登場する、古代金刺氏の赤丸付き重要人物である。
欽明天皇に仕え金刺舎人姓を授かった初代金刺、金弓の子で、祖神・建五百建から三代続き、以降絶えていた信濃国造に「復帰」したとされ、その子は、初代・御衣着祝(つまり、有員以前の、幻の初代諏訪大祝ということになる)乙頴である。
麻背が実在の人物なのかどうかはさておくとしても、この伝承を受け継いできた一族にとって極めて重要な祖神であることは確かであり、彦神別という神の性質を探る上でも大きな手がかりになりそうな気配を漂わせている。
中央の皇祖に例えれば、建五百建は神武のような伝説上の人物であり、金刺麻背が、崇神のような伝説と歴史の端境に位置する存在、という見方ができるだろう(そして有員が継体といったところか)。

と、まあ、かように馬背神は興味深い存在なのである。にも関わらず、こうした神話や伝承を強化し、もしくはさかんにデフォルメを加えてきた(創作とは言いたくない)江戸末期の国学者が、「馬背神なんて知らないなあ。馬背玉依比売神なら知ってるけど」と書き遺しているのは、いったいどういうことなのだろうか。

「馬背玉依比売」という神を私は知らないし、他のどんな文献でも、どこの神社の祭神としても、まったく確認できていない。だから、どこかの誇大妄想狂の戯言がたまたま遺ってしまっただけの話なのかもしれない。
ただ、「誇大妄想狂の戯言」とするのが憶測でしかないのと同じように、あくまでもひとつの憶測として、この神こそが玉依比売命神社の玉依比売なのではないか……と私は考えてしまったわけである。
もちろん、それは単なる直感ではなく、それなりの根拠があってのことだ。

まず、従三位にまで昇り詰めた重要な神である馬背神を祀る神社が、延喜式に載っていない件(馬主神社がそれであるとのは説はひとまず置くとして)。
三代実録における馬背神の記事が延喜式成立より古い時代の記録である以上、これはかなり不自然なことである。無論、基本的には式内社の数に比べて式外社のほうが遥かに数が多いので、神階授与記事はあるが延喜式に列せられることがなかった、という神社はいくらでもある。しかし、従三位まで授けられている神となると、延喜式に載らないのはやはり不自然である。ひとつ考えられるのは、「平安初期の時点では重要な神社だったが、延喜の時代までに急激に衰退した」という可能性である。
また、国学の時代における「復興」に関して、相当に強引な例が多々見受けられるのも事実である。本来はなんの関係もない神社が国史見在社の名を名乗っているのだとすれば、古い時代の記録との間に矛盾が生じるのも当然であろう。ゆえに、この問題単独であれば、それなりに説明はつく。

いっぽうで、玉依比売命神社は式内社でありながら、三代実録ほかにおける神階授与の記事が見当たらない。馬背神社と逆のケースであり、なんの神階も与えられていなかった神の神社が、突然、延喜式で取り上げられた、というこれも不自然なケースである。といっても、以前にも書いた通り、他に真地たる神社があり、その分社であるならば神階が与えられないのは当然である。たとえば、信濃國でいうと水内の美和神社は式内社だが、当然、「水内美和神社の主祭神たる大物主」に神階は与えられていない。ただ、祟りをなしたという記事があったり、相殿の国業比売に神階が与えられたりしているので、延喜式以外での存在もはっきりと確認できるわけだ。
ゆえに、玉依比売命神社の玉依比売が海神の娘だという先入観で見れば、この神社の玉依比売に神階授与の記録がないのは当然といえる。
が、しかし。
玉依比売命神社の玉依比売が他のどこの玉依比売とも違う信濃独自の玉依比売だったと仮定した場合、そして、それが「馬背玉依比売=馬背神」だったと考えると、双方の疑問点がきれいに解消されるのである。

まあ、現時点での私自身の見解としても、「馬背玉依比売=馬背神」という仮説はなかなかに難しいと思っている。馬背神については、むしろ金刺麻背が神格化した神なのではないか、という説により強く魅力を感じているというのも正直なところだ。
ただ、そういった理解をするためには、馬背神を祀る神社が延喜式に見られないという点について、なんらかの説明は必要になってくるだろう。

……と、ここまで踏み込んでみたわけだが、実を言うと、前回提示した「名無しの玉依比売」が馬背玉依比売だ、というのが論の主軸ではないのである。結論を引きずり出すには、あまりにも貧弱な材料であることは認識している。これはあくまでも、「御存じの玉依比売とは別の玉依比売が、どうやら信濃にいた気配がある」ということをいいたいがための参考材料のひとつとして御理解いただきたい。

次回に向けて、結論だけ先に示しておきたい。
「名無しの玉依比売」の源像ではないかと考える土着神……それが馬背玉依比売の異名なのかどうかはわからないが……それは、当シリーズの初回にその名が出てきた、

美都多麻比売命

である。

次回以降、この仮説を展開し、検証を進めていく。

……さあ、ここからが本番だ!

(つづく)


翌日追記:
非常に価値ある専門的な御教示、御指摘をいただきました。

・「馬背玉依比売~」の注記は、伴信友の『本朝六国史』が原典

すごい。田舎の趣味人どころではありませんでした。

・「馬背(の神というのは)玉依比売の誤りか」という読み方もできるのではないか?

言われてみれば確かに、馬背玉依売などという得体のしれない神を想定するよりも、そう解釈した方が常識的だと思います。
しかし、伴信友が私のしてきたような思索をすでに経ていたというのなら別ですが、単に馬背神というローカル神の名前だけ見て玉依比売を想定するというのも、なかなか考えにくいことのように思います。ううむ。
あとは、おっしゃっていた通り、この本における注記の癖から検討するほかなさそうですね。

以上、御指摘くださった菅谷淳夫氏に深謝いたします。
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