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小玉石を巡る冒険 その12

玉依比売命神社と安曇族(前編)

舞台は再び松代、「児玉石神事」で知られる玉依比売命神社へと戻る。
当シリーズ中にアップした以前の記事もチェックしていただければ幸いである。

一般に、玉依比売命神社はその主祭神ゆえ、穂高神社同様に安曇族が持ち込んだ信仰、安曇族が興した神社だと考えられている。現状、それは通念とまでいえるほど流布しているのだが、調べてみればそれほど古い通念ではなく、おそらくは宮地直一の『穂高神社の研究』が拠り所になっているのではないかと思われる。
今回は、この通念に対する疑義を呈しておきたい。
なぜというに、私は、この宮をれっきとした諏訪信仰系列社だと考えているからだ。

第一に、玉依比売命神社の祭神、その組み合わせの特異性に注目しなければならない。「磯並三社大明神」の「三社」が示すところは、玉依比売命、建御名方命、天照大神の三柱である。よくあるように明治の合祀で結果としてそうなったわけではないので、非常に特異な組み合わせだということを認識する必要がある。と同時に、この地で海神・玉依比売を祀る必然性についても探ってみる必要があるだろう。
もちろん、各神社についていちいち祭神の必然性を問うていたらキリがないのだが、信濃国においては、賀茂神社(別の玉依比売のほうだが)の分社のようなわかりやすい例を除くと、玉依比売を祀る神社という存在自体が著しく希少なのである。
逆にいえば、「賀茂神社ならぼちぼちあるんだけど…」という事実を無視してまで安曇族の宮だという、その前のめりな恣意性をまずは指摘しておきたい。
アマテラスに関しては、「本来は豊受比売だったのではないか?」という仮説に以前触れた。もうひとつ、ひょっとしたら、このあたりに点在する御厨(伊勢神宮の領地)に関係している可能性もある。この件についてはほとんど調べていないので確かなことは言えないのだが、点在する御厨と諏訪勢力支配の相互作用の結果であろうか、水内周辺には建御名方とアマテラスが相殿している小社を結構な数見つけだすことができる。もしこの仮説を妥当とするならば、三社の組み合わせが成立した時期としては、相当に時代を遡ることができるだろう。早ければ平安時代、中世でも後半まで下ることはないだろう。

そしてなにより、玉依比売命神社に建御名方が祀られている点を軽視するわけにはいかない。信濃國の神社としてはむしろ「標準」とすらいえるが、いずれにしても、それはこの宮が、ひいてはこの地域が諏訪勢力の支配下にあった時期があるということを示す。
数多ある諏訪神分霊の経緯としては、まず、鎌倉時代、諏訪信仰及び諏訪勢力が幕府(特に北条氏)に格別に重視された結果、各地の武将によって勧請されたというものがある。頼朝の命で八幡神社が増えまくったのと似たような経緯といえよう。
それから、諏訪神社を奉祭する職人や開拓民らの移住に伴うものがある(例:東京の海岸近くに見られる諏訪神社は、諏訪から移住して海苔産業に従事した人々が勧請したものだという)。そうした歴史の反映を伝説から読み取れるような古いケースもあるが、基本的にこうしたパターンは江戸期の事例が大勢を占めそうだ。
全国的に見ればこの2つのパターンが主たるものだが、信濃國内においては少々事情が違ってくる。「諏訪神官家の分家が施政者として派遣されたケース」もしくは、「当地の勢力が諏訪勢力の傘下に入ったケース」が、数多く見出せるのである。このケースが想定される時代としては、諏訪神党が跋扈した鎌倉後期~室町前半あたりが中心になるだろうが、南安曇の大妻氏のように、鎌倉時代最初期(平安末期までは十分に想定できる)からの存在を確認できる例もある。さらには金刺氏が諏訪に入る以前の動きまで「諏訪勢力の動向」として理解するのであれば(そのように理解すべきだと私は思っているが)、当然、奈良時代にまで根拠が求められる例も少なからず見出すことができるだろう。
そこで、「御子神」たちが重要な手がかりになってくるのである。式内社、すなわち平安中期までに存在したことが保証される神社で諏訪御子神が祀られていて、しかもその神の名が三代実録などの国史に登場している場合、平安期の時点でその宮と周辺地域が諏訪勢力の傘下であった証拠となる……可能性が出てくるのだ。「可能性」と限定したのは、その神がいつから諏訪系列の神と定義されたか、その点が定かではないからだ。
……このテーマには、本項の大詰めでもう一度接近することになる。

といったわけで、玉依比売命神社における諏訪神の勧請はどうなのだろう?
格式高い式内の古社である以上、後世の住民移住に伴っての合祀という線は、まず考えられない。

鎌倉~室町期の武将によるもの……これは、いわゆる諏訪神党の時代、擬制的に神氏を名乗ることになったこの地の氏族が諏訪神を勧請した可能性が考えられる。もしそうであるならば、候補となる氏族を割り出すことはそう難しくなさそうである。とはいえ、苦手分野なのでよほど腰を据えてかからないとどうにもならないのだが(最終的には有坂先生に泣きつくことになるだろう)、ごくおおざっぱに調べた範囲では、玉依比売命神社が鎮座する松代東条近辺の施政者をはっきりと確認できるのは室町時代に至ってからで、その時代、関屋氏、寺尾氏、杵渕氏といったところを拾い出すことができる。
言うまでもなく、戦国時代真っ盛りになると施政者はころころ変わり、真田氏、村上氏といったおなじみの名前が次々に顔を出してくることになる。

まず、関屋氏はれっきとした諏訪神党である。皆神山の西南山麓に位置する彼らの奉祭神社、源関神社の伝承によれば、諏訪大祝為盛が(退位後という意味だろう)延久元年(1069)当地に住まい、関屋氏の祖となったという。神氏系図に一致した記事はないが、為盛の付近に関屋姓の人物が登場することは確かだ。諏訪神党の中でも後期の擬制的な神氏とは違い、由緒正しい血族である可能性が高い(つまり、伝承通り平安後期の分家である可能性も考えられる)。
そして、寺尾氏と杵渕氏は関屋氏の傘下であった。

また、諏訪には室町~江戸期における造営時の普請記録が豊富に遺されているわけだが、このあたりの地方はそれぞれの郷村ごと、頻繁に諏訪社の祭事で御頭を務めている。
というわけで、少なくとも室町時代において、松代近辺はほとんど100%近く諏訪勢力の支配下にあり、その余波は江戸時代に至っても残っていたということである。であるならば、玉依比売命神社に建御名方が勧請された事情について、この時期の施政者によるものと考えるのが穏当であろう。

だがしかし。
今回最初に書いた通り、私はこの宮は最初から諏訪系列社だったと考えているわけで、その場合、諏訪勢力に属する施政者が、平安期以前、この地を治めていたという前提が必要になってくるのである。と同時に、当然のことながら、まず第一に、なぜ諏訪系列社で玉依比売を祀っているのか?という理由づけが必要になってくるわけだ。
……というか、それこそが本項のメインテーマであり、今回の段取りを終えて、ようやく次回、その本丸に攻め込むことができるのである。

といったところで……もったいぶるようで恐縮なのだが、この話はひとまず置いて、玉依比売命神社の周辺をざっと地図上で見渡してみることにしよう。その気のある方は、グーグルマップを拡大して参照してみてほしい。
東南方向から時計回りに、桑井神社、源関神社、藤澤萩神社、熊野出速雄神社、祝神社、会津比売神社、西寺尾頤気神社、槌井神社、柴神社、小島田頤気神社、名立神社、高井大室神社……といった神社が目に入ってくると思うが、以上、すべて諏訪系列社である。しかも、国史見在社に比定し得る古社が複数含まれている。
むしろ周辺で諏訪系以外の神社を探すのが困難で、まず、金毘羅、愛宕といった江戸期の庶民信仰の宮が見つかり、あとは一瞬目を疑う「黒猫神社」も見つけることができるだろう。これは北信~東信付近に散見されるカラネコ社系列に属する神社だと思われるが、その系列自体、荒唐無稽な民間伝承に関連しているという以上のことはわからない謎の神社である。
いずれにしても、圧倒的な数を占める諏訪系列社に対し、安曇系の神社など影も形も見当たらない。皆神山の南麓にある白鳥神社が一見唐突に思えるが、これは当地の古族、滋野氏の奉祭神社である。滋野~海野~真田という系譜ゆえか、記録に残る範囲では真田氏が熱心に普請している。
北西方向、更科の範囲に至って、ようやく安曇系といわれる更科斗女神社が目に入ってくるが、その祭神も実は建御名方であり、「安曇系といわれる」件についても疑わしさがついてまわる。唯一確実なのが安曇神ウツシヒカナサクを祀る氷鉋斗女神社だが、この宮についてはしばし後に触れることにする。
先に述べた室町期の事情があるとしても、この圧倒的な「諏訪エリア」の中にポツンと孤立して、安曇の宮と安曇の神が今にまで伝わるということがあり得るのだろうか?

そしてなにより、玉依比売命神社は、口碑とはいえ「建五百建命創建」とする伝承を持つのである。
建五百建は、崇神によって任命された初代信濃国造として旧記にその名を残しており、金刺氏の祖とされる。古代史マニアの間では、森将軍塚の被葬者と目されることも多い。しかしここでは、それらが史実であるか否かはまったく問題としない。下社大祝金刺氏(おそらく平安期の時点では、上社も含めた諏訪社全体の運営統括者だったろう)が、その裔であることを自認し、名乗り、それが中央公認の上で広く受け入れられていたという史実(三代実録に記事がある)にこそ、意味があるのである。
金刺の名は、同族の他田とともに、奈良時代から平安時代にかけ、諏訪、水内、埴科(松代を含む地域)、小県、筑摩、下伊那、そして遠州にもはっきりと刻まれている。血統の連続性については知ったことではないが、同じ時代に、同じ國、同じ体制の中で、同じ姓(しかも公式な権威と正統性の証である舎人直姓)を名乗っていた以上、「金刺・他田グループ」としての連絡と協力体制があったのは当然であろう。
この時代、もちろんそれは、共有する信仰を基盤としてのみ成り立ち得るのである。
すなわち、「建五百建命創建」の伝承は、それが事実であれ後付けであれ、玉依比売命神社が相当に古い時代から金刺グループ管轄下、もしくは諏訪信仰グループ傘下の神社であったということを自ら主張しているに等しい。

そんな宮の、どこをどう見れば安曇族の宮だと判断できるのか?
正直、理解に苦しむのである。
唯一の根拠が「玉依比売」という神名だ。しかし、「他の玉依比売」についての検証をいっさいせずに、「海神の娘の玉依比売がいるから安曇族の宮」と断じてしまうのは、乱暴を超えて「思い込み」でしかない。「近在にウツシヒカナサクがいるから」という極めて薄弱な材料を論拠にするというのであれば、私は対抗して、「もっと近くに建御名方がたくさんいるし、池生命もいるし、八杵命もいるし、伊豆早雄命もいるから」と答えよう。

さらに、古式の御田神事からも、児玉石神事からも、御判神事からも、海人族の匂いはしてこない。御田神事、御判神事は明らかな農耕儀礼であって、しかも古式。
いや、確かに、農耕神事については、安曇族こそが水田稲作の伝播者だとする説を持ち出すことも可能かもしれない。しかし、信濃においてもそうだったのかといえば、穂高神社、川合神社、住吉神社……どこを見ても、祭祀における農耕神としてのビビッドな特徴の顕れは認められない。そもそも安曇族が信濃に入ったのはそんなに早い時期ではなく、考古学的な見地からは、古墳時代も後半になってからのことと考えられている。もはや水田稲作の伝播云々という時代ではなかろう。

海人たちが山国にやってきた結果として、その信仰形態や伝承には相応のアレンジが加えられた。それが穂高見命と穂高神社であり、御舟祭であり、また、八坂刀売もその範疇内である可能性がある(詳細はまたそのうち)。いずれにしても、山国にやってきた以上、海神をそのまんま、生のままで祀っていて満足できるはずがないのだ。なぜなら、そこでは荒波からの加護も、豊漁の祈りも、海の彼方や海の底に異界を観想する信仰も、すべて無用だからだ。だからこそ、海の彼方の異界に代わる高山上の異界を観想し、自分たちの神として穂高見を祀ったのだ……というのが、柳田系民俗学の定説である。
実際問題、水内~埴科~更科において、海神を生のままに主神として祀った神社というのは、ただのひとつも見当たらない。穂高神社の至近距離までいってようやく、住吉三神を祀る住吉神社、綿津美を祀る川会神社が見つかるのみだ。両社とも、信濃においては極めて希少な「特異例」である(このあたりは、長野県神社庁監修『信濃の神事』の神社リスト、祭神リストから判断しているので、明治期の合祀で消された海神がいた可能性については否定も肯定もできない)。
なお、他國の住吉系列社では、神功皇后と習合したような「八幡系玉依比売」を祀っている例が時に見受けられるが、この住吉社に玉依比売はいない。

付記しておくと……明治の合祀で、松代東条にあった住吉の小社が他のいくつかの鎮守社とともに玉依比売命神社に合併吸収されているという記録がある。この点は無視できないが、しかし、現時点では検証のための材料がまったく見出せていないので、保留とさせていただく。

20111213:伊勢御厨の件と関屋氏の件、加筆修正。

(後編につづく/今回は「中編」はないです)
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