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小玉石を巡る冒険 その9

コダマ石あれこれ(前編)

諏訪の海 水底照らす小玉石 手には取るとも 袖は濡らさじ

前項でフライング気味に紹介したが、もともとはこの歌を軸に話を進めていこうと考えていたので、通しタイトルを「児玉石」ではなく強いて「小玉石」としたのであった。
構想は変わってしまったが、まあ、「小玉石」のほうがより普遍的な感じがするので、それはそれでよしとしておこう。
非常に有名な歌であり、里謡ともいわれるが、嘉禎(鎌倉時代)の奥書を持つ諏訪社の祭文集「根元記」及び「祝詞段」にもしっかり載っている以上、失われた諏訪神楽の祭文の一節であることに疑いの余地はない(祭文では「小玉石」の部分がリフレインされる)。
たとえば下諏訪町高木の津島社(「高木鎮守」として根元記にも登場する古社)では、戦前ころまで湯立神事がおこなわれており、その際にこの歌が唱えられていたという。歌の内容は盟神探湯を連想させるところがあり、湯立神事にはよく似合っているように思う。

さて、児玉石神社の社伝には、この歌を関連付けた伝承がある。原典には当たれていないのだが、『御柱祭公式HP』によると、

「諏訪宮神徳記抄」には “神が諏訪湖より大石を取り上げたが、袖はぬらしませんでした。中に2個の大石があり「児玉石大明神」と称しました。” とあります。


とのこと。児玉石神社には5つの巨石が連なるように並んでおり、そのうち2つだけを特別視するというのも奇妙だが、なによりも、前項で触れた通りこの歌の内容から巨石は連想しづらい。手長、足長、デエラボッチと、巨人神になじみのある諏訪だからこそなんとか受け入れられているのだろうが、このイメージだと、もとの歌の雅やかな感じが台無しになってしまう感は否めない。この歌の主人公としては、どちらかといえば、たおやかなお姫さまでもイメージしたいところである。
また、本シリーズ最初の児玉石神社の項でも触れたが、この神社の社殿配置からいうと、社頭の磐座を主祭神の依代と見るのは無理がある。むしろ本殿の中に収められているという無数の石棒、丸石、石皿等が児玉石神社の御神体とみるのが当然である。
となると……この石棒、丸石、石皿群もまた、児玉石なのではないか?という疑問が生ずる。

というのも……これらの石器群は、おそらくは付近からの出土物が順次奉納されたことによって数を増してきたと思われるのだが、その経緯が玉依比売命神社の児玉石にそっくりだからである。
前述した通り、玉依比売命神社の周囲には多くの古墳が見られ、特に山稜を隔てた北側には、積石塚群集墳で知られる大室古墳群がある。農地の開削によって煙滅した古墳は数知れず、そこからの出土物が奉納されたとみるのが定説になっている。
当社の記録によれば、児玉石が一気にその数を増したのは江戸後期で、これは、国学によって古墳や勾玉、さらには式内式外の古社に対する注目度が急速に高まった時期とも重なる。と、まあ、背景となる事情は非常に現実的なものなのだが、注目すべきは、「増えれば吉兆、減れば凶兆」とし、そのために毎年奉納が繰り返された、という点である。

すなわち、児玉石というものは「増えること」にその神性を見出されている面もあるのではないか。

「さざれ石の磐となりて」と歌われるように、古人は、岩というのは長い長い時間をかけて成長するものだと考えていた。たとえば小袋石を見ると、その存在感の唐突さに我々は圧倒される。峻烈な山岳地帯や渓谷ならいざしらず、おだやかな地質の里や森の中に、突如地中から湧きだしたか、それとも天から降ってきたかのように唐突に存在する巨石に対し、人々は神秘と畏怖を感じたことだろう。木が枯れ、水が流れ、土が容易に造成できるいっぽうで、岩は不変かつ不動である。「苔のむすまで」不動であったがゆえに、それがどこから来たのか、どうしてそこに在るのかが想像しにくい。その圧倒的な存在感と「生成の神秘」こそが磐座信仰の原点であり、ゆえに、誕生や生命力の神性へと通じていくのだろう。
石は育つものであるとする世界観の中で、なおかつ生命力の霊性を持った特別な石なのであれば、増殖するのも「当然」というべきである。

また、玉依比売命神社においては、決して「児玉石=勾玉」ではない。ひと抱えもあるゴツゴツの自然石もあれば、穴だけ穿った自然石、管玉、球形の宝玉、トンボ玉も、旧石器時代の石斧すらある。それらすべてが児玉石なのだ。
であるならば、児玉石神社の磐座の見事な連なりっぷりも「増殖する石=児玉石」のイメージにすんなりとなじんでくるし、本殿の中で密やかに増殖してきた石器群(石棒と石皿のペアは、繁殖の象徴そのものだ)も、やはり児玉石と呼ぶべきなのではないだろうか。

諏訪大社と諏訪神社』の八ヶ岳原人氏は、中世の七石にいう児玉石は、本来児玉石神社のそれではなく、上社のお膝元にあったのではないか、という疑問を提示している。
氏も発見できていないようなのだが、ここで「高部児玉石」が紹介されている。私もこれを確認できていないのがもどかしいのだが、なるほど、中世にいう七石の児玉石は、こっちが本来だったのかもしれない。しかし、だからといって、「児玉石神社の児玉石は、本当は児玉石ではない」ということには決してならないはずである。
児玉石というのは、本来、ひとつの磐座なり宝玉なりに特定されるべきものではないのだ。そして、中世の諏訪神官が既にそのことを忘却していたのだとすれば、その信仰の根は相当に古いということにもなる。

塩沢瀬神社本殿裏

この写真は、磯並各社の祭神比定の項でも紹介した塩沢「瀬神社」の、本殿覆屋内部である。
本殿の背後に、多くの丸石と石棒が集められている。
これもまた、児玉石……の、少なくとも類縁とはいえるだろう。
間違いなくいえるのは、児玉石神社本殿の中で起きているのとまったく同じ現象が、ここにも起きている、ということである。

塩沢瀬神社境内末社

こちらは、同神社の境内末社。
「天満宮」と刻まれている。丸石だの石棒だの奉納されて、天神様もさぞかし困惑していることだろう。
こうした例は、特に八ヶ岳山麓の各所で見られる。いっぽう、里の宮で見られる似た風景は、村の若衆たちの力比べに供された「力石」であることが多い。力石は全国的に見られる習俗だが、諏訪ではやはり丸石や石棒が目立っている。まず石集めの信仰があって、それは村の辻や集会所の前に置かれることが多いため、結果として両者が「混じっている」可能性は高いように思われる。
この丸石集めの習俗は、同じ八ヶ岳山麓文化圏という共通性から見ても、甲斐の丸石道祖神(好例)と根を同じくする信仰とみてよい。生殖と豊穣の神でもある道祖神の丸石集めと、生命の石たる児玉石信仰を比較した際、そこに通低する信仰思想があることは否定できまい。まして、児玉彦命が古代における神長家の宗主とされている以上、背後に潜む石神としてのミシャグジの存在も否応なく浮かび上がってくるのである。

武石子檀嶺神社の児玉石の性質については、「若宮」について考察したこの項をご参照願いたい。
分祀という行為によって引き渡されるエネルギー……すなわち、「若宮=別け宮」に内在するミシャグジ的な再生のエネルギーが、この小石には籠められている、と考えておきたい。

次回後編は、その他の児玉石の例をいくつか挙げ、さらにその本質に迫っていく。

(つづく)

【110501:「力石」の件、ちょいと修正】
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