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小玉石を巡る冒険 その7

武石 子檀嶺神社(前編)

今回は、予告してあった「もう1社、訪ねなければならない神社」の件である。
ちなみに社名の読み方は、正式には「こまゆみね」、地元の通称では「こまみね」と呼ぶ。「子檀嶺神社」は式内社だが、北側の山を越えた青木村に論社がある。こちらでは正式名称通りに「こまゆみね」、もしくは「こまゆみ」と略されることもある。
まずは、長野県神社庁HP「子檀嶺神社」の項からの引用で話を始めさせていただくことにしよう。

だが……その前にひとこと言っておきたい。
長野県神社庁HPのデータベースは御世辞にも立派なものとはいえず、祭神や沿革等については、やる気のある宮司氏の自主性によってのみ記入されており、住所以外の情報がまったく表示されていない神社が大半である。その時点でガッカリだが、逆にそんな中で見られる少数の解説は、自主性に任されているからこそであろう、なかなか役に立ち、新たな発見も多い。だがそうした場合でも、肉筆文書によって委託されているためか単純な誤字や誤謬が目立ち、HP管理側の仕事の粗さとやる気のなさ、呆れ返るほどの知識の貧弱さがあからさまに露呈している。まあ、実際には入力を外注会社のバイトに任せたとかいうような話なのだろうが、「こういうもの」を世間に曝し続けているという管理責任は当然免れ得ない。「長野県神社庁の職員ってのは、古事記もろくに読んでないのか…」と思われたとしても、己の怠慢の代償として受け入れるほかあるまい。
風俗狂いの葬式坊主と似たようなもので、そんなことでは、氏子にしても神様を拝むに拝めないというものだろう。

長野県神社庁職員諸氏におかれましては、せめて最低限の志を持ち、最低限の仕事だけはしていただきたい。

と、きつく苦言を呈しておく。

というわけで……怒りを鎮め……以下、引用である。
ニュアンスを伝えたいので、解説部分の全文引用をさせていただく(問題を指摘されたら即座にurl表示に切り替えるが、注記は残す)。

式石郷八ヶ村の産土神として信奉されている子檀嶺神社は、奥宮である子檀嶺獄[※引用者注:「子檀倉獄/こまくら・だけ」の誤り]山頂の子檀倉社、中宮である余里の駒形神社、里宮である当社からなっている。御祭神は、奥宮は宇賀御魂神・高れい神[※引用者注:表示不能漢字の読みとしては「高オカミ神」がベター]、中宮は建御名方刀美命、里宮は宇賀御魂神、建御名方刀美命、八坂刀賣命の三柱である。 和銅5年(712)に山城国紀伊郡稲荷神社より宇賀御魂神を[※引用者注:「分社、」が脱落か]子檀嶺獄[※引用者注:子檀倉獄]山頂に鎮座しこれを奥宮と称し、里宮は旧下武石村五日町に御遷座、お祀りしていた。大同元年(806)3月15日当国一ノ宮上諏訪神社より建御名方刀美命、八坂刀賣命を宝珠児玉石三個に添いて分社し二柱の命を左右の殿に遷祀した。古くはこの三柱を合わせて子檀嶺神社獄石宮大神として祀っていた。貞観2年(860)2月神位従五位下を授けられ、延長2年(924)御勅改、延長5年(927)延喜式に選ばれ名神小社に列した。寛冶元年(1807)[※引用者注:1087の誤り]源義光公本殿再建され元暦元年(1184)当郷の豪族武石三郎平胤盛本殿吠殿[※引用者注:「吠殿」はおそらく誤混入]を修理された。 天正4年(1576)依田川の大洪水により社地・社殿が流失し、当時の地頭大井大和守信廣現在地へ遷座し祭典料として28貫文の地を寄付された。慶長12年(1607)9月28日領主真田候社領として18石余寄付され、以降領主が変わる毎に社領は寄付された。延享3年(1746)烈風のため大破損を被り、翌4年領主松平伊賀守忠愛候巨木を寄進された。


以上、源義光(新羅三郎)、武石胤盛など、雛の宮にしては意外なほどの有名人も名を連ねているが、個々の部分の真偽はとりあえず置くとしても(特に創建年代の古さは、にわかには信じがたい)、まず、その社伝の詳細さに驚かされる。そのわりに、郷土史等の書籍でまったくお目にかかったことがないのが、なんとも奇妙な感じだ。
しかし、今回注目したいのは、もちろん「上諏訪神社より建御名方刀美命、八坂刀賣命を宝珠児玉石三個に添いて分社し」の部分である。
これを知った時点で、私はまず、「この児玉石」は勾玉なのではないか、という印象を持った。むろんそれは、玉依比売命神社の児玉石が頭にあったからである。児玉彦神社のような磐座ではない、小さな児玉石……とくれば、当然の連想である。児玉彦神社にいた玉屋命のことも思い出される。
もしそうであれば、玉依比売命神社の児玉石も、建御名方分祀の際に諏訪神社から持ち込まれたものが元になっているのではないか……そう考えたのだ。

とかく疑問が多いので、まずは自治体の観光窓口に電話してみたのだが、神社に関する専門的な知識は当然得られず、「専任の神主さんはいなくて、よその町からきてもらっている」との話(結果的に間違っていた)。誰か詳しい氏子さんを、と頼んでおいてもナシのつぶてだったので、仕方なく担当の宮司さんを調べ、電話取材を試みた。というか、最初からそうすべきだったのだが。

--長野県神社庁のHPで子檀嶺神社の解説を拝見したのですが。
「ああ、あれは……なんか変なことになっちゃってて、直さなきゃいけないとは思ってたんですが……」
--あ、じゃあ、もとは宮司さんご自身でお書きになられた?
「はい、そうです」
--ああ、よかった。では、いくつかご教示いただきたいのですが、あそこにあった社伝というのは、根拠となる古文書のようなものがあったりするんでしょうか?
「それは、ええ、ありますね」
--それは、いつごろのものなんでしょうか?
「うーん……ええと……それはちょっと、今、わかりませんが」
--そうですか……では、社伝にいう児玉石についてなんですが、あれって、もしかして現存してたりするのでしょうか?
「はい、ありますよ」
--えっ!? あるんですか? そ、それは……素晴らしい……あの、それで、それはどういった? たとえば……勾玉とか?
「いえ、勾玉ではないですね。小石が3つ。黒っぽいような……」
--自然石、なんですかね? 3~4センチとかそれくらいの?
「ええと、そうですね。それくらいですか。こう、表面がすべすべした感じの……」
--河原石のような? あの、平たい感じですか? それとも丸い?
「丸いですね。ああ、そう……白に茶色が混じったようなやつもあったかなあ」
--あの、それは、御神体ということですよね?
「そういうことになりますね」
--そうすると……拝見させていただくわけには……いきませんよねぇ?
「んー、いやあ……そうですねえ。あの……去年あったんですが、御柱祭の時だけ、三宝に載せて移動する機会があるので、その時なら……」
--見られるチャンスがあると?
「そういうことです」

うーむ……。
長野県内のたいていの御柱祭は諏訪と同時期におこなわれるため、諏訪人として、なかなか他所の御柱祭を見る機会には恵まれないのである。
ま、例外もあって、小野・矢彦神社と松本千頭鹿神社の建御柱は、通常の御柱年の翌年……すなわち、これを書いている時点で来月、おこなわれるのだが(小野に繰り出す予定!)。

ともあれ、現地を見ておくことにしよう。


より大きな地図で 武石子檀嶺神社 を表示

武石村自体、広々とした谷の明るい雰囲気に包まれているため、門前の雰囲気も非常に明るい。急斜面に向けて蛇行するように階段が駆け上っている。

一ノ鳥居を振り返る

登り口から見上げる

背後山?

背後の山は……神体山ではないらしい。武石川を主流とし、小沢根川、余里川などいくつもの支流が合流する地点の内側に里宮が鎮座しており、背後山は低く長い尾根状を成している。中宮とされる駒形神社は、小沢根と余里の谷に挟まれた尾根の途中にある。
奥宮のある子檀倉獄は、里宮から谷の奥を眺めて見ても、いったいどれなのか判然としない。

階段から背後を振り返ると、浅間山が美しい。

子檀嶺神社から浅間山

階段を上っていくと、段状になった削平地にぼつぼつと境内社が散らばっている。

子檀嶺神社境内社2

子檀嶺神社境内三間社

中にひとつ立派な三間社があり、その背後に注連縄が掛けられた石棒……ではなかった、なにやら刻まれた碑がある。

日月紋の石碑

「■石平胤盛」。
後で調べたら、どうやら「■」は「武」の旧字というか、ナントカ体らしい。
日月紋も刻まれており、なるほど、社伝にいう武石胤盛との縁がここにしっかりと遺されているわけだ。
ちなみに、この地域から白樺湖へと抜ける大門街道の奇勝「仏岩」には、県宝指定された鎌倉時代の宝篋印塔があり、一族の名を刻んだ銘文がある。千葉を本拠とした武石氏だが、このあたりに領地なりがあったことは確かなようだ。

一本御柱

そして、一本御柱。
ここの御柱祭は、天明年間におこなわれた記録があるという。それ以前からおこなわれてはいたろうから、分社の御柱祭としてはまあ古い部類といえる。
天明といえば大飢饉。しかも、間近な浅間山が大噴火している。そんな時期に敢行しているのだから、村が豊かだったか、それほどまでに重視されていたか……。

本殿を見上げる

一番上の段に、建物がふたつ。
……なんというか、神社の境内としては非常に風変りな印象がある。
参道の正面にはなにもなく、左右に振り分けられた建造物が広場を挟んで向かい合っていて、それが回廊で結ばれている。

子檀嶺神社本殿

本殿も、見なれない感じだ。瓦葺で、全体の印象としては寺っぽい。拝殿と本殿が一体化したスタイルで、しかし覆屋という造りでもない。正面が4間(というか、中央の2間がぶち抜きで1間の向拝のようになっている)、奥行が5間。最奥の1間が仕切られていて、そこが本殿という扱いになっているようだ。

本殿内部

正面の格子から内部を覗き見ると、奥に3つの神座が並び、扉が閉まっている。これが3柱の祭神に対応しているのだろう。

慶徳殿への回廊

慶徳殿

本殿と回廊で結ばれた向かって左側の建物は……舞屋なのだろうか? しかし、ガラスのはまった戸で全面が塞がれており、「慶徳殿」という額がかかっている。
なんだろう?

まあ、現時点で氏子衆の寄り合い所として機能しているであろうことは想像できるが、なんとなく違和感があるのは、やっぱり瓦葺であることと、加えて、棟の両脇にシャチホコが屹立しているせいだろうか。

慶徳殿裏

これは慶徳殿の裏。燈籠が唐突であり、その背後なりから「なにか」が丸ごとなくなっているのではないかという気もする。

とにかく、全体に、奇妙な神社である。
言っちゃ悪いが、正直、式内の格式は感じられない。

山宮にまで行く余裕はなかったのだが、とりあえず中宮の駒形神社はさほど離れていないようなので、向かってみた。

駒形神社1

駒形神社2

駒形神社3

ひとことでいって……倒壊寸前である。
打ち捨てられた感が強く、氏子の健在を感じさせない。

駒形神社栃の木

立派な栃の木。これは、市の文化財指定を受けている。

荒れているせいもあるのだが、境内の印象は暗い。気分的にもなんだか暗くなってくる。

境内裏に荒れた古民家があり、境内地に隣接するその入り口に奇妙な石柱があった。

玉緒武彦霊

「玉諸武彦霊」。

むむむむむむ……。
神名とも取れるが、人名とも取れる。
ちなみにネット検索ではまったくヒットしない。
石柱の裏には寄進者等と思われる文字も刻まれていたが、判読不能(拓本でも取れば十分読めるだろうが)。
「玉諸」は非常に気になるが……なんだかとても怪しい臭いもする。
のちに宮司氏に聞いてみたところ、「心当たりがない」とのことだった。
とりあえず……神社には無関係、と判断しておこう。

なにかとすっきりしないので、もう少しだけ、追跡調査を続けることにした。

(つづく)
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