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小玉石を巡る冒険 その6

磯並を取り巻く海のイメージ(諏訪編)

諏訪の磯並システムに付きまとう潮の匂いとしては、

1.磯並という社名
2.玉依比売
3.満珠、乾珠の件
4.小袋石の異称「舟つなぎ石」
5.前宮境内社子安社の祭神を豊玉姫とする説

と、整理のため、強いて分析済みの問題も含めて挙げてみた。

1の磯並という名について、前回は松代における意味に検討を加えたわけだが、さて、諏訪においてはどうなのだろうか。
「石並べ」の仮説に則るならば、松代における磯並の地名は祭事に依存した後付けだということになる。かといって、「石並べ」の地名に説得力があるのは松代の側であることに変わりはないので、やはりその名が諏訪から松代へ伝わったとする仮説は成り立ち難い。まず、そのことを確認しておこう。

いっぽう、諏訪でこの名詞がどう扱われたのかといえば、早々に伝来の経緯が忘れ去られてしまったものと思われ、中世の時点ではすでに、単純にひとつの固有名詞となってしまっていたようだ。諏訪の祭事や記録の中に玉依比売命神社の存在がまったく残っていないことがそれを示している。
だからこそ逆に、なんらかの意味を与えようとしてあれこれと知恵を絞ったのだろう。そこで根拠にできそうな有力な材料は「磯」と「玉依比売」の組み合わせくらいしかないので、両部神道的な体系を整えていた中世の神官たちが、意図的に磯臭さを撒き散らしたのではないか、と私は考えている。

3の「満珠、乾珠」など、こうした磯臭い演出の最たるものだと思うのだが、
「あのね! 豊玉比売じゃないから! 玉依比売だから!」
とか、
「諏訪湖には潮の満ち引きとかないから!」
などと、思わずツッコミを入れたくなる強引さである。本来「潮満珠、潮乾珠」であるところの「潮」をさりげなく省いてあるあたりが、なんともいじましい。
よくしたもので、こうした不自然な設定は民間に定着しない。わかりやすく、メジャーで、いってしまえばミーハーな内容であるにも関わらず、である。

なにより肝心なのは、地勢から見ても、信仰史から見ても、氏族的に見ても、需要から見ても……あらゆる意味で、小袋石とその周辺で海の神を祀る必然性というものがまったくない、という点である。
海のイメージが持ち込まれる原因として考えられるのは、「磯」という字と玉依比売の存在のみ。そして、磯並という名のもとに玉依比売がそこにいる理由として考えられるのは、玉依比売命神社から勧請したという以外にない。
つまり、なんにも、ない。
要は、そういうことなのである。
民間に定着しないのも道理というものだ。

関連して5を先に扱うが、『神長官守矢資料館 周辺ガイドブック』は、社頭の由緒書で沼河比売を祀るとしている前宮末社の子安社の祭神を、豊玉比売としている。しっかりした学芸員の手になる非常にしっかりした本なので、単なるカン違いとも思われない。察するに、そのように書かれた古文書が守矢家文書の中に存在するのだろう。
だが……これもまた同系統の磯臭いプランニングによるものと考えれば、非常にわかりやすい話である。縁もゆかりもない豊玉比売を、よりにもよって諏訪の子安社に配する理由など、他にはまったく考えられないからだ。
ちなみに、諏訪で豊玉比売に出会うことは非常にまれである。摂社末社はわからないが、主祭神とするのは富士見町の鎮守社に1社見られるのみだ。

それならば、磯並社にいる玉依比売について、中世の神官たちは海神の娘であることにまったく疑いを持たなかったのだろうか? という疑問もあるかもしれないが、当時は、玉依比売一般名詞説はおろか、海神の玉依比売とその他の玉依比売を別の神とみるような合理的分析的発想自体が存在しなかったろうから、なんら不思議なことではない。

4の「舟つなぎ石」も、こうした恣意的な磯臭い演出のひとつですませたいところなのだが、民間伝承っぽいところが引っかかるので、検討を加えておこう。

よくいわれるのが「昔はこの高さまで諏訪湖だった」というものだ。
これはもう、まったく承服できない。
地学的にいうと、太古は、いわゆる「古諏訪湖」以上に、遥かに諏訪湖が大きかったことは確かなようである。本州を縦に貫く大断層である諏訪盆地全体が湖で、その水は富士見の分水嶺を越えて現在の釜無川から太平洋側に流れ出ていたのだが、天竜川河口の山が大崩壊して流れが変わった、というのである。

だが、現在発見されている遺跡の分布を見れば明らかなように、それは1万年続いた縄文時代よりも、さらにずっと前の話なのである。よって、まず、経験の語り継ぎである可能性は否定できる。天竜川河口大崩落の時代に人が住んでいたのかどうか、いたとして、旧石器時代以前の人がどんな舟を使っていたのか使っていなかったのか。ロープに相当する道具がどれだけ発達していたのか。そもそも、小袋石という岩は舟を繋ぐのに向いているとはいい難い。
いっぽう、神話や伝説には現代の合理を超えた驚くべき知見が見られることも多々あるし、中世までのシャーマンに現代人が失ったなんらかの感覚が備わっていたであろうことも否定しない。しかし、そういう超古代レベルの神話の表現として、「舟つなぎ」というモチーフはあまりにも所帯じみていやしないか、と思うのである。「デエラボッチが湖畔にドスンと置いた」とか、そういう話であるべきだろう。

古代~近世にかけて、諏訪湖の水位は10~20メートルくらいは下がったものと考えられる。ゆえに、諏訪湖を取り巻く古代の旧跡は高台にある同程度の標高ライン上に並んでおり、それが考古学や古代史における「800メートルライン」と呼ばれる通念である。
「舟つなぎ石」について「ここまで諏訪湖だった」とする現代人の見解は、この「800メートルラインという現代の神話」の影響下にある。近世以前に端を発する湖岸線後退伝承は、あくまでも800メートルラインの古跡に準ずるものであって、そこからさらに何十メートルも高い位置にあるたったひとつの古跡を同じ伝承の中で語ることはできない。それを対象とするなら、より古い時代を舞台とする別の神話が必要になってくる。

ひとつの可能性として提示できるのは、松代の「舟つき石」の伝承が、当地における湖沼の縮小、諏訪湖の縮小という歴史の相似性に基づき、玉依比売にくっついてきたのではないか、ということである。
付け加えると、松代から千曲川を北上した中野市更科の「高井舟着神社」という諏訪社には、「舟つなぎ石」という磐座がある。周辺の千曲川沿岸の高所には実際に舟を繋いだと思われる人工的な穴を持つ岩が散見されるという。
どうやら、小袋石の異称については、北信の諏訪勢力から持ち込まれた「伝来」、そして付会であると考えるのがよさそうだ。

まとめていえば、
「磯並システム全体に漂う海のイメージは後付けであり、本来的なものではない」
そして、
「玉依比売命神社と磯並社にいる玉依比売は、本来、海神の娘ではなかったのではないか?」
というのが私の見解である。
後者については、何回か後になると思うが、「玉依比売と安曇族」というテーマにおいて論を固めていきたい。

さて、お次は、前回予告した「もう1社、訪ねておかねばならない神社」の件である。
のだが……実は取材が間に合っていない。直近に訪問するつもりでいる。
最低限の聞き取り取材はすませたので、最悪、訪問レポートを省くことになるかもしれないが、できることならフィールドワークをベースにしたいと思う常日頃である。
というわけで、論の展開はまだまだこれからが佳境というところなのだが、それまでの間、ひと息入れさせていただくこととしたい。

できれば、場つなぎとして、「この件に関係した気軽なレポート」を1~2本差しはさんでいこうかと、思って……いる。

(つづく)
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