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小玉石を巡る冒険 その4

磯並大明神と呼ばれた式内社

今回の一連の思索を始めるきっかけとして、いくつもの複合的な要素があったものの、決定的な事実がひとつあった。もう2~3年前のことになるかと思うが、「それ」を知ったときには眼から鱗が落ちる思いと同時に、上社古族の信仰について積み重ねてきた思考の流れが、一瞬にして混乱状態に陥ったのであった。
順次、論を展開していく前に、まず「それ」を提示しておこう。

松代の玉依比売命神社は、旧名を「磯並大明神」という。

この事実を知ってしまった以上、同じ國の中にあって玉依比売を祀り、磯並を称する宮が無関係と断ずるのは、もう不可能である。というか、社名、祭神ともに被った状態では「無関係の証明」のほうが遥かに困難なわけで、「ではどんな関係があるのか?」を考えるほうがよほど建設的というものだ。
そんなわけで、この問題は折に触れて考え続けてきたのだが、ふとしたきっかけから、ひとつの仮説に至った。ゆえに、この項を書き始めたのである。
その仮説の提示までにはまだまだ回を重ねる必要があるのだが、なにとぞお付き合い願いたい。

以上、前置き。

*****

玉依比売命神社は、信濃國埴科郡の式内社である。
他の論社は皆無。
近世における通名は、「池田宮磯並三社大明神」。
俗に「池田の宮」、もしくは「磯並大明神」。
祭神は、玉依比売命、天照皇大御神、健御名方命。
上記三柱で「三社」というわけだが、加えてスサノオも相殿している。
創建は不明だが、式内社なので平安前期の存在は保証され、歴史的環境から見て奈良時代もほぼ間違いのないところだろう。さらに「建五百建命創建」との口碑を信じるのであれば、その起源は古墳時代にまで遡りうる。それはちょっと難しいにしても、疑いなく、古社中の古社である。

例によって地勢の説明から始めよう。


より大きな地図で 玉依比売命神社周辺の地勢 を表示

以前、頤気神社2社の地勢解説で尼厳山(あまかざりやま)と奇妙山を紹介したことがあるが、当社はその尼厳山の南麓に位置している。尼厳山から奇妙山、そこからさらに南東へと続く急峻な山稜に囲まれた比較的急傾斜の複合扇状地があり、この南西向き斜面からその下の平地にかけて、惚れ惚れするほど美しい山村が営まれている。

玉依姫の里A

玉依姫の里B

玉依姫の里C

玉依姫の里D
(惚れ惚れするほどの美しさを伝えられなくてごめん…)

南方間近には印象的な台形を成すあの"ピラミッド"皆神山の独立峰が迫っており、斜面に広がる農地には松代名物の積石塚古墳が点在、いわばポケット状を成したミクロコスモス、隠れ里のような趣がある。しばしば古墳名や古墳群周辺の地名に見られる「姥ヶ懐」という言葉も思い出される地勢だ。にしては、スケールが大きいが。

積石塚古墳
(積石塚古墳の一例。基部が石垣になっているのは、後の耕作者たちの仕業であろう)

この小世界に西側から蓋をするような形で尼厳山から低い尾根が伸びていて、この小尾根の内側急斜面に玉依比売命神社の社殿が設えられている。

玉依比売命神社A

また、斜面から平地へと伸びる数百メートルの参道は、低地に築かれた堤状になっており、両側は池、もしくは低湿地、もしくは水田だったようだ。
「池田の宮」の名はこのことによる。

玉依比売命神社B

玉依比売命神社C
(下の写真の背景が皆神山)

さほど大きな神社とはいえないが、さすが端々ににじみ出る風格がある。

玉依比売命神社正面

玉依比売命神社社務所

拝殿は……なぜか「八棟造」とする記事をいくつか見たが(なにか元ネタがあるんだろう)、とてもとても、そんな大層な珍品ではない。まあ、撞木造……かなあ。
このへんには善光寺さんという撞木造の偉大なるお手本もあることだし(実際、軒部分の装飾の付け方など、善光寺本堂の影響を感じる)。

玉依比売命神社拝殿

突出した前部が拝殿で、後方の横に広い部分が幣殿という建前になるが、後方がやけに広いのは、児玉石神事の「会場」として特化しているのではないか、と推測した。

玉依比売命神社本殿A

急な回廊が階段を駆け上がり、本殿へと続く。
(本殿が独立していて八棟造もないもんだ…)

玉依比売命神社本殿B

北信にはやけに三間社流造が多かった印象があるが、この宮は「三社」なので、わけあっての、由緒正しい三間社である。

境内下の広場の隅に、これは……いちおう舞屋……なのか?

玉依比売命神社舞殿?

注連縄が張ってあるから神社の施設ではあるのだろうが……不明。

移転の伝承があるので、その点も検証しておきたい。
まず「一川(もしくは市川、斉川という表記も見かけたので、おそらく斎川/いつきがわ、が本来であろう)」に鎮座し、次に「磯並」の地に移転(つまり「磯並大明神」の名は地名に由来する)、それからさらに現在地に移転したというが、書物によっては一度の移転しか述べていない場合もある。
いまひとつ、情報量十分でかつ一貫した資料に出会えていないので確かなところがわからないのだが、寛喜2年(1230)の移転記録があるらしく、また、江戸時代に水害で移転したとの話もある。総合すると、古代の創建→鎌倉時代の移転→江戸時代の移転で現在地、といったところだろうか。
ちょっと調べたところ、市川は現在の岩沢地区で、扇状地斜面。その下の平地、中川地区がかつての磯並らしい。細かい地域区分がわからないのでなんともいえないが、現在の鎮座地も中川地区の西端に含まれているようなので、二度目の移転があったとしても、それは磯並の名を変えなくても違和感がない程度の移動だったのだろう。
上掲地図中、ありがたいことに岩沢区公民館、中川区公民館、ともに表示があるので参考になるはずだ。

実に多くの神社が移転記録もしくは伝承を持っているが、これは「長い歴史の中で一度や二度は水害に遭う」というだけの話ではない。
実際に記録が残っているケースでは、村自体が移転を余儀なくされそれに鎮守社も同行した、というものが多い。信仰の地そのものに必然性があれば同じ地に再建するし、村の鎮守であれば村とともに移動する……と、おおむねそういうことである。
いっぽうで、山宮里宮信仰と同じ発想で移転伝承が作られる例もある。中世的にいえば垂迹伝承、最初に神が降り立った聖地として、基本的に高所(海辺の神社なら沖の孤島とかになる)に故地が設定されるのだ。水分(みくまり)の神の場合、特にこのパターンを持つものが多い。長野県内では、塩尻の阿禮神社、松本の須々岐水神社などが当てはまる。

しかし玉依比売命神社の場合、かなり話がはっきりしている上、故地を祭祀に取り入れていない点から、通常の史実としての移転記録とみてよさそうである。
そもそも、尼厳山、奇妙山、皆神山と、きわめて印象的な山容を持つ山に取り囲まれているにも関わらず、いずれにも山宮を設定していない点に少々違和感があり、原始的な自然信仰の匂いの希薄な宮である、ともいえそうだ。それでも、扇状地祭祀、池沼祭祀、祭神・玉依比売、いずれの面からも水の宮であることは疑いないが。

小尾根状を成した背後山も、その名は「天王山」で、玉依比売命神社の神体山とは看做されていない。松代の町でおこなわれる祇園祭の神輿はこの神社から出発するのだが、それが「配祀・スサノオ」ということで、つまり、玉依比売命神社がこの地に移転する際、もともとそこ(天王山)にあった牛頭天王社を合併吸収した結果なのではないかと思われる。別に祇園祭と玉依比売命神社との間に信仰的な繋がりがあるわけではあるまい。

特殊神事として、御田祭、児玉石神事、それに続く神占、御判神事があるが、いずれも非常に古式なもののようだ。
もちろん、本項において重要なのは児玉石神事である。
児玉石神事の概要説明から始め、「児玉石とはなんなのか?」という問題へと話を広げていきたい……のだが、その前にまだ必要なステップが2段階ある。
まずは、「磯並」という地名についての検証、
それから、もう1社、訪ねておかねばならない神社があるのだ。

(つづく)
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