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小玉石を巡る冒険 その3

小袋石に集う神々

予告通り、小袋石をとりまく祭祀システムを構成する6社について、その祭神の意味するところを検証、考察していこうと思う。

■磯並社
祭神:玉依姫神、池生神

いうまでもなく、玉依比売は海神の娘である。それだけではなく、「神代最後の神」ともいえるウガヤフキアエズの乳母であり、かつ妻であり、皇祖・神武天皇の母なのである。水神の性質も兼ね備えているとはいえ、諏訪の山中の磐座の前というのは、彼女の居場所としてあまりにも唐突というものではないのだろうか。諏訪古族の最古聖地ともいわれる場所を統括する古社に、どうして海神系(信濃においては安曇系ということになる)の中央神がいなければならないのか?
地元贔屓を隠そうともしない(そこが素敵なのだが)諏訪の郷土史家たちは、おそらくは「それ」ゆえにであろう、この件を無視し続けてきた。確かに「後世の付会」で片づけてしまえばそれまでの話ともいえる。
だが、新世代諏訪信仰マニアを自任する私としては、そういう特異点にこそ食いつかずにおれないのである。また、これまでの思索の経験上、「後世の付会」にこそ、古層を探る最良の手がかりが潜んでいるという実感もある。

まず第一に、「玉依比売」という神名は一般名詞であるという説が根強い。
wikiを引くのは忸怩たるものがあったりなかったりするのだが、わかりやすくまとまっているのでそのまま一部を引いておこうと思う。

他の玉依姫
「タマヨリ」という神名は「神霊の依り代」という意味で、タマヨリビメは神霊の依り代となる女、すなわち巫女のこととなる。タマヨリビメ(タマヨリヒメ)という名の神(または人間の女性)は様々な神話・古典に登場し、明らかにそれぞれ別の女神・女性を指している。例えば、『山城国風土記』(逸文)の賀茂神社縁起には、賀茂建角身命の子で、川上から流れてきた丹塗矢によって神の子(賀茂別雷命)を懐妊した玉依比売(タマヨリヒメ)がおられる。(Wikipedia「玉依姫命」より)


ここで挙げられている賀茂の玉依比売と海神の娘の玉依比売とを比較すると、明確な共通点がある。それは、「運命的な出来事の結果、重要な御子神を生み育てることになった神」という点だろう。そして、その性質が「神霊の依り代となる女」という神名となって表れているのだとしたら、神話上で特定の神の母とされるのは、その神を奉じる巫女であったことの比喩である、という読み方もできる。さらに読み解きを進めれば、玉依比売を奉じる一族が、その御子神(とされる指導者・権力者)の後ろ盾であった、ということにもなる。それが神話のコードというものだろう。
たとえば、かのヤマトトトヒモモソヒメは三輪山の大物主と通い婚の間柄で、禁忌を犯して不遇の死を遂げたわけだが……ということは、「大物主の巫女としての役割をまっとうできなかった」ことを示していると考えられる。あの死に様は、記述者もしくは時の施政者、もしくは伝承という民意によって、彼女が罰せられていることを示す。もし巫女の立場をまっとうしていたのなら、大物主の母として神話に刻まれていたかもしれないのだ……という、あくまでも、例。

そこで……磯並社に居る玉依比売も、こうした神格を備えているのだろうか?
その核心に至るためには、もう少し材料を積み上げていかねばならない。

そして磯並社のもう一柱、池生神。これも非常に気になるところである。
しかし……先送りに次ぐ先送りで重ね重ね申し訳ないのだが、これは今現在継続中の池生神の項で扱うべき話になってしまうので、そちらに譲ることとする。
ただ、現時点で断言しておきたいこととして、磯並社の本体はあくまでも玉依比売であり、ここにおける池生神はあくまでも補佐的な位置(相殿)にいるというのが私の見解である。その理由については、次回(か次々回)で説明できるかと思う。

■瀬神社
祭神:不詳 一云、須勢理姫命

須勢理姫は大国主の正妻で、アジスキタカヒコネ(表記の不統一は、漢字表記が面倒なときたまにします。ごめん)と高姫(下照姫)の母である。根の国めぐりの大国主を助けたエピソードも有名だが、沼奈河比売に嫉妬したエピソードも負けていない。「ss」の音は荒ぶる神性を示すもののようで、須勢理姫は、しっかりと父神のスサノオから受け継いでいるのであろう。
建御名方から見れば義母に当たり、その子下照姫は諏訪信仰周辺に不気味に顔を覗かせているので、まあ諏訪と無関係とはいえないだろう。が、親等関係を根拠に祀るのであれば沼河比売を祀るのが筋であり、わざわざこの神を担ぎ出すのであれば、その根拠があって然るべきだろう。実際、諏訪では沼河比売はいくらでも祀られているが、須勢理姫を祀った例は、この瀬神社を別とすれば、以下に示す一例のみである。

上社古族の聖地である茅野市山浦地方の北端を占める米沢村の懐深く、塩沢という集落があるのだが、ここの鎮守社が「瀬神社」であり、祭神を須勢理姫としている。思うに、これが「一云」の祭神を定めた何者かの推論の根拠になったのではないだろうか。
しかしこの瀬神社、十五世紀末創建とする記録のあるなかなかの古社ではあるのだが、近世開拓村の鎮守という定義からは逃れられそうにない。ゆえに、諏訪信仰の古層にかかわると見るのは難しい。
加えて注意しなければならないのは、古事記での表記はあくまでも「須勢理毘売」か「須世理毘売」なのであって、旧事本記でも「須世理姫」、つまり「須瀬理比売」という表記は見られないのである。にも関わらず、「勢の字を取って、その音を取って、瀬神社」という説明(瀬神社の由緒書きによる)は、あまりにも説得力に欠けるのではないだろうか。「須神社」だというのならまだしも。
ちなみにこの塩沢瀬神社、階段状を成した境内に印象的に清流が引き込まれ、精緻な本殿と個性的な舞屋を持つ、個人的に三ツ星をつけたいくらい美しい神社である。水の宮の趣も十分にある。単純にその点を社名の根拠と考えたいくらいだ。

さておき、なにぶんにも特異な社名だけに、「瀬」の意味するところをもう少し考えてみる必要がある。
「瀬」という字で思い出す神、まして比売神、まして水に関係するとなれば……これはもう、瀬織津比売が真っ先に出てくるわけだが……。

ならば、諏訪における瀬織津比売信仰はどうなのかと調べてみれば、表立って祀っているのは1社しかない。富士見町とちの木(「とち」は草かんむりに子という独自の字を使ったため、現在はかな表記になっている)の「尾片瀬神社」である。「尾片・瀬神社」なのか、「尾・片瀬神社」なのか、もとより「尾片瀬神社」でしかないのか、そのあたりで事情は変わってくるのだが、もし「尾片・瀬神社」であるのなら、これは有力な判断材料になってくるだろう。
この神社については、現状まったくの未調査なので、そこにおける瀬織津姫の神格も含め、遠からず出向いてあれこれ調べてみようと思っている。
また、風琳堂主人なるお方のブログ『千時千一夜』の掲示板形式の記事によれば、葛井神社の槻井泉神も、下社春宮浮島神社の祓戸大神も正体は瀬織津姫だとか。相当に説明力が高く、かつ面白く読める素晴らしい記事ではあるのだが、むろん、これは断定できるような話ではない(いや、しかし……この記事って、菊池展明氏本人だよなあ……)。

いずれにしても、小袋石瀬神社の「瀬」の字が意味するところとして、小袋石の下から流れ出るせせらぎの神性を受け持った社である、と考えるのは無理のないところだと思う。
そこに「祓い」の意味があるのかどうかは今後の課題として……逆に、須勢理姫を祭神とするのは相当に無理のある付会だと私は考える(ただ、どちらも根の国を拠点としたことから、須勢理姫と瀬織津姫を同神とする解釈も……いちおう……あるようだ)。
よって、私としては、候補として瀬織津姫(ひょっとしたら槻井泉神?)を挙げた上で、当面は「祭神不詳」のままとしておきたい。

■穂股社
祭神:不詳 一云、御井神

御井神は、別名「木俣神(木股神)」ともいい、オオナムチの御子という由緒正しい水神である。わりとあちこちで見かけるのだが、もうひとつ正体に迫れない不思議な神で、なんらかの別の神もしくは神格を吸収しているのではないか、という気配もある。かの三井寺の由緒にも関わっているようである。

諏訪信仰関係で特に気になる物件としては、松本の槻井泉神社に、ミズハノメ、諏訪神子神(!)とともに祀られていたり、生島足島神社境内の井戸が「諏訪井戸神 下神井様(しもみい・さま)」として祀られている件がある。もうひとつ、子檀嶺神社(青木村)の主祭神である件も気に留めておきたい。
木股神の別名がある通り、自然界における木と水の関連を踏まえた神格を持っており、その点で槻井泉神(何度か紹介している通り、れっきとした信濃国の三代実録記載神)とは非常に親和性が高い。松本槻井泉神社の場合、おそらくは槻井泉神が御井神に習合された結果、その名を失ってしまっているのではないかと思う。そして、ここ穂股社でも同様の可能性は考えられるだろう。

というわけで、小袋石における穂股社の位置付けは、「水をはぐくむ森」という神性でしっくり来る。穂股の股は木股の股、ということなのだろうか。また、ここまで「穂」の字を無視してきてしまったが、当然、農業神としての性格(水神である時点であらかじめ含んではいる)も加味して考えなければならない。
また、話がまったく逆で、環境的なイメージを前提に、社名の「股」から誰かが連想し、後からこの祭神を定めたということも十分に考えられる。その場合、「穂股」の意味は不明としか言いようがなくなるわけだが。

■玉尾社
祭神:不詳 一云、興玉命

興玉命は、猿田彦の異称のひとつで(つくづく猿田彦はヌエ的な神である)、祭神としては決して珍しくない。特に鹿児島に多いらしく、興玉神社、九玉神社、河守神社などで祀っており、さらに南方神社では建御名方とともに祀られている。ちなみに、薩摩と諏訪には深い縁がある。
また、「九玉」でわかる通り、この場合は「くだま」と読むことが多い。

また、「チカタ/チカツ」の名を持ち、千鹿頭神との同根説も根強く囁かれる謎の神社が関東中心に数多く見られるが、そうした近津神社ほかで興玉命が祭神とされている例も結構あるようだ。
ただ、チカツ系神社の祭神はあきれるくらいにバリエーション豊富で、まったく一定しない。猿田彦と「チカタ/チカツ」との習合のニュアンスには、ミシャグジとの相似性も感じられる。いずれにしても、混迷が深すぎて当面アテにできる線ではなさそうだ。

そしてもうひとつ、「興玉」という表記でより一般的に通じるのは、夫婦岩で有名な「二見興玉神社」の社名ではないだろうか。
この場合の読みは「おきたま」で、夫婦岩の沖合700mの海中にあるとされる「興玉神石」を拝むことを本義とする宮である。いつの時代にか地盤沈下でも起こしたのだろうか、海中に没して見えない磐座を拝むというのも神秘的な話で、津波による大引き潮でかろうじて視認されたという伝承もある。この場合の「興玉」は、イコール「沖玉」の意と解釈して問題ないように思う。
そして、これもまた猿田彦なのだ。この磐座は猿田彦顕現の伝承を持ち、二見興玉神社の祭神も当然、猿田彦。ただ、合併社であるらしく、ウカノミタマも相殿している。
山人の神である猿田彦が顕現するにはずいぶんとおかしな場所だと思うのだが、ここまでの例では「興玉といえば猿田彦」という線は揺らがないようである。

ならば、小袋石の脇にも猿田彦がいるということなのか?

ここまで例を挙げておいてなんだが……それにはどうしても違和感があるのだ。

基本的に、諏訪には、猿田彦がいない。

このことはしっかり確認しておきたい。
諏訪人として。
もちろん、まったくいないわけではない。白髭社や天狗社(これらもまた、ミシャグジや天白、第六天とも通じる、中近世の怪しげな習合回路だ)があったり、道祖神も普通に見られたり、鈿女神社があったり。
だが、「古層の猿田彦」は、決していない。
これは断言できる。

諏訪古族は確かに強く山人性を帯びているが、しかし、近畿を拠点とする猿田彦系の山人とは系列がまったく別なのだ。似て非なるがゆえにかえって、中央高地山人の聖地たる諏訪では猿田彦の侵入を許していない。
いっぽう、北信地方まで足を延ばせば、ミシャグジに由来を持つであろうと想像される猿田彦にいくらでも出会える。伊那谷でもそれなりに見つかる。しかし、ミシャグジの拠点たる諏訪の核心部では、ミシャグジが猿田彦に習合されることを決して許しはしなかったのである。
その「許さなかった」代表が、中世までの神長官守矢氏にほからない。
その守矢氏にとっての最重要聖地と思われる場所に、どうして猿田彦がいなければならないのか?

あまりにも情緒的にすぎる論の展開かもしれない。しかし、上記を理由に、私は小袋石の興玉命に関しては、前提としてこう考える。

「おそらくは近世、この祭神を定めた人物(神官か国学者かは知らないが)は、あまりにも不用意だった」と。

であるならば、同時に、その時期の神長官もすでに古族としてのプライドと知識を失っていたと断じざるを得ない。残念ながら。

ではなぜ、そこに興玉命が持ち出されたのか。
以上のような見解を示した以上、私はその根拠を探ってみせなければならない。

あまりにも材料が乏しく、手さぐりになってはしまうが……。

まず重要な材料となりうるのが、「玉」である。
玉尾の玉、興玉の玉。
「玉」とは「尊い石」であり、もちろんそれは、「魂/霊(タマ)」を象徴する呪物である。そして、二見の興玉神石/沖玉の例でわかる通り、必ずしも宝玉のみを指すのではなく、本来は磐座のようなものも「玉」の範疇内であったと考えられる。

そこで思い出してほしいのが、シリーズの最初に紹介した兒玉石神社と兒玉石のことである。と、この時点でもう結論は十二分に察せられると思うのだが……そう、玉尾社本来の祭神は、兒玉彦命であると私は考えているのだ。
玉尾社は、小袋石システムの中で小袋石にもっとも近い位置に祀られている宮である。「磐座に寄り添って建つ宮」という点で、兒玉石神社とまったく一致するではないか。
そもそも、玉尾の「玉」だけ見ても、小袋石そのものの石としての神性を奉じた宮だと考えるのが普通なのだし、少なくとも、そこに猿田彦がいるよりは遥かに必然性が高いというものだ。

とはいえ、まだまだ恣意的な判断であることは自覚している。「諏訪における小玉石とはなんなのか?」という重要なテーマにも、まだほとんど触れていない。次回以降で論を深めていく予定なのだが、その前に、ささいな材料をひとつ挙げておく。
御子神十三柱のレギュラー「意岐萩命(おきはぎのみこと)」はいくつかの表記バリエーションを持つが、その中に「興波岐命」というのがある。現・岡谷市で祀られているのがこの表記だが、その神社の名は「小萩神社(こはぎ・じんじゃ)」である(現在は合祀され、出早雄小萩神社)。つまり、「興波岐命」は「こはぎのみこと」とも読むのである。
同じ信仰圏において、興玉命が「こだまのみこと」であったとしても、いっこうに問題はないだろう。兒玉彦説を前提とする純粋な憶測だが、民間に「コダマ様」くらいの呼称は残っていたのかもしれない。

さて、この推論がある程度正鵠を射ているとして……祭神を定めた人物は、単純に「玉尾」の社名からあてはまる神を考えたのだろうか。さすがにそこまで安易ではないだろう。おそらくは、「磯並」の「磯」や、小袋石の異称「舟つなぎ石」等からの連想で、二見の興玉神石を思い出し、「磯の磐座」に顕現する神として観想したのかもしれない。
そう、小袋石を取り巻く海のイメージも、その根拠を検証していく必要がある。
まずは次回以降、磯並の「磯」が意味するところを検証したい。

■磯並山社
祭神:大山祇神

祭神は、そのまんま「山ノ神」のスタンダードである。地元の人は単に「山の神」としか呼んでいないし、天正古図でも単に「山神」としか書かれていない。そもそも、小袋石自体が守矢家祭祀における山宮のような存在なのである。また、磯並山社の位置取りを見ても、山頂だとか、見晴らしいのいい場所だとか、磐座があるとかいった山宮としての必然性があまり感じられないのだ。
というわけで、この宮はもともと小袋石祭祀システムとは直接の関係を持っていなかったのではないかと、私は考える。もしくは後付けだろう。

■下馬社
祭神:不詳 一云、チマタ神

一連の祭祀で、まず最初に参詣する宮である。その点から、また社名からも、ごく普通に「この祭祀エリアの入り口 」という解釈でよいのではないかと思う。
以前にも書いたことがあると思うが、上社の「十三所」というのはあくまでも「所」を奉じているのあって、神を奉じているわけではない。特に下十三所あたりになると数合わせくさい項目が混じっており、別に特定の神を祀っているわけではない単なる建造物を「長廊大明神」などといって加えている。つまり、下馬橋や手水屋を指して「ここの祭神はどなたですか?」などと問うても詮無いことで、この下馬社も同様に、本来神祠ではなかったのではないだろうか。
といった前提で、祭神のチマタ神(なぜか変換しない 笑)を検討しておこう。
「岐神」表記もあり、「八チマタ神」ともいうが、これは猿田彦の別名(またかよ)で、天孫を迎えたエピソードに基づく、道案内の神としての神格を示している。よって、道祖神とも密接な関係にある。
「入り口に配置された神」と解釈すれば、後付けの祭神名だとしても、その祭神を定めた者の読みと意図は十分に察せられるというものだ。そしてまた、興玉命の件と同様の不用意さを、ここからは読み取ることができる。

*****

さて。
こうして見てくると、磯並社以外の宮については、おぼろげながらもその意味を読み取ることができそうである。なればこそ、なおのこと、この祭祀システムを統括する磯並社の謎が深まってくる。
そしてこの追跡行は、次回、松代へと飛ぶ。
詳しい方はとっくにお気づきだろう。「児玉石神事」で知られる、「玉依比売命神社」である。

(つづく)
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