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小玉石を巡る冒険 その2

小袋石の祭祀システム

諏訪最強の磐座、小袋石もすっかり有名になった感がある。とはいえ、パワースポットマニアや東方なんちゃらの子たちがはるばる遠方から訪れるいっぽうで、地元高部地区以外の諏訪人にとっての知名度はさほど上がっていないようだ。

まず、当ブログ的流儀で、その位置を地勢から説明したい。


より大きな地図で 小袋石周辺の地勢 を表示

問題の大岩がドスンと鎮座しているのは、高部の里に向けて広がる小扇状地の、扇のかなめの位置である。より正確には、そのすぐ脇の山腹、急斜面を数十メートル登ったあたりになる。
この扇状地のかなり下、しかし末端までいかないあたりに、神長官守矢家の屋敷がある。
扇状地を挟む北西側の山稜は、縄文~中世にまで至る大遺跡が眠る謎の台地、武居畑。
さらにその西隣に神宮寺跡があり、そこから下った山懐状の場所が上社本宮だ。
反対側、南の山稜には、タタエ廻り神事の最後に神使たちが訪れたという峰のタタエ(諏訪七木のひとつとしても名高い)や、フネ古墳に次いで古いとされる狐塚古墳がある。この山稜を越えた次の扇状地が、上社前宮だ。
……と、早い話が、上社祭政体本拠地のド真ん中最奥に位置しているといってよい。こうした位置取りに磐座としての風格もあいまって、小袋石こそが上社祭祀最古の原形であると考える向きも少なくないようだ。私自身も、全面的に首肯はしないものの、そうであってもまったくおかしくないとは感じている。

これが小袋石。

小袋石A

写真では伝わりにくいが、威風堂々たる巨岩である。
主に杉と赤松からなる急斜面の森の中に鎮座する様子は、いかにも唐突な印象。周囲に類する岩はまったくない。地学的に見ればこの近辺に巨岩があることにさほど不思議はないのだろうが、そういう科学的な説明を受けても、感覚的に不思議であることになんら変わりはない。
ここでご登場願うのは、以前にも当ブログでちらっと登場したことのあるTM師……まだるっこしいのでもう実名を晒させていただいてしまうが、『縄文のメデューサ』著者の縄文図像研究家、田中基氏である。
彼がこの岩に関して語った発言のいくつかを紹介したい。

「今は"おふくろ石"って呼んでるけど、中世は"こぶくろ石"って呼んでたんだよ。まあ、どっちでも意味は同じなんだけどさ、"こぶくろ石"のほうがいいよなぁ」

「この、岩の下から水が流れ出てるのがエロチックでいいだろ? よく見ると別に岩の下から湧いてるわけじゃないんだけど、でも、この感じがいいんだよ」

小袋石B

「これ横から見ると、ほら、"縄文のヴィーナス"の尻にそっくりだ」

小袋石C

まあ、戯言半分、本気半分の発言なのだが、要は「産む石」「生命の石」だということをいいたいのだと思う。実際、名称による先入観はあるにしても、この岩から「子宮」を連想する人は決して少なくないのではないだろうか。
中世以前の日本人が子宮というものを知っていたのか?という疑問はもっともだが、なにしろ諏訪というのは、仏教の影響によって殺生が禁忌視され続けてきた千年もの間、「大量の野獣の生肉なしに祭は成立しない」という野性的スタンスを貫いてきた「異国」なのである(江戸期に至っては、その「野性」も相当に衰退していたことを認めざるを得ないが)。結論として、「当然、知っていた」と私は断言する。
だがそれ以上に、特定の形象・事象に対して抱くイメージの普遍性というものは、時代や文化、さらには科学すら超えて存在するのではないか。……という思想が田中氏の論の通奏低音であり、私も基本的に同意したい。ユング臭くて非常に誤解を受けやすい考え方だが、たとえば、太陽、月、海、空などといった世界の根本要素を抜き出したとき、それらが人間の意識に与える影響、イメージの普遍性というものに反論の余地はないのではないかと思う。要素が細分化されればされるほど個人差や誤差が生じてくるのは当然だが、それでもなお、「なんの根拠もなく蛇やゴキブリを極度に恐れる人が一定の割合で存在する」といった類の現実を無視することはできまい。

少々話が逸れた。小袋石に戻ろう。
この磐座を中心とするエリアは今も諏訪大社の境内地(飛び地)であり、その祭祀は今も諏訪大社によって執りおこなわれている。おそらく現代の神官は、その本来的な意味をまったく知らずにやっているのだろうと思う(もちろん、正確なところは現代人の誰にもわからない)。ただ、ひとついえるのは……途絶した祭祀が無数にある中、この祭祀がいまなお継続しているということは、維新時に至るまで重視され続けていたということだ。

小袋石を中心に配された宮は「4社プラス2社」で、今でもその祭祀ではこの6社をくまなく巡っている。
ここで、その6社を祭神とともに挙げておく。

磯並社/祭神:玉依姫命、池生神
瀬神社/祭神:(不詳)一云、須瀬理比売命
穂股社/祭神:(不詳)一云、御井神
玉尾社/祭神:(不詳)一云、興玉命

磯並山神/祭神:大山祇神
下馬社/祭神:(不詳) 一云、チマタ神

先に挙げた4社が中心で、「磯並山社」はいわば「山宮」、少し離れた山の上に配されており、「下馬社」は扇状地の下、この祭祀システム全体の入り口のような場所に配されている。
なお、上中下あわせて三十九社からなる上社の「十三所」、中でももっとも根源的であろうと考えられている「上十三所」に、先の4社はすべて含まれている。特に磯並社は、所政社、前宮に次ぐ3番目である。また、多くの宮が「祭神不詳」とされている点も、古さを感じさせるところだ。列記した「磯並社、瀬神社、穂股社、玉尾社」という順序は、斜面の下から上への地理的配置にそのまま準じている。「磯並祭祀システム」において 、この4社が心臓部であることは疑いのないところだ。
では、その4社を順に見ていこう。

一番下、削平された痕跡のあるちょっと広い場所にあるひときわ大きい石祠が、磯並社。

磯並社A

磯並社B

正面からの写真は、よく見ると真後ろに小袋石があるのがわかる。

次いで急斜面を登りながら瀬神社、穂股社と続き、小袋石のすぐ脇に玉尾社がある。

瀬神社

穂股社

玉尾社

以下は、穂股社から小袋石とその脇の玉尾社を見上げたところ。

穂股から小袋石

相変わらずの酷い写真で申し訳ないが、距離感がいくらか掴めるのではないかと思う。

なお、室町末期ころの上社のようすを描いた「天正古図」では、この祭祀システムが、しっかりとした木造の社殿が立ち並ぶ一種の「伽藍」として描かれている。
磯並社など、御門屋、舞屋、五間廊すら備えているのである。

今、現地を見ると、下段のほうには確かに古い石垣や削平の痕跡が見られるとはいえ、それだけの社殿が立ち並んでいた時代が本当にあったとは到底思えない。

磯並遠望

磯並削平地

しかし、磯並社よりさらに数十メートル下ったあたりから、階段状を成した基壇、礎石や建物跡、13~14世紀の大量のカワラケなどが発見されているので(磯並遺跡)、祭祀場の主体はそこにあったのだろう。
「天正古図」では4社の配置もまったく違って見えるのだが、何分にも古図であり、遠近感や方向感覚があてにならないのでなんともいえない。
またこの図には、現存しない「日月神」の祠も記入されていて、これを現在の磯並山神に充てる説もあるのだが、図の中に「山神」は別に記入されている。「日月神」は煙滅したと見るのが妥当ではないかと思う。

といったところで、今回はここまで。
今のところ、どこが「小玉石を巡る冒険」なのかちっともわからないと思うが……次回は、「祭神の意味するところを分析する」という、当ブログの真骨頂である。

……自分で真骨頂とか言うな。

(つづく)
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