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小玉石を巡る冒険 その1

兒玉彦命と兒玉石神社

兒玉彦命。
奇妙な神である。
御子神十三柱に列せられる片倉辺命の御子神だが、守矢神長官家の系図では、その四代目を継いだともされる。その際に娶ったのは、やはり御子神十三柱に列せられることのある守達神の御子、美都多麻比売である。すなわち、この系譜を信ずるならば、諏訪古族守矢家の血筋は、極めて早い段階で建御名方系の血筋に丸ごと乗っ取られてしまったことになる。
もっとも、「乗っ取られた」と感じるのは、土着古族を尊ぶ我々現代人の感覚なのであって、当の守矢家がこの系図を大事に伝えてきた以上、彼ら自身の感覚としては、「我々は諏訪大神直系の子孫である」という主張のほうがよほど重要だったのだろう。
なんにしてもそこにあるのは血筋の正統性と権威の主張であって、いずれにしてもなかなかに生臭い話ではあるのだが……いっぽうでこの神は、磐座に宿る先史時代の自然神のような神格も備えているのだ。

建御名方の孫神とされる以上、御子神シリーズの範疇内で扱えるテーマなのだが、ここは独立したシリーズとして一項設けようと思う。
なぜというに、メインテーマは兒玉彦命というより、「小玉石」という名の呪物へと向かっていくからだ。

兒玉彦命と小玉石については、今までにも何回か断片的に記してきた。それらをひとつの流れの下にまとめ直すとともに、新たな情報や知見を加え、最後には……とんでもないことを言い出そうと思う。
バリバリの新説や「独自研究」が頻発すると思われるが、がんばって電波だけは出さないよう努めるので……ま、乞うご期待!ということで、ひとつよろしく願いたい。
特に諏訪信仰マニアの方には、ぜひとも検証をお願いしたいところである。

さて、まず最初に押さえるべきは、兒玉石神社のことである。
兒玉彦命の真地と考えられている神社で、諏訪市「湯の脇」の山際に鎮座している。
「湯の脇」という名の通り、すぐ近くの山裾からは、昔からいくつもの温泉が湧いていた。南隣の高台に位置する「温泉寺」は江戸時代の諏訪氏の菩提寺で、歴代藩主の廟所があったり、神仏分離で撤去された上社本宮の旧・御神体(お鉄塔)を引き取って祀っていたりする、近世諏訪信仰の要所である。
その背後山は茶臼山といい、旧石器時代の充実した遺跡群でよく知られる。
そこから南に連なる地は、先住民系の古社ともいわれる手長神社が鎮座している「手長丘」で、縄文遺跡はもちろんだが、古墳時代の遺跡が(古墳そのものも含めて)かなり多い。
もう少し南に行くと「清水ヶ丘」と呼ばれる扇状地で、扇状地末端はその名の通り湧水が豊富なため、伝統ある酒蔵が何軒も軒を連ねている。扇状地上部やその脇の台地上からは、縄文~弥生~古墳~平安にまで至る大遺跡が、豊富に発見されている。
いっぽう北側、反対隣は「大和/おわ」の里で、その鎮守社は、やはり先住神伝承を持つ先宮神社である(先宮神社に関しても、そのうち一項目立てることになるだろう)。
ざっとまとめていえば、この周辺は諏訪でも有数の古地と考えていい。

児玉石神社正面

これが兒玉石神社の正面。

児玉石群

境内には巨大な磐座がゴロゴロといくつも転がっている。特異な風景である。

拝殿と本殿はその磐座群の後方、一段高くなったところに建てられているので、この磐座が御神体という祀り方ではない。まずはそこが引っかかる。
とはいえ、現代の諏訪で「コダマ石」と言ったら、この磐座群のことでしかありえない。
最近異常に有名になった「諏訪の七石」にも「兒玉石」の名で列せられているので、昨日今日生まれた信仰/呼称ではないだろう。
ゆえに、「この兒玉石」あっての「兒玉石神社」と考えるのが自然なことではある。

児玉石神社イボ石
イボ石接写

拝殿下のとりわけ大きな磐座の側面には小さな穴が開いていて、そこにはいつも水が溜まっている。その水をつければイボが取れるという民間伝承があり、その岩に限っては「イボ石」とも呼ばれている。まあ……これはどこの神社にでもある、ありふれた伝承だ。

児玉石本殿背後

本殿背後にアパートが建っているのがちょっと残念な感じだが……。

児玉石神社本殿

自分で視認はしていないが、本殿の中には石棒、石皿、丸石の類が大量に集められているとのこと。つまり、御神体はそっちと見るべきだろう。

児玉石神社摂末社

境内摂末社も少なからずある。周辺各地区の産土神や、一族の氏神/祝殿の類か。
道祖神や、修験系の文字碑もズラリ。
これらは、近代以降に付近から集められたものかもしれない。
ただ、ひとつだけ、おかしなものがある。

児玉石不動

不動明王……?
いや、それはまあ、珍しくもない近世の習合の姿である。
しかし、不動明王の立つ岩のてっぺんに、神像が一体。

児玉石神像

まあ、古いものではない。明治まで遡れるかどうか、といった印象。
その脇に、名札ででもあるかのように、「第六天」の小さな文字碑。

児玉石第六天

これは……まったくの謎だ。
この神像が第六天の姿だとでもいうのだろうか?
第六天の具象像は全国的に見ても極めて少なく、盗難にあった鎌倉建長寺のものが知られていた程度である。それは一面二臂の憤怒形天部像で、この神像には似ても似つかない。
新しければ新しいほど建立の意図や背景に辿り着きやすいので、この物件は近世諏訪における第六天信仰の正体に迫る上で、非常に貴重な物件かもしれない。
……のだが、この脇道は深い深い藪に覆われているので、今は追わないこととする。

本題に戻ろう。

児玉石由緒書

由緒書きは神社明細帳から引かれたもので、そのままには受け取れない部分も多々あるとはいえ、非常にしっかりしている。
創建に関しては不明だが、文献上その存在が保証される時期としては、いくつかのテキストを摺りあわせてみるに、室町~江戸初期まで、解釈によっては鎌倉期まで遡れるようだ。
むろん、それ以上に古い「可能性」は十分にある。磐座信仰という古態を抱えているというだけでなく、なんといっても、諏訪信仰システムの中で重視されてきた古社(最重視された最古級の宮とは決していえないが)なのである。

由緒書きで引っかかる点がもうひとつ。
祭神として、兒玉彦命と並び、玉屋命が挙げられている点である。

玉屋命というのは、天孫降臨に同行した神の中の一柱。つまり最古級の天津神であり、かの皇室三種の神器のひとつとされる「八坂瓊曲玉」を作った神である。玉屋命は、この玉を通じて、アマテラスとスサノオの誓約、天の岩戸隠れなど、古事記の超有名部分に登場している。玉作部の祖神とされることからも、「玉造りの神」という、極めて明確かつ限定的な神格を持つ神と判断できるだろう。
ただ、その重要度と古さのわりに信仰があまねく行き渡っているとは言い難く、天孫セットで祀られている例はそれなりにあるようだが、単神、主祭神として祀られているのは、玉作部に関わるごく一部の神社だけのようである。特に、東国で祀られている例は極めて稀なのではないかと思う。

さて、兒玉石神社の玉屋命について、神社明細帳が出典だということは、この祭神が保証されるのは、最低限、明治初期の段階までということになる。
ここに玉屋命が出てくるのは、本論の展開上非常に魅力的なことではあるのだが……しかし、冷静に見て、これは後世の付会である可能性が高いように思える。
というのは、兒玉彦命の妃神が「美都多麻比売命」だからだ。
兒玉彦命の真地たる神社にその妃神がいるのは、ごく自然なことだ。いっぽう、諏訪の古社にマイナーな天津神がいるのはあまり自然なこととはいえない。ゆえに、美都多麻比売が本来の祭神であったところに、国学以降の時代、重要な中央神である玉屋命が「タマ」の音に乗じて上書きされたと見るほうが妥当というものだろう。
しかしそれでも、そこでわざわざ玉屋命を選んだ事情というものはあるはずだ。単に「タマ」からの連想なのであれば、美都多麻比売と同じ比売神で、かつ玉屋命以上に知名度が高く、しかも信濃国での人気も高い豊玉比売や玉依比売を持ってくるほうが自然だからである。

さて、この件にはまた後で触れることになるのだが、ここでは一旦置く。
次に見ていくのは、上社の古聖地として名高い「小袋石」周辺の祭祀システムである。

(つづく)
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