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天災と日本人

blogは滞っていたわけだが、なにしろ状況が状況である。
まずは被災者の方々に、心からのお見舞いを申し上げたい。

想像を絶する大自然のエネルギーには、ただただ唖然とするばかりである。
そして信仰研究を志す者としては、日本ならではのアニミスム的立場から、現在の状況、そして現代の日本というものをこう捉えている、という話をして、再開と新たな展開への口火としたい。

石原慎太郎の「天罰発言」が物議をかもし、結局は撤回と謝罪に至った。
個人的にこの人はとんでもない間抜け野郎だと思っているが、かといって馬鹿だとは思っていない。むしろ頭のいい人だろう(偏向は強いにしても)。今回の発言にしても、その内容は「あくまでも文化論として」なかなか鋭いことを言っていると思う。問題は、状況と自分の立場、被災者への配慮を欠いたことで、時と場合を選んでそういう発言をしろ、ということである。早い話が「超弩級のky」なのだ。
しかし、人間関係に臆病で、ネガティブ人間関係ワードを量産し続けている現代東京人たちがこの「ky大王」を支持するのだから、世の中よくわからない。普段、言いたいことも満足に言えない鬱屈を痛快に晴らしてくれる代理者としての人気なのだろうか。だとしたら、なんともいじましい話だが……。

当blogの読者であれば説明するまでもないとは思うのだが、公開文としての責任上、まずは「文化論としての」石原発言の真意(と思われるもの)についての、私なりの解釈を示しておきたい。

「津波は我欲を洗い流す天罰だ」。

我欲とはすなわち、現代日本の社会構造と、それを疑うことなく受け入れている個人個人の姿勢を指す。すなわち、経済最優先のシステムのことである。
たとえば、自動車(特に自家用車文化)という存在が、いかに社会にとって、また文化にとってのマイナス要因であるか、という話をしたとする(都会から田舎に帰り、まして古跡巡りなんぞをしていると、つくづく痛感する)。現代日本人の大多数は、この話に耳を貸さない。苦笑してソッポを向くだけである。
なぜなら、自動車産業/流通/ほかは、日本経済の根幹を担っているからだ。
それはそれでもっともなのだが、言い換えれば、現代日本社会における「経済」は、環境、文化、(ごく一部だが日々確実に失われていく)人命に優先する、という価値観が無意識に受け入れられているのである。

もうひとつ例を出そう。
震災後、円相場は乱高下した。ある意図をもって売ったり買ったりする個人が多数いるからこそ、起きる現象である。その「ある意図」とは、「儲けたい」か「損したくない」のいずれか、すなわち……我欲である(実際には企業やグループの責任を負っていたりという事情はあるのだろうが)。
さて、日本の危急に対し、各国が積極的支援をしてくれている。本当にありがたいことだ。しかし、ここで火事場泥棒のようなこと(極端にいえば武力で攻め入るとか)をする国があれば、国際社会の集中砲火を浴びることになるだろう。
国内では支援と寄付の動きが活発化しており、反対に義援金をくすねようとしたヤンキー娘のごとき小者が、必要以上の批判に曝される。
ここでよく考えてほしい。日本が危機的状況にあるとき、誰かが己の損益のために円を売り買いしているのである。その結果、日本はより苦境に陥る。だが……この行動を「道義に反する」と指摘する組織、人間、メディアはどこにもいない。
すなわち、経済は道義に優先されるのが当然なのである。
そのことに、誰も疑問は抱いていない。

断っておくが、今のところ、それが良いとか悪いとかいう話をしているのではない。
今の社会はそういう社会なのだ、というだけの話である。

こうした価値観に対する個々人の意識の拠り所となるのが、「個人の幸せを自分で守る権利」である。だが、そこでいう「幸せ」とは、住環境、食生活などを含む経済的な豊かさのことである。理想論めくが、人間的精神的な幸せは、どんな環境でも獲得し得るし、歴史上多くの人がそれを成し遂げてきたはずだ。すなわち、これは「我欲の肯定の上に成り立った経済システム」なのである。今回の買占め騒動を「当然のリスク管理だ!」などと開き直る態度が象徴的であろう。そこでいうリスクは命の危険などというレベルでは到底なく、「生活水準を下げるリスク」程度のことでしかない。
ま、放射能絡みの買占め問題はまた違った意味を持ってくるが、原発の後始末問題の根幹にあるのは同じ話である。経済的損失とその責任、首都に与えるダメージを考え、初期に廃炉をためらったところが最大の岐路だったのである。すなわち、リスクに経済が優先されたという「今の世ではあたりまえの話」であって、本当のところ、「この社会」を享受していた我々に東電を責める権利などないのだ(そりゃオレだって感情として怒りは感じてるけどね)。

ま、本来こんな話は、「市場原理」とか「自由経済」てな言葉を出せば事足りてしまうのだが、ともあれ、こうしたシステムは、実のところ限界を見せ始めている。バブル崩壊もそうだし、その後いっこうに景気が回復しないのももちろんそう、リーマン・ショックなど、直近のシグナルである。
日本の高度成長とバブルは、万事における効率化、マス・プロダクツ化と、国際的な経済格差(海外の安価な労働力とか)に支えられてきたことはいうまでもない。だが今は、アジア諸国が経済的に成長し、中国など自国内に搾取対象を確保してしまった(エゲツないことをすると思うが、我々にそれを責める権利があるとも思えない)。そして流通と商業のマス・プロダクツ化が極限まで押し進められた今、地方商店街の大方がゴーストタウンと化している。
震災などなくても、現行の経済システムは手づまりになりつつあるのである。
少なくとも日米を基幹とする経済システムは、莫大な投資をエネルギー源とする、経済成長を前提にした拡大経済だ。負け組を前提にして伸びていくのは自由経済の常識だが、もはや国外に負け組を求めることは難しく、ゴーストタウン商店街のごとく、国内にも明確に一定数を占めるごく一般的な「層」として負け組が定着し始めているのである。日本でも、スラムの出現まであと一歩、というところまで来ていることは間違いない。

ものすごく単純化してしまうと、この経済システムは、本質的にネズミ講となんら変わらない。分け前をもらえずに泣き寝入りする末端参加者がいなくなったら、もう後が続かないのだ。

病状は確実に悪化に向かっている。
おそらく、わかっている人はいくらでもいる。
拡大経済はやめにしよう!
もう無理だ!
でも、誰も言えない。
誰だって生活水準が下がるのがイヤだから。
また、自分の力で現実に変えられるとは思えないから。

そして、今回のような巨大なカタストロフは、この経済システムの限界を、ほころびを、リアルに突きつけてくる。
今までのやり方のままで復興は叶うのか?
いや! まだ十分なんとかなるだろう。
でも……もし、東京から大挙して人が逃げ出すような事態に至ったら……。
これはもう、絶対に無理だ。
そして、そんな事態が、決して蓋然性の低くない現実的な問題として突きつけられている。
見て見ぬをフリをしてきた、気付かぬフリをしてきた現実が、目の前に立ち現れてくる。

……というような意味で、私は石原発言を解釈している。
ま、そこまで考えが至っているかどうか知らないが、感覚的にはそういうことだろう。

ただ、石原発言の内容で非常に気に入らない点がひとつある。
(内容ではなく発言したという事実そのものは、もちろん最初から気に入らない)
「天罰」というタームである。
ま、日本の伝統の中でも決して新しい言葉ではないのだが、しかし日本古来の信仰感にはそぐわない。さすが、右だ右だいわれるだけあって、絶対的善悪の規律に縛られた一神教の価値観を取り入れた、あの国家神道のニュアンスを伴った表現といえるだろう。

日本の旧き神は、人に罰など与えない。
そんな小さなことに関わりはしないのだ。
(人と他の動物を差別する一神教的価値観では、それは「小さなこと」ではない)
彼らはただ、その巨大なエネルギーの発露を見せるのみ。
それが「たまたま」人にとって助けとなれば和魂、試練となるなら荒魂。
雷が人に落ちれば即死するが、雷が降らせる雨は、農業にとって重要な恵みである。
神とは豊穣なる自然エネルギーそのものなのであって、こざかしい人間の恣意性になど、いっさい関知しないのだ。
だから……畏れ、敬い、感謝するほかに、人間に出来ることはない。
ただ、和魂の発露を「願い」「祈る」ばかりである。
それが、「神=大自然」である旧き日本の神々の本質というものであろう。

面白い話がある。
ヤマト王権が東征にやっきになっていたころ、鳥海山は幾度も噴火を繰り返した。
これは東征軍にとっても脅威だったはずなのだが、この鳥海山の神、噴火を起こすたびに階位を授けられ、どんどん神階が上がっていくのである。
暴れれば暴れるほど偉くなるのだ。
当時の人にとって、自然に対する畏れが、イコール敬意であったということがよくわかるエピソードであろう。

まあ……こうした信仰と仏教とが習合した日本固有仏教においては、「罰を避け、恩恵に与るために日々の行動を改める」という思想もあり、それはそれでとても尊いことだが、「神の意志」とやらがあるにせよないにせよ、そんなものは、もとより一人の人間にどうにかできるようなものではないのだ。

さて。
科学を知る我々は、もう素朴なアニミスムの世界に帰ることはできない。
そのことを、我々は故郷を失った悲しみのように痛感すべきだ。
しかし、自然を敬い、共存していくことなら、もしかしたらまだできるかもしれない。
現行経済システムの範疇内でおこなわれる「エコロジー」など、論外の外。インフラをひとつずつ放棄していくくらいの覚悟がなければ、次の時代は見えてこないのではないか。
たとえば……本当に思いつきレベルのたとえばの話だが、ガスを放棄する代わりに、里山を育て、炭を作る。
自家用車を減らした分、駐車場を畑にしていく。
大量流通大量消費を整理し、いわゆる「地産地消」を当たり前のことに戻していく。

そこまでのことを考えなければならない時代が、すぐそこまで来ていると思う。

宅地造成も、もうやめよう。
国土中の宅地率が文明度の指標になるなど、本末転倒もはなはだしい。
考えてもみてほしい。
少子高齢化社会が進んでいるのである。核家族化への流れも、もうピークを超えただろう。
それなのにどうして、今なお、新たな宅地が造成され、次々に高層マンションが建つのだろうか?
地方の古い町では空き家が増え続けているというのに……。

ミシャグジ呼称のバリエーションのひとつに、「御佐久地神」がある。
これは開拓神であり、「佐久」は「開」、すなわち開拓を意味するのだそうだ。
skの言葉……境、坂、柵、作……この場合のskの意味するところはなんだろう?
そう考えていて、思い当たったことがある。

もともと、土地は人のものではない。それどころか自然そのものであり、であるならば、旧き観念においてそれは神の地である。電気もなく、武器も素朴なものしかなかった時代、そこは危険に満ち満ちた場所でもあった。里山の範疇は限られており、そこから先は神の住まいなのだ。素朴なアニミスム的世界観において、人が生活する場所を切り開くことは、神の土地を「裂き」、分けていただくことを意味する。それは、人の世界と神の世界との「境」を引き直すことでもある。それが「御佐久地神」のskなのではないか。そしてそれは、「尺神」にも通じるだろう。諏訪信仰において、諏訪神社の施政範囲を確認する「境締め」の神事で降ろされたのも、また、ミシャグジなのである。
そしてまた、新田の村に必ず鎮守の宮を作ってきたのも、いまだに「地鎮祭」をおこなうのも、こうした感覚の名残であろう。

だから我々は……敬意と、感謝と、畏れをもって、土地を開かねばならない。その土地が人にとって相応しいのか、慎重に見極めなければならない。急斜面を無理矢理造成したり、洪水野に街を開いたりすれば、荒魂が発露した際、きっと我々は耐えられない。
護岸工事、砂防工事、堤防……どこまでやっても、そのすべてに限界があるということを、我々は何万回、何十万回も学んできたはずだ。
そう、バベルの塔は、永遠に天には届かないのだ。
人間本位な一神教ですら、そんなことは知っていたのに……。

諏訪某所の古村は、数年前、土石流災害に見舞われた。多くの家が破壊され、幾人かの命が失われた。
事後、現地の人々が囁いていた。
「あのお宮より上に人が住んじゃいけないって、昔から言ってきたんだよ。そんなとこ造成して何軒も家が建っちゃったから……」
土石流は宮の上の沢から押し寄せ、社殿もろとも集落を呑み込んだ。

それを「天罰」というつもりは毛頭ない。
だが、「自然への敬意が足りなかった」という表現は、してもいいのではないかと思う。

自然から分けていただくことのできる土地に、ありがたく、つつましく暮らす。
別に「宗教」ということではなく、我々は、素朴な自然信仰の心を取り戻さなければならないのではないだろうか。
「じゃあ今すぐお前がやれ!」といわれてできない自分もまた、衆愚の一員である。
けれど、もし、そんなモデル村を作るなんてプロジェクトがあったら、志願してもいいかもしれない……なんてことは思う。
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