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絶対秘仏萌え! その3

謎の浅草寺本尊2

個人的な浅草寺への興味の中心がどこにあるのかといえば、古代におけるアズマの国の状況を想像する糧になる、という点につきます。善光寺とペアで扱う意味もまさにそこにあって、前々回に書いた「渡来人の動向という古代史最大の鍵が、絶対秘仏の古代仏には必ずといっていいほど絡んでくる」ってところですね。

寺伝の縁起書による浅草寺の創建はというと……628年、東京湾で漁をしていた網に観音様がかかりこれを奉ったことを起こりとし、645年、この地を訪れた勝海上人(※注1)によって秘仏とされ、寺院の体裁が整えられた(これをもって開基とする)、となっている。

聖徳太子の時代ですね。つーか、中央で仏教受け入れ問題ですったもんだしていた時期からたったの半世紀ばかりです。これは冗談じゃなく古い。マジかよ。

旧態依然の中央史観の感覚でこのエピソードをとらえると、「寺の縁起書なんてデタラメに決まってるじゃん。東国のド僻地で、そんな時代に寺が建つわけないだろ?」というのが当然の反応になります。
そういえば、徳川以前の江戸について、ある種伝説的なまでに語られるお決まりの風評がありますね。曰く、「藪だらけのじめじめした湿地帯で、僻地もいいところ。人が住むようなところじゃなかった」と。

ある意味、間違ってはいない。ある意味、ね。でもそれって、江戸の市街地中心部、今でいう下町あたり限定の話なんですよね。「武蔵国」全体として見れば、奈良時代の府中にはすでに国府があり、国分寺があり、多摩川沿いや狛江、さらに埼玉、千葉あたりには思わず仰け反ってしまうような大規模古墳群があるわけですよ。ヤマト政権のシンボル前方後円墳だってざくざくあるし、上野のお山にも芝公園にも古墳群がある。さきたま古墳群には日本最大の円墳、竜角寺古墳群には最大級の方墳がある。さらにさらに、狛江の古墳群からは弥生時代の方形周溝墓まで見つかってると来たもんだ!(※注2)

そして……府中、狛江にほど近い調布の深大寺と、千葉の竜角寺には、念持仏レベルのサイズではない、つまりホイホイと気軽に持ち歩けるサイズではない、立派な白鳳の金銅仏があるわけですよ。

とりあえず、「古代の関東=未開の僻地」という先入観は捨てなきゃいけません。縁起書の創建エピソードに土師氏が出てくるあたりも実にリアルですし(※注3)、万葉集の東歌に多摩川や筑波山が出てきたり、行基さんがうろうろしてたりとか、中央との人の行き来も普通にあったわけですしね。
東の国は、現代の我々が想像するほどに中央から遠くはなかったのです。

ただまあ、「とはずがたり」の記述に見る鎌倉時代の浅草寺がおかれた状況というのは、「霊験仏として高名なので参拝してみたが、なんにもない野っぱらを延々歩いていくと小高くなった場所に辿り着き、そこにお堂があった」みたいな話なんで、浅草周辺がド僻地だったことは事実なんでしょう。ただ、伝説のジメジメ湿地帯そのまんまじゃなくて、その中の丘状の地形というか、そういう場所ですね。もしかしたら、海岸線が後退する前は岬状の場所だったのかもしれません。
ちなみに、出土品等が確認されていないので確実視はされてないようですが、浅草寺周辺にも「浅草寺古墳群」がどうやらあった……みたいな、話も……一応、あります。

そんでもって本題に戻りますが、645年が浅草寺の開基と。ホントかよ、と。
ところがです。発掘調査によって、遅くとも奈良時代後期にはそこに寺があった、ということが考古学上確実になっちゃってる。さすがに規模までははっきりしてないようですが、もっとあちこち掘れば瓦ももっと出るだろうし、伽藍の跡も見つかるんでしょうね。
発掘調査は地道に続いてるらしいんで、今後の成果に期待したいものです。

でもって、善光寺との類似点はほんとあれこれあるんですが、私がもっとも注目している点が、まさにここなんです。
「中央から遥か離れた東の僻地に、奈良時代に寺が建っていた。その寺が、いまなお厚い信仰を集め続け、立派に生きている」。
まして、国府からはかなり離れた場所に……。

だからなんだって話……いや、別に具体的な自説をもったいぶってるとかじゃないんですが、端的にいって、ものすごく早い時期に(中央を経由せずに直接!)渡来人が入り込んでいたんだろうなー、と。んで、そういう証拠、いやせめて気配だけでも今に残されてるとしたら、それはとっても興味深いことだなーって、そういう話です。最近強く興味を持ってるテーマなんで、今後もこのへんの話は頻発すると思います。
この件に関しては注2も参照。

というわけで、次回、ようやく実地の拝観レポート開始!




注1)
このお方は、他の文献にはまったく出てこないみたいですね。オレが知らないだけか? とにかく謎の人です。だって、この時代に関東を放浪している市井の仏僧(つーか聖?)なんていないよねえ。誰か有名なお坊さんの異称という可能性もありますが、当然、権威付けのための創作という縁起書にありがちなパターンの可能性もあるでしょう。

注2)
「狛江」という地名が「高麗」を直接連想させること、深大寺に白鳳仏があること等から、このあたりは高句麗系渡来人の入植地と妥当に考えられていたんですが、同じ古墳群から弥生のでかい墓が出ちゃったわけです。そうすっと、「ここは弥生から連続している集落で、弥生時代にはすでに支配階級がいた」ってことになるんで、中央史観の立場からはとっても微妙なことになります。保守的中央史観では「渡来人はヤマト王権経由で東に進出していった、それは7世紀に入ってからのこと」ってのが金科玉条ですから、「弥生時代にそこにいたのは渡来人ではなかった」という結論にせざるをえない。でも、半島の影響なしに方形周溝墓造るかねえ? 同じ古墳群のしばらく後の墳墓からは大陸製の鏡が出たり、高句麗流の壁画が見つかってるんですけどねえ。
このジレンマを解決するには住民の非連続説しかないんですが……古墳群も墓地、墓域ですから。後から来た人たちが、こないまでいた別の一族の墓地に自分らの親兄弟を葬るか?って話になります。

注3)
土師氏絡みがどうして興味深いのか? 愛読しているこの方のblogの、この記事における紹介と分析がとても端的で素晴らしいので、ぜひご参照ください。
http://paralleli.life.coocan.jp/kofunblog/2007/02/post_16.html
一目瞭然ですが、「浅草寺古墳群」の存在については、私はここで知りました。

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