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御子神十三柱の覚書 その5

妻科比売命(後編)

今回あれこれ当たってみたのだが、妻科比売命を祭神とする神社は、本家・妻科神社以外にまったくといっていいほど発見することができなかった。もっとも、出早雄命の項でも触れた通り、小祠、特に摂末社として祀られている場合、もとよりそう簡単に見つけられるものではない。

ところが、偶然にも、ひとつだけ発見できたのである。

出早雄命の項で、下諏訪町東山田の熊野神社について触れた。その記事を書く前に現地を再訪してみたのだが、残念ながら出早雄命を祀った痕跡は発見できなかった。
そのかわり……というわけでもないのだが、妻科比売命を祀った小祠に出会ったのである。

東山田熊野神社若宮社
東山田熊野神社 若宮社
一見、相当に年季が入っている。が、屋根はおそらく倒壊した古い燈籠の笠を転用したものだろう。

「東山田史話会」による由緒書の看板を以下に写しておく。

 若宮社

 祭神 妻科比売命(建御名方命の子)
 旧神護寺鎮守神で金刺大祝下屋
 敷に鎮座 砥川畔より
 明治四十二年 境内へ奉遷

 (改行ママ)

「神護寺」といえば京都高雄山が有名だが、意味としてはおおむね神宮寺と同じで、本地垂迹説に基づき、神社に付属する形で建てられる寺院のことである。
諏訪神社下社の神宮寺として一般に知られているのは、以下の三寺。いずれも明治の神仏分離で廃絶した。

・海岸孤絶山法性院神宮寺
秋宮の隣に位置し、秋宮本地仏千手観音を奉る下社本地垂迹の一大拠点。高野山直轄の由緒正しい神宮寺で、盛時には二十数坊を擁する大寺であった。
・松林山三精寺
秋宮境内にあった小寺で、金刺氏の氏寺との説がある。岡谷市平福寺に現存する旧本尊阿弥陀如来座像は、慶派正統の作風を伝える鎌倉末期の優品。
・和光山観照寺
春宮境内、門前向かって右手の立派な石垣の上が旧地。形式上は法性院神宮寺の末寺だが、春宮本地仏の薬師如来を本尊とする、実質春宮の別当寺。

多くの院坊も含め、「神護寺」という名は見当たらない。が、春宮周辺の古郷東山田に「寺宮路/じぐじ」という字名が近代まで残っており、さらに18世紀前半の古地図である『諏訪藩主手元絵図』には、はっきりと「神護寺」という地名が記されている。そしてまた、武田の支配下にあった室町時代の記録には、「神護寺若宮」の名の下に、千野氏(諏訪神氏の系統)が管理する下社の神領があったことが記されているのだ。

宮地直一博士との共同研究等で諏訪信仰研究史に揺るぎない足跡を残した伊藤富雄は、『下諏訪町誌』において、神護寺は上代における観照寺の前身であろうと推測している。武田時代には観照寺はすっかり成立しており、すでに神護寺は名残すら留めていなかったものと思われるが、にもかかわらず、その鎮守社だけが下社末社として残り「神護寺若宮」の名を伝えたのである。

改めて『諏訪藩主手元絵図』を見ると、なるほど、神護寺とされる地域の砥川近くに「若宮」が見える。これは由緒書の「砥川畔より」に一致する。明治の遷座ということで記憶も確かなのだろう、現地には「若宮址」の石碑が残っている。

若宮址
若宮址
日差しが強く石碑の文字が読めそうにないので、雰囲気写真とした。右下が件の石碑

ただし、その先は……口碑の比重が増してくる。間近には、大祝邸址と伝わる場所があり、その裏にあったという古墳「大祝塚」は『諏訪藩主手元絵図』にも見える。「蚊無川/かなしがわ(→金刺川?)」の字名もあるし、武居祝系図(それ自体は江戸末期に国学の影響下で成立したと思われる信頼性の低い文書だが、より古い文書からの引用は多々含まれているだろう)には、貞観時代の大祝金刺貞長について「住山田在春社北」とある。そして、地域の私家本『東山田古代史』によれば、この若宮は大祝下屋敷の祝神だったとの伝承があるという。
由緒書の記述は、この伝承に基づくもののようだ。

大祝居館(神殿/ごうどの)遺跡や五官祝の遺跡は秋宮周辺にも多く、春宮秋宮の鎮座順等々含め議論は尽きないのだが、とりあえず、いずれかの時代に、いずれかの形で金刺氏が東山田に在していたことは認めてもよさそうである。
また、宗教的鎖国に凝り固まっていた諏訪に、最初に仏教を持ち込んだのが誰なのかは知らないが、少なくとも諏訪神社に習合させる形で定着に成功したのは、疑いの余地なく金刺氏である。
すなわち東山田神護寺の奉斎者は金刺氏であり、大祝邸祝神という伝承をたとえ信じないにしても、この若宮に金刺の意図が入っていることは間違いないだろう。そもそも、水内にたった一柱しか祭られていない無名な地神である妻科比売をわざわざ諏訪に勧請する動機を持つ者は、金刺一族をおいてほかにはいないのだ。

ただ、根本的な問題から目を逸らすわけにはいかない。この若宮が妻科比売を祭神とすることの根拠はどこにも求めることができないのだ。いつからなのかはもちろん、その信頼性もまったく不透明。しかしながら、諏訪で「若宮」といえば御子神十三柱をセットで祀るのが習い性なのである。この習い性はそう古くからのものとも思えないが(といっても中世までは十分遡り得るだろう)、多少古層に属するのではないかと推測される前宮境内末社の若御子社では、二十二柱を祀っている。
そこで、若宮という社名のもとに御子神の一柱を単独で祀るという特異性は、古層の名残と見るのが自然なのではないだろうか。
とにもかくにも、

大祝金刺氏が、下諏訪神社の片隅で、水内の地主神を祀っていた。

この事実は重い。
上社では、神長官守矢氏が洩矢神を祖神とするはいうに及ばず、権祝矢島氏が池生神を、副祝守矢氏が児玉彦命を、祢宜太夫小出氏が八杵命を、下社では、武居祝が武居大伴主をそれぞれの祖神と伝えてきた。下社大祝金刺氏も、これらの例と同じように妻科比売命を祀っていたのかもしれないのだ。
金刺にとっての建御名方命/八坂刀売命とはいったいどういう神だったのか、依然謎のままではあるが、水内という出自の記憶と妻科比売への信仰は失っていなかった、その点だけは確かなようである。
以上、間接的ではあるが、八坂刀売が妻科比売の神格を取り込んでいることの傍証とはならないだろうか。

ひとつの結論として、妻科比売は、度重なる上書きによってほとんど消されかかっている古代の人格神である、と考えたい。
この神の命脈を妻科神社の名の下にかろうじて永らえさせたのは、中近世の水内における善光寺信仰の隆盛であろう。にもかかわらず、当地ではいつしか祭神から消されてしまった。だがそれ以降も、諏訪の地では、神仏習合の時代背景の中、軽視すべからざる善光寺信仰と旧地への接点の証として、御子神という形で意識的にその名を留めたのであろう。
そして、上社の古族にとってほとんどなんの意味もないはずの彦神別や妻科比売がこれだけ重視されている以上、御子神十三柱という概念は、下社主導で成立したものと断言できる。であるならば、その成立は平安期~鎌倉期の間にほぼ限定されることになる。

なお、長野市内の地名でもある「妻科」の「科(しな)」という語は、科野、更科、埴科、仁科、豊科、明科、蓼科/立科など、近隣の地域で多数見受けられるのだが、その関連は不明。語源としては、植物の「科の木」に由来するという説と、坂や段丘状の地形を意味する「しな(階)」を示すという主に二つの説がある。「階」説にはある程度の説得力を感じるが、これだけ局地的集中的に使われているとなると、また別の共通する重要なニュアンスがあったように思われてならない。もちろん「妻」も文字通りの語源だったとは考えがたく、「端」とか「対」のような意味が本来だったのだろうが、「科」がわからない以上、読み解きようがないのである。

(妻科比売命・了)
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