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そこにあるはずのない白鳳仏 その3

そこにあったはずの白鳳仏?

どうもねえ……こう、写真が並んでて気軽に読めるフィールドワーク系な……そういうブログにしたかったんですが……これはもう、サガですね。仕方ないですね。

と、与太はさておき、長老・宥勝師への聞き取りを終えた寺務長さんが戻ってらっしゃいました。
「いやあ……」
寺務長さんは頭を掻きながら、なにやら書きつけられた藁半紙を、我々(というのは……紹介者その人と、この件に強い興味を示す身内が同行し、計3人での訪問だったんで)に示します。
「なかなか……話があっちこっち行っちゃって、時間かかったわりに核心がねぇ……」

なるほど、期待していた秘仏本尊の具体的な目撃談がない……。
うーん……。
しかし、それでも、長老の解説は我々を驚愕させるに十分なものだったのです。

さあ、お立ち会い!
特に諏訪の人はお立ち会い。

と、その前に。
後でしっかり調べてみたところ、このとき長老がお伝えくださった内容は、先述の2つの私文書にほぼすべて記されていました。ただし……さすがに一流の学者さんです。なにひとつ、1行たりとも「予断」はしていない。たとえば年表の照光寺関係の項目に、ある記述があるとします。それについて、「ゆえに照光寺はこの時代から存在していた」とか、「こういうわけで、この件は照光寺に関係がある」といった「説」を、いっさい提示していないのです。「こういう事実があります。わかる人はわかりますね? これ以上は説明しませんが」という姿勢。
ま、部分的に憶測は憶測として書いてはいるんですが、そういう場合には、はっきりと憶測である旨を断っています。本当にまったく、邪馬某国論争なんかの人たちに爪の垢を煎じて飲ませたいような、極めてニュートラルかつフェアな記述なのです。

なんていうか、さすがに……品位というものを感じさせてくれます……。

ゆえにこそ、この聞き取りは貴重でした。文書上は主張していなかった各証拠間の「つながり」「意図」を、かなり具体的に匂わせてくださったからです。

つまり、こういうことです。
一見、記述はニュートラル。出過ぎたことは言わない。しかし、かの寺の歴代住職は、自らの寺の伝統と誇りを胸に、強烈なモチベーションとエネルギーで古文書を精査し、口には出さない自説ーーそれは諏訪信仰の常識に真っ向から逆らう、ある意味異端学説でもあるーーを何代もかけて組み上げていたのです。それが、宥勝師という大学者を得て、ついに「照光寺誌」という具体的な形に結実したわけですね。

そこで!
品位のカケラもない厚顔無恥な私の出番です。
このことを知ってしまった以上、今、ここで、強いて予断を加えつつ、わかりやすくストーリーにまとめて見せなければなりませんでしょう。

だって、誰もやってくれてないしー。
つーかまあ、ここ10年20年の発見がキーになってるんじゃ、まだ地元資料に反映されていないのも仕方のないところなんでしょうけどね。

では、始めます。
いいですか?
今から諏訪の古代史が変わっちゃいますよ?

まず、照光寺のある「岡谷市」という場所について。
そこは岡谷市の中でも「旧岡谷市街」もしくは「岡谷区」と呼ばれる地域で、この地名の根拠は、「岡屋(おかのや)」という古地名にあります。照光寺が中世、現在地へと移転する以前の旧跡に隣接する「岡屋遺跡」は、縄文中期以来の遺跡ですが、諏訪地方では珍しく弥生文化が充実している希少な例として知られています。

次に、これは「岡屋」に関する最古の記述としてよく知られていることですが、10世紀初頭に成立した「延喜式」に、信濃19牧のひとつとして「岡屋牧」が挙げられています。
ここでいう牧というのは、いわゆる官牧もしくは勅使牧のことであって、大和朝廷直轄の馬の放牧場です。毎年、そこで育てられた馬が中央に納められるわけですね。そのへんの事情は、どの選集だったか忘れましたが、超メジャーな和歌集にも「岡屋」の名とともに登場しています。
牧はどこにでもあったわけではなく、「科野国(ほぼ現在の長野県)」は、上野、武蔵などと並ぶ代表的な牧の大々的所在地でした。

「牧」は律令で整備されたシステムですから、早ければ7世紀の成立、延喜式に記述があることから、どんなに遅くても9世紀までには存在していたことになります。
また、諏訪の古墳文化は貧弱だと以前書きましたが、数は決して少なくない。そして……もっとも古いと思われる上社筋のフネ古墳、糠塚古墳あたりは5世紀に遡り得ると考えられていますが、主流をなすのは7世紀後半。そして……この時期の古墳の副葬品としては、馬具類が顕著に目立っています。特に、岡谷市で発見されている古墳のほとんどが、このタイプに属しています(※注1)。

そして……他文献で触れられていない重要かつ衝撃的な記述が、照光寺の現代資料にあったのです。といっても、照光寺独自の記録ではまったくありません。おそらくは、古文献を広く精査した近代以降の照光寺住職のいずれかが「発見」したものと思われます。
すなわち、

9世紀初頭、弘仁5年に成立した「新撰姓氏録」に、「岡屋公林氏(おかやこう・りん・し)は百済国比流王の末裔なり」とある(※注2)。

いやあ、これには驚きました!
(なおのこと驚く私的な理由があったのですが、それについてはたぶんおしまいのほうで触れます)
さすがに私は、今の時点で原典の確認をしていませんが、おそらくは「諸蕃」に分類された326氏の内に存在するのでしょう。この書には畿内を中心に千余氏しか収められておらず、渡来人系氏族である「諸蕃」のほかには「神別」と「皇別」という分類しかないのですから、この書に載っているということは、よほどに由緒正しい氏族であると言えます。

さて、7世紀中盤~後半にかけ、大和朝廷は、滅亡した百済からの莫大な人数の亡命者(海を渡って亡命できる技術力と組織力があったのは、当然王族やその従臣たちに限られるでしょう)を受け入れます。そのへんは日本書紀にかなり詳細に記されていて、たとえばかの秦氏の祖先などは、1万人を引き連れてきたとありますし、彼らの処遇として地域を指定して開拓に当たらせたという記述も複数見られます。中でも、天智天皇の代、2千人以上の渡来人を東国に派遣したとのこと。

これだけ材料がそろえば十二分でしょう。
「林氏」は、百済仕込みの馬の飼育管理技術を見込まれ、岡屋牧の管理者として派遣された……それ以外には考えようがありません!
そうなると、岡屋牧は7世紀中には成立していたと考えるのが自然の流れというものです。

ところで、うん。林氏は7世紀来の百済からの渡来人である、と。

いやあ、もうね。
当然すぎるほど当然の話ですが……そこが諏訪バイアスの恐ろしさ。私自身思いもよらなかったことなのですが……彼らが仏像(ていうか仏教)を持ってきてないわけがないんですよね!

いや……そこで冷静に考えるとですよ? 金刺氏だって、どんなに遅くても8世紀には諏訪に入り、下社と関係していた。金刺氏は、中央からやってきた科野国造系の氏族ですから……やっぱり仏像持ってますよねえ!?
少なくとも下社において、「現人神・大祝」は実は仏教を奉じていたという……。

なんかもう、笑えてきますね。歴史的大スキャンダル!?(笑)

この時点で、状況証拠的には「諏訪の仏教伝来」の年代は(少なくとも)一気に300年遡ってしまうわけです。そしてその物証は……と、いうわけなのですが……。

しかし、照光寺歴代住職執念の研究はこれにとどまりません。次々にダメを押されます。
それを前提に、冷静になって考えれば考えるほど、諏訪人の「諏訪明神原理主義」が揺らいでいくのです。それは……もう、上社筋に至るまで!

というわけで、ぶつぶつと文字だらけで次回に続きます。

……あ。「次回で一段落つける」って書いたのに(笑)。
いや……もう1回で一段落つくかなあ。どうかなあ。

090726:注2を追加。



注1)
以前にも書きましたが、フネ古墳のある小坂地区は現在岡谷市ではありますが、近世以前は上社筋に属していました。

注2)
百済国の比流王は、3世紀に実在します。秦氏が始皇帝の末裔を名乗ったように、林氏が本当に比流王の末裔かどうかは怪しいところですが、ただ、渡来人の中でもそれなりに有力な、支配者階層の一族であったことは確かでしょう。
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