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心地よく古墳めいたところ

御作田神社にふらっと寄る

諏訪大社のお膝元に生まれ育ちながら久しく郷里を離れて暮らしていたため、自分でも意外なほどに、地元の旧跡や祭事を見たことがない私です。
そんなわけで昨年の秋からがんばって見て回ろうと心掛けているのですが、特に祭事に関しては、もう、全然ダメですね。明日どこそこの祭事だとわかっていても、明け方までパソコンの前でうだうだしていて(いやまあ仕事の場合だってあるのですよ)、見逃してしまう。そんなんばっかです。昨秋、初めて新嘗祭を見に行ったのと、何十年ぶりかで節分の福投げに行って大人げなく清酒引換券数枚をゲットしたくらいが関の山でしょうか。

これではいけない!と一念発起、御作田社の田植神事を見に行こうと思い立ったわけです。

御作田社というのは、明治に拓かれた新道(下諏訪宿から和田峠へと続く国道142号線、つまり、中山道のバイパス車道)の崖下に位置し、境内はごく小さなものですが、諏訪神社摂社中でもかなり重要な位置を占める古社です。
その狭い境内地に、ほんの2坪ばかりの神田があって、ここで田植神事を執行します。本質は農耕神と言われる下社における最重要神事のひとつであり、この小さな神田に植えた稲は(うっそうとした社叢の木蔭にもかかわらず)いち早く実るということで、下社七不思議のひとつにも数えられる由緒正しい神社なのです。

加えてこの地は、(今ではまったく言いませんが)古くは、字「宮津子」と呼ばれており、たった10年間だけ存在したと伝えられる「諏方国」の国造があったのではないか、などと言われる場所でもあります。

はい、これが御作田社の本殿です。

misakuda.jpg

そんで、これが神田。

misatanbo.jpg

ま、由緒があるとはいえ、神官が狭い狭い田んぼにお田植えする神事を見てもどうということはないのですが(いや、古態を遺しているとも思えないので)、奉納される巫女さんの舞が見られる、というのが、正直、メインのモチベーションだったのですがね(前述した新嘗祭もそれが目的でした。だって、諏訪信仰が興味の対象なんだから、本当だったら神社本庁的な新嘗祭なんて見る価値ゼロですもんね)。

ついでなので、その新嘗祭における巫女さんの舞の写真、上げておきます。

niname_mai.jpg

また、下社オリジナルの最大神事として知られる「御舟祭」ですが、中世までの古文書では、これは「御作田祭」と呼ばれていたようです。加えて、この祭の御魂代である翁と媼の人形は、もはや残骸と化し意義も失われた、しかし下社最古の信仰形態の名残を遺す「内御霊戸社」において、祭の後に焚き上げられる、という儀式が今も続いているのです。
それだけ、農耕神としての下社の重要ポイントだったわけですよ。

ま、一度は見ておかなければなりますまい。

時間があんまりなかったんですが、とにもかくにも駆けつけてみました。

harigami.jpg

……ああ、そうですか。

いや。あのさ。重要な神事なんでしょ?
いいのか、そんな適当なことで。
雨、完全に上がってたよ? まあ、地面はぬかるんでたかもしれないけど。

舞の奉納は、しばらく後で春宮の神楽殿においておこなわれ、田植えもやらないわけにもいかないだろうし、日暮れ前にちゃんとやったらしいんですけどね。
や、この神事に連続して春宮付近でおこなわれる茅の輪くぐりの神事もあるんで、そっちにまとめちゃったんですね。

まあいいけど……。

そんでまあ、何度となく来たことのある場所ではありますが、せっかくなんで改めて見渡してきました。

この場所に関しては、藤森栄一先生が「あるいは古墳址かも」という見解を述べられております。
根拠としては、
・「諏訪史」によると、神木の根元を掘ったら岩盤に当たったので神威を畏れて中止
・言い伝えに、金属製品若干が出土したとか
・境内に石室跡と思われる石が残っている
・このあたりは、字「宮津子(みやつこ)」と呼ばれていた

まあ……うん。
とりあえず、古社が古墳址の上に建っているというパターンは、全国に死ぬほどたくさんあります。特に、平地から石垣なんかを築いて、一段高くなった狭い境内地を持つ住宅街のただなかの神社なんかは、いっそう怪しいですね。
ここ、御作田社も、まさにそういう感じではあります。
こんな感じで。

misaku_gaikan.jpg

しかしなあ。
その、残ってる石ってのがね。
今はこんな。ていうか、これだけ。

masa_ishi.jpg

これだけじゃねえ……。
いや、「下諏訪町誌」の藤森先生の記事におけるこの石の写真はね、もうちょっとだけ、もっともらしいんです。ひと抱えくらいの石がいくつか並んでる上に、この巨石が乗ってる感じで。
位置もなんか今とは違うな。

ええとね、これです。

misaku_koz.jpg

書物からデジカメで拾ったもんなんで、画質は許してくださいね。
この調査は昭和20~30年代だと思うんですが……その時点と比べてすら、今はずいぶん様子がかわってしまっているようです。
仕方ないことなんだろうけど、ねえ……。

あと、字「宮津子」なんですが、この根拠はとっても疑わしいです。一時的にせよ諏訪に国造があったとして、また、そうでなくとも金刺入諏以降は「郡衙」くらいは確実にあったのでしょうが、処々の遺跡から考えるに、これは岡谷市の沖積地が有力です。こんな場所にはたぶんない。

で、ね。江戸末期まで、下社筋の神官組織に「宮津子祝(みやつこほうり)」という神職がいたので(いつからいたのかは今の私にはわかりません)、地名の由来は、そっちを考えるのが妥当かもしれません。
藤森先生は、たぶん、この件は見落としてました。
つまり、「宮津子祝」がこのへんに屋敷を構えていた時期があったというだけなのではないかと。

とはいえ、うーむ。
この「宮津子祝」がよくわかんないんですよね。現代語に読み下された古文書資料のいくつかをちらっと読み齧った程度の知識しかないんで偉そうなことはなんにも言えませんけど、ニュアンスとしては「神事担当」というか、まあ、単純にこの御作田社の担当神官だったのかもしれませんけど、役割がよくわからない。ま、追って勉強してわかったことはまた書きますけど。
少なくともね、上社にはそんな神職はいません。
まあ……「宮津子」なんていう名詞を戴いた神職が、この片田舎で維新まで存在したという、そのこと自体が面白いんですけどね。ただ、この場所に古墳があったとは、どうにも考えにくいです。

まず、周囲に類する古墳がない。多少離れた場所にあっても、それはもっと高台にある。
こんな山裾の窪地にね、古墳はないですよ、普通。いや、普通じゃなくても、この地方の近隣の例からみればね。

ていうか、そもそも下社まわり……じゃないな、秋宮まわり、武居祝まわりの古墳址が少なすぎるのがね。どうにも納得がいかないんですけど。個人的に。
ただひとつ、諏訪唯一の前方後円墳とされる青塚古墳が秋宮直近にあるばかりでね。

そのへんの疑問を引き継ぐ感じで、この項、もう1回(もしかしたら2回)続けます。
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