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【諏訪信仰覚書】縄文土器はなぜ消えた?

ミシャグジ信仰は本当に縄文由来か?

前回の【諏訪信仰覚書】で、以下のように書きました。

これら(八ヶ岳山麓の遺跡群)縄文文化の遺産には、あからさまに集団生活を前提とした「信仰」の痕跡が見てとれます。それがミシャグジ信仰となんらかの関わりがあったであろうと類推するのが普通でしょう。いや、実際、定説だと思います。逆に、関係がないと考えるほうが推論を立てるのが難しくなります。

というわけで、その「難しいこと」を、今回はしてみようと思います。
……つーか、しないわけにはいかないんですよね。

なぜなら、どう考えても、諏訪祭政圏における縄文の祭祀文化は一度断絶しているからです。

いや、本当に諏訪は難しい。
なにが難しいといって、諏訪は「日本古代文明のガラパゴス」だからです。

ああ、説明が面倒くさいなあ……つまり……日本の古代史、考古学における編年は、「土器編年」とか言われるように、そこで作られていたものの様式を基準にしているわけです。つまり、相対編年ですね。
今でこそ、年輪年代測定法とか、箸墓問題も記憶に新しい炭素なんちゃら年代法とか(←一部では「ゴッドハンド」とか陰口も叩かれてますが)、科学的手法による絶対年代も取り入れられてきましたが、現状、実際に適用されているのはほんの一部の遺跡・遺物だけです。

んで、土器様式等による相対編年というのは、当然のことながら地域差による誤差が多少なりとも出てくるわけです。特に諏訪は、その誤差が非常に大きいと思われます。なぜかというと、最後までヤマト王権に逆らい、独立を保っていた地域だから。……このへんも、普通に事情を知ってる人にとってはハナクソほじりたくなってくるような話だと思いますが……あー、ま、説明はこれくらいでいいや。
というわけで、古代諏訪圏には以下のような大きな特徴があります。

・弥生文化の痕跡が限定的にしか見られない(縄文文化の痕跡の膨大さに比べると、異常なまでに少なすぎる。もしくは、土器様式において弥生文化が主流となった時期が非常に短い)
・古墳文化(すなわち渡来人~九州~畿内勢力の影響)の流入が非常に遅く、かつ貧弱(※注1)
・仏教の流入も極めて遅く、はっきりと確認できるのは平安末期に至ってようやく

上記、すべての原因は、おそらく諏訪信仰にあります。早い話が、諏訪はその古代祭政圏の強固な体制ゆえ、ある種の鎖国状態にあったと考えればいいでしょう。ですから、「弥生文化主流の時代を(ほとんど)すっ飛ばしている」「ヤマト王権の勢力が十分に及ばなかった」という定説で基本的には説明できるのです。
が……しかし!

まだ、ひっかかるのです。

弥生文化を十分に取り込んでいないにしては、よそ同様に、縄文文化があまりにもきっぱりと途絶えてしまっていやしないか?

そのことです。
確かに、信仰形態は最古級ですし、その信仰の連続性を証明するかのような呪術的な縄文の遺産も豊富に発見されています。
でも……でも、ですよ? じゃあどうして、縄文土器や土偶に見られるシンボリックな図形、蛇体紋、水渦紋等と呼ばれるあまりにも個性的な様式、すなわち文化が、きれいさっぱり消えてなくなってしまったんでしょう?

弥生式の土器焼成法が伝わった、と。いや、もっと下ってもいいでしょう。土師器、須恵器が伝わってきたと。より薄くてより丈夫な文明の利器ですから、そりゃまあ採用するでしょうよ。
でも、信仰と文化が連続しているのなら、土師器の素材にあの奇怪な紋様を刻んでいたっておかしくないはずじゃないですか。
そうでしょ?
ところが、それはしていない。
少なくとも土器に限っていえば、他の場所とまったく同じように、縄文文化は途絶しているのです。

確かに、竪穴式住居としか思えない仮屋を作り、そこにヘビの人形を抱いて籠もるという「御室神事」とか(呆れたことに中世までおこなわれていました)、抽象的な存在でしかない自然精霊(←ミシャグジですね)を神木に下ろす儀式とか(今でもやってます)、あまりにも古態です。
いっぽうで、鉄鐸(さなぎの鐸)を用いる託宣の儀式や(※注2)、神宝中の神宝である鹿角製の「御宝印」などからは(※注3)、弥生の匂いもプンプンしてきます。
そして、この2つの神宝のいずれもが、維新までは神長官が厳格に護持していたのです。

諏訪信仰最古、かつ核の部分である「ミシャグジ」を奉じる守矢神長官から、弥生の匂いがする。

ということは、ミシャグジ/洩矢神という原初的関係の中に、縄文/弥生という断絶を見なければならないわけで……。

諏訪信仰の一番奥深くて難しくて面白いところが、まさにここなんです。
すなわち、

誰があらかじめそこにいて、誰がそこに入ってきたのか?(そして、その繰り返し)
ここが複雑多層に入り組んでいる。

整理するとですね、

縄文文化←弥生文化←古墳文化←ヤマト王権の直接的支配(干渉)

と、諏訪なりの特殊事情はありながらも、やっぱり基本的な編年はある、と。古代諏訪にも、4回(以上?)に渡る文化の「上書き」が確認できるというわけです。

この相関関係に対して、

ミシャグジ←洩矢神←建御名方←金刺氏

の、どれを、どこに当てはめるのか? それとも当てはめないのか?
……ま、4つと4つでぴったり合うんで、そのまんま対応させる説も十分考えられるんですけどね。

ただ、今回私が想定したような「ミシャグジにおける、縄文→弥生の断絶」を想定していない論もありますし、また、金刺(もしくはその祖先)=建御名方という解釈も、それはそれで不可能ではないというか、そっちなりの説得力もあったりするので……一ヶ所がずれると全部ずれてきますから。そのへんが難しいんです。
そこに加えて、二社四宮の関係が交錯してくる……。

ま、ひとつ言えるのは、「諏訪に入ってきた弥生文化」は、弥生文化の中でも相当初期のもので、以後、古墳文化が入ってくるまで、周囲に見られるような弥生文化の更新(進歩)がなかったのではないか、ということです。
つまり、周囲の地が渡来の高文化を積極的に受け入れていた時期に、かたくななまでに新文化の流入を拒んでいたという、非常に、こう、ひきこもりの伝統というか……。

「御建名方は決して諏訪から出ないと誓って許された(古事記)」→「大祝には郡外不出の厳格な不文律があった(※注4)」
という流れがあるわけですが、なんかもう、諏訪のひきこもりはそれ以前からの伝統なんじゃないかって気すらしてくるわけですよ。

や、現代の諏訪人にすら感じるんですけどね、そのへんのメンタリティは……。

それはまあ与太としても、「外からの侵入や攻撃に対しては力強く抵抗するのだが、別にわざわざ外に出て勢力を広げようとするわけでもない」と。そんな感じ(※注5)。
であるからこそ、ヤマト勢力としては長年(せっせと東征してた時期に、へたすれば実に3世紀もの間!)放置することができたんじゃないでしょうか。
古事記の記述は、こうした諏訪勢力のひきこもり的性質に対する皮肉、揶揄なのではないかと……ええと、確か藤森栄一先生もおっしゃってました(違う人だったかも。そのうち確かめておきます)。

ご存知でしょうか? 諏訪に「神無月」はないんです。神様、諏訪から出ちゃいけないんですから。

けれども信濃一宮!
日本三大軍神!
分社数国内第3位!
ひきこもりだって偉くなれる!
ひこもり諸君、元祖・引きこもりのお諏訪さまを信仰しよう!

しかし、なんかね。そのたびに矛盾するような考察ばかり重ねてますが。
つまり私は、「自説」を組み立てるなんてことにはほとんど興味がないわけです。だって、自説なんかより、新たに知る真実のほうがずっと面白いじゃないですか。
「こういうことを思いついた」/「こういう疑問が生じた」。
それが矛盾したとして、私には、個々にそれぞれを提示することしかできません。そのどちらかへの妄執が、どちらかの発想を握りつぶすような思考だけはしたくないなあ、と思っているのです。どっちもどっちで客観的に考えたい。結果、取捨選択ができればそれが理想だけど。そこまでするには勉強不足すぎるというか、素人の手に余ります。

あんまり【諏訪信仰覚書】が続くとブログの性質が変わってきてしまうので……いや、この話はまだまだ(ほとんど永遠に)続くんですが、せめて次回は、「鎮神社編」みたいな単独のフィールドワークネタをなんか拾いたいと思っています。



注1)
諏訪地方唯一の現存する前方後円墳、秋宮近くの「青塚古墳」は、諸説ありますが、どんなに早くても6世紀末、遅ければ8世紀初頭まで考えられるようです(いい加減な地方作で、かつ現存する出土品があまりにも貧弱ゆえ、編年に当てはめにくいのです)。全国基準でいって「ヤマト勢力の力が及んでいたという最大の証拠が前方後円墳」ですから……いかに遅かったかわかろうというものです。

注2)
当初から鉄だったかどうかはなんともいえませんが(ただ、「諏訪大明神絵詞」ほかの社伝では、洩矢神は入諏せんとする諏訪明神との戦いにおいて「鉄」を象徴にかざしています)、多くの先達の方々による「銅鐸祭祀の生き残り」との見解は否定できないところでしょう。

注3)
藤森栄一先生は、この御宝印の印面の図柄(だか文字だか知りませんが)を、弥生の銅鐸や土器に見られる線画に似ている、と判断しています。まあ、あんまりアテにはならない話なんですが……でも、現状でその他の説は皆無に等しいです。というのも、学説が成り立ちようのない話なので。

注4)
平安末期、この掟を破った大祝は、悲惨な末路を遂げたと伝わります。古文書に「神罰」の烙印を遺し、以降、より厳格な掟となりました。

注5)
平安末期~武田氏による制圧で牙を抜かれるまでの武士化した諏訪氏&金刺氏は、また全然性質が違います。加えて言えば、信仰の面から見ても、中世以降の武居祝には相当に外交資質(というか意欲)があったように、私には、思えます。という件については、そのうち真面目に書くつもりですが。

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