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【諏訪信仰覚書】守屋山考察 その2

戦略的要衝の地としての前宮

さて、ミシャグジの総本社とされる祠は、神長官守矢氏の邸宅裏にあります。この位置は、諏訪大社上社本宮と前宮の中間部、やや前宮寄りに当たります。ここから前宮にかけてが、まさに諏訪信仰の故郷、はじまりの地といえるでしょう。

ものすごく適当な概略図です。どうぞ。

諏訪湖周辺

この位置取りを、以前から不思議に思っていました。北東方向に面して壁を成す急峻な山塊の付け根。とりあえず、日照時間が短いです。寒いです。
今でこそ目の前には豊かな沖積平野が広がっていますが、しかしここは、古代において、諏訪湖の底か、せいぜい低湿地だったはずです。諏訪湖に面しているのは漁獲とか水運の面でプラスですが、経済的ヒンターランドという見地からは非常に弱い。たとえある程度陸化していたとしても、毎年のように洪水が起きていたことでしょう。
端的に言って……あんまりいい場所じゃありません。
なんでそんなとこに?と、やっぱり思ってしまうじゃありませんか。

ところで、諏訪湖周辺の古代史・考古学においては「800メートルライン」というのが有名です。諏訪4社をはじめとする主だった古代遺跡は、みんな標高800メートル付近に位置しているというのです。
ミシャグジ総本社擁する守矢邸も当然のようにこのライン上にあって、これを挟む本宮、前宮とともに800メートルライン上にきれいに並ぶような位置取りになっています。
ちなみに、現在の諏訪湖の湖面の標高は759メートル。これがなにを意味しているのかといえば、つまり、かつての諏訪湖はもっと大きかったのであろう、ということです。
ま、地質学的にもそれは間違いないそうです(それなりの増減を繰り返しながら湖岸線が後退していったと思われるので、各時代における正確な湖岸線の推定は難しいようです)。

下社神宮寺より高島城遠望
データはminagaさんの「がらくた置場」より拝借しました。

たとえばこの図。下社神宮寺から対岸の高島城を遠望しているわけですが、江戸期でさえも、諏訪湖は今よりひと回り、いやもっと大きかったことがよくわかります。中央上方の岬が「浮城」と呼ばれた高島城で、現在は相当陸に入り込んでいます。その背後にまだ諏訪湖の続きが広がっているわけですからね。

しかしこのことは、イコール「諏訪湖の湖面は古代において標高800メートルであった」ということを意味はしません。なぜというに、10年に1度レベルの増水や氾濫で水没してしまうような場所に、耕作地は(場合によっては農村も)あったとしても、重要な機関を置くはずがないからです。では、往時の諏訪湖の標高はどれくらいだったのでしょうか?

小坂地区の「白波社」、上社の「波除鳥居」といった名称、中世に遡り得る沖積地上の農村の存在、さらには春宮大門の大燈籠が漁師の灯台代わりにされていたという伝承等が、かつて(といってもそう古くない時代、まあ、おそらくは中世まで)の湖岸線の位置を推測させてくれます。
また、中世まで下社の神殿(ごうどの/大祝の居館)があったとされる台地の小崖直下にあたる沖積地からは、縄文~中世までコンスタントな繁栄を見せる四王前田遺跡が発見されています。

こうした要素から考え合わせるに、多分に恣意的な推測ではあり、まったく断定はできませんが……古代~中世くらいまでの諏訪湖の標高は、おおよそ770~780メートルくらいだったのではないか……というわけでざっと描いてみた概念図がコレです。

古代諏訪湖

かさねがさね、本当にざっとですみません……。
濃い青が現在の諏訪湖、薄い青が、想定される古代の諏訪湖です。
ま、文章だけで説明してても全然ピンとこないでしょうから、イメージだけでもお伝えしたいと思って描いてみた図です。学術的、資料的価値ともにゼロですので、そこんところはご承知置きください。

しかし……誰か、加工使用フリーの優秀なデジタル白地図/地形図を教えてくれませんかね? 有料でもいいですから。

……ともあれ、この図を見て初めて(いやウソだ。もちろん「文献上の古諏訪湖推定図を見て初めて」が正解です)、私は、諏訪信仰始まりの地にしてミシャグジ本拠地の位置取りに、合点がいったのです。

古代諏訪湖の南端。南は守屋山の山稜と、北東方面は永明寺山(当時はそんな名前じゃなかったでしょうけど)に挟まれたボトルネック(※注1)。そして背後は急峻な壁に守られている。ボトルネックの東に広がるのは、富士の裾野とも比肩し得る、広大無辺な八ヶ岳の裾野。
そこは……中期縄文文化が全国有数の隆盛を見せた場所です。「禍々しい」とも表現できる、魔術的な蛇体紋の土器、土偶の数々……。

これら縄文文化の遺産には、あからさまに集団生活を前提とした「信仰」の痕跡が見てとれます。それがミシャグジ信仰となんらかの関わりがあったであろうと類推するのが普通でしょう。いや、実際、定説だと思います。逆に、関係がないと考えるほうが推論を立てるのが難しくなります。
同系統の信仰・文化を匂わせる縄文遺跡は八ヶ岳山麓から甲斐方面、諏訪湖周辺一帯から天竜川を下った伊那谷北部にまで見られますが、その規模、密度、質ともに、八ヶ岳直下の山麓が圧倒的です(できれば縄文中期~弥生の時代別遺跡分布もマップに入れたかったんですが……すんません、そこまでマメじゃないもので…)。
となれば、ミシャグジ(と、その祭祀者集団)のルーツは八ヶ岳山麓にある、と考えるのが自然の流れでしょう。前項に書いた、上社御射山と御小屋山に見られる八ヶ岳古信仰の名残という見地から見ても矛盾しません。

さて、縄文時代後期から気候は寒冷化しはじめます。そうなったとき、平地に乏しいとはいえ、漁獲が期待できる諏訪湖周辺は魅力的な場所です。諏訪湖周辺は今でも寒冷地ではありますが、八ヶ岳の裾野(主だった縄文中期遺跡は標高900メートル級)はもっと寒いですし、風も強いです。少なくとも栽培や採集による食環境は劇的に悪化したことでしょう。
八ヶ岳の裾野で縄文中期文化を花開かせた人々は、続々と諏訪盆地へと下っていったのではないでしょうか。

ところが。

湖岸には湖岸で在来の一族のムラがあったわけです。それも1つや2つではありません。
発見されている縄文遺跡、由来の古い産土神の存在、立地条件、守矢家の伝承等々からざっと考えるに、ある程度まとめて考えてみても、10ヶ所近いムラの存在が想定されるのです(※注2)。

ここに、八ヶ岳山麓文化圏vs諏訪湖周辺文化圏の対立構図が成立すると思うのです。

むろん、ひたすら戦争したわけではないと思います。食料の余裕があれば平和的共存もしたでしょうし、融合もあったでしょう。
しかし、それでも……諏訪湖周辺勢力と、八ヶ岳山麓勢力との明確な区別は、あったのです。諏訪人なら実感としてわかるはずですが(なんてこと言われても困る人が大多数でしょうけど)、それこそが、上社vs下社、もしくは「上筋/下筋」という関係になって、しっかりとのちに名残をとどめているのですから(※注3)。

このへんは、御柱祭等の祭事を各郷村が持ち回りで受け持つ「御頭郷(おとうごう)」という制度(※注4)において判定できる面が大きいのですが、ただ、例外として、現在下社に奉仕する天竜川河口から西側の山の端に位置する集落、川岸~湊~小坂に関しては、古代から中世に至るまでの強力な証拠の数々において(※注5)、往古には明らかに上筋であったと考えられます。ま、上筋本拠地にそのまんま並んでますしね。

つまり、諏訪湖周辺先住民の本拠地は湖北、八ヶ岳山麓勢力の本拠地が湖南の前宮周辺。
これで構図がすっきりします。
上下勢力が対峙する最前線はといえば、西岸においては言うまでもなく天竜川(近世に至っても、川というのは……特に天竜川級の大河であれば……そうやすやすと越えられるものではありませんでした)。そこはまさに、諏訪明神と洩矢神が対峙したと伝えられる場所です。
対して、東岸は非常に微妙ですが、各時代の遺跡の傾向からは、のちの上原城のあたりに曖昧ながらも境界があったものと考えられます。

と、そこまで俯瞰すると、もう疑いの余地はありません。
前宮の場所は、まさにこの2勢力の連続と非連続において、要衝中の要衝だったわけです。
八ヶ岳山麓勢力にしてみれば、その出自である広大な旧地を背後に押さえつつ、諏訪湖周辺文化圏勢力に対峙する位置取りなわけです。

前項で紹介した守屋山の画像、あれ、実は秋宮のすぐそばから撮ったものです。秋宮から諏訪湖を挟んで真南に、守屋山が聳えているのです。
や、真南であることに、その……レイラインとかなんとか、そういう話を持ち出す気は今のところ全然ないんですけどね。
ともあれ、守屋山が信仰上どうであるか以前に、前宮の位置は戦略的要衝であったのではないかと。背後の守護山であったがゆえに、結果的に信仰対象となった、という順序も想定できるのではないかと。
そういうアイデアの提示でありました(※注6)。

090714:画像追加&多少の加筆訂正。



注1)
北側の永明寺山もまた要衝といえますし、実際に戦国時代には砦があったりもしたのですが、ただ、北岸~東岸にかけて先住の諏訪湖周辺勢力の密度が高かったことと、山稜の末端だけあって周囲の山に比べるとだいぶ低く、取り囲まれやすい地形だという面もありそうです。高地性集落が現われる以前のことでもありますし、この場合の戦略的な位置取りとしては、やはり前宮の位置のほうが優秀でしょう。

注2)
諏訪湖南端から、古代諏訪湖の湖岸沿い、時計回りにざっと挙げてみます。
すべて縄文~古墳時代の遺跡を伴います。
・今の茅野市街に当たる場所(守矢家伝承「蟹河原の長者」)
・諏訪神の御子神を祀る蓼宮社、洩矢神の御子神を祀る千鹿頭社がある豊田地区
・同じく諏訪神の御子神を鎮守とし、加えて、御社宮司社の建つフネ古墳もある小坂~湊地区
・守矢家の鎮守とされる洩矢神社がある天竜川沿いの川岸地区
・ヤマト政権の牧の存在が確認される沖積地を見下ろす、天竜川河口北岸の岡屋遺跡
・中近世の長者、今井氏が集住する塩尻峠登り口の今井集落、西山田付近
・横河川扇状地の頂点にある出早雄小萩神社から湖岸までを占める長地地区
・下社春宮を奉じる古族が今も住む沖積地、東山田と、その上部段丘地帯
・武居祝の本拠地武居から、承知川沿いに「土武郷(@和名抄)」に至る、秋宮周辺
・諏訪湖東岸の山沿い、高木~古社・先宮のある大和(おわ)~上諏訪に至るエリア
・上社に対面する山沿い、古跡立ち並ぶ上原~桑原~四賀エリア

注3)
むろん、ヤマト系の金刺が下社側から入ってきて下社側に陣取ったからこそ明確化した上筋下筋の対立関係ですが、あらかじめそこにあった勢力関係と位置関係が、金刺の戦略に影響を及ぼしたという以上に、本拠地を定める上での大前提になったはずです。

注4)
ある意味、諏訪祭政圏の核心といっていい制度です。おいおい関連した項を設けることもあるかもしれませんが、前提説明は省きます。ごめんなさい。

注5)
根拠を並べてみます。
・上社から横並びの諏訪湖西岸エリアには、天竜川をくだった伊那谷北部に至るまで、古くから上社の祭祀の影響が及んでいた
・このエリアには、上社周辺の古墳に連続した時代・形式の古墳がある
・上社において重視され、かつ他所からの勧請ではない「十三社」に連なる古社が並び建っている
・南北朝時代、中先代の乱に絡む諏訪氏(上社大祝の一族)の大ピンチにあって、中央で擁護と名誉回復に奔走し、また上社主導に書かれた諏訪信仰の最重要縁起書「諏方大明神絵詞」を著わした「諏訪(小坂)円忠」の安堵地があり、後裔とされる一族が今も住んでいる

注6)
戦略的要衝という点では、古代の諏訪湖を前提にした上で見る人が見れば、当然すぎるほど当然の話なのかもしれません。が、ミシャグジ勢力の八ヶ岳山麓→諏訪湖岸への進出という流れと結びつけた観点には、寡聞にして未だ出会っておりません。そこが今回の話のポイント(の、つもり!)です。
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