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番外:児玉石、その後の発見資料

ちょいとインターバルですが今回は固いです

「日の下に新しきことなし」の理通り、自分が独自に切り開いたとばかり思っていたテーマにおいて、先人の素晴らしい研究に出会うことがある。
箱山貴太郎著『上田付近の遺蹟と傳承』がそれだ。
当地の郷土史家による、昭和40年ころの著書である。

諏訪信仰研究は、どうしても諏訪原理主義になりがちである。その点、周辺地域への目配りを重視する私のスタイルはむしろ強みだと思っているのだが、実際、諏訪信仰を調べるためにこういう題名の本を手に取ることはなかなかないのではないかと思う。少なくとも、諏訪在地の研究でこの本が引用されているのはこれまでに見たことがない。

なんといっても児玉石の件において素晴らしい情報が豊富に得られたのだが、そのほかにも、こう……アンテナのチューニングが合うというか、私が興味を惹かれるトピックが非常に多い。おそらく、思考法も似たタイプなのではないかと思う。もちろん賛辞と敬意は惜しまないが、それ以上に共感を覚えるテキストであった。
過去のブログ記事に書き加えたい件もいくつか出てきたのだが、今はなんといっても児玉石の件である。それをひと通りまとめておきたい。
しかし……未知の情報を存分に得られた一方で、やはりこちらには諏訪を拠点とする強みがあり、今回のテーマ全体においては、私が独自の主張を展開できる範囲は十分に残されていたのであった。
正直、安堵した面もあるのだが、それよりも、箱山氏曰く「本家である諏訪では、児玉石と明神との関係についてはまだ研究されていないようである。」とのことなので、
「よっしゃ! 任せろ!」という気持ちにもなったのであった。

テーマ別にまとめていこう。

1.丸石の性質

道祖神に丸石が見られること、神社に丸石が奉納されている件については、その関連をも含め、しっかりと認識していた。その性質についても、成長する石、増殖する石、生命力の石という見解を示しており、また、十分に突っ込めていなかったが(ゆえに私にはまだやるべきことが遺されたのだが)、諏訪の児玉石との関連も把握していた。玉依比売命神社の児玉石はもちろんのこと、子檀嶺神社の児玉石にもしっかり触れている。
まったくもって、半世紀近く前の先人である。
私がまったく気付いていなかった点として、水神信仰との関わりを指摘していた。
自然石としての丸石は、(水神が棲むという)滝壺で形成され、その周辺で発見される。球形、卵形の石に神秘や貴さを感じるのはごくごく自然なこと。ゆえに持ち帰って祀ったのだ、と。
縄文遺跡から出る丸石に擦痕があるのかどうか、それが縄文人の手による人工物なのかどうか、考古学の専門的知識を持たないのだが、おそらくはどちらもあるのではないかと思う。信仰としての体系や形態は比較にならないとしても、同じ感覚に基づく信仰心が縄文時代から近世にまで貫かれているという事実にはちょっと感動する。

2.真田町小玉神社について

さすがに地元だけあり、上記の認識に則った上で、詳細に語られていた(私自身は、この神社、まだ訪問できていないのである)。
なによりも、引用されていた『長野県町村誌』(明治期の文献)の描写が衝撃的であった。

祭神、建御名方神。一巨石二つに割れ本社其中にあり。左に大藤一株、右に姫樫一株ありて社の上に覆う。又古松あり神殿の内に御魂代の小石長円数種あり。猶巨石側に多し。これ古墳上に祭る所ならん。割れ石を往古明神と称す。


古墳との見解はさておくとしても……磐座信仰、小玉という社名、諏訪神、本殿内に複数の石の御神体とくれば、これはもう、児玉石神社と同じ信仰、いや、同じ宮としか言いようがないではないか。
ちなみに、東信地方における児玉彦命の存在について一件だけ確認できているが、その件については今後の展開の中で触れていくことにする。
さらに、御神体を玉石状の河原石を敷き詰めた上に安置している例、古墳の石室の床にも同様の例が多々見られることを述べ、これも同根なのではないかと推測している。ならば……箱山氏はそこまで言っていないが、神社の境内に玉砂利を敷き詰めるのも、同様の信仰に立脚しているのではないだろうか。

3.その他の丸石・児玉石

この書の「千古の滝とまるい石」の項に列記してあったものを、さらに抄録させていただく。私にとっては、燦然と輝く素晴らしいデータであった。
ただし、私自身の見解として、関連の薄いと思われる件は省いてあることを断っておく。

以下は、『郷土』(石号)からの引用として紹介されている。早川孝太郎氏、及び橋浦泰雄氏による採録記事とのこと。

●雛祭りの箱の中に丸石を収めてあり、雛人形とともに雛段に並べる例を、早川氏(愛知県旧長篠村生まれ)の親戚宅、愛知県北設楽郡、信濃坂部村で確認。

●西薗目(これも北設楽郡)熊野神社、田峯観音の田楽で、祭の次第として役の者が河原に出て丸い小石を拾う。

●東薗目では、祭事にやはり河原石をたくさん拾い、袋に入れて神前に運ぶ。これにひとつひとつ藤蔓で作った輪を嵌め、氏子に分け与える。これは「トシダマ」と称して神棚に祀る。

●桧沢(不明)の山の神の祠の中に丸石。

●北設楽郡古戸の白山神社奥宮の祠には二寸五分ほどの石が40~50個祀ってあり、これを「玉」とか「ヒジリ様」とか言う。

ここまでリストアップしておきながら、天竜川と「水底照らす児玉石」の詞章による伝播という観点に至っていないのが残念だが、時代による研究の進み具合も関わっているため、仕方のないところだろう。
私自身、三信遠の芸能についてきっちり学ばなければ、もはやどうにもならないところまで来ているような気もする。

●長野県東筑摩郡生坂村、及び東川手村で、道祖神に丸石を数個供えてあるのが何箇所かで見られた。

●宇佐八幡の神体も丸石だという。これは、神功皇后が出征中、御子が生まれるのを遅らせるため股に挟んでいた「あれ」だとのこと。

●産児の祝膳に丸石を供え、その健全な育成を祈る風習がある。

●橋浦氏(鳥取県岩美郡出身)の実家には、一寸ばかりの黒光りする小石があった。いくつかに割れているため、これを網に入れ、綿の小布で幾重にも包み、二重の桐箱に納められていた。一族の婦人が出産間近になると、この石を煎じてその湯を飲んだ。「狸がくれた安産の石」との伝承があった。
(※児玉石との直接の関係はなさそうだが、生命と繁殖の石である)

以下は、箱山氏独自の記事。

●上田市の生塚神社の本殿には畳が敷いてあり、その上に小砂利が一面に敷き詰めてあり、そこに御神体が置かれている。現在の御神体は諏訪明神の神璽だが、その横に桐の箱に納められた七寸ばかりの丸石があり、そこに「寛文三癸卯九月日、健御名方命、諏訪大明神、児玉石、生塚村」と書かれている。

●生塚神社から遠くない新町神社でも、桐の箱に丸石を収めている。

●本原村荒井の鎮守、表木神社(※式内論社)も諏訪神を祀っており、本殿や丸石や折れた石棒数個が納められている。境内社にも、同様の例。(※当ブログで紹介した塩沢瀬神社の例と同じような形であろう)

●上田市の上塩尻神社の本殿内には、楕円形の自然石に「諏訪宮」と墨書。

●以下、本殿内に丸石を確認したとする神社を列挙。基本的にすべて諏訪社。
 上田市諏訪形:須波神社
 上田市神科地区:伊勢山神社(丸石11個)
 上田市神科地区:篠井神社
 上田市神科地区:岩戸神社
 殿城村矢沢赤坂:滝之宮神社
 真田町本原区:出速雄神社(現在は塩竈社になっているが……)
 真田町傍陽区:上洗馬神社(祭神:大巳貴)
 上田市海野町、原町:市神社

以下、民俗学的な丸石信仰の例をさらにいくつか挙げているが、今はここまでとしよう。
ただ、ひとつだけ印象的だった記事を挙げておく。
佐久に生まれた18世紀の国学者、瀬下敬忠の『千曲之真砂』に以下のようなフレーズがあるという。

千曲の流、さざれ石の中に陰陽石あり

ほとんどの諏訪人の与り知らぬところだが、北の諏訪信仰は、明らかに千曲川(~信濃川)に沿って展開しているのである。
児玉石信仰を追う者にとって、なんと本質的な一節であろうか。

諏訪神楽がそうであるように、児玉石信仰の本質は、諏訪ではほとんど失われてしまっている。この追跡行を続ける上で、三信遠とともに東信が極めて重要であるということを今回は思い知らされた。
おそらくは……箱山氏が追い切れていない佐久の地にも、ビビッドな指標が数多く残されているものと確信している。

*****

というわけで、七二会守田神社のレポートは次回に先送りである。
まあ年内には……いや、ちょっと難しいか……。

もうひとつ、つい先日、児玉石神社の宮司さんとありがたくも知遇を得ることができた。これはもう、疑いなく当ブログの今後の展開の上で大きな力となることは間違いないだろう。
具体的にもいろいろ企み中なのだが、とりあえず、以前の記事、磯並システムの祭神検証において重要な示唆となる材料をご教示いただいた。その件も今回一緒に扱おうと思っていたのだが、なんだか綺麗にまとまってしまったので、また別の機会とさせていただく。
その「材料」だけを先に記しておくと、八チマタ神は、少なくとも近現代において、上社系祭祀の中にちゃんと入り込んでいたのである。
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御子神十三柱の覚書 その8

守達神(後編)

式内社の問題はとりあえず置き、というか、その比定の参考とする上でも、いつものように三代実録における神階授与記事に当たらなければならない。
三代実録において、式内・守田神社の祭神と想定されるのは、基本的に「守達神」である。これはまあ、定説といっていいだろう。
ところが、ここで大きな障害にぶち当たる。
松沢義章も参照した『本朝六国史』に、「守達神」は登場しないのである。
その代わり、守宅神、安達神、宇達神という神が登場する。

守宅は「守」の字が共通し、音にも近いものがある。
安達と宇達は「達」が共通し、「安」と「宇」はいかにも「守」と誤読もしくは誤写しやすそうな字である。
一般的に、これらは同神だと考えられることが多い。

いっぽうで、この便利なサイト
http://www013.upp.so-net.ne.jp/wata/rikkokusi/(有坂理紗子氏ご教示)
で検索を試みると、まったく違った結果になる。ここがどういった原典を使っているのかわからないが、非常に正統的なものであることは間違いないと思う。国史大系の類に当たって近々確認したいと思うが、ここに守宅神は登場せず、代わりに「寶宅神」という神になっている。
「寶」は「宝」、普通に読めば「ほうたくのかみ」だが、これを「ほたかのかみ」と解し、穂高神社の神階授与記事だとする主張がある。
そしてここでは安達神の代わりに宇達神、最後の宇達神のところでは、そのものズバリ、というか……ようやく、守達神が出てくるのである。

さらに……もはや笑うしかないのだが、長野市内には「宇達神社」も「安達神社」も現存しているのであった。

なにがなにやら……。

しかしながら、神階授与記事をきちんと見直せば、ある程度のことはわかってくる。

■貞観元年(859) 守宅神(寶宅神):従五位下→従五位上
■貞観5年(864) 安達神(宇達神):従五位下→従五位上
■貞観7年(866) 宇達神(守達神):従五位上→従四位下

これを見ただけではっきりするのは、「守宅神≠安達神」だということだ。同じ神が「従五位下→従五位上」という同様の神階上昇を二度繰り返すことはないからである。
同様の見方から、「安達神=宇達神」の可能性は高いように思われる。

三代実録のバージョン違いについて検討すると、まず、守宅神が正しいのか寶宅神が正しいのか……これについては、とりあえず保留しておくしかない。守宅神については今までも御子神十三柱テーマの派生で何度か扱っているが、この項でも後に多少触れることになる。その際に、守宅神/寶宅神問題についても一応の検討は加えたいと思う。

さておき、すべての混乱を全体として俯瞰してみると、

「安達神=宇達神=守達神」≠「守宅神(もしくは、寶宅神)」

と考えるのがもっとも妥当なように思われる。

次に、少々胡散臭くはあるのだが(失礼だなあ)、安達神社と宇達神社についても当然検討しておく必要があるだろう。

安達神社は、長野市平林、守田廼神社の北東700~800メートルばかりの至近距離に鎮座している。
祭神は、五十猛命、建御名方命、誉田別命。
……やっぱり三柱である。
現状、決定的に情報が不足しているので確かなことがなにもわからないのだが、平林地区は、宇達神社のある宇木地区とともに室町期諏訪上社の頭役を務めた記録があること、そしてなにより一本梶の神紋が見られることから、諏訪社が本来であることは間違いなさそうだ。といっても、長野市内には非常に多くの諏訪社が当たり前のように鎮座しているので、だからどうだという話にはまったくならない。
ことさらに「安達神」を祀っていない点からみて、強引に国史見在社を主張した痕跡とも思われないのだが……とにかく、社名の根拠とされる伝承なり記録なりをひとつも掴めていないので、なんともいえない。

宇達神社は、式内・美和神社の北方数百メートル、下宇木に鎮座する。地図を眺めてみると、北から宇達神社、安達神社、守田廼神社と、善光寺を取り囲むような位置取りにも見える。
祭神は、宇達神、健御名方神、八坂斗売神(これまた三柱……)。
社伝によると、当地開拓の産土神「泥土立神(にとのたち・かみ)」の名が変化して「宇逵神(うき・の・かみ)」と呼ばれるようになったとのこと。
これは……全然意味が通っていない。
泥土立神という神は聞いたこともないが、連想されるのは神世七代の「泥土煮命(うひじに・の・みこと)」である。よもやこの神のことではあるまいが、「うとたつ・の・かみ」とでも読めば、「宇達神(うたつ・の・かみ)」に転訛したという話にも納得がいくのだが……。
また、「宇逵神」の話があった通り、「宇逵神社(うき・じんじゃ)」の別名があり、鎮座地の字名は「宇木(うき)」。
これは、もう……後付けで国史見在の神名に合わせたという疑いが非常に濃い。
しかしながら、諏訪神夫妻を従えて聞き慣れない名の産土神を主祭神とする形は決してありふれたものではなく、相応の古さと根拠を感じさせる。

いまだにその実体がつかめていないのだが、「芋井郷内二十一社」という概念があるらしく、その二十一社ではいずれも諏訪御子神を祀っているという伝もある(以前紹介した社子神社の社伝)。ゆえに、宇達神社の謎の祭神も、ある時代において諏訪御子神とされていたのではないか、という気配を濃厚に漂わせている。
これまでに見てきた御子神の中から似た音の神を探すと……守達神を別にすれば、せいぜい多都若比売くらいだろうか。八杵命の御子である八立神は、少なくとも現時点において「はちりゅう」と読まれている(諏訪市の八立神社については、原直正氏が本地垂迹を背景とした画期的な論考を『決定版・諏訪大社』に発表している)。あとは、式外の神に名立神というのがおり、松代と飯山にある「名立神社(なたてじんじゃ)」では、いずれも諏訪神を祀っている。しかし、どちらの宮でも名立神という神名は伝えておらず、また、諏訪御子神の系譜にもこの神は見られない。ただ、諏訪信仰の中で、「タツ」の音を持つ神というのが、なんらかの関連性において複数存在しているようにも思える。
しかしながら、ここは正体不明の無名神を引き合いに出すまでもなく、「泥土立神」は守達神の別名、と素直にみたほうがすんなり理解できそうだ。

それよりも気になるのは、生島足島神社の旧地といわれる「泥宮」や、上十三所筆頭の所政社など、諏訪信仰の古層における大地信仰との関わりが感じられる点なのだが……当面、これ以上掘り下げる材料がない。
ただ、「守田神社」は、その名の通り、田を守る神、すなわち農耕神とみる見解も根強いわけだが、泥の神もまた田に通じるわけで、これらの宮のすべてが同じ神の信仰で貫かれているというシンプルな見方もそう突飛なものではあるまい。
というわけで、安達神社、宇達神社とも、社名が国史におもねった後付けであったとしても、守達神に相当する神がかつて祀られていた宮であると想像する分には、さほど無理はないように思う。どれが本家にせよ、式内社たるもの、近在にいくつかの分社があってもいっこうに構わないのだから。

ところで、信濃國の神々とその国史上の現れについては、信濃の怪人的伝説的郷土史家である栗岩英治がかなり熱心に検証している。特に卓見というべきは、「嘉祥4年に全国のあらゆる神に無条件で従六位上の階位を授けているにも関わらず、初登場時に無位の神がいる。ということは、その神の社は嘉祥4年以後の創立である」とする見解である。この説に従えば、いくつかの神社について、創立年を極めて短い期間に特定できてしまうのだ。また、平安初期、全国的に神社創建ブームがあったことも想像される。
これは画期的な視点である。と同時に、初登場時、すでに従六位より上の階位をもって現れる神がおり、ということは、すなわち神階授与の記事が抜け落ちている(おそらくは、編集方針の違う三代実録以前の国史から)ことも多々あるのではないか、という指摘も極めて重要であろう。
たとえば……諏訪御子神研究者の視点でいわせてもらえれば……伊豆早雄命の宮より守達神の宮のほうが古い、と断言できてしまうのである。
無論、嘉祥4年の時点で中央の登録から洩れていた神社もあった、という可能性は踏まえておかねばならないが。

栗岩はまた、守達神以下、これら神名の混乱した神々について、『信濃地名考』の見解を踏まえ、「安達神(あがたのかみ)」と解するべきだと主張している。
信濃で「アガタ」といえば、未解明な部分を多く残す非常に重要なキーワードである。また、神名帳信濃國佐久郡の項には英多神社(エタ・ノ・カミ・ノ・ヤシロ)の名がみえ、現存する英多神社は「あがた・じんじゃ」と称している。
古代~中古にかけ、北信から東信には明らかに地域的な連続性があり、いずれも信濃国造一族、もしくは金刺・他田一族の拠点とされた時期があったものと考えられている。ゆえに、もとは水内にあったアガタ神の宮が、施政者の拠点の移動に伴って延喜の時代までに佐久へと移ったのではないか、とする栗岩の説も的外れとはいえないだろう。
そもそも「安達」を「あがた」と読めるのかどうか、ちょっと疑わしくも思えるのだが……漢字の読み方について戦前の学者に文句をつけるというのも分不相応な話である。

もし水内にアガタの音を持つ神がいて、しかも諏訪信仰と縁があるのだとしたら、まず、御子神十三柱の大県神(おおあがたのかみ)との関連を疑う必要がある。そして、英多神社の論社のひとつである佐久の新海三社神社では、その主祭神・興波岐命の異称を大県神、もしくは八縣宿禰(やあがた・すくね)と伝えている(ちなみに、守田神社の系図に見る興波岐命は、「興津波岐命」となっている)。新海三社神社は古墳祭祀とムロ山祭祀、そして水源祭祀を起源とする複合的な形式を明確に残す堂々たる古社であり、佐久一ノ宮とされ、しかも驚くほどの規模と格式を誇っている。にも関わらず、延喜式に直接その名はない。そして三代実録には八縣宿禰の名がある(この神を祀る神社はいくつかあるが、他の英多神社の論社では祀っていない)。
佐久における英多神社の論者争いはいまだに解決を見ていないような状況なのだが(というか、いまどき誰も続けてはいない)、非常にわかりやすくまとまった考察がネット上にあり、私はこの見解に同意である。
(http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/sinka.html)
ゆえに、アガタの神はアガタの神、守達神は守達神で別個に存在していたと私は考えたい。が、栗岩説を完全に排除することもせず、起源としては「守達神=興波岐命」であったという可能性も、いちおう頭の片隅には置いておきたいと思う。「興波岐命編」を書くときのために……って、「興波岐命編」で書くべきことをけっこう書いてしまったが……。

さて、守達神と諏訪信仰との深い関係を示す状況証拠については、七二会守田神社のことを調べると次々に現れてくる。
続きは、七二会守田神社を訪問しながら、ということにしよう。


同日:御指摘いただいた明らかな誤りを削除し、周辺を調整。

御子神十三柱の覚書 その7

守達神(前編)

まず、前説をさせていただく。
御子神十三柱シリーズについては、「池生神」がなお未完のままである。その状態で他の神を扱ってしまうのは忸怩たるものがあるのだが、しかし、現在継続中の「児玉石を巡る冒険」終盤において、本来であれば「池生神」の後編で語るべき事柄が主題となってくる。「児玉石を巡る冒険」に手を付けたことによって、とりあえず今後「児玉彦命編」が書かれることはなくなったわけだが、同じように、池生神の後編は書かれることがないかもしれない。ただ、まだアップしていない池生神社系列社の参拝レポートや、今後の新発見があれば、また別の項目を立てて扱うこともあろうかと思う。

では、本題!

守達神。
この神は、現在の諏訪大社オフィシャル十三柱には入っていない。いっぽうで、前宮若御子社の二十二柱には入っており、また、岡屋十五社、古田十五社の十三柱にも入っている。現状知り得ている十三柱バリエーションの中では、比較的出番の多い方だろう。
読み方ははっきりしていない。というのも、詳しくは後述するが、異称らしきものが多く、歴史的な混乱が感じられるのだ。
まあとりあえずは、「もりたつのかみ」で問題ないだろう。

この神を主祭神として祀る神社は、(おそらく)ただ一社のみ。
長野市七二会(なにあい)の「守田神社」である。
山間の高台に鎮座する古社で、大型の重厚な拝殿が印象的である。
祭神は、

正殿:守達神
左殿:大碓神、久延毘古神、事代主神
右殿:健御名方神、誉田別神、素盞鳴神

となっている。
基本的に出雲神が目立つ。事代主は諏訪系列社のレギュラーだが、しかし、久延毘古は非常に珍しい。
大碓、つまりヤマトタケルについては、信濃國も通過ルートである以上、それなりに祀られているほか、佐久あたりでは諏訪信仰との縁を感じさせる痕跡もちらほらと見出せる。
素盞鳴(スサノオ)については、天王社を合祀していることがはっきりしているので、これは牛頭天王で問題ないだろう。
誉田別については、いまさらなにも言う必要があるまい。

この神社には諏訪神社発行とされる独自の神系図が伝わっており、そこでは、諏訪御子神は十九柱とされている。
(宮坂喜十いうところの「御子は史書によって十三柱・十九柱・二十一柱などと諸説がある。」の、十九柱は発見できたわけだ)
この系図の内容については、また改めて紹介及び検討する項(「御子神十三柱の再確認」のつづき)を設けるつもりだが、とりあえず、これまでの検討から洩れている神はいないようだ。
しかし、表記や神名が微妙に異なっている点、リストの上位の顔ぶれがまったく違う点、そして、ある程度古いものと考え得る理由があることなど、非常に興味深い資料である(※有坂理紗子氏ご教示)。

さて次は、おなじみ、式内社だ国史見在社だといった國学院の講義めいた話になっていくわけなのだが……この神については、他に類を見ないほど事情が複雑である。

まず、延喜式神名帳には、「信濃國水内郡 守田神社」の名が記されている。論社は、七二会守田神社のほかに(とりあえず)二社。いずれも長野市内にある。

ひとつは、長沼穂保の守田神社。
清々しい場所に立地するが、さほど大きな神社ではない。祭神は、大碓命、大己貴命、大山咋命の三柱。守達神はいない。建御名方もいない。
いつも(一方的に)お世話になっている玄松子氏のページ(http://www.genbu.net/)に下記のような社伝が載せられていたので、申し訳なくも引用させていただく。

一説に、往古は、このあたり一体は湖であったといい、景行天皇の御宇、皇子の下向があり、溝を開き、水を治めて陸地にしたという。
後、守の君大田の君の子孫が居住し、その祖神を勧請して祀ったのが当社。
元は、守田島という場所に鎮座していたが元和元年(1615)、あるいは慶長二年(1597)に流失し当地へ遷座したという。


残念ながら、私はまだこの社伝を見つけていない(『平成祭礼データ』かなあ…)。
創建伝承にはヤマトタケルが関わっているようだが、国学ルネッサンス以前は日吉山王社だったということで(つまり、大山咋が主神の山の神。ちなみに、七二会守田神社は、多くの諏訪系列社同様に諏訪明神社であった)、諏訪系列社の痕跡が見られない。
ただ、「守の君」を守矢氏、「大田の君」を多氏と解釈するのは……いや! さすがに度を越した妄想というものであろう。
明治ではなく、それなりに古い時代(おそらくは移転前)に合祀合併があったのではないかと思わせる要素が多く、古層にまで手の届かないもどかしさを感じる。
いずれにしても、式内・守田神社の比定社としては弱いだろう。

いまひとつは、高田八幡沖の守田廼(もりたの)神社。
現在、長野市の市街地の中にあって、なかなかの威風を示している。
祭神は、誉田別命、建御名方命、保食神。
以前、どこかの神社の訪問記で「北信には三間社の本殿が多い」という感想を漏らしたことがあるが、実際、この地には三社に整えようとする風があったのかもしれない。であるならば、玉依比売命神社もその類例であろうか。
ちょっと変わった社名については、論社争いに敗れて「廼」の字をつけることを強いられたとのこと。かつて八幡社であったことがはっきりしていることから、論社としては確かにちょっと立場が弱い。
ただ、現在の本殿は、神仏分離で撤去された善光寺年神堂をそのまま移築したものである。この年神堂は『絵詞』において諏訪の分社であるとされ、謎の「水内神」や、建御名方富彦神別命、武居祝の支族との伝承を持つ秘密めいた一族による年越しの秘祭など、諏訪神社と善光寺との関係の深層に大きく関わっている重要な宮であった(関連して言うべきことが多々あるのだが、このテーマだけで余裕で20回シリーズくらいにはなってしまうので、今はこれ以上触れない)。ゆえに、中世以前はともかくとしても、近世において「諏訪信仰的方向」から重視されていた気配は十分に感じさせるのである。

三社とも水内にあって、特に守田廼神社は善光寺の諏訪信仰と関わりがあることからみても、もともとは同系列の神社だった可能性は十分にあるだろう。延喜の時代にどこが「本家」だったのかはなんともいえないが、二社において守達神の存在が忘れ去られてしまったのだとすれば(しかも一社は、今なお諏訪信仰との関係を保ち続けているにも関わらず、だ)、その起源は中世以前にまで遡ることができそうに思える。

というわけで、式内社の比定という点では一概に結論を出すことができないが、「諏訪御子神・守達神の宮はどれなのか?」という問題に限っては、議論の余地なく七二会守田神社で決まりである。祭神がそうなのだから仕方がない。もちろんそれだけではない強力な根拠が多々あるのだが、それは本項における今後の展開の中で自ずと明らかになっていくはずである。
早い話、児玉石シリーズにおいて検討材料として扱うのは七二会守田神社だけ、ということをここでは言っておきたいのである。

しかし……話がややこしいのはここからなのだ。
というところで、以下、次回。

(つづく)

小玉石を巡る冒険 その15

玉を奉じる水の巫女

美都多麻比売命。
守達神の御子にして、児玉彦命の妃神である。
守達神は、しばしば十三柱に列せられる諏訪御子神。
児玉彦命については……シリーズ初回を参照願いたい。

まずは「美都多麻比売」の読み方だが、その父、守達神を主祭神として祀る守田神社(長野市七二会)の境内社に高科社と瑞玉社が(かつて)あり、それぞれ系譜に見る守達神の御子、高志奈男と美都多麻比売に対応する。「瑞」は「瑞垣」「瑞々しい」の「みず」なので、「美都」と一致し、読みは「みずたまひめ」となる。
記紀最古の水神であるミズハノメは、本来「ミツハノメ」だったのが「ミズハノメ」に転訛したもので、その表記バリエーションには「水波乃女」「美都波能女」などがある。このことから、美都多麻比売の「美都」も水を意味する可能性が高そうだ。

つまり、まあ……美都多麻比売は「水玉姫」という理解で、おおむねよいのではないかと思う。ゆえに私は、いつも草間彌生(長野県出身!)を連想してしまうわけだが、いうまでもなく古代に「水玉模様」という概念はない。要するに、美都多麻比売が「水」と「タマ」を神格としているであろうことをいいたいのである。

前回紹介した馬背玉依比売との関連について、とりあえず音の面だけ見ておくと、「マセタマヨリヒメ」と「ミズタマヒメ」は、それなりに通じるようでもあるが、逆にかなり苦しい気もする。それでもまあ、「イズハヤヒメ」が「アイズヒメ」になってしまう世界なので、あり得ないとまではいえないだろう。

さて、玉依比売命神社の児玉石神事を知ったとき、私が直感的に思いついたのが、

玉選り姫……?

ということである。「魂に依る」のではなく、「玉を選(よ)る」姫。
すなわち、「石並べ大明神」。
ま、基本的には言葉遊び、他愛ない思い付きだ。しかし、磯並社から始まった比較検討の中でひとつの「型」を見出したことによって、単なる思い付きでは終わらなくなってくる。
その「型」というのが今回のサブタイトル、「玉を奉じる水の巫女」である。

児玉石を奉じる磯並大明神 ← 祭神・玉依比売

小袋石を奉じる磯並社 ← 祭神・玉依比売

石の神・児玉彦 ← 妃神・美都多麻比売


これが今回の発想の根幹である。
「玉尾社/興玉命=児玉彦命」の仮説を是とし、児玉石神社本殿内の石棒・丸石群を「児玉石」と解釈したとき、この「型」は決定的に強化される。
詳しくはこれから順を追って説明していくわけだが、まず、「神話における"神の妻"とは、多くはその神を奉じる巫女を意味する」ということを確認しておきたい。それはまた、「一般名詞としての玉依比売」の性質そのものでもある。
そして「守矢家の祖神である児玉彦(と、その妃神)は、本来、守矢家の拠点に祀られていてしかるべきではないのか?」という疑問も、重要なポイントとなる。

気付きの端緒は、ふとしたきっかけから改めて児玉石神社を見に行ったこと。そこで改めて由緒書きの玉屋命に気付き、「これはおかしいぞ?」と思ったこと。
玉屋命は勾玉の神、勾玉といえば玉依比売命神社の児玉石、児玉石といえば……あれ? あれあれあれ?
というわけである。

児玉石神社の項でも書いたが、おそらくは江戸末期から明治初期にかけて、国学者(同時に神官でもあったろう)の某かが児玉石神社の祭神を改めた際、聞いたこともない美都多麻比売の名を、国学的権威のもとに玉屋命に書き換えたのではないか、私はそう推測している。そこで某が、どんな理由をもって玉屋命を選択したのか? 児玉石神社の信仰背景をどこまで知っていたのか?
だから最初は、玉依比売命神社の児玉石との関連から「児玉石=勾玉」なのではないか?という仮説から思考が始まった。
調べていくうちにその考えがどう変遷したのかは……もうおわかりいただけるだろう。

児玉彦の妃神が「タマ」の音を持っていることの意味を、改めて考えてみる必要があるのではないか。単なる美称だろうと言われれば、確かにその可能性もある。しかしここに至っては、神話的意味、象徴を読み取れる可能性を強いて放棄すべき理由はない。
最初から児玉彦とのペアで観想された神であり、単純に児玉彦から「タマ」の音をもらっているだけだ、という考え方もできる。しかし、であるならば、その名は「児玉比売」で問題ないはずである。豊玉彦/豊玉比売、級津彦/級津比売のような例は枚挙にいとまがない。
ということは、やはりこの比売神そのものが、最初から「タマ」の神性を持った神として観想されていたのではないか。
それが「魂依り姫」なのか「玉選り姫」なのか、いずれにしても、だ。

この「型」に関する仮説はひとまずここまでとして、次のステップとしては、「松代の玉依比売=諏訪の玉依比売=美都多麻比売」であるという具体的な根拠を示していくことだ。
とりあえず、「松代の玉依比売=諏訪の玉依比売」については、まず決定的な「磯並」の名があり、付随していくつかの根拠を示してきた。ゆえに、今しなければならないのは、まず第一に、美都多麻比売という神についてより多くの情報を示すことであろう。

そこで次回からは、系譜と出自の上から、改めて美都多麻比売という存在(もしくは概念)の意味するところを検証していきたい。

ここからが大詰め、ここからがいちばん説明の難しいところで……逆にいえば腕の振るいどころなのだが、その前に必要な前提知識として、美都多麻比売の「父上」と「ご実家」とをご紹介しておこう。
形式上、いったん「小玉石を巡る冒険」を離れ、久々の「御子神十三柱」と神社参拝レポートということになる。
……のだが、この2項目については、今のところほとんど手が付いていない。ここ数回、下原稿のストックを吐き出す形で連発して来たが、次回は少々間が開くかもしれない。開かないかもしれない。

(数回飛んでから、つづく)

小玉石を巡る冒険 その14

「馬背玉依比売」の発見

江戸末期、松沢義章という国学者が編纂した『奉令集』という文書がある。諏訪社の神楽を取り仕切っていた外記太夫・茅野氏の命で、国史上に現れる諏訪及び信濃全体に関する記述を抜き出し、まとめ上げた博覧強記の一大労作である。
「国史上」と書いたが、実際にその採集範囲は六国史に限られるものではまったくなく、『諏方大明神絵詞』以下地元の文献はもちろんのこと、『源氏物語』、『万葉集』といった文学作品にまで及んでいる。
さすがにパーフェクトとまではいかず、自分程度でも「あ、あの記事が脱けてる!」と気付く部分もあったりするのだが、ネットやデータベースはもちろんのこと、図書館すらなかった時代である。その苦労と執念は察して余りある。と同時に、人並み外れたライブラリ・スキルには感嘆を禁じ得ない。

なにしろ私の興味は諏訪信仰中心なので、なかなか文献を通読するということがない。必要な部分を拾い読みするばかりである。まっとうな研究者としては失格だが、まあ……そこは少しずつ、少しずつである。
そんなわけだから、この『奉令集』は非常に都合がいい。延喜式だ続日本紀だ三代実録だと、必要部分を探し出すだけでひと苦労なのだが、自分にとっての必要部分が最初から抜き出してあるわけで、こんなに便利なものはない。のだが……そこには大きな問題があるのだった。

まず、松沢義章のミスがバグのように含まれている可能性があるわけだが、これはまあ原典で確認を取るようにすれば問題はない。しかし、当時の文献というのは写本か、版木で刷った原始的な印刷物である。それも、いくつかのバージョンがあったことは間違いない。そのバージョン間での「誤差」が相当あったものと思われるのだ。
三代実録の神階授与記事が典型なのだが、同じ年の同じ項目の記事で、神名が微妙に異なっている場合が少なからずある(今後の展開の中で具体的に触れることになる)。察するにこれは、国学全盛の時代にあって、その写本なり版木本の制作者たちそれぞれに独自の解釈の自負があり、その恣意性が入り込んでいるのではないだろうか。過去の手書き文献を解読する際、難読字をどう判断するかによって記事内容は簡単に変わってしまう。それでも周囲の文脈があれば検証可能だが、固有名詞をねじ曲げられてしまうと、もうお手上げだ。

つまり……松沢義章が参照した原典はどういった素性の本だったのか? それがわからないと、文献史学的にはまったく学問にならないのである。
さすがにこれは、プロでなければ太刀打ちできない世界である。ゆえに現状の私は、足場の不確かさを認識しつつも、恐る恐る歩を進めるほかない。

さて、ここからが今回の本題なのだが、こうした当時の文献のアナログ性が、逆に、大きな発見をもたらしてくれることもある。

『奉令集』四、貞観7年の項、三代実録からの引用部分。

授信濃國従五位下馬背神従四位下
(信濃の国の、従五位下・馬背神に、従四位下を授く)


という記述の下に、注記だということを示す小さな字で、

馬背玉依比売神
之誤カトアリ


と書いてある。
この記述は、つまり松沢による「引用者注」ということなのだが、「トアリ」がなにを意味するのかといえば、松沢の参照した本に、松沢以前にこの本を手に取った何者かが書き入れた注記がすでにあり、そこに「馬背玉依比売神の誤りか」と書いてあったのだ、ということを松沢は伝えてくれているわけである。
その「何者か」が本当に何者かまったくわからず、また、松沢の参照した本の素性すらわかららない現時点において、なにも確かなことは言えないだろう。しかし、この時代に『日本三代実録』などという代物を手に取り、まして熟読し、注記を付けるような人物は、国学者以外にあり得ない。まあ在地の趣味人レベルかもしれないが(ちなみに言っておくと、松沢義章は諏訪の人間ではあるが、いちおう全国区でそれと知られた国学者であった)、それにしても、当時の国学者が「馬背神なんて知らないなあ。馬背玉依比売神なら知ってるけど」という意味のことを言っているわけである。

ああ、先走ってしまった……。
ここは馬背神についての前提説明をしないと、話の趣旨がまったく見えてこないのだった。

この神については「御子神十三柱の覚書」シリーズの中で何度か触れてきているが、ここで改めて概略をまとめておこう。

馬背神は、三代実録に神階授与の記事が複数回登場する国史見在の神である。最終的には従三位にまで達しており、これは諏訪御子神の中での最高位に当たる(六国史終了時点)。名神大社は別格として、それ以外だと、式内社に祀られた神であってもここまでの神階を授けられた地方神はそうそういない。
いっぽうで、延喜式神名帳には比定し得る神社が見出せない。
式外社としての比定社は確定できないが、塩田平の西端、青木村との境近く、旧東山道と推測される街道沿いに、東宮、西宮という2宮に分かれて祀られた馬脊神社が最有力候補と考えられている。
隣の青木村には式内・子檀嶺神社(児玉石の件で紹介した武石村の子檀嶺神社とは別社)があり、その神体山である極めて印象的な山容を誇る子檀嶺岳から尾根続きの「飯縄山(高名なそれとは別)」の山麓に、この東西宮は位置する。

論社は、(私の知る限りでは)ほかに2社。
ひとつは、上高井郡山ノ内町の馬脊神社。しかしここでは、スサノオを祀っている。

北信の山中から東信にかけて「柵口(ませぐち)神社」というのがいくつかあり、また、「柵(しがらみ)神社」というのもある。諏訪人としては、ついつい「さくじん(しゃ)」とか「さぐち」とか読みたくなるところだが、「柵口(ませぐち)」というのは牧場の入り口のことであり、また、「馬背」というワードからも、また、子檀嶺(こまゆみね)を「駒斎(こまゆみ)」とする解釈からも、このあたりの一連の神社は、信濃國に数多ある官牧の管理者に関係した宮であるとみるのが定説である。

もうひとつは、前項で触れたばかりの芸能の聖地・三信遠ど真ん中、浜松市佐久間の馬背神社である。ここは建御名方を祀る諏訪社だが、遠江国式内社「馬主神社」に比定する説がある。また、信濃國と遠江国の国境の変遷の結果、現在は静岡県にある馬背神社が、信濃國の神名帳に載っているのだ、という説もある。当地に相当数の諏訪系列社が見られることからも、確かにその可能性はあるだろう。

それからもうひとつ、飯田市に馬背塚と呼ばれる前方後円墳があるのも気になるところだ。もちろん、前方後円墳の形状から馬の背を連想するというのはいかにもありそうなことなので、まったく無関係かもしれない。しかし、諏訪信仰にとっての大動脈ともいえる天竜川沿いという関連から、佐久間の馬背神社との縁も疑ってみる必要はあるように思う。

そして……馬背神は、北信の信濃国造勢力と諏訪勢力との関係を探る上で最重要とも思われる諏訪神子神の長兄、「建御名方彦神別命」の御子とされているのである。
さらに興味深いことに……これはきちんと文献で確認できていないのだが……建御名方彦神別命の御子としては、「麻背神」という表記もあるらしい。
「麻背」というと、これはもう、異本阿蘇氏系図に登場する、古代金刺氏の赤丸付き重要人物である。
欽明天皇に仕え金刺舎人姓を授かった初代金刺、金弓の子で、祖神・建五百建から三代続き、以降絶えていた信濃国造に「復帰」したとされ、その子は、初代・御衣着祝(つまり、有員以前の、幻の初代諏訪大祝ということになる)乙頴である。
麻背が実在の人物なのかどうかはさておくとしても、この伝承を受け継いできた一族にとって極めて重要な祖神であることは確かであり、彦神別という神の性質を探る上でも大きな手がかりになりそうな気配を漂わせている。
中央の皇祖に例えれば、建五百建は神武のような伝説上の人物であり、金刺麻背が、崇神のような伝説と歴史の端境に位置する存在、という見方ができるだろう(そして有員が継体といったところか)。

と、まあ、かように馬背神は興味深い存在なのである。にも関わらず、こうした神話や伝承を強化し、もしくはさかんにデフォルメを加えてきた(創作とは言いたくない)江戸末期の国学者が、「馬背神なんて知らないなあ。馬背玉依比売神なら知ってるけど」と書き遺しているのは、いったいどういうことなのだろうか。

「馬背玉依比売」という神を私は知らないし、他のどんな文献でも、どこの神社の祭神としても、まったく確認できていない。だから、どこかの誇大妄想狂の戯言がたまたま遺ってしまっただけの話なのかもしれない。
ただ、「誇大妄想狂の戯言」とするのが憶測でしかないのと同じように、あくまでもひとつの憶測として、この神こそが玉依比売命神社の玉依比売なのではないか……と私は考えてしまったわけである。
もちろん、それは単なる直感ではなく、それなりの根拠があってのことだ。

まず、従三位にまで昇り詰めた重要な神である馬背神を祀る神社が、延喜式に載っていない件(馬主神社がそれであるとのは説はひとまず置くとして)。
三代実録における馬背神の記事が延喜式成立より古い時代の記録である以上、これはかなり不自然なことである。無論、基本的には式内社の数に比べて式外社のほうが遥かに数が多いので、神階授与記事はあるが延喜式に列せられることがなかった、という神社はいくらでもある。しかし、従三位まで授けられている神となると、延喜式に載らないのはやはり不自然である。ひとつ考えられるのは、「平安初期の時点では重要な神社だったが、延喜の時代までに急激に衰退した」という可能性である。
また、国学の時代における「復興」に関して、相当に強引な例が多々見受けられるのも事実である。本来はなんの関係もない神社が国史見在社の名を名乗っているのだとすれば、古い時代の記録との間に矛盾が生じるのも当然であろう。ゆえに、この問題単独であれば、それなりに説明はつく。

いっぽうで、玉依比売命神社は式内社でありながら、三代実録ほかにおける神階授与の記事が見当たらない。馬背神社と逆のケースであり、なんの神階も与えられていなかった神の神社が、突然、延喜式で取り上げられた、というこれも不自然なケースである。といっても、以前にも書いた通り、他に真地たる神社があり、その分社であるならば神階が与えられないのは当然である。たとえば、信濃國でいうと水内の美和神社は式内社だが、当然、「水内美和神社の主祭神たる大物主」に神階は与えられていない。ただ、祟りをなしたという記事があったり、相殿の国業比売に神階が与えられたりしているので、延喜式以外での存在もはっきりと確認できるわけだ。
ゆえに、玉依比売命神社の玉依比売が海神の娘だという先入観で見れば、この神社の玉依比売に神階授与の記録がないのは当然といえる。
が、しかし。
玉依比売命神社の玉依比売が他のどこの玉依比売とも違う信濃独自の玉依比売だったと仮定した場合、そして、それが「馬背玉依比売=馬背神」だったと考えると、双方の疑問点がきれいに解消されるのである。

まあ、現時点での私自身の見解としても、「馬背玉依比売=馬背神」という仮説はなかなかに難しいと思っている。馬背神については、むしろ金刺麻背が神格化した神なのではないか、という説により強く魅力を感じているというのも正直なところだ。
ただ、そういった理解をするためには、馬背神を祀る神社が延喜式に見られないという点について、なんらかの説明は必要になってくるだろう。

……と、ここまで踏み込んでみたわけだが、実を言うと、前回提示した「名無しの玉依比売」が馬背玉依比売だ、というのが論の主軸ではないのである。結論を引きずり出すには、あまりにも貧弱な材料であることは認識している。これはあくまでも、「御存じの玉依比売とは別の玉依比売が、どうやら信濃にいた気配がある」ということをいいたいがための参考材料のひとつとして御理解いただきたい。

次回に向けて、結論だけ先に示しておきたい。
「名無しの玉依比売」の源像ではないかと考える土着神……それが馬背玉依比売の異名なのかどうかはわからないが……それは、当シリーズの初回にその名が出てきた、

美都多麻比売命

である。

次回以降、この仮説を展開し、検証を進めていく。

……さあ、ここからが本番だ!

(つづく)


翌日追記:
非常に価値ある専門的な御教示、御指摘をいただきました。

・「馬背玉依比売~」の注記は、伴信友の『本朝六国史』が原典

すごい。田舎の趣味人どころではありませんでした。

・「馬背(の神というのは)玉依比売の誤りか」という読み方もできるのではないか?

言われてみれば確かに、馬背玉依売などという得体のしれない神を想定するよりも、そう解釈した方が常識的だと思います。
しかし、伴信友が私のしてきたような思索をすでに経ていたというのなら別ですが、単に馬背神というローカル神の名前だけ見て玉依比売を想定するというのも、なかなか考えにくいことのように思います。ううむ。
あとは、おっしゃっていた通り、この本における注記の癖から検討するほかなさそうですね。

以上、御指摘くださった菅谷淳夫氏に深謝いたします。

小玉石を巡る冒険 その13

玉依比売命神社と安曇族(後編)

そもそも、信濃における安曇族の痕跡というのはいわれるほど濃くはない、ということを、ここではっきりといっておきたい。いや、確かに、はっきりと遺されている安曇族の痕跡は少なからずあるのだが、その隅々にまで、諏訪信仰の影響が入り込んでいるのである。長野県内で神社巡りをしていればイヤでもそのことに気付くだろう。
いくつか重要な例を挙げよう。

穂高神社は、現状、さすがに表立って諏訪神を祀ってはいないが、拝殿は諏訪造で、社殿配置も諏訪の下社系である。しかも中世には、穂高造りの本殿と並んで「南宮社(諏訪社の別名)御宝殿」が存在していたことが古図に確認できる。

安曇の象徴ともいえる泉小太郎伝説の主人公は穂高神の化身ともいわれるが、中世説話において、その母である犀龍は諏訪明神である。

長野市南部、千曲川を隔てて松代にもほど近い川中島~稲里町周辺に「氷鉋」とか「斗女」という語を共通項とする多くの古社が点在しており、安曇系の神社といわれている(先述の更科斗女神社もそのひとつ)。その大元である式内社に比定される氷鉋斗女神社こそ、今でも安曇神のウツシヒカナサクを祀っているが、そこにも諏訪神夫妻が配祀されており、その他すべての系列社では、単純に諏訪神のみを祀っている。

穂高神社の真南7~8kmばかりにある住吉神社は、信濃では貴重な純正の海神系神社といえる。規模、歴史とも注目に値する存在だが、そんな神社にすら、ちゃっかり建御名方が相殿している。しかもそのすぐ南の広大なエリアは、承久の乱に至るまで諏訪神官家の出である大妻氏が治めており、今でもプチ諏訪システムの遺構を数多く残している(上下社と想定される諏訪社、それぞれのムロ山、御射山の疑いが濃い「三社宮」、十五社など)。

つまるところ、信濃における安曇族は、相当に早い段階……遅くとも平安中期までに、諏訪勢力の支配下に入ってしまったものと考えられるのである。
穂高神社の神階上昇が、名神大社に相応しい階に達することなくぱったりと止んでしまうのも、そのことを示している。

いっぽうで、安曇族から諏訪勢力への影響というものも確実にある。

穂高神社にもっとも近しい古社である式内・川会神社では、八坂刀売が綿津見の娘であるとの社伝を残している。

その八坂刀売を祀るとされる諏訪大社下社には御舟祭があり、また、安曇野一帯を中心に、御柱祭ならぬ御舟祭をやっている諏訪系列社が少なからず存在する。

以上の材料をもって導き出す私の見解は、
諏訪勢力は、穂高神社に象徴される安曇族のプライドと文化の独自性を担保した上で、融合という形で安曇勢力を支配下に収めた。
というものである。
そう、守矢ら諏訪古族に対してそうしたように……だ。

こうしたやり口は中古までの金刺一族のお家芸であり、最大の強みだったのではないかと私は考えている。それが御子神、孫神たちの柱数の膨大さとなって表れているのではないか、と。
だから諏訪勢力は、安曇族に対しても、その信仰の痕跡を消し去るようなことはしなかったはずだ。現実に、御舟祭をおこなう諏訪系列社があり、安曇族の宮はそのまま安曇族の宮として存続しつつ、諏訪神が同居している例がいくつも見られる。ゆえに、もし玉依比売命神社の玉依比売が海神の娘であったのなら、海神としてのなんらかの具体的な痕跡が残っていてしかるべきであろう。
それなのに……。
どうして玉依比売命神社では、信濃における安曇族の合言葉、御舟祭をやっていないのか?
合計3柱も祀るなら、どうして1柱くらい海神一家やウガヤフキアエズ、さらにはイワレビコを祀らない?
社宝である玉類のことも、「児玉石」などと呼ばず、上社物忌令に倣って「満玉、乾玉」とでも呼べばいいではないか(だったら玉依比売ではなく豊玉比売を祀るべきだが)。

とにかく、根拠がなさすぎるのだ。

では賀茂なのか?という疑問も検証する必要がある。状況を鑑みれば、海神説よりは幾分有力であろう。
信濃において、純粋な海神系神社としては、安曇の住吉神社、川合神社というたった2社しか見つからないのに対し(摂末社や小祠は除く)、賀茂神社はそれなりの規模のものがあちこちでぼちぼち見受けられること。
鴨都波神社や飛鳥座神社に諏訪神がいる(いた)こと。
しかしながら、それらの要素と玉依比売命神社を直接結び付ける材料は特にない。玉依比売が単独で祀られているのであればまだしも、わざわざ三柱を合祀しているのであれば、やはりそこに別雷なり建角身なりがいてくれないと賀茂系だという説得力は出てこない。

もうひとつ、丹塗矢による懐妊という賀茂の玉依比売と同じエピソードを持ちながら、夫神と子神を異にする「活玉依毘売」(セヤダタラ)の存在も無視するわけにはいかないだろう。こちらははっきりと三輪神であり、大神神社神官家の祖神である。もし、よくいわれるように諏訪信仰と三輪信仰が古層で繋がっているのだとすれば、玉依比売命神社の祭神の正体としては、ここで取り上げた3神の中で最有力といえそうだ。
しかし……。
三輪と出雲を直結させてしまうのも個人的には問題が多いと思っているが、出雲と諏訪の縁という側面から見るならば、その関係の根拠は上社古族ではなく、金刺氏の側にこそ見出せる。
善光寺の間近に国史見在の美和神社があること。
同じく水内に鎮座する式内・伊豆毛神社のこと。
中央の神話(すなわち、建御名方という出雲神とその神名)を諏訪に持ち込んだのは金刺氏と考えるのが自然であること。などなど。

付け加えておくと、以前にも書いたかもしれないが、「本殿を持たずに神体山を拝む形が共通する」という見解は、思い込みを通り越して完全に誤謬としかいいようがないので、その件で諏訪(特に上社の古信仰)と三輪とを関連づけるような説は、論外である。
ただ、大神神社神官家の始祖である大田田根子はほかならぬ多氏なわけで、であるならば金刺氏とも同族であるという建前が成立する。金刺氏(またはその祖先)が北信~東信あたりをウロウロしていた時代、水内の美和神社や伊豆毛神社とともに祀ったという可能性も考えられなくはないだろう。少なくとも、綿津美の娘と考えるよりは遥かに多くの根拠が見出せる仮説だ。
しかしながら、活玉依毘売を主祭神とする神社は全国的に見てもほとんどなく(現時点で私はまだひとつも見つけていない)、あまりにも特異である。そしてまた、玉依比売命神社が三輪信仰の宮であるのなら、そのことを示すなんらかの痕跡(特に祭祀において)が遺されていてしかるべきなのだが、それもまったくない。アマテラスの代わりにオオモノヌシでもいれば非常に確度は上がるのだが……現時点で、この説を推すことはやはり難しいように思う。

と、どれを取っても決定打に欠けており、玉依比売命神社の玉依比売については、その正体が霞んでゆくばかりなのである。
式内の古社にしてこの得体の知れなさは、いったいなんなのだろうか?

といったところで私が思いついたのが、玉依比売一般名詞説に基づき、「既知の玉依比売のどれでもない、独自の玉依比売なのではないか?」という、無謀とも思われる仮説である。
といっても、正直、海神の娘とみるよりは遥かに穏当な推論だと思っているのだが。

ただ……個人的な思考の作法として、古代の神について、たとえば「Aという神とBという神は同神」というような決め付け方は極力避けたいという気持ちがある。「Aという神の正体は、本当はB」という表現も同様である。
たいていの場合、「Aは同時にA´でもあり、A´はB´と混じっているので、結果的にAとBは同じ神のように見える、場合もある」みたいな、ややこしい話なのである。
逆も真なりで、「Aという神はA´という神とは本来別神である」などというのも、迂闊な表現だと考える。
オオクニヌシの例がもっともわかりやすいのだが、たとえば「オオクニヌシ=オオナムチ=ヤチホコ」というのは、これはもう、記紀の述べるところなので否定しようがない。だがその実態を考えるとき、大方の学者は「オオクニヌシという習合神」という理解を前提に、「オオクニヌシ≠オオナムチ≠ヤチホコ」なのは当然のことと考えている。
古代の神のほとんどが、多かれ少なかれ同様の性質を持っているとみていいだろう。

玉依比売命神社の玉依比売も同じことだ。
名前に齟齬がないのでややこしいが、古層では「玉依比売≠玉依比売」だったとしても、今現在、祭祀者や氏子がこの神を海神の娘だと思っているのなら、それを否定はできないし、する必要もない。というか、神社である以上、歴史より現在進行形の生きた信仰を重んじるのが当たり前である。
まあ……「あーあ、恵比寿様だとカン違いして武居恵美酒に商売繁盛なんかお願いしちゃってるよ(笑)」などと内心ニヤニヤするシーンは現実にあるわけだが、その祈願者たちに「あんたら間違ってるよ!」などと指摘する気はないし、むろん、その必要もない。というか、そんなことをする意味がない。
宮内庁のいう「たとえ天皇陵の比定が間違っているとしても、百年そうやって祀り続けてきたので、魂はもう移っている」みたいな話である。愚かしいことなのかもしれないが、それもまた信仰というものだ。(※主題から外れる個人的な見解とか感想とかの補足を読んでいただけるのであれば、末尾の「つづきを読む」参照)

というわけで、私は「この玉依比売」に吸収されてしまった「名無しの玉依比売」の存在を想定したわけなのだが、のみならず、その「名無し」の部分にあてはまるのではないか、という土着神を見つけてしまったのである。
それは、イコール、諏訪信仰の秘奥「謎の磯並社」の正体が見えて来た、ということでもある。

ようやく、最初に言った「とんでもないこと」を言えるところまで辿り着いた……。
というわけで、

(つづく)

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小玉石を巡る冒険 その12

玉依比売命神社と安曇族(前編)

舞台は再び松代、「児玉石神事」で知られる玉依比売命神社へと戻る。
当シリーズ中にアップした以前の記事もチェックしていただければ幸いである。

一般に、玉依比売命神社はその主祭神ゆえ、穂高神社同様に安曇族が持ち込んだ信仰、安曇族が興した神社だと考えられている。現状、それは通念とまでいえるほど流布しているのだが、調べてみればそれほど古い通念ではなく、おそらくは宮地直一の『穂高神社の研究』が拠り所になっているのではないかと思われる。
今回は、この通念に対する疑義を呈しておきたい。
なぜというに、私は、この宮をれっきとした諏訪信仰系列社だと考えているからだ。

第一に、玉依比売命神社の祭神、その組み合わせの特異性に注目しなければならない。「磯並三社大明神」の「三社」が示すところは、玉依比売命、建御名方命、天照大神の三柱である。よくあるように明治の合祀で結果としてそうなったわけではないので、非常に特異な組み合わせだということを認識する必要がある。と同時に、この地で海神・玉依比売を祀る必然性についても探ってみる必要があるだろう。
もちろん、各神社についていちいち祭神の必然性を問うていたらキリがないのだが、信濃国においては、賀茂神社(別の玉依比売のほうだが)の分社のようなわかりやすい例を除くと、玉依比売を祀る神社という存在自体が著しく希少なのである。
逆にいえば、「賀茂神社ならぼちぼちあるんだけど…」という事実を無視してまで安曇族の宮だという、その前のめりな恣意性をまずは指摘しておきたい。
アマテラスに関しては、「本来は豊受比売だったのではないか?」という仮説に以前触れた。もうひとつ、ひょっとしたら、このあたりに点在する御厨(伊勢神宮の領地)に関係している可能性もある。この件についてはほとんど調べていないので確かなことは言えないのだが、点在する御厨と諏訪勢力支配の相互作用の結果であろうか、水内周辺には建御名方とアマテラスが相殿している小社を結構な数見つけだすことができる。もしこの仮説を妥当とするならば、三社の組み合わせが成立した時期としては、相当に時代を遡ることができるだろう。早ければ平安時代、中世でも後半まで下ることはないだろう。

そしてなにより、玉依比売命神社に建御名方が祀られている点を軽視するわけにはいかない。信濃國の神社としてはむしろ「標準」とすらいえるが、いずれにしても、それはこの宮が、ひいてはこの地域が諏訪勢力の支配下にあった時期があるということを示す。
数多ある諏訪神分霊の経緯としては、まず、鎌倉時代、諏訪信仰及び諏訪勢力が幕府(特に北条氏)に格別に重視された結果、各地の武将によって勧請されたというものがある。頼朝の命で八幡神社が増えまくったのと似たような経緯といえよう。
それから、諏訪神社を奉祭する職人や開拓民らの移住に伴うものがある(例:東京の海岸近くに見られる諏訪神社は、諏訪から移住して海苔産業に従事した人々が勧請したものだという)。そうした歴史の反映を伝説から読み取れるような古いケースもあるが、基本的にこうしたパターンは江戸期の事例が大勢を占めそうだ。
全国的に見ればこの2つのパターンが主たるものだが、信濃國内においては少々事情が違ってくる。「諏訪神官家の分家が施政者として派遣されたケース」もしくは、「当地の勢力が諏訪勢力の傘下に入ったケース」が、数多く見出せるのである。このケースが想定される時代としては、諏訪神党が跋扈した鎌倉後期~室町前半あたりが中心になるだろうが、南安曇の大妻氏のように、鎌倉時代最初期(平安末期までは十分に想定できる)からの存在を確認できる例もある。さらには金刺氏が諏訪に入る以前の動きまで「諏訪勢力の動向」として理解するのであれば(そのように理解すべきだと私は思っているが)、当然、奈良時代にまで根拠が求められる例も少なからず見出すことができるだろう。
そこで、「御子神」たちが重要な手がかりになってくるのである。式内社、すなわち平安中期までに存在したことが保証される神社で諏訪御子神が祀られていて、しかもその神の名が三代実録などの国史に登場している場合、平安期の時点でその宮と周辺地域が諏訪勢力の傘下であった証拠となる……可能性が出てくるのだ。「可能性」と限定したのは、その神がいつから諏訪系列の神と定義されたか、その点が定かではないからだ。
……このテーマには、本項の大詰めでもう一度接近することになる。

といったわけで、玉依比売命神社における諏訪神の勧請はどうなのだろう?
格式高い式内の古社である以上、後世の住民移住に伴っての合祀という線は、まず考えられない。

鎌倉~室町期の武将によるもの……これは、いわゆる諏訪神党の時代、擬制的に神氏を名乗ることになったこの地の氏族が諏訪神を勧請した可能性が考えられる。もしそうであるならば、候補となる氏族を割り出すことはそう難しくなさそうである。とはいえ、苦手分野なのでよほど腰を据えてかからないとどうにもならないのだが(最終的には有坂先生に泣きつくことになるだろう)、ごくおおざっぱに調べた範囲では、玉依比売命神社が鎮座する松代東条近辺の施政者をはっきりと確認できるのは室町時代に至ってからで、その時代、関屋氏、寺尾氏、杵渕氏といったところを拾い出すことができる。
言うまでもなく、戦国時代真っ盛りになると施政者はころころ変わり、真田氏、村上氏といったおなじみの名前が次々に顔を出してくることになる。

まず、関屋氏はれっきとした諏訪神党である。皆神山の西南山麓に位置する彼らの奉祭神社、源関神社の伝承によれば、諏訪大祝為盛が(退位後という意味だろう)延久元年(1069)当地に住まい、関屋氏の祖となったという。神氏系図に一致した記事はないが、為盛の付近に関屋姓の人物が登場することは確かだ。諏訪神党の中でも後期の擬制的な神氏とは違い、由緒正しい血族である可能性が高い(つまり、伝承通り平安後期の分家である可能性も考えられる)。
そして、寺尾氏と杵渕氏は関屋氏の傘下であった。

また、諏訪には室町~江戸期における造営時の普請記録が豊富に遺されているわけだが、このあたりの地方はそれぞれの郷村ごと、頻繁に諏訪社の祭事で御頭を務めている。
というわけで、少なくとも室町時代において、松代近辺はほとんど100%近く諏訪勢力の支配下にあり、その余波は江戸時代に至っても残っていたということである。であるならば、玉依比売命神社に建御名方が勧請された事情について、この時期の施政者によるものと考えるのが穏当であろう。

だがしかし。
今回最初に書いた通り、私はこの宮は最初から諏訪系列社だったと考えているわけで、その場合、諏訪勢力に属する施政者が、平安期以前、この地を治めていたという前提が必要になってくるのである。と同時に、当然のことながら、まず第一に、なぜ諏訪系列社で玉依比売を祀っているのか?という理由づけが必要になってくるわけだ。
……というか、それこそが本項のメインテーマであり、今回の段取りを終えて、ようやく次回、その本丸に攻め込むことができるのである。

といったところで……もったいぶるようで恐縮なのだが、この話はひとまず置いて、玉依比売命神社の周辺をざっと地図上で見渡してみることにしよう。その気のある方は、グーグルマップを拡大して参照してみてほしい。
東南方向から時計回りに、桑井神社、源関神社、藤澤萩神社、熊野出速雄神社、祝神社、会津比売神社、西寺尾頤気神社、槌井神社、柴神社、小島田頤気神社、名立神社、高井大室神社……といった神社が目に入ってくると思うが、以上、すべて諏訪系列社である。しかも、国史見在社に比定し得る古社が複数含まれている。
むしろ周辺で諏訪系以外の神社を探すのが困難で、まず、金毘羅、愛宕といった江戸期の庶民信仰の宮が見つかり、あとは一瞬目を疑う「黒猫神社」も見つけることができるだろう。これは北信~東信付近に散見されるカラネコ社系列に属する神社だと思われるが、その系列自体、荒唐無稽な民間伝承に関連しているという以上のことはわからない謎の神社である。
いずれにしても、圧倒的な数を占める諏訪系列社に対し、安曇系の神社など影も形も見当たらない。皆神山の南麓にある白鳥神社が一見唐突に思えるが、これは当地の古族、滋野氏の奉祭神社である。滋野~海野~真田という系譜ゆえか、記録に残る範囲では真田氏が熱心に普請している。
北西方向、更科の範囲に至って、ようやく安曇系といわれる更科斗女神社が目に入ってくるが、その祭神も実は建御名方であり、「安曇系といわれる」件についても疑わしさがついてまわる。唯一確実なのが安曇神ウツシヒカナサクを祀る氷鉋斗女神社だが、この宮についてはしばし後に触れることにする。
先に述べた室町期の事情があるとしても、この圧倒的な「諏訪エリア」の中にポツンと孤立して、安曇の宮と安曇の神が今にまで伝わるということがあり得るのだろうか?

そしてなにより、玉依比売命神社は、口碑とはいえ「建五百建命創建」とする伝承を持つのである。
建五百建は、崇神によって任命された初代信濃国造として旧記にその名を残しており、金刺氏の祖とされる。古代史マニアの間では、森将軍塚の被葬者と目されることも多い。しかしここでは、それらが史実であるか否かはまったく問題としない。下社大祝金刺氏(おそらく平安期の時点では、上社も含めた諏訪社全体の運営統括者だったろう)が、その裔であることを自認し、名乗り、それが中央公認の上で広く受け入れられていたという史実(三代実録に記事がある)にこそ、意味があるのである。
金刺の名は、同族の他田とともに、奈良時代から平安時代にかけ、諏訪、水内、埴科(松代を含む地域)、小県、筑摩、下伊那、そして遠州にもはっきりと刻まれている。血統の連続性については知ったことではないが、同じ時代に、同じ國、同じ体制の中で、同じ姓(しかも公式な権威と正統性の証である舎人直姓)を名乗っていた以上、「金刺・他田グループ」としての連絡と協力体制があったのは当然であろう。
この時代、もちろんそれは、共有する信仰を基盤としてのみ成り立ち得るのである。
すなわち、「建五百建命創建」の伝承は、それが事実であれ後付けであれ、玉依比売命神社が相当に古い時代から金刺グループ管轄下、もしくは諏訪信仰グループ傘下の神社であったということを自ら主張しているに等しい。

そんな宮の、どこをどう見れば安曇族の宮だと判断できるのか?
正直、理解に苦しむのである。
唯一の根拠が「玉依比売」という神名だ。しかし、「他の玉依比売」についての検証をいっさいせずに、「海神の娘の玉依比売がいるから安曇族の宮」と断じてしまうのは、乱暴を超えて「思い込み」でしかない。「近在にウツシヒカナサクがいるから」という極めて薄弱な材料を論拠にするというのであれば、私は対抗して、「もっと近くに建御名方がたくさんいるし、池生命もいるし、八杵命もいるし、伊豆早雄命もいるから」と答えよう。

さらに、古式の御田神事からも、児玉石神事からも、御判神事からも、海人族の匂いはしてこない。御田神事、御判神事は明らかな農耕儀礼であって、しかも古式。
いや、確かに、農耕神事については、安曇族こそが水田稲作の伝播者だとする説を持ち出すことも可能かもしれない。しかし、信濃においてもそうだったのかといえば、穂高神社、川合神社、住吉神社……どこを見ても、祭祀における農耕神としてのビビッドな特徴の顕れは認められない。そもそも安曇族が信濃に入ったのはそんなに早い時期ではなく、考古学的な見地からは、古墳時代も後半になってからのことと考えられている。もはや水田稲作の伝播云々という時代ではなかろう。

海人たちが山国にやってきた結果として、その信仰形態や伝承には相応のアレンジが加えられた。それが穂高見命と穂高神社であり、御舟祭であり、また、八坂刀売もその範疇内である可能性がある(詳細はまたそのうち)。いずれにしても、山国にやってきた以上、海神をそのまんま、生のままで祀っていて満足できるはずがないのだ。なぜなら、そこでは荒波からの加護も、豊漁の祈りも、海の彼方や海の底に異界を観想する信仰も、すべて無用だからだ。だからこそ、海の彼方の異界に代わる高山上の異界を観想し、自分たちの神として穂高見を祀ったのだ……というのが、柳田系民俗学の定説である。
実際問題、水内~埴科~更科において、海神を生のままに主神として祀った神社というのは、ただのひとつも見当たらない。穂高神社の至近距離までいってようやく、住吉三神を祀る住吉神社、綿津美を祀る川会神社が見つかるのみだ。両社とも、信濃においては極めて希少な「特異例」である(このあたりは、長野県神社庁監修『信濃の神事』の神社リスト、祭神リストから判断しているので、明治期の合祀で消された海神がいた可能性については否定も肯定もできない)。
なお、他國の住吉系列社では、神功皇后と習合したような「八幡系玉依比売」を祀っている例が時に見受けられるが、この住吉社に玉依比売はいない。

付記しておくと……明治の合祀で、松代東条にあった住吉の小社が他のいくつかの鎮守社とともに玉依比売命神社に合併吸収されているという記録がある。この点は無視できないが、しかし、現時点では検証のための材料がまったく見出せていないので、保留とさせていただく。

20111213:伊勢御厨の件と関屋氏の件、加筆修正。

(後編につづく/今回は「中編」はないです)

小玉石を巡る冒険 その11

コダマ石あれこれ(後編)

「コダマ」に充てる文字として、「コ」に対しては「小、児、子、木、蚕」があり、「タマ」に対しては「玉、珠、魂、霊」がある。ただ、その順列組み合わせすべてが見られるわけではなく、ポピュラーに見られる組み合わせとしては、小玉、児玉、木魂、木霊、蚕玉、蚕魂あたりまでだろう。仏教の影響が色濃い場合「珠」も好んで使われるが、そう書いてしまうと単に「球状の貴石」の意味になってしまい、呪物としての意味こそ変わらないものの、「魂」の意味が後退してしまうため、古神道やアニミズムにはそぐわない。
ともあれ、これらの「コダマ」を性質別にざっと分類すると、

1.小玉、児玉
 アニミズム的な呪物としての石。豊穣と生命力の霊性を持つ。
 勾玉のような古代以前の宝玉類も、基本的にはこの範疇に入る。

2.木魂、木霊
 「ヤッホー!」と呼べば返してくるコダマ。西欧でいうところの「エコー」。
 その本来的な意味として、樹木の精霊。

3.蚕玉、蚕魂
 養蚕/製糸業を前提に、その犠牲となるカイコ蛾の霊。

ということになる。
とりえず本題である1は置き、2から見ていこう。

純粋、かつ抽象的に樹木の神性を祀る「木魂神社」というのは、まず存在しない。猟師はもちろん、樵人たちの信仰も「山の神」に集約されており、漠然とした概念、もしくは集合体としての「木々」を祀るといった形態を取ることはない。
いっぽう、神社には社叢(鎮守の森)や御神木が付きものだが、そもそも「モリ」という言葉自体が、神の宿る場所という意味を内含している(小学館『日本国語大辞典』の「森」の項でも、その旨は確認できる)。森や木々が神の依代であるということは、逆に言えば、森や木々そのものを神と看做しているわけではない、ということだ。
依代としての樹木信仰の名残を今に伝える好例が、諏訪信仰における「タタエ木」である。タタエ木において、その代替りはごくごく普通のことである。どんな巨木もいつかは枯れるが、以前と同じようにそこに神が降りて来てくれさえすればいいのである。樹木の品種が変わったとしてもまったく問題はない。タタエは祭祀の「場」であって、そこにおける神木は代替可能な存在なのだ。つまり、木そのものへの信仰とはいえない。この点で、最終的にミシャグジを木の神と断じてしまった柳田の思考は間違った方向にいってしまった、と断言していいように思う。

古木大木に限っては、実在する一個体そのものがアニミズム的な信仰の対象となり得る。といっても、まず神社があって、その境内地の樹木が神聖視され、大切にされた結果「御神木」と看做されるまでに育つ、というのが現状見られる一般的なパターンであって、これを樹木信仰と看做すには順序が逆である。が、実際問題として、巨木信仰に端を発する神社はおそらく少なからず存在するだろう(おそらく、といったのは、端緒となった樹木が遥か昔に枯れてしまっていては、実証のしようがないからである)。たとえば、独立した大木の前に小祠が置かれているという状況、これは今でもあちこちで見かける。こうした素朴な形がアニミズム的な樹木信仰の原型にもっとも近いわけだが、ただその場合、「神を祀った小祠の背後に御神木がある」と読むべきではなく、「この木が信仰対象なのだ」という「記号として祠が置かれている」とみるべきであろう。「木の神を祀った神社」ではなく、あくまでも「木が神様」なのだ。本来はそこに名の通った祭神などを勧請すべきではないのだが、祠があれば祭神を定めたくなるのはサガのようなもので、高木神や木股神といった樹木の神性をもった神が勧請されるケースが多い(巨木は水を蓄え、その根元から泉が湧くこともあるので、水神が勧請されることも多々ある)。だが、そうしてしまった瞬間にアニミズム的な樹木信仰ではなくなり、あたりまえの御神木を備えたあたりまえの神社という形態に転じてしまうのだ。

大きな神社でこうしたアニミズム的樹木信仰の形を今に伝える代表例が、ほかならぬ諏訪大社下社である。斎庭内の双本殿(宝殿)は左右に振り分けられ、参拝ラインの正面奥に御神木が立っている。この御神木には当然代替わりがあり、また、タタエ木という信仰形態が身近にあった諏訪だからこそ、こうした形が今に残ったのだろう。とはいえ、今現在、「じゃあ、諏訪大社下社の本質って樹木信仰なの?」と問われたとき、肯首する者は皆無だろう。
要はそういうことなのだ。

以上、神社と樹木の関係という時点でこのような状況なのだから、まして「玉石に樹木の神性を祀る」といった高度に抽象化された信仰形態があるとは、ちょっと考えにくい。
ただ、知る限り唯一の明確な反例として、本項「その3の補足」で触れた、真田町小玉神社を見ておく必要がある。この神社の旧名は割石明神といい、3つに割れた巨石の上に諏訪神を奉じた祠が祀られている。「割石/さくいし」の名は、当然「さくじ」の音に重ねた可能性が考えられるのだが、長野県神社庁HPに登録された由緒書に、「小玉は木魂にして、木魂明神ともいいます」とある。根拠はわからないが……磐座信仰に諏訪神、サクジと来て、「木魂」という神性を想定するのは非常に難しく、単純にコダマの音から連想された後付けと考えるのが妥当なように思われる。
磐座一般には、大地も森も水も含む大自然そのものの神性を見るほうが相応しい。強いて樹木に限定するのなら、それは森全体、木々のすべてを育む偏在的な霊性であって、それがたとえばタカミムスビという名の下に集約され、大木なり磐座なりにそういった神が降りてくる、という構造になるのである。
やはり、磐座や玉石に樹木のスピリットそのものを見る、という信仰形態は存在しないとみていいのではないだろうか。

次は3の「蚕玉、蚕魂」である。

養蚕業が盛んだった長野や群馬などでは、「蚕玉(こだま)神社」や「蚕影神社」を無数に見ることができる。だが、まず確認しなければならないのは、「蚕玉信仰」そのものは、さほど古くないという点である。もちろん、信濃近辺に養蚕による製糸・織物加工技術が伝わった時期としては、十分に奈良時代まで想定し得る。だが、「蚕玉信仰」のバックボーンとなる思想は、仏教の「供養」という概念の直接の影響下にある点に注意しなければならない。
養蚕が近代的な意味での「産業」となり、かつ、供養の概念が庶民にまで定着した時期として、中世まで遡ることができるかどうか。現実問題として、近在の蚕玉神社の創建記録や、無数に見られる関連文字碑の年号など、江戸初期まで遡るものはほとんど存在しないのではないかと思う。きちんと調べたわけではないので断言はできないが……。

と、ここで、前回の最後に触れた榛原郡のコダマ石の問題へと立ち返る。
野本寛一氏の観察と分析(と、なによりもフィールドワーク)は大いにリスペクトしているが、この件についてはちょっと肯けない。なるほど、綿でくるむことに関しては、確かに養蚕との関係なしには語れないかもしれない。だが、扇に綿の膜を添えて神社に奉納し赤子の誕生を感謝する習俗や(中沢新一の『精霊の王』では沢底鎮神社の例を挙げているが、上伊那の神社全般で見られる)、諏訪神社上社の御頭祭で、かつては神使が綿にくるんだ烏帽子を被って姿を現したこと(新婦の被る「わたぼうし」も直接的に連想される)などを思えば、特に諏訪信仰において、綿が「誕生」と「生命」に関わる性質を持っていたと考えることにさほど無理はないように思われる。
まして、衣替え神事によって児玉石が少しずつ巨大化していくという神秘を思えば、そこに生命、成長、豊穣の霊性が籠められていることに疑いの余地はないだろう。
この児玉石は「胎」のイメージを強烈に発散しており、それを養蚕信仰由来に限定してしまうのは信仰の矮小化でしかないように思う。
高勝寺の例に限っては確かに「蚕玉石」そのものとしかいいようがないが、諏訪神楽の伝播という前提を鑑みるに、やはり「小玉石(という観念、もしくは呪物)に蚕玉の性質を仮託した」とみるべきなのではないかと思う。

ただ、綿を胞衣とみなすような発想自体が蚕の繭玉そのものに立脚する可能性は大いにある。「生命力の玉」ということを考えたとき、再生を象徴するカイコの繭は、まさに「児玉(石でこそないが)」であるともいえるからだ。
養蚕に深い縁を持つ諏訪信仰だけに、「生命力の玉:児玉石」という概念が生成される中で、繭玉のイメージが作用していたと考えるのは自然なことだ。同じように、榛原郡のコダマ石にも繭を観想していた可能性は高い。だが、それでも……やはり、本質は養蚕業にあるのではなく、生命力と誕生の神秘にこそあるとみるのが筋だろう。
長野県ほかでは、小正月のどんど焼きの際、米粉の餅を丸く(または繭形に)整え、木の枝に鈴なりに刺して火で炙り、「おまいだま(繭玉)」と呼んでいただくという習俗もある。そこに養蚕業成功への祈りも含まれていたかもしれないが、むしろカイコの繁殖力と再生の神秘にあやかろうという面のほうが大きいのではないだろうか。どんど焼きは道祖神信仰に基づく正月の祭(すわなち、季節の循環を願い、太陽の再生を祝う祭)なのであって、別に養蚕業者たちがその神を祀る儀式ではないのだから、これは一族郷村の繁栄と豊穣を願う呪術とみるのが筋であろう。

しかしまあ、どちらが由来にせよ、「コダマ石」が豊穣と多産の神性を持っているという軸は揺らがない。
結論として、榛原郡の例の場合、より普遍的な神性である豊穣と生産の祈りが籠もった児玉石に、養蚕の繁栄への願いも包含されている、とみるのが妥当かと思う。
つまるところ、1の児玉石は、2の性質も3の性質も包含し得る、より広範で普遍的な呪性を持った存在だといえる。

以上見てきた通り、コダマ石はその表象や形態を限定しない、変幻自在の存在である。
「諏訪七石」というのは(おそらく)中世の諏訪神官による創作なのだろうが、なるほど、そのキャッチーな伝説は庶民にまで浸透した。しかし、現実に、その他たくさんの児玉石がこうして現存しているのである。ゆえに、「どれが本来の児玉石なのか?」という問題にはさほど意味がないように思う。そこには、「守矢満実に代表される中世の諏訪神官が児玉石だと思っていたのはどれなんだろう?」という、本質とかけはなれた各論的テーマがあるにすぎない。

自然石であろうと、加工された宝玉であろうと、丸石、石棒、ゴツゴツの磐座であろうとも、大きかろうが小さかろうが、「生命力の霊性を秘めた石」は、すべてコダマ石なのだ。
現状からみる限り、そうとしかいいようがないだろう。

(つづく)

小玉石を巡る冒険 その10

コダマ石あれこれ(中編)

ここまでに、信濃國内のいくつかの児玉石を見てきた。
さて、それでは信濃國の外でも児玉石(もしくは類例)を見出すことはできるのだろうか?
答えとしては……できる。
できるのである。
それも、ごく限られた地域に集中して見出すことができる。
三信遠……すなわち、三河、信濃、遠江にまたがる山深き芸能の里。
そう、芸能の聖地として知られる天竜川下流を中心とする地域である。

この地域に伝わる花祭や雪祭、霜月祭は、神楽の最古態を遺すものとされる。かつてそれは、西から伝わってきて隔絶山村の中で保存、熟成されたものと考えられていたのだが、武井正弘氏らの研究により、逆に諏訪から天竜川沿いに伝播していったものだということがわかってきた。
残念なことに源流たる諏訪神楽は完全に滅んでしまったわけだが、現に三信遠の神楽では、今も「~水底照らす小玉石」がしばしば歌われているのである。
つまり、かの地は児玉石信仰の伝播先として申し分のないモデル地域といえるのである。

では、具体例を挙げていこう。

まずは「コダマ石」の名を伝える例として、磐田郡水窪の山住神社を挙げておきたい。
式内「芽原川内(はきはらかわち)神社」に比定される古社で、山犬信仰という非常に特異な信仰の宮として知られている。その本質には無関係なのだが、社の楼門の前に「こだま石」と呼ばれる岩があり、注連縄が掛けられている。溶岩と思われる高さ1メートルばかりのゴツゴツした自然石で、「磐座」と呼べるほどのサイズはなく、どちらかといえば立石の部類だろうか。こうした際立った特徴を持っているわけでもない自然石も、「コダマ石」足り得る、ということである。

いっぽう、裸祭で知られる磐田市の式内社矢奈比売神社と、その近在の府八幡宮では、非常に印象的な呪的祭祀として浜の小石が用いられる。祭日に臨み、あらかじめ浜辺で海水に濡れた丸石十二個を拾っておき、これを白紙でくるみ、十二支の文字を書き入れて出発前の神輿の周りに並べるのである。
ここには「コダマ石」の名称こそ認められないが、海岸での石拾いの習俗は「~水底照らす小玉石」の歌を直接的に想起させる。

もっとも、単なる浜石拾いの習俗であれば、この地域に限らず各地で見受けられる。たとえば和歌山潮岬では、節分の日、あたかも若水のように海水と浜の小石を迎える。
ただ、これらの信仰形態は浜の砂とともに用いられることが多く、直接的に小玉石信仰の影響下にあるとみるのはちょっと難しいかもしれない。とはいえ、やはり諏訪信仰の直接的な伝播範囲に多くの例が見られるという事実を無視することはできまい。

静岡市西大谷付近では、正月など節目の行事として、桶に海水を迎え、中に白い小石を3個沈め、松葉で塩水を撒いて清めをする。
小石3個といわれれば、いやでも武石子檀嶺神社の児玉石を思い出さずにはおれない。

また、浜名湖西岸でオオモノヌシを祀る二宮神社には飛玉伝承がある。この宮では神宝として多くの玉類を奉っているのだが、それは「飛来した宝玉」に基づく信仰だというのである。面白いのは、その宝玉というのがひとつやふたつではないという点である。社伝によるとその内訳は、「丸白大玉1、黒大玉1、石剣頭1、特選種玉26、大曲玉48、中曲玉29、小曲玉80、雑玉99、白玉1」とのこと。多くは勾玉だが、大玉というのは丸石の類と思われる。決定的なのは「石剣頭」というやつで、実見しなければなんともいえないが、これはおそらく縄文晩期の石剣か、さもなくば弥生~古墳時代の「石造模造品」とみて間違いないだろう。付近から出土した太古の遺物を集積して祀っている気配が濃厚であり、すなわち、二宮神社の宝玉類は玉依比売命神社の児玉石と完全に同種とみてよいのではないかと思う。
江戸後期に流行った「飛び神明」など、「タマ」の飛来伝承は分祀の伝説的表現として普遍的に見られるものだが、そこに呪物としての石が直接絡んでくると、やはり児玉石の匂いがしてくる。

参考までにもうひとつ、これはネット上で拾ったのだが、千葉県匝瑳市の「六社大神、御神宝“玉石”の由来」というのをそのまま引用しておこうと思う。
中臣定次という神官が遺した文書を現代語訳したものらしい。
引用元

応永二十三年(1416)九月三日の夜半、下総の国匝瑳郡野田の浦で、一人の漁夫が海をながめていたら、はるか玉崎の神原沖の波の合い間に何か光るものがある。翌日も同じ刻限に海岸へ出てみると、やはり光るものが現れ、野田の浦を照らしている。
 不思議に思った漁夫は、さっそく産土神(うぶすなのかみ)に参詣し、そのもようを私(中臣定次)に伝え海上の安全を祈った。私はこのことを広く村人に話したところ、すぐ村人たちは境内に集まってきて、みんなで海の平穏と魚の盛んになることを祈った。そしてその夜、村人たちはこぞって野田の浦へ行き、光を見ることになった。
 やがて、玉崎の沖の水底に光が見え、それが日の出のように波の上に現われて、カッと海面を照らした。私も村の老若男女も、その霊光ともいえる輝きに驚き、九拝して退いた。
 六日になって、一人の漁夫が波打ちぎわに玉のような小石が二つあるのを見つけ、私のところへ持ってきた。私はうやうやしくこの玉を受け、神殿に供えた。
 それ以来、野田の浦では大漁が続き、諸民こぞって豊かで楽しい暮らしができるようになった。それもこれも神様のおかげである―ということで、この地に海神を祀(まつ)り、私がその祭主となった。何と不思議なことであろう。この玉は神様であろうか。
 応永二十四年丁酉九月五日に、野田龍神にご神幸があり、翌六日六社(神社)に来て祭祀(さいし)を行った。それから玉崎に還幸となったが、私はこれらのことを後世に伝えんとして、ここに由来を記すことにした。


これもまた、「水底照らす小玉石」のイメージそのものである。
ただし、六社大神の六柱のうちに諏訪系の神は特に含まれていないので、直接の繋がりがある可能性は低い。

それからもう一例、非常に重要と思われるものを挙げておきたい。

大井川上流、駿河遠州の最奥部ともいえる榛原郡に、コダマ石神社がある。
(※「コダマ」は「谷偏に牙」+「谷偏に令」、すなわち「木霊」を意味する文語的表記だが、その表記自体は明治時代に宛てられたもの。中世時点で「児玉石」表記が確認されている。本稿では、以下「コダマ石神社」とさせていただく)
以下は、基本的に『神社と聖地 東海編』(白水社)からの抄録である。

『榛原郡神社誌』掲載の由緒によると、文明年間、山城国の梅津大納言なるものが信濃国飯田を経由して(※わざわざ経由地を記すあたりは注目に値する)この地に居住、姓名を改めて当社を創立。もとは大井大明神といった(※水源信仰を意味するのだろう→対応する祭神はミヅハノメ)。のちに砂金採集を生業とする当地の住民が、見事な鉱石を採掘、これを神体として石凝姥命(※イシコリドメ/天孫降臨チームの一員で、八咫鏡を造ったという鋳造の神)を勧請した、と。

『駿河志料』では児玉石権現社の名のもとにその秘祭の様子が記されている。曰く、

「三年目閏月ある年神事あり、旧例にて浜垢離沢へ神輿を出し、社家神楽を捧げ、神輿へ沢水を振り注ぎ清む。此社神体は円石なり、神事の度、いにしへよりの例にて、真綿に包み、封するなりと社家伝えり。」

この神事は「衣がえ」と称され今も伝わっており、閏年の11月23日におこなわれているという。極めて興味深い祭であり、引き続き『神社と聖地 東海編』(当該個所は野本寛一氏筆)から、以下しばらくは、直接引き写させていただく。

 まず正午を期して拝殿で例祭があり祝詞奏上、礼拝を終えると、宮司が本殿にのぼって御神体をおさめた祠を覆う弓・矢・鉾・御幣などを取り除く。禰宜や神役がそれらをリレー式に手渡しして拝殿の外に居並ぶ村人たちに渡すが、渡す前に。それら弓・矢・鉾・御幣に一枚ずつ新しい四手(しで)が付けられる。それらは新しい四手を加えられることによって威力を新たにするのである。
(中略)
 そうして禰宜や神役が御幣や武器を処理している間に、実にひそかに、宮司の手によって「こだま石神事」がとり行われる。この神事は秘儀であり、何びとも見ることを許されないが、その概略はおよそ次の通りである。まず、「左束の和紙」二枚を敷き、その上に真綿二枚を広げる。さらにその上に御神体を置き、真綿と和紙で御神体を包み、麻紐で三か所を縛って三方の上に置く。神事のたびに前回の包みの上にさらに包みが加わるのだから、御神体は雪だるま式に大きくなってゆくはずであるが、実際にはあまり大きさが変わらないという。


……以下、この御神体を神輿に乗せて浜垢離沢に向かい、沢の水を振りかける清めの儀式をおこなった後、神社に還坐する。
御神体の「芯」になっているであろう『駿河志料』いうところの「円石」については、歴代宮司も含め、当然これを目にした者はいない。

というわけで、私はこの「こだま石」に、諏訪系児玉石と共通する性質を強く感じた。
だが筆者の野本氏は、付近で養蚕が盛んであったこと、愛知県北設楽郡(これまた三信遠芸能エリアど真ん中)高勝寺の田楽で、白い河原石2個を奉じ「~白玉の御神、よき蚕の種とよろこんで」といった祭文を唱えること等から、最終的に養蚕業を前提とした「蚕玉/コダマ」に立脚する信仰であると判断している。
この結論には少々異を唱えたいので、その点も含め、次回「コダマ石あれこれ(後編)」にて、挙げてきた多くの例を俯瞰的に分析してみたいと思う。

(つづく)

※今回、及び次回の内容は、白水社『神社と聖地 東海編』を大いに参考にしています。
 原直正氏が、本稿との関連において同書をご教示くださいました。多謝!
プロフィール

LooseFrog

Author:LooseFrog
基本的に怠惰で、社会人として問題の多い中年男です。
でも、興味の対象には嬉々として食いつきます。

loosefrog★gmail.com
(@に置き換え願います)

デタラメやカン違いや不適当な素材の使用等ありましたら、ご指摘ください。
もちろん、助言や感想も歓迎いたします。

***

字が小さいとの御指摘をちょくちょくいただきます。
P盲な私がいまさら細かいところいじるとワヤになりそうなので、ブラウザの拡大機能の使用を推奨いたします。

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