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小玉石を巡る冒険 その9

コダマ石あれこれ(前編)

諏訪の海 水底照らす小玉石 手には取るとも 袖は濡らさじ

前項でフライング気味に紹介したが、もともとはこの歌を軸に話を進めていこうと考えていたので、通しタイトルを「児玉石」ではなく強いて「小玉石」としたのであった。
構想は変わってしまったが、まあ、「小玉石」のほうがより普遍的な感じがするので、それはそれでよしとしておこう。
非常に有名な歌であり、里謡ともいわれるが、嘉禎(鎌倉時代)の奥書を持つ諏訪社の祭文集「根元記」及び「祝詞段」にもしっかり載っている以上、失われた諏訪神楽の祭文の一節であることに疑いの余地はない(祭文では「小玉石」の部分がリフレインされる)。
たとえば下諏訪町高木の津島社(「高木鎮守」として根元記にも登場する古社)では、戦前ころまで湯立神事がおこなわれており、その際にこの歌が唱えられていたという。歌の内容は盟神探湯を連想させるところがあり、湯立神事にはよく似合っているように思う。

さて、児玉石神社の社伝には、この歌を関連付けた伝承がある。原典には当たれていないのだが、『御柱祭公式HP』によると、

「諏訪宮神徳記抄」には “神が諏訪湖より大石を取り上げたが、袖はぬらしませんでした。中に2個の大石があり「児玉石大明神」と称しました。” とあります。


とのこと。児玉石神社には5つの巨石が連なるように並んでおり、そのうち2つだけを特別視するというのも奇妙だが、なによりも、前項で触れた通りこの歌の内容から巨石は連想しづらい。手長、足長、デエラボッチと、巨人神になじみのある諏訪だからこそなんとか受け入れられているのだろうが、このイメージだと、もとの歌の雅やかな感じが台無しになってしまう感は否めない。この歌の主人公としては、どちらかといえば、たおやかなお姫さまでもイメージしたいところである。
また、本シリーズ最初の児玉石神社の項でも触れたが、この神社の社殿配置からいうと、社頭の磐座を主祭神の依代と見るのは無理がある。むしろ本殿の中に収められているという無数の石棒、丸石、石皿等が児玉石神社の御神体とみるのが当然である。
となると……この石棒、丸石、石皿群もまた、児玉石なのではないか?という疑問が生ずる。

というのも……これらの石器群は、おそらくは付近からの出土物が順次奉納されたことによって数を増してきたと思われるのだが、その経緯が玉依比売命神社の児玉石にそっくりだからである。
前述した通り、玉依比売命神社の周囲には多くの古墳が見られ、特に山稜を隔てた北側には、積石塚群集墳で知られる大室古墳群がある。農地の開削によって煙滅した古墳は数知れず、そこからの出土物が奉納されたとみるのが定説になっている。
当社の記録によれば、児玉石が一気にその数を増したのは江戸後期で、これは、国学によって古墳や勾玉、さらには式内式外の古社に対する注目度が急速に高まった時期とも重なる。と、まあ、背景となる事情は非常に現実的なものなのだが、注目すべきは、「増えれば吉兆、減れば凶兆」とし、そのために毎年奉納が繰り返された、という点である。

すなわち、児玉石というものは「増えること」にその神性を見出されている面もあるのではないか。

「さざれ石の磐となりて」と歌われるように、古人は、岩というのは長い長い時間をかけて成長するものだと考えていた。たとえば小袋石を見ると、その存在感の唐突さに我々は圧倒される。峻烈な山岳地帯や渓谷ならいざしらず、おだやかな地質の里や森の中に、突如地中から湧きだしたか、それとも天から降ってきたかのように唐突に存在する巨石に対し、人々は神秘と畏怖を感じたことだろう。木が枯れ、水が流れ、土が容易に造成できるいっぽうで、岩は不変かつ不動である。「苔のむすまで」不動であったがゆえに、それがどこから来たのか、どうしてそこに在るのかが想像しにくい。その圧倒的な存在感と「生成の神秘」こそが磐座信仰の原点であり、ゆえに、誕生や生命力の神性へと通じていくのだろう。
石は育つものであるとする世界観の中で、なおかつ生命力の霊性を持った特別な石なのであれば、増殖するのも「当然」というべきである。

また、玉依比売命神社においては、決して「児玉石=勾玉」ではない。ひと抱えもあるゴツゴツの自然石もあれば、穴だけ穿った自然石、管玉、球形の宝玉、トンボ玉も、旧石器時代の石斧すらある。それらすべてが児玉石なのだ。
であるならば、児玉石神社の磐座の見事な連なりっぷりも「増殖する石=児玉石」のイメージにすんなりとなじんでくるし、本殿の中で密やかに増殖してきた石器群(石棒と石皿のペアは、繁殖の象徴そのものだ)も、やはり児玉石と呼ぶべきなのではないだろうか。

諏訪大社と諏訪神社』の八ヶ岳原人氏は、中世の七石にいう児玉石は、本来児玉石神社のそれではなく、上社のお膝元にあったのではないか、という疑問を提示している。
氏も発見できていないようなのだが、ここで「高部児玉石」が紹介されている。私もこれを確認できていないのがもどかしいのだが、なるほど、中世にいう七石の児玉石は、こっちが本来だったのかもしれない。しかし、だからといって、「児玉石神社の児玉石は、本当は児玉石ではない」ということには決してならないはずである。
児玉石というのは、本来、ひとつの磐座なり宝玉なりに特定されるべきものではないのだ。そして、中世の諏訪神官が既にそのことを忘却していたのだとすれば、その信仰の根は相当に古いということにもなる。

塩沢瀬神社本殿裏

この写真は、磯並各社の祭神比定の項でも紹介した塩沢「瀬神社」の、本殿覆屋内部である。
本殿の背後に、多くの丸石と石棒が集められている。
これもまた、児玉石……の、少なくとも類縁とはいえるだろう。
間違いなくいえるのは、児玉石神社本殿の中で起きているのとまったく同じ現象が、ここにも起きている、ということである。

塩沢瀬神社境内末社

こちらは、同神社の境内末社。
「天満宮」と刻まれている。丸石だの石棒だの奉納されて、天神様もさぞかし困惑していることだろう。
こうした例は、特に八ヶ岳山麓の各所で見られる。いっぽう、里の宮で見られる似た風景は、村の若衆たちの力比べに供された「力石」であることが多い。力石は全国的に見られる習俗だが、諏訪ではやはり丸石や石棒が目立っている。まず石集めの信仰があって、それは村の辻や集会所の前に置かれることが多いため、結果として両者が「混じっている」可能性は高いように思われる。
この丸石集めの習俗は、同じ八ヶ岳山麓文化圏という共通性から見ても、甲斐の丸石道祖神(好例)と根を同じくする信仰とみてよい。生殖と豊穣の神でもある道祖神の丸石集めと、生命の石たる児玉石信仰を比較した際、そこに通低する信仰思想があることは否定できまい。まして、児玉彦命が古代における神長家の宗主とされている以上、背後に潜む石神としてのミシャグジの存在も否応なく浮かび上がってくるのである。

武石子檀嶺神社の児玉石の性質については、「若宮」について考察したこの項をご参照願いたい。
分祀という行為によって引き渡されるエネルギー……すなわち、「若宮=別け宮」に内在するミシャグジ的な再生のエネルギーが、この小石には籠められている、と考えておきたい。

次回後編は、その他の児玉石の例をいくつか挙げ、さらにその本質に迫っていく。

(つづく)

【110501:「力石」の件、ちょいと修正】
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小玉石を巡る冒険 その8

武石 子檀嶺神社(後編)

疑問は募るばかりであった。
まず、古文書の存在を確認したい。目の前に現物を出されたところでそれを読むスキルなど持ち合わせてはいないのだが、とにかくその存在と奥書の年代(たとえ嘘でも)を確認したいのである。それなりの文献であれば『長野県史』(これがまた、膨大かつ検索性の低い手強い資料で…)なりに収録されている可能性もあるし、自治体の教育委員会に管理委託されていることも考えられる。
そして、近代においてなんらかの変化、変革があった気配も感じる。御柱祭が健在で、しかも昨年おこなわれたというのに、あの中宮の打ち捨てられ方は尋常でない。また、「慶徳殿」などという怪しげな名前から感じられるのは、「戦前」の空気である。国家神道ならまだいいが、「玉諸武彦」あたりからはオリジナル新宗教の臭いがしてこないでもない。

というわけで教育委員会の武石支部に電話してみたのだが……とことん! 徹頭徹尾! ラチが明かない。ただひとつだけ、『武石村誌』が存在することを聞けたことのみが収穫だったが、この本、県内の図書館でもなかなか所蔵していない。特に諏訪には皆無(諏訪圏のデータベースで類書を探して空振ったことがあるために、その存在を知らなかったのだ)。しかも、御柱祭の歴史についての考察があるだけで、神社そのものの歴史にはほとんど触れていないようなのである(教育委員会・談)。
『武石村誌』はそのうち機会を見て当たることとして、当面ほかに手の打ちようもなく、再度、宮司さんに電話してみることにした。前回の印象として、物腰柔らかで、少しも権威的でなく、教員を本業としていらしたとの話(教育委員会・談)にも肯ける立派なお方なのである。

--たびたびすみません。まず、古文書についてもう一度おうかがいしたいのですが、どこか教育委員会なりに委託されていたりするのでしょうか?
「いや、あの、基本的には神社の所有ということになるんですが、今はうちの方に引き上げて保管しています」
--え? そうなんですか……それで、社伝とか、造営帳とか、どんな種類の文献があって、おおよそいつごろのものなのかとか、少しでもわかりませんかね?
「うーん、それが……いや、まだちゃんと整理できてないんで……」
--そうですか……(整理できていない……?)。
「どのへんのことがお知りになりたいんでしょうか? まあ社伝は社伝としてありますから、そっちのほうは機会があればお渡しできますが」
--あ、ありがとうございます、ぜひ(印刷物でもあるのだろうか?)。あの、先日お宮のほうに参拝させていただいたんですが、なんていうか、こう、近代あたりの時代になにか断絶があったような……そういう印象を受けたんですが。
「そうですか? うーん……いや、大正7年、いや8年かな、大きな火災がありまして」
--あ、なるほど、その時に再建したということですか。それじゃあ、あの「慶徳殿」というのはなんなんでしょうか?
「もとは神楽殿なんですがね。今は直会とかのね、氏子さんたちの集会所というか」
--そういうことですか。しかし、そうすると……あの、神社庁のほうから、わりと最近先代から引き継がれたとうかがったんですが、宮司さんのお家がこの神社の神官を務められるようになったのは、いつごろからなんでしょうか?
「いつごろといいましても……うーん……まあ、私で29代めということになりますが」
--え? ええっ!?

予想もしなかった展開であった(まあ、主に観光課の「嘘」のせいなのだが)。
29代というのは相当なものである。むろん、かつては珍しくもなかったろうが、代々続いた神官家の多くが明治政府の専制的愚行によって絶やされてしまっている。出雲、阿蘇などの有名どころを中心になんとか続いたところはけっこうあるのだが、こういう知られざる雛の宮で29代の神官家が健在であるという事実は、ちょっと感動的ですらある。一代20年と想定すれば、室町時代も初期にまで届いてしまうのだ。
ということは……内容がどこまで信用できるかはさておき、社伝の出所だけははっきりしたわけである。
この神官家が代々受け継いできた家伝、ということだ。
そりゃあ、どこにも書いていないわけだ!
って……いや、しかし……ちょっと待てよ?
この町のお役所の感じだと、郷土史云々という風土でもなさそうだし、古文書もどうやら正規に調査されてはいないようだ。ということは、つまり……もしかして、この神社って「手つかず」なんじゃ……。

…………。

いやいやいやいや!
私ごとき浅学に本当のところはまったくわからないのだが……。
それでもまあ、とりあえず。
この狭い日本にも、まだまだ秘境と呼べる場所が残っているわけだが、しかし、それ以上に多くの、「探検に値する文化的秘境」が存在しているのではないか……ということを強く思わされた次第である。

改めて思えば……確かに「子檀嶺神社」は式内社であり、その名はよく知られている。だが、武石のこの宮と青木村の同名社とを比較したとき、論社としての説得力に圧倒的に優るのは青木村のほうなのだ。「子檀嶺岳(こまゆみ・だけ)」という名を持つ存在感抜群の神体山があり(→紹介例)、その山をとり囲む3方の村に里宮があり、中宮を持つものもあり、子檀嶺岳の山頂には3方それぞれの郷の本殿が並んで建てられている。まず、信仰圏の規模と厚みが圧倒的に違うのだ。しかも代表的な里宮は東山道に面していたと考えられ、遠からぬ町村境を越えると馬背神社(三代実録記載「馬背神」の最有力候補)がある。子檀嶺とは「駒斎(こまゆみ)」、すなわち、馬背神社ともども馬関連の信仰だと考えられているが、それは周囲が延喜式にいう塩原牧であったと考えられているからである。当然、中央に任命された牧官もいたはずで、そこから東に広がる塩田平には国魂社的な性質が色濃い生島足島神社があり、金刺氏、他田氏が上古以前における痕跡を強烈に遺しているのだ。

いっぽう武石の子檀嶺神社はといえば、のどかで広大な谷がいくつも交わる場所に位置する、山奥の小村の鎮守社である。遥か離れた美ヶ原から続く山稜に「子檀倉岳(こまくら・だけ)」と称する神体山を設定している。山頂下には清水の湧く磐座と奥宮があるといい(宮司氏・談)、地形的に見ても水源信仰は成立するものの、正直なところ、里宮から見上げていったいどの山なのか、まったくピンとこない山である。
式内社子檀嶺神社に比定される三代実録記載神は「駒弓神」なので、その点でも「こまゆみ」の呼称を今に伝える青木村が有利だ(ただし、現在の祭神は木股神)。古い時代において両社に直接的な繋がりがあった可能性ももちろんあるが、とりあえず、民間で「こまみね」と呼ばれ、中宮を駒形、奥宮を「こまくら」、古名を「獄石宮(たけしのみや)」とする武石の場合、おなじみの「あわよくば式内社」パターンで、江戸後期以降に子檀嶺神社を名乗るようになったと考えるのが自然であろう。子檀倉岳に「子檀」の字を充てるのも後付け臭く、本来は「駒倉」あたりが想定される。「倉」は磐座の「くら」とも考えられるが、倉稲魂(当社では「宇賀御魂」表記だが)の「倉」とも考えられる。馬を軸に考えれば「鞍」ということもあるかもしれない。
「こまみね、こまがた、こまくら」と来ればこちらも馬信仰の宮と考えられるが、いちおう「高麗」の可能性も考慮に入れておく必要があるだろう。
(あ、それは青木村のほうも同じか……)
あともうひとつ、善光寺奥宮ともいわれ彦神別を祀る「駒形駒弓神社」と両・子檀嶺神社の関連も、諏訪信仰研究の立場からは大いに気にかかるところだが……それはまた無期限の「後ほど」ということで(←パクリ)。

以上、10人研究者がいたら10人が青木村を式内社に比定するだろう……と、いうわけなので、武石の子檀嶺神社はおそらくほとんど注目されてこなかったのではないか。
しかし、式内社でないとしても、別の一神社として注目する価値があるかないかは、まったく別の問題である。
とりあえず私としては、「児玉石伝承」に注目せざるをえない。現時点でその伝承の根拠や古さについて確かなことはなにもいえないが、諏訪から遠からぬ山奥の雛の宮にそういう伝承があるという事実だけでも、十分注目に値するだろう。
なぜというに、近現代の諏訪信仰において、こうした小石や宝玉を対象とする児玉石信仰の表れは確認できないからである。今の諏訪にあるのは、児玉石神社の磐座だけだ。そのいっぽうで、古き諏訪神楽の残欠「諏訪の海 水底照らす小玉石 手には取るとも 袖は濡らさじ」に見る小玉石は、どう考えても小石である。つまり、小石を小玉石とする信仰の形は、諏訪ではとうに失われた形、おそらくはより古い形なのである。ゆえに、たとえ文書が偽書的なものだったと仮定したとしても、この「伝承自体はある程度古い(中世までは遡り得る)」といえるのではないか。

なお、「児玉石(玉石)によって分霊」というパターンについて、玉依比売命神社がそうであるかもしれないという可能性を除けば、今のところ類例は見出せていない。

ところで、近世以降の諏訪神社は、分霊時の御神体として、おなじみの薙鎌を授与している。その形態から、もしかして勾玉の代用品として始まったのではないか……などということも前のめり気味に考えていたのだが、とりあえず武石の宮の児玉石が自然石であったことによって、そっちの仮説は引き下げることと相成った。

さて、次回は、「コダマ石」とはいったいなんなのか?という問題を、多くのサンプルを取り上げながら検証していきたい。

(つづく)


【110429付記】

その後、『武石村史』を手に取ることができました。
あまり時間がなく、禁帯出本だったため、つまみ読みしかできませんしたが……

ごめんなさい!
武石村のことナメてました!

ちゃんとこの神社に関する記述がありました。しっかりした考察でした。
(ということは……やっぱり教育委員会に騙されたわけだが)
古文書もしっかり参照してます。
でも、体系だった調査と、整理・管理は、やっぱりなされていないような感じです。
また機会をみて追加報告をまとめたいと思いますが、本項で主題とする児玉石伝承については特に新情報がなかったため、とりあえずは話を先に進めさせていただくこととします。

小玉石を巡る冒険 その7

武石 子檀嶺神社(前編)

今回は、予告してあった「もう1社、訪ねなければならない神社」の件である。
ちなみに社名の読み方は、正式には「こまゆみね」、地元の通称では「こまみね」と呼ぶ。「子檀嶺神社」は式内社だが、北側の山を越えた青木村に論社がある。こちらでは正式名称通りに「こまゆみね」、もしくは「こまゆみ」と略されることもある。
まずは、長野県神社庁HP「子檀嶺神社」の項からの引用で話を始めさせていただくことにしよう。

だが……その前にひとこと言っておきたい。
長野県神社庁HPのデータベースは御世辞にも立派なものとはいえず、祭神や沿革等については、やる気のある宮司氏の自主性によってのみ記入されており、住所以外の情報がまったく表示されていない神社が大半である。その時点でガッカリだが、逆にそんな中で見られる少数の解説は、自主性に任されているからこそであろう、なかなか役に立ち、新たな発見も多い。だがそうした場合でも、肉筆文書によって委託されているためか単純な誤字や誤謬が目立ち、HP管理側の仕事の粗さとやる気のなさ、呆れ返るほどの知識の貧弱さがあからさまに露呈している。まあ、実際には入力を外注会社のバイトに任せたとかいうような話なのだろうが、「こういうもの」を世間に曝し続けているという管理責任は当然免れ得ない。「長野県神社庁の職員ってのは、古事記もろくに読んでないのか…」と思われたとしても、己の怠慢の代償として受け入れるほかあるまい。
風俗狂いの葬式坊主と似たようなもので、そんなことでは、氏子にしても神様を拝むに拝めないというものだろう。

長野県神社庁職員諸氏におかれましては、せめて最低限の志を持ち、最低限の仕事だけはしていただきたい。

と、きつく苦言を呈しておく。

というわけで……怒りを鎮め……以下、引用である。
ニュアンスを伝えたいので、解説部分の全文引用をさせていただく(問題を指摘されたら即座にurl表示に切り替えるが、注記は残す)。

式石郷八ヶ村の産土神として信奉されている子檀嶺神社は、奥宮である子檀嶺獄[※引用者注:「子檀倉獄/こまくら・だけ」の誤り]山頂の子檀倉社、中宮である余里の駒形神社、里宮である当社からなっている。御祭神は、奥宮は宇賀御魂神・高れい神[※引用者注:表示不能漢字の読みとしては「高オカミ神」がベター]、中宮は建御名方刀美命、里宮は宇賀御魂神、建御名方刀美命、八坂刀賣命の三柱である。 和銅5年(712)に山城国紀伊郡稲荷神社より宇賀御魂神を[※引用者注:「分社、」が脱落か]子檀嶺獄[※引用者注:子檀倉獄]山頂に鎮座しこれを奥宮と称し、里宮は旧下武石村五日町に御遷座、お祀りしていた。大同元年(806)3月15日当国一ノ宮上諏訪神社より建御名方刀美命、八坂刀賣命を宝珠児玉石三個に添いて分社し二柱の命を左右の殿に遷祀した。古くはこの三柱を合わせて子檀嶺神社獄石宮大神として祀っていた。貞観2年(860)2月神位従五位下を授けられ、延長2年(924)御勅改、延長5年(927)延喜式に選ばれ名神小社に列した。寛冶元年(1807)[※引用者注:1087の誤り]源義光公本殿再建され元暦元年(1184)当郷の豪族武石三郎平胤盛本殿吠殿[※引用者注:「吠殿」はおそらく誤混入]を修理された。 天正4年(1576)依田川の大洪水により社地・社殿が流失し、当時の地頭大井大和守信廣現在地へ遷座し祭典料として28貫文の地を寄付された。慶長12年(1607)9月28日領主真田候社領として18石余寄付され、以降領主が変わる毎に社領は寄付された。延享3年(1746)烈風のため大破損を被り、翌4年領主松平伊賀守忠愛候巨木を寄進された。


以上、源義光(新羅三郎)、武石胤盛など、雛の宮にしては意外なほどの有名人も名を連ねているが、個々の部分の真偽はとりあえず置くとしても(特に創建年代の古さは、にわかには信じがたい)、まず、その社伝の詳細さに驚かされる。そのわりに、郷土史等の書籍でまったくお目にかかったことがないのが、なんとも奇妙な感じだ。
しかし、今回注目したいのは、もちろん「上諏訪神社より建御名方刀美命、八坂刀賣命を宝珠児玉石三個に添いて分社し」の部分である。
これを知った時点で、私はまず、「この児玉石」は勾玉なのではないか、という印象を持った。むろんそれは、玉依比売命神社の児玉石が頭にあったからである。児玉彦神社のような磐座ではない、小さな児玉石……とくれば、当然の連想である。児玉彦神社にいた玉屋命のことも思い出される。
もしそうであれば、玉依比売命神社の児玉石も、建御名方分祀の際に諏訪神社から持ち込まれたものが元になっているのではないか……そう考えたのだ。

とかく疑問が多いので、まずは自治体の観光窓口に電話してみたのだが、神社に関する専門的な知識は当然得られず、「専任の神主さんはいなくて、よその町からきてもらっている」との話(結果的に間違っていた)。誰か詳しい氏子さんを、と頼んでおいてもナシのつぶてだったので、仕方なく担当の宮司さんを調べ、電話取材を試みた。というか、最初からそうすべきだったのだが。

--長野県神社庁のHPで子檀嶺神社の解説を拝見したのですが。
「ああ、あれは……なんか変なことになっちゃってて、直さなきゃいけないとは思ってたんですが……」
--あ、じゃあ、もとは宮司さんご自身でお書きになられた?
「はい、そうです」
--ああ、よかった。では、いくつかご教示いただきたいのですが、あそこにあった社伝というのは、根拠となる古文書のようなものがあったりするんでしょうか?
「それは、ええ、ありますね」
--それは、いつごろのものなんでしょうか?
「うーん……ええと……それはちょっと、今、わかりませんが」
--そうですか……では、社伝にいう児玉石についてなんですが、あれって、もしかして現存してたりするのでしょうか?
「はい、ありますよ」
--えっ!? あるんですか? そ、それは……素晴らしい……あの、それで、それはどういった? たとえば……勾玉とか?
「いえ、勾玉ではないですね。小石が3つ。黒っぽいような……」
--自然石、なんですかね? 3~4センチとかそれくらいの?
「ええと、そうですね。それくらいですか。こう、表面がすべすべした感じの……」
--河原石のような? あの、平たい感じですか? それとも丸い?
「丸いですね。ああ、そう……白に茶色が混じったようなやつもあったかなあ」
--あの、それは、御神体ということですよね?
「そういうことになりますね」
--そうすると……拝見させていただくわけには……いきませんよねぇ?
「んー、いやあ……そうですねえ。あの……去年あったんですが、御柱祭の時だけ、三宝に載せて移動する機会があるので、その時なら……」
--見られるチャンスがあると?
「そういうことです」

うーむ……。
長野県内のたいていの御柱祭は諏訪と同時期におこなわれるため、諏訪人として、なかなか他所の御柱祭を見る機会には恵まれないのである。
ま、例外もあって、小野・矢彦神社と松本千頭鹿神社の建御柱は、通常の御柱年の翌年……すなわち、これを書いている時点で来月、おこなわれるのだが(小野に繰り出す予定!)。

ともあれ、現地を見ておくことにしよう。


より大きな地図で 武石子檀嶺神社 を表示

武石村自体、広々とした谷の明るい雰囲気に包まれているため、門前の雰囲気も非常に明るい。急斜面に向けて蛇行するように階段が駆け上っている。

一ノ鳥居を振り返る

登り口から見上げる

背後山?

背後の山は……神体山ではないらしい。武石川を主流とし、小沢根川、余里川などいくつもの支流が合流する地点の内側に里宮が鎮座しており、背後山は低く長い尾根状を成している。中宮とされる駒形神社は、小沢根と余里の谷に挟まれた尾根の途中にある。
奥宮のある子檀倉獄は、里宮から谷の奥を眺めて見ても、いったいどれなのか判然としない。

階段から背後を振り返ると、浅間山が美しい。

子檀嶺神社から浅間山

階段を上っていくと、段状になった削平地にぼつぼつと境内社が散らばっている。

子檀嶺神社境内社2

子檀嶺神社境内三間社

中にひとつ立派な三間社があり、その背後に注連縄が掛けられた石棒……ではなかった、なにやら刻まれた碑がある。

日月紋の石碑

「■石平胤盛」。
後で調べたら、どうやら「■」は「武」の旧字というか、ナントカ体らしい。
日月紋も刻まれており、なるほど、社伝にいう武石胤盛との縁がここにしっかりと遺されているわけだ。
ちなみに、この地域から白樺湖へと抜ける大門街道の奇勝「仏岩」には、県宝指定された鎌倉時代の宝篋印塔があり、一族の名を刻んだ銘文がある。千葉を本拠とした武石氏だが、このあたりに領地なりがあったことは確かなようだ。

一本御柱

そして、一本御柱。
ここの御柱祭は、天明年間におこなわれた記録があるという。それ以前からおこなわれてはいたろうから、分社の御柱祭としてはまあ古い部類といえる。
天明といえば大飢饉。しかも、間近な浅間山が大噴火している。そんな時期に敢行しているのだから、村が豊かだったか、それほどまでに重視されていたか……。

本殿を見上げる

一番上の段に、建物がふたつ。
……なんというか、神社の境内としては非常に風変りな印象がある。
参道の正面にはなにもなく、左右に振り分けられた建造物が広場を挟んで向かい合っていて、それが回廊で結ばれている。

子檀嶺神社本殿

本殿も、見なれない感じだ。瓦葺で、全体の印象としては寺っぽい。拝殿と本殿が一体化したスタイルで、しかし覆屋という造りでもない。正面が4間(というか、中央の2間がぶち抜きで1間の向拝のようになっている)、奥行が5間。最奥の1間が仕切られていて、そこが本殿という扱いになっているようだ。

本殿内部

正面の格子から内部を覗き見ると、奥に3つの神座が並び、扉が閉まっている。これが3柱の祭神に対応しているのだろう。

慶徳殿への回廊

慶徳殿

本殿と回廊で結ばれた向かって左側の建物は……舞屋なのだろうか? しかし、ガラスのはまった戸で全面が塞がれており、「慶徳殿」という額がかかっている。
なんだろう?

まあ、現時点で氏子衆の寄り合い所として機能しているであろうことは想像できるが、なんとなく違和感があるのは、やっぱり瓦葺であることと、加えて、棟の両脇にシャチホコが屹立しているせいだろうか。

慶徳殿裏

これは慶徳殿の裏。燈籠が唐突であり、その背後なりから「なにか」が丸ごとなくなっているのではないかという気もする。

とにかく、全体に、奇妙な神社である。
言っちゃ悪いが、正直、式内の格式は感じられない。

山宮にまで行く余裕はなかったのだが、とりあえず中宮の駒形神社はさほど離れていないようなので、向かってみた。

駒形神社1

駒形神社2

駒形神社3

ひとことでいって……倒壊寸前である。
打ち捨てられた感が強く、氏子の健在を感じさせない。

駒形神社栃の木

立派な栃の木。これは、市の文化財指定を受けている。

荒れているせいもあるのだが、境内の印象は暗い。気分的にもなんだか暗くなってくる。

境内裏に荒れた古民家があり、境内地に隣接するその入り口に奇妙な石柱があった。

玉緒武彦霊

「玉諸武彦霊」。

むむむむむむ……。
神名とも取れるが、人名とも取れる。
ちなみにネット検索ではまったくヒットしない。
石柱の裏には寄進者等と思われる文字も刻まれていたが、判読不能(拓本でも取れば十分読めるだろうが)。
「玉諸」は非常に気になるが……なんだかとても怪しい臭いもする。
のちに宮司氏に聞いてみたところ、「心当たりがない」とのことだった。
とりあえず……神社には無関係、と判断しておこう。

なにかとすっきりしないので、もう少しだけ、追跡調査を続けることにした。

(つづく)

桑根井古墳(松代)

積石塚古墳に合掌!

とうわけで、ぐっと砕けた調子で「この件に関係した気軽なレポート」のひとつをお届けしようかと思います。
私は約束を守る男ですからね。
よく言うよ。

舞台は松代、玉依比売命神社を訪問し終わり、皆神山の登り口を目指している途中のことでした。
のんびり走らせていたクルマの車窓から見えたのは……。

古墳発見

お? 古墳!?

本格的な古墳マニアはとても自称できませんが、古墳愛好家のはしくれとの自負は抱いている私です。カマドウマが怖くて石室に入れないのが難点ですが、「それらしいもの」をちらとでも見かけたら、見逃すものではありません。
クルマを停めて近寄ってみると……。

積石塚古墳

間違いない!
これがいわゆる積石塚というやつでしょう。
普通の古墳のような土饅頭ではなく、礫を積み上げて造った古墳です。全国的に見ると希少なものですが、その大半がここ松代周辺に集中しているのです。これは、渡来系氏族の集住の痕跡とみる説が一般的となっています。
まあ、この物件は土混じりですけどね。

それでも……うーん、初めて目の当たりにして大感動!

いや、ね、この地にあることはわかってるんですから、それを目的に訪ねたのであればそこまで感動はしませんよ?
通りすがりに偶然出会った、自分の目で見つけたのが嬉しかったんです。

周囲の斜面には畑が広がっていますが、その隅にはいちいちこういうものがあります。

古墳残骸

さぞかしたくさんの古墳がぶっ壊されたのでしょうね。
残念といえば残念なのですが、これは仕方がない。耕作者たちにとってみれば、そこここにある積石塚はひどく厄介な邪魔物という以外の何物でもありません。
きっとタタリを畏れつつも、背に腹は代えられず突き崩していったのでしょう。

ところで。
誰でも一度くらいは、「いつか地上は墓で埋まってしまうんじゃないか?」という妄想に怯えたことがあると思います。
なんとなく地下鉄コントを思い出すような夜眠れなくなる系の話ですが、実際問題、先史時代からの墓がすべて残っていたら、なかなかすごいことになっているでしょう。
まして、古墳は専有面積が大きい。
古墳時代が千年も続かなくてよかった……。
というわけなので、やっぱり壊されちゃったのは仕方ないですね。
でもこの地に限っては、その結果、玉依比売命神社の児玉石がぐんぐん増えて県宝に指定されるほどの貴重なお宝になっているのですから、大いに慰めになります。

でも……現代人が造成のために壊すのは絶対に許しません!
「江戸時代の農民以下の民度で現代人面してんじゃねえぞ、野蛮人どもが!」
と、不動産系大企業やゴルフ場経営者の皆様に申し上げておきます。

ふと見ると、その向こうにもうひとつ、いい感じの塚があるのでした。

隣の古墳

おー。
これは素晴らしい!

古墳墓地

古墳が丸ごと近世の墓地になってます。

古墳墓地接近

いいです、好きです、このセンス。
冒涜的なんだか信心深いんだかよくわからないこの感じ。

しかし、積石塚ですから、墓穴掘るのすげえ大変だと思うんですけどね。
それだけに労作ですよ。

頷きながら塚を回り込んでいって……みたび感激!

合掌型石室

おおおおお~、これが噂に聞く合掌型石室というやつですか。
偶然出会った積石塚が、合掌型石室の開口部を覗かせているという激レアな逸品。
これはラッキーですよ。
とか思ってたら…………んっ?

合掌型石室地蔵

地蔵です。
合掌型石室の入り口に地蔵が祀られてます。

すげえ!
理に叶ってる!
冥界への入り口ですからね。やっぱ地蔵さんに立っててもらわないと。
屋根型の入り口が実によく似合っていて、いや、本当に素敵としかいいようがない。
思わず手を合わせたくなります。
「合掌型石室」って専門用語は、これ見て思いついんたんじゃないかと。

庶民の素朴なアイデアによって、古墳祭祀(それもスペシャルなやつ)と、仏教と、民間信仰とが混然一体となっている。
しかも……全体として「墓である」という基本軸が微塵もブレていない。
素晴らしい!

私は、こういう豪快な習合が大好きです。

だけど、これは大真面目に逸品といっていいと思うなあ。こんな素敵な墓はどこ探したって見つからない。古墳の上に祠が祀られてるケースは多々ありますが、発想として、こっちの方がずっとクリエイティブですよ。
「こういう価値」を評価する価値基準が確立していないのは非常に残念なことで。
この「結果」をもって文化財指定し、総体として保存していってほしいものです。

純粋に古墳としてもやはり逸品らしく、自治体の文化財指定解説看板が立ってました。

桑根井古墳全景

たとえすべての近世墓が無縁仏になったとしても、それ取り除いて復元するなんてバカな真似、ホントしないでくださいね。お願いですから。

こういう面白さってのは、ま、「キッチュ」って言葉で表わされるナニカともいえるんでしょうけど、狙ったキッチュなんてのは下の下ですから。自然体のキッチュ、それも真摯なものほど素晴らしい。加えて、信仰絡みのものはいっそう飛距離が出ます。
この有名サイトなんか、素晴らしいスタンスで素晴らしい成果を長年積み重ねてきていますね。インターネット文化もめまぐるしく変遷を重ねてますから、単純に個人HPというカテゴリの中でも、相当長命な部類に入るんじゃないでしょうか。

現代にあっては「電波」の名の下にはじき出されてしまうような特異な感覚が、宗教が生き生きしていた時代にあっては、社会の側に受け入れられるだけの懐の深さがあったわけです。
だから……決して嘲笑うのではなく、心底感動したい。

なーんてことを思いながら"あの"皆神山に登ったわけですよ。
こともあろうに。

電波看板1

電波看板2

電波看板3

超有名なので特に説明しません。

ただ、これ↓の存在は知らなかった……。

出口王仁三郎歌碑

出口王仁三郎が皆神山を詠んでます。
で、ここの神主さんが歌碑を建てたのでしょうね。

なんていうんでしょう……類友というか、違いのわかる男たちというか。
自然に呼び合っちゃうんでしょうね。
もうちょっとだけ違う時代に生まれていれば、まったく違う形で歴史に残った人たちなのかもしれません。

皆神山で撮ったその他の写真は、いつか伊豆速雄命の続編を書くときまで死蔵される予定。
皆神山の存在感を肌で感じることができてすごくよかったです。まる。

小玉石を巡る冒険 その6

磯並を取り巻く海のイメージ(諏訪編)

諏訪の磯並システムに付きまとう潮の匂いとしては、

1.磯並という社名
2.玉依比売
3.満珠、乾珠の件
4.小袋石の異称「舟つなぎ石」
5.前宮境内社子安社の祭神を豊玉姫とする説

と、整理のため、強いて分析済みの問題も含めて挙げてみた。

1の磯並という名について、前回は松代における意味に検討を加えたわけだが、さて、諏訪においてはどうなのだろうか。
「石並べ」の仮説に則るならば、松代における磯並の地名は祭事に依存した後付けだということになる。かといって、「石並べ」の地名に説得力があるのは松代の側であることに変わりはないので、やはりその名が諏訪から松代へ伝わったとする仮説は成り立ち難い。まず、そのことを確認しておこう。

いっぽう、諏訪でこの名詞がどう扱われたのかといえば、早々に伝来の経緯が忘れ去られてしまったものと思われ、中世の時点ではすでに、単純にひとつの固有名詞となってしまっていたようだ。諏訪の祭事や記録の中に玉依比売命神社の存在がまったく残っていないことがそれを示している。
だからこそ逆に、なんらかの意味を与えようとしてあれこれと知恵を絞ったのだろう。そこで根拠にできそうな有力な材料は「磯」と「玉依比売」の組み合わせくらいしかないので、両部神道的な体系を整えていた中世の神官たちが、意図的に磯臭さを撒き散らしたのではないか、と私は考えている。

3の「満珠、乾珠」など、こうした磯臭い演出の最たるものだと思うのだが、
「あのね! 豊玉比売じゃないから! 玉依比売だから!」
とか、
「諏訪湖には潮の満ち引きとかないから!」
などと、思わずツッコミを入れたくなる強引さである。本来「潮満珠、潮乾珠」であるところの「潮」をさりげなく省いてあるあたりが、なんともいじましい。
よくしたもので、こうした不自然な設定は民間に定着しない。わかりやすく、メジャーで、いってしまえばミーハーな内容であるにも関わらず、である。

なにより肝心なのは、地勢から見ても、信仰史から見ても、氏族的に見ても、需要から見ても……あらゆる意味で、小袋石とその周辺で海の神を祀る必然性というものがまったくない、という点である。
海のイメージが持ち込まれる原因として考えられるのは、「磯」という字と玉依比売の存在のみ。そして、磯並という名のもとに玉依比売がそこにいる理由として考えられるのは、玉依比売命神社から勧請したという以外にない。
つまり、なんにも、ない。
要は、そういうことなのである。
民間に定着しないのも道理というものだ。

関連して5を先に扱うが、『神長官守矢資料館 周辺ガイドブック』は、社頭の由緒書で沼河比売を祀るとしている前宮末社の子安社の祭神を、豊玉比売としている。しっかりした学芸員の手になる非常にしっかりした本なので、単なるカン違いとも思われない。察するに、そのように書かれた古文書が守矢家文書の中に存在するのだろう。
だが……これもまた同系統の磯臭いプランニングによるものと考えれば、非常にわかりやすい話である。縁もゆかりもない豊玉比売を、よりにもよって諏訪の子安社に配する理由など、他にはまったく考えられないからだ。
ちなみに、諏訪で豊玉比売に出会うことは非常にまれである。摂社末社はわからないが、主祭神とするのは富士見町の鎮守社に1社見られるのみだ。

それならば、磯並社にいる玉依比売について、中世の神官たちは海神の娘であることにまったく疑いを持たなかったのだろうか? という疑問もあるかもしれないが、当時は、玉依比売一般名詞説はおろか、海神の玉依比売とその他の玉依比売を別の神とみるような合理的分析的発想自体が存在しなかったろうから、なんら不思議なことではない。

4の「舟つなぎ石」も、こうした恣意的な磯臭い演出のひとつですませたいところなのだが、民間伝承っぽいところが引っかかるので、検討を加えておこう。

よくいわれるのが「昔はこの高さまで諏訪湖だった」というものだ。
これはもう、まったく承服できない。
地学的にいうと、太古は、いわゆる「古諏訪湖」以上に、遥かに諏訪湖が大きかったことは確かなようである。本州を縦に貫く大断層である諏訪盆地全体が湖で、その水は富士見の分水嶺を越えて現在の釜無川から太平洋側に流れ出ていたのだが、天竜川河口の山が大崩壊して流れが変わった、というのである。

だが、現在発見されている遺跡の分布を見れば明らかなように、それは1万年続いた縄文時代よりも、さらにずっと前の話なのである。よって、まず、経験の語り継ぎである可能性は否定できる。天竜川河口大崩落の時代に人が住んでいたのかどうか、いたとして、旧石器時代以前の人がどんな舟を使っていたのか使っていなかったのか。ロープに相当する道具がどれだけ発達していたのか。そもそも、小袋石という岩は舟を繋ぐのに向いているとはいい難い。
いっぽう、神話や伝説には現代の合理を超えた驚くべき知見が見られることも多々あるし、中世までのシャーマンに現代人が失ったなんらかの感覚が備わっていたであろうことも否定しない。しかし、そういう超古代レベルの神話の表現として、「舟つなぎ」というモチーフはあまりにも所帯じみていやしないか、と思うのである。「デエラボッチが湖畔にドスンと置いた」とか、そういう話であるべきだろう。

古代~近世にかけて、諏訪湖の水位は10~20メートルくらいは下がったものと考えられる。ゆえに、諏訪湖を取り巻く古代の旧跡は高台にある同程度の標高ライン上に並んでおり、それが考古学や古代史における「800メートルライン」と呼ばれる通念である。
「舟つなぎ石」について「ここまで諏訪湖だった」とする現代人の見解は、この「800メートルラインという現代の神話」の影響下にある。近世以前に端を発する湖岸線後退伝承は、あくまでも800メートルラインの古跡に準ずるものであって、そこからさらに何十メートルも高い位置にあるたったひとつの古跡を同じ伝承の中で語ることはできない。それを対象とするなら、より古い時代を舞台とする別の神話が必要になってくる。

ひとつの可能性として提示できるのは、松代の「舟つき石」の伝承が、当地における湖沼の縮小、諏訪湖の縮小という歴史の相似性に基づき、玉依比売にくっついてきたのではないか、ということである。
付け加えると、松代から千曲川を北上した中野市更科の「高井舟着神社」という諏訪社には、「舟つなぎ石」という磐座がある。周辺の千曲川沿岸の高所には実際に舟を繋いだと思われる人工的な穴を持つ岩が散見されるという。
どうやら、小袋石の異称については、北信の諏訪勢力から持ち込まれた「伝来」、そして付会であると考えるのがよさそうだ。

まとめていえば、
「磯並システム全体に漂う海のイメージは後付けであり、本来的なものではない」
そして、
「玉依比売命神社と磯並社にいる玉依比売は、本来、海神の娘ではなかったのではないか?」
というのが私の見解である。
後者については、何回か後になると思うが、「玉依比売と安曇族」というテーマにおいて論を固めていきたい。

さて、お次は、前回予告した「もう1社、訪ねておかねばならない神社」の件である。
のだが……実は取材が間に合っていない。直近に訪問するつもりでいる。
最低限の聞き取り取材はすませたので、最悪、訪問レポートを省くことになるかもしれないが、できることならフィールドワークをベースにしたいと思う常日頃である。
というわけで、論の展開はまだまだこれからが佳境というところなのだが、それまでの間、ひと息入れさせていただくこととしたい。

できれば、場つなぎとして、「この件に関係した気軽なレポート」を1~2本差しはさんでいこうかと、思って……いる。

(つづく)

小玉石を巡る冒険 その5

磯並を取り巻く海のイメージ(松代編)

「磯並」とは、玉依比売命神社が鎮座する場所の地名であった。

諏訪にいて磯並社の謎を考えていた者にとって、なんともあっけない種明かしである。地名が根拠である以上、「小袋石の磯並社にいる玉依比売は、松代の玉依比売命神社からの分祀である」としか理解しようがないのだ。

上社最古聖地ともいわれる場所を、北信から来た中央臭い神が統括している。

諏訪信仰(特に上社)の古さとオリジン性をなにより尊ぶ地元マニアにとっては、実にまったく耐えがたい話である。たまたまこれを読んで「冗談じゃねえ!」とかプンスカしている爺さんの顔が目に浮かぶようである。
私自身も地元マニアなので、最初は信じたくなかった。しかし、1センチでも1ミリでも史実に近づく、そのスリルと悦びは、諏訪人の業に勝るのだ。(笑ってほしいところ)

が、しかし、まだ諏訪人にも抵抗の余地はある。

確かに「磯並」は地名だった。しかし、「磯並」という名は、海神の娘の鎮座地に相応し過ぎる。移転の末、そんなうまい地名に辿り着くというのは、ちょっと出来過ぎなのではないか。すなわち、そこには後世の作為が感じられる。単純に地名を根拠としていいものかどうか。

そしてもうひとつ、提示しておかなければならない事項がある。
ちなみにこの件は、個人的に大リスペクトしている諏訪信仰総合サイト『諏訪神社と諏訪大社』(リンク参照)の中の、「兒玉石神社」の項で御教示いただいた。
ソースを明示したので、手を抜いて一部をそのまま引用させていただこう。

「諏訪七石」には幾つかの説があります。最も古い『上社物忌令(神長本)』に以下の文が載っています。

児玉石 海端に在り、満珠是なり
小袋石 磯並に在り、乾珠是なり

「海端」は諏訪湖端のことで、かつてはこの神社辺りまで湖だったそうです。満珠・乾珠は神話「海幸彦・山幸彦」に登場する「汐満珠」「汐干珠」のことですが、なぜ「干・満」なのかの説明はありません。


個人的には、「神長さん、とんでもねえこと言い出したぞ」という感じなのだが、そこまで道具立てが整っていると、「磯」概念の元は諏訪にあるんじゃないか?なんて仮説に、付け入る隙を与える感じだ。
なんにしても、「磯並」という語そのものと、それを取り巻く海のイメージについて検証しておく必要があるだろう。

まず注目したいのは、玉依比売命神社周辺に、湖沼干拓神話の気配が感じられる点である。
湖沼干拓神話というのは……これをひとつの神話類型として定義した論文等に未だ出会えていないので(絶対にあると思うのだが。誰か御教示ください)、その概念も呼称も、私が勝手に設定した暫定的なものなのだが……山間盆地にしばしば見られる神話類型である。
代表的なのが安曇野の泉小太郎伝説で、ほかに巨石をどかすなどして水を排出したというパターンで、手力雄など巨人神が活躍するものが多々ある。
具体的には、京都、奈良、阿蘇、甲府、そして水内(善光寺平)にあることを確認している。おそらく、ちゃんと探せばまだまだ見つかるのではないかと思うのだが……とりあえず、民話の「竜の子太郎」が泉小太郎伝説のバリエーションなので、その出所はともかくとして、かなり流布している神話類型なのだろう。
ただ、この神話、諏訪にはない。
当然の話で、今なお湖が健在だからである。

玉依比売命神社に立ち返ると、この地には、具体的かつスケールの大きな湖沼干拓神話が伝わっているというわけではない。まあ水内が湖もしくは海の続きだったとすれば、このあたりも一体ということになるので、その片鱗が伝わっている様子はある(太古は皆神山が島だったという民間伝承とか)。その手の話があれば海人族臭もいくらか漂ってくるというものだが、玉依比売命神社を祀るエリアだけで見ると、大きな湖の存在をイメージできるような地形ではない。
基本的には、現在は消滅している神社前の池がずっと大きかった、という話のようである。そのくらいの話であれば、史実である可能性も十分に考えられる。と同時に、諏訪湖をめぐる歴史的状況との相似性も感じられる。私は確認していないが、付近の山には「舟つき石」と呼ばれる磐座もあるらしい。

現在の平地部分に湖沼が広がっていたのだとすれば、その湖沼地帯をもって「磯並」と呼んでいた可能性が考えられる。ゆえに、安曇族がそこに海をイメージしたという読みは、一見、かなり説得力があるように思える。だが、低湿地のような池沼に荒々しい磯をイメージできるものだろうか? まして、「磯並」を「いそなみ」と読むとすれば、本来「磯波」だったと考えるのが自然だが、荒々しい磯の波をイメージするのはますます無理な話である。どうせ海を想うなら、もっと相応しい地名がいくらでもあるはずだ。

そう、この地においても諏訪においても、「磯並」の読み方ははっきりしていない。「いそなみ」とも「いそならべ」ともいわれる。これが「いそならべ」だったとしたら、素直に「磯」を充てるのもどうかという気がしてくる。「磯を並べる」では意味にならない。たとえば「五十奈良部」とか、もっともらしく古そうな字をあれこれとあてはめてみたくもなってくるというものだ(これはまったくのデタラメだが)。

そういえば、諏訪における中世の神仏習合を専門とする畏兄・原直正氏は、小袋石周辺の磯並システムについて、こんなことをいっていた(玉依比売命神社が磯並大明神であったという件を伝える以前の話である)。
「磯といえば岩なので、当初は小袋石のほかにも磐座があり、現在の4社はそれらに対応していたのではないか。その磐座が連なる風景をもって磯並べと称したのではないか」。
ふとそのことを思い出し、そこでひらめいたのだが……
「いそならべ」が「いしならべ」の転訛と考えたらどうだろう?

 石並べ

これは……児玉石神事の所作、そのまんまではないか!

説明順序が混乱してしまって申し訳ないが、必要が生じてしまったので、ここで玉依比売命神社の児玉石神事についてざっと紹介しておこう。

玉依比売命神社には、神宝として数百個の「児玉石」が伝わっている。児玉石の実態は多種多様だが、主体を成すのは古墳時代の勾玉である。特に大型の子持ち勾玉は注目に値する存在である。ほかに相当数の自然石、少数派として管玉、切子、ガラス玉などもあるが、面白いことに新石器時代の磨製石器も混じっている(写真で見た限りでは石斧らしきものもあった)。
児玉石神事とは、これらの玉類をひとつひとつ取り上げ、「正」の字を記して数え上げ、三宝に並べて神前にその数を奉告、年ごとの玉の増減にとって吉凶を占うという神事である。
数が減れば凶兆なので、氏子は例年新たな玉を奉納するのが倣い。

というわけである。
祭事の記録としては江戸時代を遡り得ないらしく、また、記録によれば所蔵数の大多数は江戸後期以降に奉納されたもののようで、それも大方は付近の古墳群からの出土品と見られる。しかし、それを「児玉石」という概念の下に扱った事情については、もっともっと古いルーツを想定すべきだと私は考える。

前項で、「信仰の地そのものに必然性があれば同じ地に再建するし、村の鎮守であれば村とともに移動する」(この神社は前者ではなく、後者についてはどちらともいえない)とか「原始的な自然信仰の匂いの希薄な宮」などと書いた。にもかかわらず古社であるということは、ほかに信仰の根拠、本質があるはずなのだ。
ひとつ確実にいえるのは、地域の農耕の守り神だということである。児玉石神事以外の主要祭事について、御田神事、御判神事、ともに極めて古式(特に御判神事は相当に珍しいのではないか)であり、かつ、百パーセント農耕儀礼だ。しかし、そこがよくわからない。三社のうちの一柱であるアマテラスが豊受比売だったとしたらすんなり納得がいくのだが(というか、私はそのように疑っている)。
少なくとも、農耕儀礼を司るのはまったくもって玉依比売の「係」ではない。にも関わらず玉依比売が主祭神であるのなら、児玉石神事を司っていると考えるのが筋であろう。
つまるところ、まさに「石並べ大明神」なのである。
当初から抱いていた「玉依比売命神社の玉依比売は本当に海神の娘なのか?」という疑問も、膨らむいっぽうである。

さて、「石並べ」という仮説をいちおう受け入れるとするなら、この地名はむしろ玉依比売命神社に依存して成立したことになる。だとするならば、なぜそれが転訛し、わざわざ「磯」の字が当てはめられたのか?という疑問が生ずる。
しかしこれはもう、至って簡単な話で、玉依比売(という名)が持つ海神のイメージに引っ張られてのことだろう。
順序が逆と考えれば不思議でもなんでもないのである。
山間の湖沼地に「磯」を観想するよりは遥かに自然な推論だと思うのだが、如何だろう?

そして、ここまでの考察を踏まえ、今一度諏訪の磯並システムに立ち戻ってみたい。
のだが、長くなってしまったので、ここでいったん切ることにしよう。

(つづく)

小玉石を巡る冒険 その4

磯並大明神と呼ばれた式内社

今回の一連の思索を始めるきっかけとして、いくつもの複合的な要素があったものの、決定的な事実がひとつあった。もう2~3年前のことになるかと思うが、「それ」を知ったときには眼から鱗が落ちる思いと同時に、上社古族の信仰について積み重ねてきた思考の流れが、一瞬にして混乱状態に陥ったのであった。
順次、論を展開していく前に、まず「それ」を提示しておこう。

松代の玉依比売命神社は、旧名を「磯並大明神」という。

この事実を知ってしまった以上、同じ國の中にあって玉依比売を祀り、磯並を称する宮が無関係と断ずるのは、もう不可能である。というか、社名、祭神ともに被った状態では「無関係の証明」のほうが遥かに困難なわけで、「ではどんな関係があるのか?」を考えるほうがよほど建設的というものだ。
そんなわけで、この問題は折に触れて考え続けてきたのだが、ふとしたきっかけから、ひとつの仮説に至った。ゆえに、この項を書き始めたのである。
その仮説の提示までにはまだまだ回を重ねる必要があるのだが、なにとぞお付き合い願いたい。

以上、前置き。

*****

玉依比売命神社は、信濃國埴科郡の式内社である。
他の論社は皆無。
近世における通名は、「池田宮磯並三社大明神」。
俗に「池田の宮」、もしくは「磯並大明神」。
祭神は、玉依比売命、天照皇大御神、健御名方命。
上記三柱で「三社」というわけだが、加えてスサノオも相殿している。
創建は不明だが、式内社なので平安前期の存在は保証され、歴史的環境から見て奈良時代もほぼ間違いのないところだろう。さらに「建五百建命創建」との口碑を信じるのであれば、その起源は古墳時代にまで遡りうる。それはちょっと難しいにしても、疑いなく、古社中の古社である。

例によって地勢の説明から始めよう。


より大きな地図で 玉依比売命神社周辺の地勢 を表示

以前、頤気神社2社の地勢解説で尼厳山(あまかざりやま)と奇妙山を紹介したことがあるが、当社はその尼厳山の南麓に位置している。尼厳山から奇妙山、そこからさらに南東へと続く急峻な山稜に囲まれた比較的急傾斜の複合扇状地があり、この南西向き斜面からその下の平地にかけて、惚れ惚れするほど美しい山村が営まれている。

玉依姫の里A

玉依姫の里B

玉依姫の里C

玉依姫の里D
(惚れ惚れするほどの美しさを伝えられなくてごめん…)

南方間近には印象的な台形を成すあの"ピラミッド"皆神山の独立峰が迫っており、斜面に広がる農地には松代名物の積石塚古墳が点在、いわばポケット状を成したミクロコスモス、隠れ里のような趣がある。しばしば古墳名や古墳群周辺の地名に見られる「姥ヶ懐」という言葉も思い出される地勢だ。にしては、スケールが大きいが。

積石塚古墳
(積石塚古墳の一例。基部が石垣になっているのは、後の耕作者たちの仕業であろう)

この小世界に西側から蓋をするような形で尼厳山から低い尾根が伸びていて、この小尾根の内側急斜面に玉依比売命神社の社殿が設えられている。

玉依比売命神社A

また、斜面から平地へと伸びる数百メートルの参道は、低地に築かれた堤状になっており、両側は池、もしくは低湿地、もしくは水田だったようだ。
「池田の宮」の名はこのことによる。

玉依比売命神社B

玉依比売命神社C
(下の写真の背景が皆神山)

さほど大きな神社とはいえないが、さすが端々ににじみ出る風格がある。

玉依比売命神社正面

玉依比売命神社社務所

拝殿は……なぜか「八棟造」とする記事をいくつか見たが(なにか元ネタがあるんだろう)、とてもとても、そんな大層な珍品ではない。まあ、撞木造……かなあ。
このへんには善光寺さんという撞木造の偉大なるお手本もあることだし(実際、軒部分の装飾の付け方など、善光寺本堂の影響を感じる)。

玉依比売命神社拝殿

突出した前部が拝殿で、後方の横に広い部分が幣殿という建前になるが、後方がやけに広いのは、児玉石神事の「会場」として特化しているのではないか、と推測した。

玉依比売命神社本殿A

急な回廊が階段を駆け上がり、本殿へと続く。
(本殿が独立していて八棟造もないもんだ…)

玉依比売命神社本殿B

北信にはやけに三間社流造が多かった印象があるが、この宮は「三社」なので、わけあっての、由緒正しい三間社である。

境内下の広場の隅に、これは……いちおう舞屋……なのか?

玉依比売命神社舞殿?

注連縄が張ってあるから神社の施設ではあるのだろうが……不明。

移転の伝承があるので、その点も検証しておきたい。
まず「一川(もしくは市川、斉川という表記も見かけたので、おそらく斎川/いつきがわ、が本来であろう)」に鎮座し、次に「磯並」の地に移転(つまり「磯並大明神」の名は地名に由来する)、それからさらに現在地に移転したというが、書物によっては一度の移転しか述べていない場合もある。
いまひとつ、情報量十分でかつ一貫した資料に出会えていないので確かなところがわからないのだが、寛喜2年(1230)の移転記録があるらしく、また、江戸時代に水害で移転したとの話もある。総合すると、古代の創建→鎌倉時代の移転→江戸時代の移転で現在地、といったところだろうか。
ちょっと調べたところ、市川は現在の岩沢地区で、扇状地斜面。その下の平地、中川地区がかつての磯並らしい。細かい地域区分がわからないのでなんともいえないが、現在の鎮座地も中川地区の西端に含まれているようなので、二度目の移転があったとしても、それは磯並の名を変えなくても違和感がない程度の移動だったのだろう。
上掲地図中、ありがたいことに岩沢区公民館、中川区公民館、ともに表示があるので参考になるはずだ。

実に多くの神社が移転記録もしくは伝承を持っているが、これは「長い歴史の中で一度や二度は水害に遭う」というだけの話ではない。
実際に記録が残っているケースでは、村自体が移転を余儀なくされそれに鎮守社も同行した、というものが多い。信仰の地そのものに必然性があれば同じ地に再建するし、村の鎮守であれば村とともに移動する……と、おおむねそういうことである。
いっぽうで、山宮里宮信仰と同じ発想で移転伝承が作られる例もある。中世的にいえば垂迹伝承、最初に神が降り立った聖地として、基本的に高所(海辺の神社なら沖の孤島とかになる)に故地が設定されるのだ。水分(みくまり)の神の場合、特にこのパターンを持つものが多い。長野県内では、塩尻の阿禮神社、松本の須々岐水神社などが当てはまる。

しかし玉依比売命神社の場合、かなり話がはっきりしている上、故地を祭祀に取り入れていない点から、通常の史実としての移転記録とみてよさそうである。
そもそも、尼厳山、奇妙山、皆神山と、きわめて印象的な山容を持つ山に取り囲まれているにも関わらず、いずれにも山宮を設定していない点に少々違和感があり、原始的な自然信仰の匂いの希薄な宮である、ともいえそうだ。それでも、扇状地祭祀、池沼祭祀、祭神・玉依比売、いずれの面からも水の宮であることは疑いないが。

小尾根状を成した背後山も、その名は「天王山」で、玉依比売命神社の神体山とは看做されていない。松代の町でおこなわれる祇園祭の神輿はこの神社から出発するのだが、それが「配祀・スサノオ」ということで、つまり、玉依比売命神社がこの地に移転する際、もともとそこ(天王山)にあった牛頭天王社を合併吸収した結果なのではないかと思われる。別に祇園祭と玉依比売命神社との間に信仰的な繋がりがあるわけではあるまい。

特殊神事として、御田祭、児玉石神事、それに続く神占、御判神事があるが、いずれも非常に古式なもののようだ。
もちろん、本項において重要なのは児玉石神事である。
児玉石神事の概要説明から始め、「児玉石とはなんなのか?」という問題へと話を広げていきたい……のだが、その前にまだ必要なステップが2段階ある。
まずは、「磯並」という地名についての検証、
それから、もう1社、訪ねておかねばならない神社があるのだ。

(つづく)

小玉石を巡る冒険 その3の補足

興玉命の補足

この神を検討した際、『信州の神事』所載、長野県神社庁による祭神リストをひと通りチェックしたのだった。その結果報告を書き忘れてしまった……。

このリストには摂末社までは載っていないし合祀や相殿神については非常にいい加減なため、とりあえずの確認以上のものではないが、見たところ、長野県内で興玉命(らしき神)を祀っている神社はたった1社しか発見できなかった。

上高井郡高山村、赤和神社
祭神:興玉大神

詳細は不明。相当にマイナーな神社らしく、ネット検索ではほとんどヒットしない。当たるのは「赤和観音」ばかり、それも桜の名所としてだ。しかし明らかに同じ場所を撮影した桜の風景写真で「赤和神社のしだれ桜」みたいなタイトルのものがひとつだけ見つかったので、もしかしたら神仏習合の形を遺し、赤和観音と一体化しているのかもしれない。
今のところこれ以上いえることはないが、ただ、式内論社「高杜神社」(諏訪御子神の高杜神を祀り、神紋は立梶、御柱祭もやっている)が間近にあるので、諏訪信仰となんらかの関連を持つ可能性はある。

もうひとつ、旧・真田町の小玉神社もちょっと気になった。諏訪神を祀る神社だが、これは興玉命との関連で取り上げるのではなく、「3つに割れた大岩の上に本殿が建っていて、割石明神ともいわれた」とのことで、磐座信仰と「小玉」というタームの同居例のひとつとして挙げておきたい。
他にも小玉神社という社名は県内外を問わずぼちぼち存在するようだが、これもまだ仔細には調べていない。とりあえず、当たり前の話だが「人名、地名も含め、小玉/児玉という語は別段珍しいものではない」ということはいえる。

つまるところ、ざっと概観した限りで、興玉命は信濃國で一般的に祀られている神とはいい難い。そのことだけを確認しておきたい。

あともうひとつ補足。
これは「御子神十三柱の再検討」における補足でもある。

集めた資料を改めて眺めていて、今さっき発見したこと。
子袋石システムの中のどこかに本来は槻井泉神がいたのではないか、ということを「小袋石に集う神々」ではほのめかしたわけだが……。
葛井神社を奉祭した九頭井太夫矢島家は、槻井泉神を祖神と称していたそうである。
しかも、この神は「建御名方の孫神」であると考えていたようだ。
「御子神十三柱の再検討」で当たったいかなる資料でも槻井泉神は登場していない。他の神と異名同神である可能性も踏まえて追跡していかねばならないが、私の中では、諏訪にこの神がいる必然性が俄然高まった。

今のところ、そこまでの話。

というわけで、次回、改めて玉依比売命神社へ!

*****

メモ書き程度の追加(110421)

・玉諸神社(甲斐式内社)
 この場合は「たまもろ」と読む。
 論社のひとつは国魂なので無関係。
 もうひとつは、水晶原石を御神体としていたので、石としてのタマの意味はある。
 いずれも「モロ」である以上、それはムロヤマ、モロヤマなどの神座を意味する。
 三輪山の別名「三諸山」、守屋山の旧名「森山」、その他各地の「室山」「小室山」「大室山」等。

・玉諸神社(東近江近辺に3社あり)
 3社とも祭神はスサノオ。
 こちらは「たまお」だが、近在の「玉諸山(たまのお・やま)」に根拠を持つ模様。
 であれば、やはり「もろ」が本来である可能性が高い。

いずれも、玉尾社との直接の関連を想定するのは難しそうだ。

「玉の緒」といった場合は「へその緒」のイメージを彷彿させる。
小袋石との相性は非常にいいが、関連については想像するほかにできることはない。

小玉石を巡る冒険 その3

小袋石に集う神々

予告通り、小袋石をとりまく祭祀システムを構成する6社について、その祭神の意味するところを検証、考察していこうと思う。

■磯並社
祭神:玉依姫神、池生神

いうまでもなく、玉依比売は海神の娘である。それだけではなく、「神代最後の神」ともいえるウガヤフキアエズの乳母であり、かつ妻であり、皇祖・神武天皇の母なのである。水神の性質も兼ね備えているとはいえ、諏訪の山中の磐座の前というのは、彼女の居場所としてあまりにも唐突というものではないのだろうか。諏訪古族の最古聖地ともいわれる場所を統括する古社に、どうして海神系(信濃においては安曇系ということになる)の中央神がいなければならないのか?
地元贔屓を隠そうともしない(そこが素敵なのだが)諏訪の郷土史家たちは、おそらくは「それ」ゆえにであろう、この件を無視し続けてきた。確かに「後世の付会」で片づけてしまえばそれまでの話ともいえる。
だが、新世代諏訪信仰マニアを自任する私としては、そういう特異点にこそ食いつかずにおれないのである。また、これまでの思索の経験上、「後世の付会」にこそ、古層を探る最良の手がかりが潜んでいるという実感もある。

まず第一に、「玉依比売」という神名は一般名詞であるという説が根強い。
wikiを引くのは忸怩たるものがあったりなかったりするのだが、わかりやすくまとまっているのでそのまま一部を引いておこうと思う。

他の玉依姫
「タマヨリ」という神名は「神霊の依り代」という意味で、タマヨリビメは神霊の依り代となる女、すなわち巫女のこととなる。タマヨリビメ(タマヨリヒメ)という名の神(または人間の女性)は様々な神話・古典に登場し、明らかにそれぞれ別の女神・女性を指している。例えば、『山城国風土記』(逸文)の賀茂神社縁起には、賀茂建角身命の子で、川上から流れてきた丹塗矢によって神の子(賀茂別雷命)を懐妊した玉依比売(タマヨリヒメ)がおられる。(Wikipedia「玉依姫命」より)


ここで挙げられている賀茂の玉依比売と海神の娘の玉依比売とを比較すると、明確な共通点がある。それは、「運命的な出来事の結果、重要な御子神を生み育てることになった神」という点だろう。そして、その性質が「神霊の依り代となる女」という神名となって表れているのだとしたら、神話上で特定の神の母とされるのは、その神を奉じる巫女であったことの比喩である、という読み方もできる。さらに読み解きを進めれば、玉依比売を奉じる一族が、その御子神(とされる指導者・権力者)の後ろ盾であった、ということにもなる。それが神話のコードというものだろう。
たとえば、かのヤマトトトヒモモソヒメは三輪山の大物主と通い婚の間柄で、禁忌を犯して不遇の死を遂げたわけだが……ということは、「大物主の巫女としての役割をまっとうできなかった」ことを示していると考えられる。あの死に様は、記述者もしくは時の施政者、もしくは伝承という民意によって、彼女が罰せられていることを示す。もし巫女の立場をまっとうしていたのなら、大物主の母として神話に刻まれていたかもしれないのだ……という、あくまでも、例。

そこで……磯並社に居る玉依比売も、こうした神格を備えているのだろうか?
その核心に至るためには、もう少し材料を積み上げていかねばならない。

そして磯並社のもう一柱、池生神。これも非常に気になるところである。
しかし……先送りに次ぐ先送りで重ね重ね申し訳ないのだが、これは今現在継続中の池生神の項で扱うべき話になってしまうので、そちらに譲ることとする。
ただ、現時点で断言しておきたいこととして、磯並社の本体はあくまでも玉依比売であり、ここにおける池生神はあくまでも補佐的な位置(相殿)にいるというのが私の見解である。その理由については、次回(か次々回)で説明できるかと思う。

■瀬神社
祭神:不詳 一云、須勢理姫命

須勢理姫は大国主の正妻で、アジスキタカヒコネ(表記の不統一は、漢字表記が面倒なときたまにします。ごめん)と高姫(下照姫)の母である。根の国めぐりの大国主を助けたエピソードも有名だが、沼奈河比売に嫉妬したエピソードも負けていない。「ss」の音は荒ぶる神性を示すもののようで、須勢理姫は、しっかりと父神のスサノオから受け継いでいるのであろう。
建御名方から見れば義母に当たり、その子下照姫は諏訪信仰周辺に不気味に顔を覗かせているので、まあ諏訪と無関係とはいえないだろう。が、親等関係を根拠に祀るのであれば沼河比売を祀るのが筋であり、わざわざこの神を担ぎ出すのであれば、その根拠があって然るべきだろう。実際、諏訪では沼河比売はいくらでも祀られているが、須勢理姫を祀った例は、この瀬神社を別とすれば、以下に示す一例のみである。

上社古族の聖地である茅野市山浦地方の北端を占める米沢村の懐深く、塩沢という集落があるのだが、ここの鎮守社が「瀬神社」であり、祭神を須勢理姫としている。思うに、これが「一云」の祭神を定めた何者かの推論の根拠になったのではないだろうか。
しかしこの瀬神社、十五世紀末創建とする記録のあるなかなかの古社ではあるのだが、近世開拓村の鎮守という定義からは逃れられそうにない。ゆえに、諏訪信仰の古層にかかわると見るのは難しい。
加えて注意しなければならないのは、古事記での表記はあくまでも「須勢理毘売」か「須世理毘売」なのであって、旧事本記でも「須世理姫」、つまり「須瀬理比売」という表記は見られないのである。にも関わらず、「勢の字を取って、その音を取って、瀬神社」という説明(瀬神社の由緒書きによる)は、あまりにも説得力に欠けるのではないだろうか。「須神社」だというのならまだしも。
ちなみにこの塩沢瀬神社、階段状を成した境内に印象的に清流が引き込まれ、精緻な本殿と個性的な舞屋を持つ、個人的に三ツ星をつけたいくらい美しい神社である。水の宮の趣も十分にある。単純にその点を社名の根拠と考えたいくらいだ。

さておき、なにぶんにも特異な社名だけに、「瀬」の意味するところをもう少し考えてみる必要がある。
「瀬」という字で思い出す神、まして比売神、まして水に関係するとなれば……これはもう、瀬織津比売が真っ先に出てくるわけだが……。

ならば、諏訪における瀬織津比売信仰はどうなのかと調べてみれば、表立って祀っているのは1社しかない。富士見町とちの木(「とち」は草かんむりに子という独自の字を使ったため、現在はかな表記になっている)の「尾片瀬神社」である。「尾片・瀬神社」なのか、「尾・片瀬神社」なのか、もとより「尾片瀬神社」でしかないのか、そのあたりで事情は変わってくるのだが、もし「尾片・瀬神社」であるのなら、これは有力な判断材料になってくるだろう。
この神社については、現状まったくの未調査なので、そこにおける瀬織津姫の神格も含め、遠からず出向いてあれこれ調べてみようと思っている。
また、風琳堂主人なるお方のブログ『千時千一夜』の掲示板形式の記事によれば、葛井神社の槻井泉神も、下社春宮浮島神社の祓戸大神も正体は瀬織津姫だとか。相当に説明力が高く、かつ面白く読める素晴らしい記事ではあるのだが、むろん、これは断定できるような話ではない(いや、しかし……この記事って、菊池展明氏本人だよなあ……)。

いずれにしても、小袋石瀬神社の「瀬」の字が意味するところとして、小袋石の下から流れ出るせせらぎの神性を受け持った社である、と考えるのは無理のないところだと思う。
そこに「祓い」の意味があるのかどうかは今後の課題として……逆に、須勢理姫を祭神とするのは相当に無理のある付会だと私は考える(ただ、どちらも根の国を拠点としたことから、須勢理姫と瀬織津姫を同神とする解釈も……いちおう……あるようだ)。
よって、私としては、候補として瀬織津姫(ひょっとしたら槻井泉神?)を挙げた上で、当面は「祭神不詳」のままとしておきたい。

■穂股社
祭神:不詳 一云、御井神

御井神は、別名「木俣神(木股神)」ともいい、オオナムチの御子という由緒正しい水神である。わりとあちこちで見かけるのだが、もうひとつ正体に迫れない不思議な神で、なんらかの別の神もしくは神格を吸収しているのではないか、という気配もある。かの三井寺の由緒にも関わっているようである。

諏訪信仰関係で特に気になる物件としては、松本の槻井泉神社に、ミズハノメ、諏訪神子神(!)とともに祀られていたり、生島足島神社境内の井戸が「諏訪井戸神 下神井様(しもみい・さま)」として祀られている件がある。もうひとつ、子檀嶺神社(青木村)の主祭神である件も気に留めておきたい。
木股神の別名がある通り、自然界における木と水の関連を踏まえた神格を持っており、その点で槻井泉神(何度か紹介している通り、れっきとした信濃国の三代実録記載神)とは非常に親和性が高い。松本槻井泉神社の場合、おそらくは槻井泉神が御井神に習合された結果、その名を失ってしまっているのではないかと思う。そして、ここ穂股社でも同様の可能性は考えられるだろう。

というわけで、小袋石における穂股社の位置付けは、「水をはぐくむ森」という神性でしっくり来る。穂股の股は木股の股、ということなのだろうか。また、ここまで「穂」の字を無視してきてしまったが、当然、農業神としての性格(水神である時点であらかじめ含んではいる)も加味して考えなければならない。
また、話がまったく逆で、環境的なイメージを前提に、社名の「股」から誰かが連想し、後からこの祭神を定めたということも十分に考えられる。その場合、「穂股」の意味は不明としか言いようがなくなるわけだが。

■玉尾社
祭神:不詳 一云、興玉命

興玉命は、猿田彦の異称のひとつで(つくづく猿田彦はヌエ的な神である)、祭神としては決して珍しくない。特に鹿児島に多いらしく、興玉神社、九玉神社、河守神社などで祀っており、さらに南方神社では建御名方とともに祀られている。ちなみに、薩摩と諏訪には深い縁がある。
また、「九玉」でわかる通り、この場合は「くだま」と読むことが多い。

また、「チカタ/チカツ」の名を持ち、千鹿頭神との同根説も根強く囁かれる謎の神社が関東中心に数多く見られるが、そうした近津神社ほかで興玉命が祭神とされている例も結構あるようだ。
ただ、チカツ系神社の祭神はあきれるくらいにバリエーション豊富で、まったく一定しない。猿田彦と「チカタ/チカツ」との習合のニュアンスには、ミシャグジとの相似性も感じられる。いずれにしても、混迷が深すぎて当面アテにできる線ではなさそうだ。

そしてもうひとつ、「興玉」という表記でより一般的に通じるのは、夫婦岩で有名な「二見興玉神社」の社名ではないだろうか。
この場合の読みは「おきたま」で、夫婦岩の沖合700mの海中にあるとされる「興玉神石」を拝むことを本義とする宮である。いつの時代にか地盤沈下でも起こしたのだろうか、海中に没して見えない磐座を拝むというのも神秘的な話で、津波による大引き潮でかろうじて視認されたという伝承もある。この場合の「興玉」は、イコール「沖玉」の意と解釈して問題ないように思う。
そして、これもまた猿田彦なのだ。この磐座は猿田彦顕現の伝承を持ち、二見興玉神社の祭神も当然、猿田彦。ただ、合併社であるらしく、ウカノミタマも相殿している。
山人の神である猿田彦が顕現するにはずいぶんとおかしな場所だと思うのだが、ここまでの例では「興玉といえば猿田彦」という線は揺らがないようである。

ならば、小袋石の脇にも猿田彦がいるということなのか?

ここまで例を挙げておいてなんだが……それにはどうしても違和感があるのだ。

基本的に、諏訪には、猿田彦がいない。

このことはしっかり確認しておきたい。
諏訪人として。
もちろん、まったくいないわけではない。白髭社や天狗社(これらもまた、ミシャグジや天白、第六天とも通じる、中近世の怪しげな習合回路だ)があったり、道祖神も普通に見られたり、鈿女神社があったり。
だが、「古層の猿田彦」は、決していない。
これは断言できる。

諏訪古族は確かに強く山人性を帯びているが、しかし、近畿を拠点とする猿田彦系の山人とは系列がまったく別なのだ。似て非なるがゆえにかえって、中央高地山人の聖地たる諏訪では猿田彦の侵入を許していない。
いっぽう、北信地方まで足を延ばせば、ミシャグジに由来を持つであろうと想像される猿田彦にいくらでも出会える。伊那谷でもそれなりに見つかる。しかし、ミシャグジの拠点たる諏訪の核心部では、ミシャグジが猿田彦に習合されることを決して許しはしなかったのである。
その「許さなかった」代表が、中世までの神長官守矢氏にほからない。
その守矢氏にとっての最重要聖地と思われる場所に、どうして猿田彦がいなければならないのか?

あまりにも情緒的にすぎる論の展開かもしれない。しかし、上記を理由に、私は小袋石の興玉命に関しては、前提としてこう考える。

「おそらくは近世、この祭神を定めた人物(神官か国学者かは知らないが)は、あまりにも不用意だった」と。

であるならば、同時に、その時期の神長官もすでに古族としてのプライドと知識を失っていたと断じざるを得ない。残念ながら。

ではなぜ、そこに興玉命が持ち出されたのか。
以上のような見解を示した以上、私はその根拠を探ってみせなければならない。

あまりにも材料が乏しく、手さぐりになってはしまうが……。

まず重要な材料となりうるのが、「玉」である。
玉尾の玉、興玉の玉。
「玉」とは「尊い石」であり、もちろんそれは、「魂/霊(タマ)」を象徴する呪物である。そして、二見の興玉神石/沖玉の例でわかる通り、必ずしも宝玉のみを指すのではなく、本来は磐座のようなものも「玉」の範疇内であったと考えられる。

そこで思い出してほしいのが、シリーズの最初に紹介した兒玉石神社と兒玉石のことである。と、この時点でもう結論は十二分に察せられると思うのだが……そう、玉尾社本来の祭神は、兒玉彦命であると私は考えているのだ。
玉尾社は、小袋石システムの中で小袋石にもっとも近い位置に祀られている宮である。「磐座に寄り添って建つ宮」という点で、兒玉石神社とまったく一致するではないか。
そもそも、玉尾の「玉」だけ見ても、小袋石そのものの石としての神性を奉じた宮だと考えるのが普通なのだし、少なくとも、そこに猿田彦がいるよりは遥かに必然性が高いというものだ。

とはいえ、まだまだ恣意的な判断であることは自覚している。「諏訪における小玉石とはなんなのか?」という重要なテーマにも、まだほとんど触れていない。次回以降で論を深めていく予定なのだが、その前に、ささいな材料をひとつ挙げておく。
御子神十三柱のレギュラー「意岐萩命(おきはぎのみこと)」はいくつかの表記バリエーションを持つが、その中に「興波岐命」というのがある。現・岡谷市で祀られているのがこの表記だが、その神社の名は「小萩神社(こはぎ・じんじゃ)」である(現在は合祀され、出早雄小萩神社)。つまり、「興波岐命」は「こはぎのみこと」とも読むのである。
同じ信仰圏において、興玉命が「こだまのみこと」であったとしても、いっこうに問題はないだろう。兒玉彦説を前提とする純粋な憶測だが、民間に「コダマ様」くらいの呼称は残っていたのかもしれない。

さて、この推論がある程度正鵠を射ているとして……祭神を定めた人物は、単純に「玉尾」の社名からあてはまる神を考えたのだろうか。さすがにそこまで安易ではないだろう。おそらくは、「磯並」の「磯」や、小袋石の異称「舟つなぎ石」等からの連想で、二見の興玉神石を思い出し、「磯の磐座」に顕現する神として観想したのかもしれない。
そう、小袋石を取り巻く海のイメージも、その根拠を検証していく必要がある。
まずは次回以降、磯並の「磯」が意味するところを検証したい。

■磯並山社
祭神:大山祇神

祭神は、そのまんま「山ノ神」のスタンダードである。地元の人は単に「山の神」としか呼んでいないし、天正古図でも単に「山神」としか書かれていない。そもそも、小袋石自体が守矢家祭祀における山宮のような存在なのである。また、磯並山社の位置取りを見ても、山頂だとか、見晴らしいのいい場所だとか、磐座があるとかいった山宮としての必然性があまり感じられないのだ。
というわけで、この宮はもともと小袋石祭祀システムとは直接の関係を持っていなかったのではないかと、私は考える。もしくは後付けだろう。

■下馬社
祭神:不詳 一云、チマタ神

一連の祭祀で、まず最初に参詣する宮である。その点から、また社名からも、ごく普通に「この祭祀エリアの入り口 」という解釈でよいのではないかと思う。
以前にも書いたことがあると思うが、上社の「十三所」というのはあくまでも「所」を奉じているのあって、神を奉じているわけではない。特に下十三所あたりになると数合わせくさい項目が混じっており、別に特定の神を祀っているわけではない単なる建造物を「長廊大明神」などといって加えている。つまり、下馬橋や手水屋を指して「ここの祭神はどなたですか?」などと問うても詮無いことで、この下馬社も同様に、本来神祠ではなかったのではないだろうか。
といった前提で、祭神のチマタ神(なぜか変換しない 笑)を検討しておこう。
「岐神」表記もあり、「八チマタ神」ともいうが、これは猿田彦の別名(またかよ)で、天孫を迎えたエピソードに基づく、道案内の神としての神格を示している。よって、道祖神とも密接な関係にある。
「入り口に配置された神」と解釈すれば、後付けの祭神名だとしても、その祭神を定めた者の読みと意図は十分に察せられるというものだ。そしてまた、興玉命の件と同様の不用意さを、ここからは読み取ることができる。

*****

さて。
こうして見てくると、磯並社以外の宮については、おぼろげながらもその意味を読み取ることができそうである。なればこそ、なおのこと、この祭祀システムを統括する磯並社の謎が深まってくる。
そしてこの追跡行は、次回、松代へと飛ぶ。
詳しい方はとっくにお気づきだろう。「児玉石神事」で知られる、「玉依比売命神社」である。

(つづく)

小玉石を巡る冒険 その2

小袋石の祭祀システム

諏訪最強の磐座、小袋石もすっかり有名になった感がある。とはいえ、パワースポットマニアや東方なんちゃらの子たちがはるばる遠方から訪れるいっぽうで、地元高部地区以外の諏訪人にとっての知名度はさほど上がっていないようだ。

まず、当ブログ的流儀で、その位置を地勢から説明したい。


より大きな地図で 小袋石周辺の地勢 を表示

問題の大岩がドスンと鎮座しているのは、高部の里に向けて広がる小扇状地の、扇のかなめの位置である。より正確には、そのすぐ脇の山腹、急斜面を数十メートル登ったあたりになる。
この扇状地のかなり下、しかし末端までいかないあたりに、神長官守矢家の屋敷がある。
扇状地を挟む北西側の山稜は、縄文~中世にまで至る大遺跡が眠る謎の台地、武居畑。
さらにその西隣に神宮寺跡があり、そこから下った山懐状の場所が上社本宮だ。
反対側、南の山稜には、タタエ廻り神事の最後に神使たちが訪れたという峰のタタエ(諏訪七木のひとつとしても名高い)や、フネ古墳に次いで古いとされる狐塚古墳がある。この山稜を越えた次の扇状地が、上社前宮だ。
……と、早い話が、上社祭政体本拠地のド真ん中最奥に位置しているといってよい。こうした位置取りに磐座としての風格もあいまって、小袋石こそが上社祭祀最古の原形であると考える向きも少なくないようだ。私自身も、全面的に首肯はしないものの、そうであってもまったくおかしくないとは感じている。

これが小袋石。

小袋石A

写真では伝わりにくいが、威風堂々たる巨岩である。
主に杉と赤松からなる急斜面の森の中に鎮座する様子は、いかにも唐突な印象。周囲に類する岩はまったくない。地学的に見ればこの近辺に巨岩があることにさほど不思議はないのだろうが、そういう科学的な説明を受けても、感覚的に不思議であることになんら変わりはない。
ここでご登場願うのは、以前にも当ブログでちらっと登場したことのあるTM師……まだるっこしいのでもう実名を晒させていただいてしまうが、『縄文のメデューサ』著者の縄文図像研究家、田中基氏である。
彼がこの岩に関して語った発言のいくつかを紹介したい。

「今は"おふくろ石"って呼んでるけど、中世は"こぶくろ石"って呼んでたんだよ。まあ、どっちでも意味は同じなんだけどさ、"こぶくろ石"のほうがいいよなぁ」

「この、岩の下から水が流れ出てるのがエロチックでいいだろ? よく見ると別に岩の下から湧いてるわけじゃないんだけど、でも、この感じがいいんだよ」

小袋石B

「これ横から見ると、ほら、"縄文のヴィーナス"の尻にそっくりだ」

小袋石C

まあ、戯言半分、本気半分の発言なのだが、要は「産む石」「生命の石」だということをいいたいのだと思う。実際、名称による先入観はあるにしても、この岩から「子宮」を連想する人は決して少なくないのではないだろうか。
中世以前の日本人が子宮というものを知っていたのか?という疑問はもっともだが、なにしろ諏訪というのは、仏教の影響によって殺生が禁忌視され続けてきた千年もの間、「大量の野獣の生肉なしに祭は成立しない」という野性的スタンスを貫いてきた「異国」なのである(江戸期に至っては、その「野性」も相当に衰退していたことを認めざるを得ないが)。結論として、「当然、知っていた」と私は断言する。
だがそれ以上に、特定の形象・事象に対して抱くイメージの普遍性というものは、時代や文化、さらには科学すら超えて存在するのではないか。……という思想が田中氏の論の通奏低音であり、私も基本的に同意したい。ユング臭くて非常に誤解を受けやすい考え方だが、たとえば、太陽、月、海、空などといった世界の根本要素を抜き出したとき、それらが人間の意識に与える影響、イメージの普遍性というものに反論の余地はないのではないかと思う。要素が細分化されればされるほど個人差や誤差が生じてくるのは当然だが、それでもなお、「なんの根拠もなく蛇やゴキブリを極度に恐れる人が一定の割合で存在する」といった類の現実を無視することはできまい。

少々話が逸れた。小袋石に戻ろう。
この磐座を中心とするエリアは今も諏訪大社の境内地(飛び地)であり、その祭祀は今も諏訪大社によって執りおこなわれている。おそらく現代の神官は、その本来的な意味をまったく知らずにやっているのだろうと思う(もちろん、正確なところは現代人の誰にもわからない)。ただ、ひとついえるのは……途絶した祭祀が無数にある中、この祭祀がいまなお継続しているということは、維新時に至るまで重視され続けていたということだ。

小袋石を中心に配された宮は「4社プラス2社」で、今でもその祭祀ではこの6社をくまなく巡っている。
ここで、その6社を祭神とともに挙げておく。

磯並社/祭神:玉依姫命、池生神
瀬神社/祭神:(不詳)一云、須瀬理比売命
穂股社/祭神:(不詳)一云、御井神
玉尾社/祭神:(不詳)一云、興玉命

磯並山神/祭神:大山祇神
下馬社/祭神:(不詳) 一云、チマタ神

先に挙げた4社が中心で、「磯並山社」はいわば「山宮」、少し離れた山の上に配されており、「下馬社」は扇状地の下、この祭祀システム全体の入り口のような場所に配されている。
なお、上中下あわせて三十九社からなる上社の「十三所」、中でももっとも根源的であろうと考えられている「上十三所」に、先の4社はすべて含まれている。特に磯並社は、所政社、前宮に次ぐ3番目である。また、多くの宮が「祭神不詳」とされている点も、古さを感じさせるところだ。列記した「磯並社、瀬神社、穂股社、玉尾社」という順序は、斜面の下から上への地理的配置にそのまま準じている。「磯並祭祀システム」において 、この4社が心臓部であることは疑いのないところだ。
では、その4社を順に見ていこう。

一番下、削平された痕跡のあるちょっと広い場所にあるひときわ大きい石祠が、磯並社。

磯並社A

磯並社B

正面からの写真は、よく見ると真後ろに小袋石があるのがわかる。

次いで急斜面を登りながら瀬神社、穂股社と続き、小袋石のすぐ脇に玉尾社がある。

瀬神社

穂股社

玉尾社

以下は、穂股社から小袋石とその脇の玉尾社を見上げたところ。

穂股から小袋石

相変わらずの酷い写真で申し訳ないが、距離感がいくらか掴めるのではないかと思う。

なお、室町末期ころの上社のようすを描いた「天正古図」では、この祭祀システムが、しっかりとした木造の社殿が立ち並ぶ一種の「伽藍」として描かれている。
磯並社など、御門屋、舞屋、五間廊すら備えているのである。

今、現地を見ると、下段のほうには確かに古い石垣や削平の痕跡が見られるとはいえ、それだけの社殿が立ち並んでいた時代が本当にあったとは到底思えない。

磯並遠望

磯並削平地

しかし、磯並社よりさらに数十メートル下ったあたりから、階段状を成した基壇、礎石や建物跡、13~14世紀の大量のカワラケなどが発見されているので(磯並遺跡)、祭祀場の主体はそこにあったのだろう。
「天正古図」では4社の配置もまったく違って見えるのだが、何分にも古図であり、遠近感や方向感覚があてにならないのでなんともいえない。
またこの図には、現存しない「日月神」の祠も記入されていて、これを現在の磯並山神に充てる説もあるのだが、図の中に「山神」は別に記入されている。「日月神」は煙滅したと見るのが妥当ではないかと思う。

といったところで、今回はここまで。
今のところ、どこが「小玉石を巡る冒険」なのかちっともわからないと思うが……次回は、「祭神の意味するところを分析する」という、当ブログの真骨頂である。

……自分で真骨頂とか言うな。

(つづく)
プロフィール

LooseFrog

Author:LooseFrog
基本的に怠惰で、社会人として問題の多い中年男です。
でも、興味の対象には嬉々として食いつきます。

loosefrog★gmail.com
(@に置き換え願います)

デタラメやカン違いや不適当な素材の使用等ありましたら、ご指摘ください。
もちろん、助言や感想も歓迎いたします。

***

字が小さいとの御指摘をちょくちょくいただきます。
P盲な私がいまさら細かいところいじるとワヤになりそうなので、ブラウザの拡大機能の使用を推奨いたします。

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