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お日様が生まれ変わる日の雑談

さりげなくどこにでもある呪術

隠居のような生活をしている昨今ですが、たまさかに地元のチェーン居酒屋に行く機会があったのでした。忙しく立ち働いているフロアの若いお姉ちゃんが席の横を通りかかったので、追加注文をしようと「すみませーん!」声をかけました。
すると、
「はいよろこんでぇ……」
と、心底面倒くさそうに、投げやりに、溜息交じりで応えてくれたのでした。

まあ、文字で書いてても伝わりにくい話なんですけどね、なんつーか、すげえインパクトがあったんですよ。別にバイトちゃんの心がけの悪さとかチェーン店はだからダメなんだとか、そういう話をするつもりはまったくありません。
ただもう、面白くて面白くて。
なんだろう、場の空気が揺らぐほどのインパクトを感じましたね。酒入ってるからってのもあるんだろうけど。
いわゆる、その、シニフィエ? シニフィアン? なんだかよく知りませんけど、ズレまくってますよね。だけど、にもかかわらず、彼女自身の実感はしっかりこもっている。単に面倒くさそうに「はい……」とだけ返事するより、遥かにリアルに彼女の実感が伝わってくる。
力強い!
「言霊みたいなもの」が、そこで揺らいでいるわけです。空気が尋常の空気でなくなる。平々凡々なリアリティってやつに、亀裂が生じる。

……大げさですか?
しかしまあ表現が大げさなだけでね。私はそう感じたのです。

といったところで、なぜか当ブログ本来のテーマに寄っていくのですが(笑)、私は、シャーマンの機能、祭祀というものの本質は、「これ」に通じるのではないかと思っています。

場の空気を支配し、その空気を通じて他者の精神に介在する。

「これ」あってこその、信仰の説得力なのです。
信仰対象となる自然現象でも同じことで、森、山、激流、滝、大河、雷、寄せては返す波、強風、夕立、強烈な夕焼け、明るい月夜、火山に地震……その場の空気を圧倒的に支配し、我々の心理状態になんらかの影響を及ぼします。そんな大自然のパワーには遠く及ばないまでも、人間の力によってこの作用を起こす。自然と呼応できればなおよし。
それが、シャーマンによる祭祀の本質だと思うのです。

現代に伝わる表現でもっとも「これ」に近いものはなにか?
まず思い当たるのが、音楽です。
「場の空気を支配し、その空気を通じて他者の精神に介在する」。
まさにそれですね。
いうまでもなく、音楽のルーツは信仰儀式です。「音」が生み出す異化作用で空間をねじ曲げる。そこにいる人間たちに共通した感覚を与える。人々の心に(たとえ幻でも)一体感を与える上で、極めて有効な方法でしょう。
ありとあらゆる音楽はこうした性質で成り立っています。陳腐な歌詞のラブソングで泣けてしまう効果というのは、非現実的な内容の祝詞や祭文に説得力を与える効果とまったく一緒です。
また、音楽が心理に与える影響は、基本的に「エキサイト←→カーム」です。エキサイトには凶暴な衝動という方向と、元気が出る高揚感とがあり、また、カームにもメロウな情感に浸るタイプと、心やすらかな無風状態に持っていこうとするものとがありますが、いずれにしても、こうした二面性は「荒魂←→和魂」という神(または自然)の本質にも通じます。
この機能にもっとも純化しているのが、サイケデリック系の音楽でしょう。往年のサイケデリック・ロックももちろんそうですが、その流れを汲むトランステクノなんてのはひとつの究極です。粉飾を削り落とし、構造主義的に機能に特化してますからね(ま、思想の上では、ってことですが)。いわゆるレイヴパーティーなんてのは、太古の宗教儀式と機能的にはまったく変わりがありません。目的意識が違うというだけです。いうまでもなく、ドラッグカルチャーというのは原始社会の信仰にルーツを持ってますしね。

ちょっとチェーン居酒屋のお姉ちゃんから離れてしまいましたか……。
このお姉ちゃんに近い効果を意図的に利用するものとしては、現代詩の朗読なんかがあります。ただ、このパターンでは、下手な現代詩人よりプロレスラーのマイクパフォーマンスのほうが優秀だったりもして、その頂点に君臨するのがアントニオ猪木でしょう(詩の朗読も含めて)。普通の詩人は、どうしても肉体性に欠ける場合が多いですからねえ。

転じて、その肉体性を最大限自覚的に生かし、かつシャーマンそのものにもっとも近いのが(現代)舞踏のダンサーでしょうね。とはいえ、近代的なシアターの中で、目の肥えた観衆相手に演じる範囲内であれば、それほどまでの効果は持ちえません。やっぱり、舞踏についてなんの予備知識も持たない一般人の前で、かつ、お約束でない場所でおこなわれてこそ、最大限の効果を発揮します。だからこそ状況劇場(今は唐組?)はテントを張るのだし、天井桟敷は町に飛び出し、劇場でやるときには劇場を異化させる工夫を欠かしませんでした。
かつて頭に「暗黒」と付いた類の舞踏は、その名の通りすごい暗黒エネルギーを放射しますから、「舞踏についてなんの予備知識も持たない一般人」は、まず間違いなく最初にドン引きします。
「場の空気を支配する」上で、この「ドン引き」は大事ですよね~。
私も若かりし頃、初めて天井桟敷(結果的に最後の公演でした)を見たときは、しっかりドン引きしました。ドン引きで生じた心の裂け目に特濃コンテンツを流し込まれる強烈体験によって、すっかり「ヤラレた」ものです。

そういうわけなので、千五百年の長きに渡って「お約束」を続けてきた神道祭祀というものが、そのエネルギーをほとんど失ってしまったのも無理からぬことなのでしょう。まあ「能」なんかの形で残っているとはいえるのでしょうけどね。あと、修験や密教の護摩行なんかは、現代人が見慣れていないだけに、まだなかなかのパワーを残しています。
ただ、形式化してしまった祭祀でも、ちょっとした異化作用によって力を取り戻す場合があります。

というわけで、もうひとつの最近の体験談でこの項を締めたいと思うのですが……。

先日の水内~小県弾丸ツアーで参拝した、あれは……そう、善光寺鎮守の湯福神社でした。境内を見て回っていると、ピンク色のジャージを着たおばさんが、不自由な片足を引きずりながら一人で参拝にやってきたのです。
拝殿の前に立ったおばさんは、拍手を打ちました。
パン、パン、パン、パン……。
えっ!? 出雲式? と一瞬思ったのですが、いやいや、それどころじゃない。
パン、パン、パン、パン、パン、パン……。
長々と、おそらくは優に一分間くらい続く拝礼中、彼女は延々と拍手を打ち続けたのでした。

そうした作法がどこかにあるんだかないんだか知りませんが、ま、私は冒頭のお姉ちゃんと同じようにド肝を抜かれたのです。
「音」が生み出す異化作用で空間をねじ曲げる……そのもっともシンプルな原点が、拍手なのでしょうね。

------------------------

ええ、さて。
関係ない話ですが……いや、感覚的にはちょっと関係あるのか(笑)。

いつものように、いつものようなテーマで検索をかけていていたら、こんなページにブチ当たりました。

神話時代から続く神主さんのおうちへ行ってきたの

絵文字入りのポップな女の子文体を読み進めていくと……お、おいおいっ!
内容がとんでもなくディープじゃないですか!
オレ的興味ド真ん中の話。知らない情報も多々。
しかも……さりげない説明、さりげない但し書き等々から、尋常ならざる知識量と、深いレベルにおける確かな歴史認識をうかがい知ることができるのです。
し、シニフィエとシニフィアンが……(笑)。

おずおずと質問のメールを出してみると……翌日、「本かよ!」というほど情報量たっぷりの超長文メールが返ってきたのでした。
ま、細かいことや具体的なことは表に出さないスタイルでやってらっしゃる方なのでアレなんですが……文献史学については完全にプロ級ですね。ちょいと覗いただけじゃ全然わかりませんが。
その後、意見や情報の交換等もあり、文献方面が最大の弱点である拙ブログとしては、大変に心強い師匠を得ることができたのでした。
めでたし、めでたし。

というわけで、トップページをリンクに追加しておきます。


■今後これ↓は「かしわで」と読んでください。でも、別に2回ずつ押せって意味じゃないです(笑)。
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頤気神社(長野市小島田)

御子神踏査報告 その6

長野市小島田付近の交差点は、なかなかに規模の大きい、地方なりに「交通の要衝」的な交差点である。長年東京にいたとはいえ、都落ちしてからいい年して渋々免許を取ったというような軟弱の身としては、片側3車線が60~70キロの巡航速度で流れているような道路なんぞまっぴらごめんなのである。ましてその交差点……こんなのどうやって右折すんだよ!
てなことを思わされた「古戦場入口」を右折すると、まもなく、マクドナルドとラーメンチェーンの「くるまや」があり、そこが「いき」の交差点なのであった。

自動車文明ゴリゴリの交差点から、間近に小島田頤気神社の小さからぬ社叢が確認できる。これを目印に幹線を逸れれば……そこはいきなり長閑な農村地帯のただ中だ。

うーむ……。
ニュアンスも規模もまったく違うが、猛スピードで巡航する極太車道をちょっとでも離れれば、そこは見渡す限りの荒野……という、ルート66を彷彿させる。
……おおげさですね。

トランザム!

とはいえ、ほんの百メートルばかりで現代の真っ只中から一瞬にして近世的農村へと至る感覚には、なかなか印象深いものがあった。

余談もいいところだが、アメリカをフォローしていく日本の生き様に限界が感じられるどころか、アメリカそのものの国家スタイルに限界が感じられる昨今、こういうのはあまりいいこととは思えない。というか、こういうギャップ感の究極こそが、かの中国大陸における地域格差というやつなのではないだろうか。日本が長年東南アジアや中国相手にやり続けてきた搾取の構造を自国内で賄っているというのだから凄い国である。
もうね、中国なんて都市部以外のすべてが世界遺産みたいな国なんだから、国家がいい気になってそれを資本だと勘違いしているうちに、ユネスコさんは片っ端から世界遺産指定してやればいいのではないかと。文革で失われた文化度を取り戻せば取り戻すほどに、それが資本の足枷であることにやつらは気付いていくのだ。
もっとも、日本でも地方自治体レベルではいまだに気付いてないみたいだけど。
日本も中国も、さっさとヨーロッパのような「年老いた国」になってしまえばいいのに。

などというインチキ文明論を展開している場合ではなかった。
まあ……しょせん物見遊山に訪れる身にとって、面白いことは面白いギャップ感ではある。

農村らしく狭く入り組んだ道を抜けて到達した小島田頤気神社の境内は、広く、明るく、開放的な雰囲気。

小島田頤気社社頭

小島田頤気社標柱

「式内頤気神社」。
こっちも、しっかりと主張している。

「古色蒼然」といった趣はないが、なんとも清々しく好ましい境内である。境内地全体を覆う下草が、芝生のように美しく整っている。

小島田頤気社境内1

目を瞠るほどの古木はないが、ないなりに風格のある美しい社叢である。明るい印象が強いのは、木々が密でないということもあるのだが、おそらく広葉樹が中心だからだろう。
春に訪れてみたい神社だ。

境内地は千曲川の堤防に並行している。人口堤防に面して祀られた神社が新しいわけがない……ともいえるのだが、ただ、「前フリ」で説明した千曲川の巨大さを思い出していただきたい。

堤防の上に登って、社の東、河川敷側を眺めてみた。

小島田頤気社河川敷1

小島田頤気社河川敷2

畑と果樹園が延々広がっている。
正面に印象的な山容を見せているのが、前述した尼厳山である。
……どこが千曲川?
という話なわけで、「ここ」全体が、その河川敷なのである。
下の画像をよく見ると、平行に連なる緑のラインが地層のように色合いを変えている部分が確認できるかと思う。この奥のラインが、対岸の河川敷……の始まりなのである。

感覚的には……大河の地勢に慣れていないという個人的欠点を露呈してしまうが……なんともいいようがない。
ただ、『シナノの王墓の考古学』という本(名著!)に載っていた分布図を見る限り、小島田頤気神社周辺には古代の遺跡群の存在が確認できるのである。古い古い、それこそ「古代からの農村」である可能性も、完全に打ち消すことはできまい。

堤防を降りて社地に戻ろう。
境内地は非常にゆったりした印象だが、冷静に見ると、神社としての境内規模はさほどでもない。ただ、境内に隣接する民家等の建造物が少なく、特に高層の建造物や山地丘陵地が付近にまったく見当たらないため、実質以上に広く感じるのである。

小島田頤気社堤防より

拝殿も小ぢんまりとしたもの。

小島田頤気社拝殿1

小ぢんまりとはしているのだが、個人的には非常に好きな拝殿だ。なんといえばいいのだろう、要するに親しみやすいのだが、その親しみやすさは、おそらく「村の薬師堂」とか「観音堂」とか、そういう類の雰囲気を醸し出しているがゆえなのではないかと思った。

小島田頤気社拝殿2

小島田頤気社拝殿3

この、正面一間のみが開け放たれ、拝殿内部がオープンエアになっている感じ。
そして近世っぽくゴテゴテした瓦葺の屋根。
などが、そう思わせるのだろう。

小島田頤気社本殿覆屋

本殿は閉ざされた覆屋の暗闇の中、まったくその姿を窺い知ることはできない。

小島田頤気社社務所

社務所……というか、実質、寄り合い所なのだろうが、新築ピカピカである。
氏子衆は、確実に健在だ。
周辺部も含むこの美しい境内を、末永く守っていってほしいと願うばかりである。

印象は好ましく、信仰としての生命力も感じさせてくれるいっぽうで、「古社」であるべき根拠はあまり提供してくれない。おそらく、本殿次第で最低限の古さは保障してくれるのだろうが、そうはいっても、常識的にいって江戸中期以前まで遡ることは難しいだろう(文化財表示も特になかったし)。

小島田頤気社摂末社1

小島田頤気社摂末社2

摂末社については、この地域にしてはかなり少ないほうで、また、格別に気になる存在もない。ただ、少ない摂末社のうちの2社が、立派な覆屋に収まっていた。
こうした規模の神社の場合、摂末社の少なさは基本的に明治期の合祀の少なさを示すが、それがこの地の場合なにを意味するのか……ちょっと思い当たらない。江戸末期、ここは孤立した小さな村だったのだろうか。

小島田頤気社庚申塚

社頭には庚申塚など民間信仰の石碑等がぼつぼつ見受けられるが、それにしても決して多いほうではないし、古層の名残を見出すことはできそうにない。

実見できた材料の範囲では、やはり中世以前にまで遡ることは難しいように思う。古代遺跡の痕跡がある場所だけに、いったん水害で失われ丸ごと復興している可能性は考慮しなければならないが、単純に式内論社として西寺尾頤気神社と比べた場合、西寺尾の側に分があるといわざるをえないだろう。
あとは両社の因果関係や伝承、資料等を探るほかないのだが……近在の図書館がこの地域の郷土史に関して非常に弱いため、その先は「またそのうち」ということにさせていただく。
また、池生神の本質を考える上で、西寺尾頤気神社での考察以上に加えるべき点は特に見当たらない。陰と陽、正反対の印象を持つ神社ではあったが、祭祀の根幹に関わる部分では、やはり共通するものを想定するほかないようだ。

以上、長野市内3社の池生神社と頤気神社を巡ったわけだが、水内の池生神からは、氾濫鎮め、それも農耕神としての性格が強く窺えた。千曲川に近いという共通項もあるが、社殿の向き及び社地からの展望を鑑みるに、千曲川そのものへの信仰とは考えにくい。
川そのものへの信仰である場合、上流に奥宮があるとか、水源に垂迹伝承があるパターンが多い。ただ、これだけの大河になると生活圏の範囲内で「上流」という感覚は持ちにくいし、まして水源を実感することは不可能なので、また別の信仰形態を想定する必要はあるかもしれない。

いっぽう、塩田平の池生神社1社に関しては、水神としての性質も保持してはいるが、神格云々以前の一般的な農村の鎮守と見てよい。
同項で、池生神を祀った特殊事情を考慮する必要がある旨書いたが、「小島」と「小島田」という名称の相似(あまりにもありふれた地名ではあるが)に、氏子移住の痕跡を探ることができるかもしれない。

残るは本山宿と信濃境の池生神社、そして3社の槻木泉神社である。加えて、池生神に関連してレポートしたい神社がもう数社控えている(これは増えるおそれも当然ある)。その中にはまだ訪問していない社が残っているため、今後のレポートは順序バラバラ、しかも飛び石になるだろうと思われる。
し、か、も! 池生神を追う過程でどうしてもはずせない某古族神官家の追跡が挟まってくる可能性があり……このテーマがまた、底なしに深いのであった。

本編の再開は遠い……。

■1012131:少々加筆。

頤気神社(長野市西寺尾)

御子神踏査報告 その5

まずは南に位置する、西寺尾の頤気神社から訪問したのだった。別に意図があったわけではない。単純に行程上の都合である。

千曲川から半キロばかりの平野部で、しかも蛭川、神田川という2本の川が合流する三角地帯の中央に鎮座している。……という地理的条件からは、あまり古くから土壌が落ち着いていた場所とは思えない。
が、意外なことに、かなり入り組んだ住宅街路地の奥にあって、辿りつくのに少々苦労させられた。つまり、所在郷村の古さは十分に感じさせるのである。その点、先に報告した長池の池生神社に状況がよく似ている。
いっぽうで……雨上がりに訪れたとはいえ、境内中がほとんどぬかるみだったことには少々驚かされた。水源という意味で境内が水っぽい古社はたくさんあるが、それは基本的に山際もしくは山腹に鎮座する神社である。大河近くの平地で、水はけの悪い印象の境内というのも……。水害の危険に怯えこそすれ、水不足に悩まされることがあるとは考えられない、そういうロケーションなのである。

さて。境内は相当に広い。

西寺尾池生社頭

西寺尾池生社境内

たまたま本殿脇、つまり裏側から侵入してしまったのだが、正面の鳥居がかなり遠かった。拝殿から百メートルでは全然きかないだろう。しかも、参道脇には住居が迫るでもなく、広々と境内地が確保されている。名神大級式内社のような知名度(つまり観光参拝需要)がなく、かつ住宅地内に鎮座する神社としては、望みうる最大限規模の境内地を確保しているといっていいのではないだろうか。

参道脇には境内摂社が点々と。

西寺尾池生社摂末社1

西寺尾池生社摂末社2

そして、非常に立派、かつ重厚な拝殿。

西寺尾池生社拝殿

前面に舞台を備えているので、「神楽殿・兼・拝殿」ということになるのだろう。そのこと自体は珍しくもないが、間口が五間と広く堂々たる建築で、立派な向拝を備えた正面観にはただならぬ風格が漂っている。赤いトタン張りの屋根が少々残念な感じだが……しかし葺き方は銅板葺の方法のようでもあり、屋根の厚みの感じとか向拝部分の微妙な曲面的形状等を見ると、かつては桧皮葺であったのかもしれない……などとも思うのだが、建築の専門性は持ち合わせていないので、正直よくわからない。だが、もしこれが桧皮葺だったら、それこそ重厚な、極めて品位の高い建築物であったろう。

西寺尾池生社絵馬

舞台奥正面の欄干に、巨大な神話絵馬が掲げられている。昔の絵本の「オオクニヌシのお話」みたいな感じで非常に微妙な代物なのだが、なんだか素朴で好ましい。
まあ……描き手の人間性が滲み出ているのであろう。
その額の中に祭神「池生命/健御名方命/事代主命」と書かれているのだが……この絵のモチーフについては、どこかで見たような湖を見下ろして佇んでいる風情から見て、おそらく池生ではなく建御名方を描いたものなのではないかと推察される。
古いものではなさそうだが、それゆえにこそ余計に、池生命の姿を具体的にイメージできるほどの情報や材料が全然なかったんだろうなあ……ということをリアルに思わされた。

西寺尾池生社本殿

本殿は、オーソドックスな一間社流造。全体にシンプルだが、脇障子には凝った彫刻が施されている。素っ気なくもなし、ゴテゴテでもなし、諏訪育ちの感性にはしっくりくる(ということは、いずれ大隅流か立川流か。まあ、ちょっと調べればたぶんわかることだ)。

ちょっと面白かったのは、拝殿の背後から本殿へ、板張りの玉垣に囲まれた禁足地の様子。拝殿後ろの石段から本殿の足元まで、庭園風の石橋で結ばれていたのである。

西寺尾池生社石橋

おそらくは単なる「趣向」であって、深読みするほどのものではないのだろうが、珍しいことは珍しい。なんというか……ソソる。実際に自分で渡ってみたくなる感じというか。
強いて深読みするなら、水あっての橋……水神の本殿前の趣向としてはなかなか気が利いているように思った。雨が降るとぬかるむような境内地だけに。

本殿周辺にも小祠がいくつもある。

西寺尾池生社摂末社3

西寺尾池生社摂末社4

拝殿の左脇には、参道と両部鳥居まで備えた境内摂社が。
しかし全体に、摂末社に関しては格別に引っかかるようなものはなかった。
ヤマトタケルがいたのが、ちょっと気になった程度か。

そして、御柱。

西寺尾池生社御柱

二本立てである。
そう大きなものではないが、これぞ、氏子の諏訪系列社としての自覚の証。

西寺尾池生社大欅

ケヤキの古木は見事。優に400~500年級であろう。
ほかにも200~300年級と思われるケヤキが何本もある。

雨上がりの上、木の繁った暗い境内で、いつも以上に写真の質が悪いことをお詫びしたいのだが……そう、社殿も、境内も、全体に重々しい印象の神社であった。古社の趣、式内の格式は十分に感じられる。
また、平地・住宅地の中にあり、かつ観光需要もなしにこの規模の境内を今も維持し続けているということの素晴らしさ……そこは、代々の宮司さんと氏子さんたちへの最大限の敬意とともに特筆しておきたい。

境内に隣接する民家も、ただの民家ではないぞ、というオーラを漂わせている。

西寺尾池生社民家2

西寺尾池生社民家1

いずれ、有力な氏子衆なのであろう。

個人的な経験則と感覚では、少なくとも中世までは遡りうる古社なのではないかと感じた。まあ、さほどあてにはならない「個人的な経験則と感覚」ではあるのだが、にしても、立地における説得力において、湧水信仰の宮ではない、ということだけは確実にいえる。
たとえばそれが江戸期の創設であるならば、ありふれた農村の鎮守、すなわち農業を支える水神という可能性も出てくるのだが、境内規模と重厚な雰囲気からはとてもそうとは考えられず、式内論社としての説得力すら十分に感じさせるのだ。となれば、やはり氾濫鎮めの祭祀を原形とする古社であるとの判断を私は採りたい。

この宮が池生神の真地か否かはさておくとしても、「池生神の本質(のひとつ)として、氾濫鎮めの機能があった」ということは認める必要があるように思う。

頤気神社(長野市西寺尾/長野市小島田町):前フリ

御子神踏査報告 その4

長野市には2つの頤気神社がある。いずれも式内「頤気神社」に比定される論社であり、また、三代実録記載「池生神」の候補でもある。
南側の頤気神社は、旧松代町の西外れ(以後「西寺尾頤気神社」と呼ぶ)、北側の頤気神社は、かの川中島古戦場にほとんど隣接して鎮座する(以後「小島田頤気神社」)。
正確には、両社とも「気」は旧字が用いられており、小島田のほうは「頤」の字が微妙に違っている(へんに一本タテ線が多い)。また、「イキ」と読むか「イケ」と読むかはどちらをとってもいまひとつはっきりしないのだが、小島田のほうは「イキ」という字名があったようで、付近の交差点の表示にそれが残っている。
ロケーションとしては、いずれも千曲川の河畔と呼べる位置取りである。


より大きな地図で 南北イケ神社の位置関係 を表示

中断している池生神編の前編でも触れた通り、この二社は論社を争うにはあまりにも距離が近すぎる。しかも地図上で見る限り、鎮座地のロケーションもほとんど同種と考えられる。千曲川の右岸と左岸という違いはあるものの、蛇行地点を2社で挟み込むような位置取りは、むしろ最初からペアで祀ることを前提にしていたかのようにも見えるのだ。となれば、上下社、あるいは春社秋社という可能性もあるのではないか……という件にも、すでに触れた。いずれにしても、非常に気になる存在ではあったのだ。

池生神を扱う上で重要な神社であることに疑いはなく、また、せっかく(初めて)地図も引いてみたことだし、周辺の地勢についてもざっと説明しておこうかと思う。
以下は地図を参照しながら読んでいただければ幸いである。

まず、最大のランドマークが千曲川なのだが、これは国内最大級の大河である。秩父山塊を源流とし、佐久、上田地方を抜けて善光寺平へと至る。そこで、上高地を源流とする梓川もろとも、西側の渓谷を抜けてきた犀川を呑み込む。小島田頤気神社は、この大合流点の手前(上流)5キロばかりの至近距離に位置している。
水量豊かな滔々たる流れはそこからさらに北上していき、いくつもの川を吸収しながら新潟県に至る。そこで信濃川へとその名を変え、日本海へと注ぎ込む。
このラインは、遺跡や古信仰の分布を見る限り、古代シナノと日本海文化圏(出雲~越~そして……非ヤマト経由の渡来人も?)とを結ぶ幹線として、翡翠で知られる姫川ルートより遥かに重要だったのではないかと思える。何度か話に出た「あの」柳沢遺跡もこのエリア、新潟県との県境に近い千曲川河畔にある。

そんな信濃川水系全体を見渡したとき、頤気神社の鎮座する長野市周辺は中流域ということになるのだろうが、それでも河川敷は相当に広い。たとえば……東京都内における多摩川を比較対象とするなら、それに倍する規模をイメージしてもらってまったく問題ないだろう(それでもまだ足りないくらいだが)。
それだけの大河で、かつ山間で蛇行しているだけに、かなり古い時代から自然堤防が発達している点には注意が必要だ。というのは……基本的に川の周辺部は古代人の避ける洪水野なわけだが、このあたりでは、河川敷から遠からぬ場所に弥生~古墳時代の集住遺跡が多数確認できるのである。もちろんすべての場所がそうだというのではなく、氾濫原は氾濫原として広範に存在する。

東から南にかけての山地は、いくつもの尾根が低地から直接、恐竜の背のように立ち上がり、独特の風景を形成している。尾根と尾根の間には扇状地もあるにはあるのだが、それ以上に、まっ平らな洪積平野から唐突に尾根が立ち上がっているという印象のほうが強い。
そして、尾根と尾根に囲まれた「谷戸」ともいうべき懐状の場所に里が営まれている。
里の背後の尾根上には多くの古墳を見出すことができるのだが、特に北東方面間近には積石塚の群集墳で知られる大室古墳群があり、転じて南側数キロには、かの森将軍塚(4世紀後半、東国最古級の本格的な前方後円墳で、竪穴式石郭の規模だけでいえば全国でも最大級)がある。

東に聳えるのは尼厳山(あまかざりやま)と、尾根続きの奇妙山(きみょうさん)。ともに印象的な山容を持つ信仰の山である。
手前の尼厳山はきれいな三角錐形を成す雨乞い山で、その奥の奇妙山は……おかしな名前だが、かつては帰命山とでも書いたのだろうか……露岩の目立つ修験の山である。
もう少し南下すると、かの、"ピラミッド"皆神山もあるが、そこまで行ったらもはや別のエリアと見るべきだろう。

さて、近辺の地勢に関する説明はこれくらいにして、次回から、それぞれの頤気神社のレポートを順にお送りしたい。
それにしても今回は、「やはり現地に行ってこそ実感できることはあるなあ」と、つくづく感じ入ったのだった。両社は地図上で見る限り、その地勢においてまったくの同類としか思えないのだが、境内の印象はまったく対照的だったのである。
プロフィール

LooseFrog

Author:LooseFrog
基本的に怠惰で、社会人として問題の多い中年男です。
でも、興味の対象には嬉々として食いつきます。

loosefrog★gmail.com
(@に置き換え願います)

デタラメやカン違いや不適当な素材の使用等ありましたら、ご指摘ください。
もちろん、助言や感想も歓迎いたします。

***

字が小さいとの御指摘をちょくちょくいただきます。
P盲な私がいまさら細かいところいじるとワヤになりそうなので、ブラウザの拡大機能の使用を推奨いたします。

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