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池生神社(上田市小島)

御子神踏査報告 その3

次に見る池生神社だが、これまた興味深い場所に鎮座している。それは塩田平……といって、一般にどこまでピンと来てもらえるのかどうかはなはだ心もとないが、ここもまた、信濃国造一族、すなわち金刺氏ゆかりの地と考えられているのである。
詳しい話を始めるとまた話が逸れてどんどん広がっていくので、自重。事情をご存じない方は、ただ、「ああそうなんだ」と納得しておいていただきたい。そのうち、きっかけや気分次第では、今回訪ねた「生嶋足嶋神社」や「安曽神社」を扱うこともあろうかと思う。その際、存分にやらせていただきたい。

とにもかくにも、そういう場所にある池生神社なのである。

塩田平は小盆地である。東方やや遠く浅間山、南方間近には独鈷山の荒々しい岩尾根が立ち上がっているのが見える。独鈷山の麓には「小鎌倉」として知られる別所。北方だけが開けていて、善光寺平へと続く千曲川がゆったりとした流を成しており、その対岸が、国分寺や科野大宮(ある時期の信濃国総社)がある上田市。周辺は長閑な農村地帯である。
下は、浅間山遠望。

浅間山遠望

地域性に加えて注目したいのは、ここが「池の端にある池生神社」である点だ。
池生神を、その名の通り素直に池の神と看做していいのかどうか。その判断材料のひとつとして期待される。

というわけで、これが「小島大池」。

小島大池

先述した通り、この地域は讃岐並みとはいわないまでも、県内の小学校の社会科で必ず習う程度には溜池で知られている。実際、無数の溜池が点在しているのだが、この「小島大池」は、中でも比較的規模の大きい部類といえる。溜池をある種の「名物」として自治体で意識しているのか、真新しい案内看板が立っていた。

小島大池看板

小島大池看板2

ま、ふーん、という程度の話。
真田さんの普請記録が豊富に遺されているため、由来についても非常にはっきりしているらしく、この看板には元和4年(1618)の築造と書かれていた。江戸の初期も初期、幕藩体制成立の直後にこれだけ大規模な土木工事を遂行している点には感心させられる。

灌漑のための人造溜池というのはまあ予想通りだったのだが……。

小島池生社頭

池に直面する形で、右手に鳥居が建っているのが見える。
正面の山が、塩田平の水分山として信仰(→塩野神社)されてきた先述の独鈷山。

小島池生池側鳥居

池の端の鳥居。参道は右手直角90度に折れ、その先に拝殿がある。
写真正面に一対の石燈籠が見えるが、そこからちょっと石段を降りた先にも、もうひとつ鳥居がある。

小島池生正面鳥居

構造上、どちらが正面なのかよくわからないが、「国史現在池生神社」の標柱があり、登った先が池、という印象面から、後者、下段の鳥居が正面だろうか。

小島池生社境内

拝殿は新品。御柱こそ建っていないが、御柱年ごとの式年造営が守られているのかもしれない。であれば、正統の諏訪系列社であることが認められる。

小島池生社本殿

本殿は三間社流造。シンプルながら、なかなかの風格だ。
三間の区切りが非常にはっきりしているので、相殿神二柱の存在も想定される。

小島池生境内社

摂社末社。
天神、金比羅、蚕影。もう2~3社あったかも知れないが、忘れた。
北信、東信では境内社に限らず天神と金比羅の小祠が非常に多かった印象がある。あと、猿田彦もだ。

小島池生社御神木

御神木。さほどの古木ではなさそうだが、実に立派な枝ぶり。種類はよくわからないがドングリ系の類であろう。

さて……。
なんだか通りいっぺんなレポートになっているわけだが、到着時、早々に真実に気付いてしまったのである。

暗い写真で申し訳ないが、これが池の脇。正面に黒々とした社叢が見える。

小島大池土手

左の土手の上が小島大池になる。つまり、盛り上げた土手(堤防)で囲まれた中が池になっているのだ。天井池……という言葉があるのかどうか知らないが、天井川と同じように、周囲の平地より水面のほうが高い位置にあるのである。溜める水をどうやって流し込むのかは知らないが……灌漑目的に都合のいい構造ではあるのだろう。
今一度、池と反対側の入り口の風景を見てもらおう。

小島池生土手下社頭

この石段は、池を囲む堤防に取り付けられているわけだ。そして社地は……左上、堤防と同じ比高の台地上に築かれている。

というわけで、構造的にいって、この神社は堤防の完成以降に祀られたということが明らかなのである。
すなわち、創建は元和4年以降。

無論、もともとあった神社を小島大池築造時、堤防上に移転したという可能性も残されている。が、近在の郷村にとってまさに命脈であるところの溜池、その守り神として「池生」の名を持つ神を勧請した、そう考えるほうがより自然であろう。
よって、この神社に関しては、「国史現在社」との主張は残念ながら却下である。と同時に、池生神の由緒や出自、本質を探るための参考物件からは除外せざるを得ない。

とはいえ、溜池の守り神に池生神という「いかにも」な組み合わせが、この溜池集中地帯にあって定着するでも流行るでもなく、ほぼこの場所でのみ、特異例としてしか認められないのは逆に不自然な感じもする。いずこかの池生神社の氏子が移住してきたとか、たまたまそのころ諏訪関係の神官が近所にいたとか訪れたとか、特殊な事情があったのだろう。池生神というのは、分析と理解にそうした配慮が必要な程度にはレアかつマイナーな神なのである。

由緒書がないので、正式な祭神についてはわからない。追って、地区の郷土史でも当たってみたい。しかし、社殿を新築するほどの熱意があるのだから、由緒書のひとつも用意してほしいものである。

なんだか冷たくあしらってしまった感じだが、本来、江戸最初期創建の神社ともなれば、十分に古社として尊重されるに足る……ということは付記しておきたい。
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若宮とミシャグジ

ミシャグジの本質を探る試論

またしても脱線の延長ということになってしまうのだが……どうしてミシャグジと御子神がオーバーラップするのか? その理由をあれこれ考えていて、ひとつの仮説に至った。
ただし、これは史学の範疇ではないだろう。信仰史に密接に関わる話ではあるが……まあ、信仰思想の範疇での試論、ということにでもなるのだろうか? 自分でもよくわからないが、識者に検証していただければ幸いである。

まず、「若宮」という語の定義について再確認したい。

非常に汎用的な言葉で、社名としても地名としても(もちろん、地名は社名に基づく例が大多数なわけだが)全国各地で無数に見受けられる。御子神、若神子なども同様である。
また、かつては今でいう皇太子のことも意味していた。つまり「若い宮様」。殿様の息子を「若」と呼ぶのもそこから来ている。

現代における、ごく一般的な軽い意味合いでの「若い」という形容詞も相当に古くから認められるわけだが、ただ、そこに本来「貴さ」のニュアンスが含まれていたのかどうかは、もうひとつ判然としない。
現時点で、感覚的には「あった」と私は考えるが。

全国規模で一般的に知られる「若宮」としては、若宮八幡がもっとも著名であろう。八幡神である応神天皇(誉田別命)に対し、御子である仁徳天皇(大鷦鷯命)を祀るのが基本で、この例は全国あまねく存在する。
次いで有名なのがおそらく春日大社摂社の春日若宮だが、これも天児屋根命の御子神である天押雲根命を祀っている。
穂高神社の若宮のケースはだいぶ違っていて、中興の祖とみなされ、御舟祭の根拠でもある安曇比羅夫と、有縁かつ伝承の人物である信濃中将(ものぐさ太郎)を祀っている。これはもう、まったく御子神という域ではなく、名のある末裔という範疇である。
しかしまた、全国各地無数の若宮八幡社の例に見られるように、本社と同じ神を勧請し、「新たに祀った」という意味で若宮を称している例も、ごくごく一般的である。

いずれにしても、「若宮」という概念には、「新たな神」「(神威を)引き継ぐ神」といったニュアンスがある。
しかし、この「新たな神」という概念を改めて見直してみると、「生まれ出づる神」という性質もあり、それは『精霊の王』(中沢新一)いうところの「胞衣に包まれた宿神」=ミシャグジの性質そのものではないのか……?

多分に飛躍はあるが、この気付きが思考の端緒であった。

正月の「若水」を採るのは、べつに新たに掘った井戸でも、新たに湧き出した泉でもない。いつも使っている井戸から今後も変わりなく供給される(ことを願う)水である。
正月、新たに若水を汲む儀式によって、その井戸や泉は新たな生命力を得て生まれ変わるのだ。そして、一家でその若々しい生命力を摂取する……。
もっとも、古くは天皇に捧げる若水は専用の井戸から一度きりしか汲まない、という本義もあったようだ。しかし、民間信仰としての普遍性を考えるに、むしろそちらを特異例と見るほうが妥当なのではないかと思う。

そもそも正月とは太陽の生まれ変わりを祝う祭であり、「新月」とは、死んだ月が新たに生まれる姿を指す。
朔月。
サク……。
そしてまた、蛇や蛙の信仰は、冬眠からの目覚めの姿に負うところが大きい。
そこにあるのは、「再生」という概念で表される生命力そのものへの信仰であり、祈りである。

常に死と直面しながら生きる古代人(というか、現代文明人以外のあらゆる人間)にとって、生命とは単純にポジティブなものではなく、死と誕生というそれぞれに神秘的な作用が表裏一体となって織り成すマジカルなものであった。仏教でいう「輪廻」とはまた違う理解ではあるが、生命エネルギーは、常に循環構造をなしていたのである。
それが、ここでいう「再生」という言葉の意味だ。

たとえば、祀る神が人格神としての祖神であるならば、それは「とうに亡くなった過去の人物」である。だが、その「神格」は現在を生きるものでなくては信仰の対象にならない。
偉大なる死人は、いかにして神へと変容するのか?

建御名方は、御衣着をもって新たな幼童(大祝)に憑依し、幾度でも蘇った。
その儀式は、無数の古墳に囲まれた「祖先の地」である上社前宮(私は密かに、前宮のことを「死者の谷」または「王家の谷」と呼んでいる)でおこなわれなければならない。
その儀式において、再生のための神秘的な生命力を与えてくれるのが、ほかならぬミシャグジ神なのである。

そもそも、若宮の「若」とはなんなのか?
以降はまったくの恣意的妄想の域でしかないと自覚しつつ話を続けるが、「skの言葉」があるように、「若」の根源には「wkの言葉」があるのではないか。そんなことを思いついた。
湧く、沸く、涌く……。「新たに(いずこからか)生じてくる」ものである。
アニミズム的な視点からは、湯立神事の本質が沸騰現象に見出した神秘であると理解するのも、まったく自然なことであろう。あの泡の中からは、次々に新たな神が生まれ出てくるのである。
「わくわくする」まで行くと、まあ駄洒落の域かもしれないが、「言い訳」の「訳/わけ」にしても、由来、いわく、根拠と解釈すれば同じ流れで理解できる。さらに、ワケ、別け、分ける、そこまで持っていっても、まったく違和感がない。古代に「××ワケ」という名が極めて多いのも、この理解で筋が通る。後世、「総」とか「継」といった命名に込められた意味合いが、「ワケ」には込められていたのではないだろうか。
と、ここまで考えると、「脇/ワキ」が「分かれる」の活用(もしくはその逆)であることは、もはや強弁するまでもないだろう。

こうした語源説が、科学的現代的比較文化論的視点がなければ妄言に等しいということは承知しているが、にしては説得力があるのではないかと自負している。少なくとも、若宮という語が、「別け宮」という意味を包含していると見るのは、実情から見て、相当に確度が高いのではないだろうか。
そしてその時、「別け」た宮には、同時に、「若い」宮としてのエネルギーが込められているのである。
それは、本来、同じ意味なのだから。

つまるところ。
誰それの氏神であるとか、諏訪への従属の証であるとか、そういった世間的事情云々以前に、ミシャグジ信仰の本質そのものが、もとより「若宮」という概念に包含されているのではないか、そう考えたのである。そして、現在にまで残る数多の祭祀場の残滓(つまり現代に残る多くの神社のことだが)を見る限りにおいてすら、その思考の筋道は、無意識にではあるかもしれないが、相当に広く受け入れられていたのではないかと思える。

祖神であれ、自然神であれ、その神は、ミシャグジのサポートあってこそ、新たな生命力を得、今を生き続けることができる……諏訪神社の本拠を離れ、何処に立ち現れるときも、ミシャグジは常に協力者、司祭神としてその力を発揮してきたのだろう。その表れが、御子神ほか、個々の祭神を奉じるミシャグジ社というものの姿なのではないだろうか。そんな中でも、自ずと「若宮性」を持つ御子神たちは、ミシャグジとの相性に優れていたのかもしれない。

例の「強い味方」である小学館の日本国語大辞典「若宮」の項には、ここまでに書いてきたような意義(「wkの言葉」の件は除く)に続けて、最後の4番目にこう書いてある。

若宮
はげしく祟る無縁の霊を斎(いわ)い込めるために、大きな神格の支配下においてまつり始めたもの。祠などに祀ったりする。


まったくもって……古層の神道祭祀への驚嘆すべき理解度の高さを淡々と示している素晴らしい定義である。
これは、私の考える諏訪御子神のあり方にマッチする。
前回書いた、「御子神とされる神々の多くは、古代氏族の血縁、系譜をそのまま表すものではない。云々」という件のことである。もっといえば、建御名方自体が、強く若宮性を抱いているのである。

日本国語大辞典のこの見解はどうやら柳田国男の著述に基づくものらしいのだが、私はまだまだ勉強不足で典拠に至っていない。
ただ、春日大社における天児屋根命の御子神・天押雲根命は、「消された神」のニュアンスを持っているようなのだが……中央の神については、つくづく勉強不足である。
ひとまず、郷里の神に戻ろう。

「ミシャグジ」というのは、実は「一般名詞」なのではないかと私は思っている。つまり……あくまでも一例だが、現代語訳をするならば、単に「精霊」というような。
おそらくミシャグジは、諏訪信仰の核心部でそうあるように、「神にすら作用する根源的エネルギー」なのだ。ヤマト系のいわゆる「神」とは異なる次元の存在、汎存在といっていいかもしれない。
最末期の神長官邸祈祷殿に「八百万神」が祀られていたのも、そうした形でのミシャグジ理解の残滓なのではないかと思えてくる。

おそらく、「ミシャグジを祀った神社」というものは、本来、存在しないのだ。ミシャグジの存在を知り、畏敬する者たちが祭祀をおこなうとき、神社に限らず、その祭祀の場には必ずミシャグジが降りてくるのである。
山にも、川にも、泉にも、古墳にも。

ミシャグジは神ではない。
ミシャグジは、ミシャグジでしかないのだ。

「社子神」問題の補足

ささやかだが、やや学術的な調査報告

中途半端なことを書いてしまったことが気になり、図書館に行って、今井野菊大先達の『御社宮司の踏査集成』を閲覧してきたのであった。
この手の資料はなんの目的意識もなく目を通してもほとんどなんの成果も得られないのだが、よくしたもので、自分なりのテーマと独自視点を持って当たると燦然と光を放ち始める。

社子神=御子神説を前提として目を通したことによって、いくつか気付いたことがあったので、ここに記しておきたい。

1.豊田千鹿頭神社(諏訪に現存する中で最大規模の千鹿頭社)に合祀されていると思われるミシャグジは、「若宮さま」と呼ばれていたらしい。

2.「社子神」の表記が伝わる神社は、長野県内では先述の2社以外には、たったもうひとつしか発見できない。

3.だが、「社子神」表記は、静岡県に多数見られる。

4.「社子神」表記であるか否かに関わらず、御子神を祭神とするミシャグジ社は相当数見受けられる。


1に関しては、前回の話のレベルで傍証がひとつ増えた、という程度だろうか。

2は、ちょっと意外だった。そんなに少ないとは……。
そのたった一例は、所在地に「中野市吉田屋敷田」とあるが、現状、地図上で確認できていない。ただ、この最強の踏査記録をもってしても、データが完全ではないことは承知しておく必要がある。現に、この記録では岡谷市~下諏訪町にかけての地域が諏訪地域内のミシャグジ空白地帯となっているが、このエリア内で、記載されていないミシャグジの4つや5つは個人的にしっかりと確認している。
また、当該物件は未確認ながら、中野市近辺は諏訪信仰臭の非常に濃密なエリアである。

3については、他の件での理由も大いにあって、遠からず静岡の調査行も敢行せねばなるまい。ま、いってしまえば……彼の地には須波若彦がいるのである。静岡の社子神には、須波若彦(当地では「諏訪若御子」とも表記される)が祀られている例があるであろうことを、半ば確信している。

そして4だが、今ここで、ある程度データをまとめておこうかと思う。
この踏査集成、祭神については、長野県内の物件のみ地域ごとの統計データが載っているだけで、個々の物件に対応する形で示されていないのが残念なのだが、それでもなお、(このマイナーなテーマを追う私にとっては)貴重極まりないデータである。

県内のミシャグジ関連社の祭神だが、まず、圧倒的に建御名方が多いことはいうまでもない。次いで、八坂刀売(表記はいろいろある)を合祀している例。ちゃんと数えたわけではないが、以上で全体の過半数を遥かに超えているものと思われる。
次いで下社流に事代主が絡むか単独で祀られたもの、大国主系が続く。いずれにしても諏訪出雲系メジャーどころの範疇に収まっているもので、8割くらいは行くだろう。
特に大国主はダイコク様でもあるので、道祖神系の習合でやはり例は多くなる。同様の流れの習合で、猿田彦も当然少なくない。これらのパターンは北信に目立つ。

例外的なのは稲倉魂で、相当数の例が見られる。これはまあ、得体の知れない怪しげな古代神ではなく、おなじみの農耕神にひとつ守護をお願いしたいと、そういう率直な庶民感情の現れであろう。ただ、それが稲荷とか豊受とかのポピュラーな呼称でなく、おおむね稲倉魂に統一されているなんらかの事情はあるのだろう。
あとは伊那谷を中心に、守矢系統も当然のことながらぼちぼちと。そして、残りの「特異例」といっていい範疇(全体の中では数パーセント)に、さまざまな御子神が確認されるのである。

基本的に自分用メモとして(万一、参考にしてくれる方がいたらその方のためにも)、以下、地域ごとにまとめておく。
なお、孫神および(洩矢神系統である)千鹿頭神もリストに加えてある。

なんというか……まともな神社の主祭神としてはなかなかお目にかかる機会のない、諏訪系マイナー神たちのオンパレードである。個人的には豪勢極まりなく、思わず笑みがこぼれてしまう。

【上伊那】
出早雄:4社
千鹿頭:1社
彦神別:1社

【下伊那】
出早雄:1社
外県:1社

【小県】
馬脊:3社 ※1
出早雄:1社
池生:1社
大県:1社 ※2

【東筑摩】
草奈井比売:1社
千鹿頭:3社

【南佐久】
下照比売:3社 ※3
興波岐:3社
大県:3社
八縣宿禰:1社 ※4

【北佐久】
蓼科:2社
大県:5社
千鹿頭/近津(合祀):1社

【南安曇】
(なし)

【北安曇】
(なし)

【上水内】
守達:1社 ※5
守田:1社
池生:1社
建志奈:2社 ※6
須波若彦:1社
八櫛:1社 ※7
妻科:1社

【下水内】
智奴/庭津比売/馬脊/沙奈津良比売/八須良雄/武彦根(合祀):1社 ※8

【埴科】
八櫛:1社

【更科】
出早雄:1社
池生:2社
八杵:1社

【上高井】
高杜:1社 ※9

【下高井】
馬脊:1社
高杜:1社


以上だが、このデータを見渡しただけでも、御子神たちの真地がある程度透けて見えてくるようである。水内の豪華なバリエーションにも感動するが、反対に、佐久地方のラインナップにはブレというものがまったくなく、見事である。
関連して、単独で祀られている姿にはまずお目にかかれない「県/あがた」系の名の神が各地で多数祀られている点が非常に興味深い。

なお、ここに登場しているよりマイナーな神々については、(あまり興味を持つ人もいないと思うが)文末の注釈を参照されたい。注釈では、十三柱のすべてを書き終えてから触れようと思っていた「十三柱から漏れた御子神たち」についても、結果的にいくつか触れることになってしまった。とにかく手が回らないので、当面これ以上は追わないことにしておく(書かないだけで、実際は追い続けずにいられないわけだが)。

さて、この時点で、シリーズの最初に前提として一部語ったことではあるが、今一度きっちりと確認しておきたい。

御子神とされる神々の多くは、古代氏族の血縁、系譜をそのまま表すものではない。

このことを確認しておきたい。
想定されるパターンとして代表的なのは、

・諏訪勢力の軍門に下った地域/一族の、地主神/氏神
・諏訪勢力から派遣され功を遂げた施政者が神格化したもの、もしくは彼らの氏神

この2つである。
いずれにせよ、相当な古層のことでないと「御子神」という処理の仕方はされていないものと考えられる。当然、「後の諏訪勢力(の一部)が(まだ)諏訪にいない」時期の出来事も想定内とすべきであろう。基本的には古墳時代~奈良時代、最大限新しくても、平安初期までのことではないだろうか。時代が下れば下るほど神話は成立しにくくなり、代わりに「歴史」が残る。

いや……仏教の影響を受けた「中世神話」は、また別であった。

今のところ、諏訪御子神伝承の中から「中世神話」的なものを具体的に見出すことはできていないが、もし、そちらからのアプローチで端緒が発見できれば、また飛躍的に解読が進むのではないかと期待している。
特に、蓼科神と八杵命に関しては、現時点でも大いにその可能性を感じている。



※1「馬脊」
→※8を参照のこと。

※2「大県」
大県神は、興波岐命の別名ともされる(その場合、十三柱中の重複になるわけだが)。

※3「下照比売」
かなりつっこんだ注釈になるが……。
下照比売(下光比売)は、諏訪の御子神ではない。オオクニヌシの御子、アジスキタカヒコネの妹「高比売」の別名として、古事記にしっかり記載されている由緒正しい出雲神である(そういう意味で十分に近親とはいえる)。飛鳥座神社ほかに見られる高照比売(高光比売)が、同神とも姉妹神ともいわれるが、はっきりしない。
いっぽう諏訪において、高照比売は諏訪市大和の先宮神社に祀られている。先住神であるとか、建御名方の姉であるとか(アジスキタカヒコネの妹だとすれば決して矛盾しない)の伝承を持つ興味深い存在である。また、上社で重視される西山の古社群のひとつである小坂鎮守の祭神が、下照比売とされている。
鴨都波神社や飛鳥座神社に諏訪神がいる点などから、直接なんらかの関係がある可能性も十分考えられるが、同名異神で諏訪固有の地方神ということもあり得るだろう。加えていえば……この件は興波岐命の項で詳しく扱う予定だが……先宮(さきのみや)神社の本義はおそらく「佐久宮/さくのみや」であり、御神渡神事を通じて佐久新海三社神社と深い縁がある。その佐久にのみ下照比売が3社あるわけで……いずれにしても諏訪信仰との縁を無視できないので、リストに入れておいた次第である。

※4「八縣宿禰」
出早雄の御子神。また、佐久地方のもっとも重要な諏訪系列社である新海三社神社では、主祭神である興波岐の別名としている。「御子」というと関係性が限定的な印象だが、若宮という概念においては直接の子でなければいけないという制限はないので、別に矛盾はしない。両面宿禰と八面大王を混ぜたような名前が気になるところだが……詳細不明。

※5「守田」「守達」
守田、守達、守宅といった表記の神は、守矢氏系図を含む複数の諏訪神社関係系図の神代の範疇に登場するが、それぞれ別神なのか、同神なのか、守矢系なのか建御名方系なのか(もしくは、諏訪古族系なのか金刺系なのか)を含め、混乱が感じられ判然としない。御子神十三柱にこれを加えるバリエーションもある。
三代実録には「守達神」と「宇達神」(これはおそらく誤字)を見出すことができ、その論社である守田神社が、「守田廻神社」を含め水内(長野市内)に3社ある。つまり水内を真地とする神である可能性が高いので、守矢氏系列の祖神とはちょっと考えにくいところだ。

※6「建志奈」
「蓼科」の異表記。三代実録記載の神。諏訪でも、茅野市の山浦地方(まさに蓼科山の山麓)でこの表記が見受けられる。蓼科神の項も、簡単には済みそうもない。

※7「八櫛」
八櫛命は、神長官守矢氏系図において、千鹿頭神の跡を継いだ建御名方の御子神・片倉辺命の子である児玉彦命の、さらに御子神として確認できる。三代実録記載の神だが、比定社不明。茅野市の御座石神社には、神仏分離時、本地仏薬師如来に差し替える形で祀られた例が見られる。また、長野市西北郊外の通称「ぶらんど薬師」にも祀られているが、こちらは薬師如来が後付けかも知れず、三代実録記載社である可能性を残す。

※8「智奴/庭津比売/馬脊/沙奈津良比売/八須良雄/武彦根」
馬脊命(麻背命)を含むこの六柱は、飯山市の式内論社、健御名方富命彦神別神社に配祀されている神々である。馬脊命のみ三代実録記載の神で、上田市と青木村の境界近く、古東山道沿いと考えられるあたりに東西宮に分けられた形で祀られている。これが国史現在社でほぼ間違いないと思われるが、静岡県浜松市の山深い天竜川沿い、諏訪神楽の残照として名高い「花祭り」や「霜月祭り」で知られるエリアにも「馬背神社」を称する諏訪社があり、遠江国式内社「馬主神社」の論社のひとつとされている。
この六柱、当ブログ彦神別の項で触れた時点では正体不明だったが、その後、確認することができた。すべて、彦神別の御子神(建御名方の孫神)とされている神である。この飯山市の彦神別社には、長和2年(11世紀前半)にこの六柱を配祀した旨の社伝が残されているという。
智奴命に関しては、出典を失念してしまったが、確か江戸末期の文献で千野(茅野)氏の祖神とする見解を見た覚えがある。であれば、上社で代々外記太夫を務めた古族千野氏は水内から下った金刺系の一族である可能性が高くなるわけだが、他ならぬ千野家に伝わる系図では、諏訪大祝家の支族であるとしている(まあ、それを矛盾しないとする見解もあるわけだが、というか私個人の見解では矛盾しないのだが、この場合、問題は当事者の自負なので)。

※9「高杜」
高杜神も、十三柱に列せられた例が見受けられる有力な諏訪御子神である。「高杜神社」は式内社で、北信で南北に隣接する中野市と高山村それぞれに論社があり、いずれもそれなりの説得力を持つ古社である(両社は鎮座地に共通する地名を持つので、おそらく古い時代における祭祀一族の移住もしくは分派によって二社となったものだろう)。特に中野市の高杜神社は、大量の銅戈と銅鐸が発見され弥生時代の考古学を根底からひっくり返した、かの柳沢遺跡の祭祀と無関係とは思われず、注目される存在である。

■翌朝、少々の補記を加えた。/同日さらに加筆。
■さらにさらに、失念していた智奴命に関する件を付記。
■付記訂正が多すぎて面倒になってきた。10/12/09、サブタイトルまで変更。

社子神社(長野市三輪)

御子神踏査報告 その2

長野市街の東北部に「三輪」という地名がある。かなり広範に渡る地区で、中心部には地名の由来となる美和神社も鎮座している。今回は訪問できなかったが、東国では極めてレアな三輪式鳥居をしっかり備えた、なかなか立派な神社らしい。

ことのついでにいっておこう。
私は三輪と諏訪とを結びつける見解には否定的である。率直にいって、その根拠は極めて薄弱なのである。無論、「出雲族」という概念における結びつきを考えた場合、古事記という極太の根拠があるわけだが、古事記における建御名方説話自体が強く「操作」を感じさせるものであり、また、諏訪の地に建御名方信仰というもののリアリティがまったく感じられない(あるのはミシャグジ信仰ばかり)ことからも、否定的にならざるをえない。
そもそも三輪に関連して出雲族を持ち出すのであれば、諏訪云々以前に「オオモノヌシという神」と「オオクニヌシという概念」がどういった関係にあるのか、そこの洗い直しから出直してきてくれといいたい。

よくいわれるのは、「大神神社と同じように神体山を拝んでいて、本殿を持たない」というやつなのだが、はっきりとここで断言しておく。

それはウソです!
諏訪大社には、普通に本殿があります!

まあ本殿の祀り方については疑いなく諏訪ならではの特殊性があるのだが、基本的には、神仏習合時代の名残で本殿のことを今でも「御宝殿」と呼び習わしているがゆえの誤解である。本殿のことを宝殿と記載する例は、江戸期の造営帳等でもごくごく普通に確認できるのだが……どうしてこの強引な誤解が広まってしまったのか、今となっては理解に苦しむ。おそらく、上社大祝一族の神(みわ)氏と、(天皇発祥の地)三輪山とを関連づけようとする恣意性が働いているのであろう。
恐るべき「諏訪バイアス」の一例である。

もし、出雲族と諏訪との関係を探るのであれば、上社古族より金刺氏との関係を探ったほうがよほど発見の期待度が高い。なにしろ越との縁が深いし、北信には、式内社「伊豆毛神社」なんてものがあって、好事家たちの視線を惹き付けていたりもするのだ。
あと、上社にはいない事代主(生粋の出雲神)が、下社には居候してるしね。

と、のっけから大いに脱線したわけだが、ま、「長野市三輪」という場所についての予備知識だと思っていただければ……。
(そうかぁ?)

さて、今回の舞台は、その三輪地区の西端である。前回も書いた通り、健御名方富彦神別神社が鎮座する「城山」という丘の東麓とも表現できる。城山というからにはかつて城があったわけだが、なにしろ戦国時代への興味が薄いのでその詳細はスルーしておく(ま、ちょっと検索でもすれば、いつ誰がそこを居城としていたのかすぐにわかると思うが)。
ともあれ、城が建つ以前を想定しても、地勢的信仰的に興味深い丘陵ではある。現在でも、長野市街はこの丘陵(と、西側に地続きの善光寺の広大な敷地と)で分断されている感があるのだ。

その丘陵の西麓、現在ではビュビュンとクルマが行き来する郊外幹線の直下に、社子神社は鎮座している(あー、ようやく辿りついた)。
周辺の街は……相当に古い。
車内からウインドウごしに撮った酷い写真なのだが……参考までに上げておこう。

社子神社周辺市街

そしてこれが、「伊豆速雄命」が祀られている社子神社である。

社子神社全景

かなり小さな神社である。前回の池生神社と比べても全然小さい。
そして社殿も新しい。ただ、新しいだけでなく、大切にされていることがよくわかる。小さな拝殿の中が寄り合い所になっている気配(隅っこに缶ビールがいくつか置いてあった)とか、民芸品臭いなんちゃって地蔵が社頭に置いてあるあたり、まあどうかと思わないでもないのだが、そこが地域社会のまさに「拠り所」になっているのであれば、神様的には本望なのではなかろうか。

社子神社鳥居扁額

社子神社標柱

社頭の石柱と鳥居の扁額には「社子神社」とあるが……。

社子神社拝殿扁額

拝殿の扁額には「御守護神」とある。
新品ピカピカな上、アマテラス云々な神官さんの揮毫ということで思わず色眼鏡で見てしまいたくなるが、「ミシュゴジン」と読むのなら、これもまた無数にあるミシャグジ表記バリエーションの一例なのかもしれない。

社殿にせよ境内にせよ感銘を受けるような質のものではなく、正直なところ、ただ「現地に行っただけ」な感もあったが、イズハヤオの神様にご挨拶できるお宮というのはそうそうあるものではないので、ま、よかったのではないかと思う。それに、前回の池生神社同様、「生きている神社」ならではの由緒書にはそれなりの面白みがあった。

社子神社由緒書

「横山社子神社」と「ひもろ」
この神社の祭神は伊豆速雄命(無格社)諏訪大社の祭神、建御名方の御子神で往古より芋生郷内二十一社の中の一つと伝えている。境内の「ひもろ」左手の木は「歴史的樹木」である。樹齢は古くてはっきりしない。


とりあえず、「横山」という字には説得力がある。南から北への参拝ラインを持つ善光寺の東側にある城山の西麓……なるほど、横山だ。
しかし……。

ひもろ……。

なんだろう?
「ひもろ」と、わざとらしくカッコでくくっておいて、なんの説明もしてくれないのはどういうつもりなのか? 「歴史的樹木」って……そのくせ「古くてはっきりしない」って……確信犯で混ぜっ返しているのか? なにか挑戦的なものさえ感じるのだが。いや、逆に投げやりな感じもするか……。

それにしても、ひもろ……神籬(ひもろぎ)のことかなあ……などと首を傾げつつ、帰宅してから強い味方である小学館の日本国語大辞典を引いてみると……どうやらこれかな、という項目が見つかった。

「ひもろ【姫榁】[名]方言→ひむろ(姫榁)」という前提で、基本的には椹(サワラ)の園芸品種、地方によって、杜松(ネズ)とか椹そのもののことも指すらしい。いずれにしても針葉樹の品種名である。

境内左手ねぇ……まあ狭い境内なんで……それらしい物件はこれくらいしかないのだが。

社子神社ひもろ?

これ、針葉樹じゃないし。
そもそも「歴史的樹木」には到底見えないし。
ただ、その小木の右足元のちっこいやつは「神籬(ひもろぎ)」っぽいか?

改めて境内全体を見渡してみる。

社子神社客観視

いや、やっぱり「歴史的樹木」らしきものは全然見当たらないでしょう。

結局……なんだか全然わかりません!

というわけで、わからないことはわからないままに放っておいて、前回予告した「話の続き」に進もうかと思う。ていうか、それがこの項の本題だったわけで。

たった2つのサンプルであれこれいうのはどうかと思うのだが、現時点、直感レベルで考えたことを記しておこうと思った。

同じ地域で、「社子神」の名の下に、別の諏訪御子神が祀られている。
ここから憶測しうる唯一のこととして、この地では、「ミシャグジ」の名を、諏訪御子神の意味で用いる習慣が、少なくともある時期には、あったのではなかろうか。
ゆえにこそ、「社子神」という文字を充てたのだと考えれば、合点が行く。
それぞれの宮において、ミシャグジが本来なのか、池生命もしくは伊豆速雄命が本来なのか、それとも、もともとそれは同じことなのか、真実は遥かに遠く霞んでいるが、ひとつの「パターン」がここにあるということは認めてもよいのではないかと思う。
すなわち……非常に大きな意味合いでだが、諏訪信仰にとって、「ミシャグジ=若宮」という扱いが通念として成立していた地域、時代があったのではなかろうか。

ここまで考えた時点で、思い出したことがある。
真志野、大熊など、上社直属の郷村の「御頭御社宮司社」において、御子神十三柱が配祀されている例がいくつか見受けられるのである。
そこでいう祭神を定めたのが明治期の合祀強制時代であったとしても、こじつけにせよ願望にせよ、さすがに根拠のないことはしないはずである。
やはり「ミシャグジ社」は、諏訪若宮としての性質も帯びているのだ。

そういえば、出典をまったく思い出せないのだが、郷土史の類で、「どうしたわけか、ミシャグジをあろうことか建御名方の御子神のように扱っている例も見受けられるが」云々みたいな話で、プンスカ怒っている人がいたような記憶がある。読んだ時点ではまったくピンと来ていなかったのだが、もしやして「このこと」だったのだろうか。
しかし、古層の先住神を御子神という定義で体系に取り込む手法は、諏訪信仰では実際に相当数やらかしている気配があるわけで。だとすれば、ミシャグジをさえも、御子神として支配体系内に位置づけてしまおうとした金刺と、それを許さず、どこまでもその独自性を守りきったミシャグジ&守矢神長官、という構図で理解することが可能なのではないだろうか。
だからこそ、神長官の威光が及ばぬ金刺側の縄張り内では、金刺の戦略がある程度までは奏功した……と。

中北信に数多ある「社宮神」や「三社宮」等々をひとつひとつ精査していけば、この仮説の是非も自ずから明らかになってくるのではないかと思う。と同時に、そこには忘れ去られた御子神たちの痕跡をも、見出せるかもしれない。

池生神社(長野市北長池)

御子神踏査報告 その1

今回の踏査では、のべ20ヶ所近くの神社を見て回った。そのすべてをレポートに起こすのはしんどいので、今後必要に応じて……ということになるかと思うのだが、池生命にかかわる神社については、現時点でとり急ぎレポートしておこうかと思った次第である。

まずは長野市、すなわち「水内」に鎮座する池生神社から見ていくことにしよう。
繰り返し触れてきたことだが、水内という地は下社大祝金刺氏の旧地と考えられる。そこまで断言はできないとしても、最低限、一族ゆかりの地であることに疑いの余地はない。御子神十三柱が下社臭の強いカテゴリーである以上、そんな場所に池生を名乗る神社があるとなれば、まず第一にチェックしなければならんのである。

ちなみに、気分次第でころころ文体が変わる件については、ひとつ、大きな心で見逃していただきたい。もともと情緒不安定な性質なのだ。
嘘だけど。

この(マイナーな)神社を知るに至った経緯だが、単純に地図上で発見したというだけの話である。ネット上でも、この神社を話題にしたなんらの記事もトピックも見出せない。
「県別マップル長野県道路地図」。
これがなかなかバカにできないのだ。けっこう小さな神社でも載っている(いっぽうで載ってない神社もあって、その取捨選択基準はまったくの不明)。鎮守の森を伴う神社というものが、ランドマークとして効果的だという事情もあるのかもしれない。私はヒマさえあればこのマップを眺め、面白げな神社を探しているのである。

住所は、池生命編(未完)で書いた通り、長野市北長池。さすがに旧い字まではわからないが、実にまったく、池生命が鎮座するにふさわしい地名というべきであろう。

てなわけで、ロードマップを頼りにクルマで現地に向かったわけだが、さまざまな経由地を経たため、秋の陽はつるべ落としというか、あいにくのぐずついた天気で、日暮れに向けて焦り始める16時近くになっていた。
位置的には長野市街の南東部、千曲川と犀川の合流点から北に4~5kmといったあたり。長野五輪で有名な「Mウェーブ」の北2kmと表現しても可。千曲川の河川敷からも1km半ばかりの至近距離にあり、まったくの平地、善光寺平ド真ん中である。
諏訪周辺の池生神社は、鬱蒼とした山際の湧水に宿る神という印象が強いので、かなりギャップ感があった。となると、江戸期の新田開発で勧請した鎮守神といういちばんつまらないオチに直面する可能性も大いにあるだろう。

ま、それは覚悟の上として、平地であり、市街であれば交通の便に関しては問題ないだろうと予測していたのだが……あにはからんや、非常に不自由。用水路と思われる小さな川に阻まれ、また、狭い路地の中の学校なんかにも阻まれてなかなか目的地に近付けない。
ということは、決して新開地ではない!ということで、むしろ大変喜ばしい。

旧蹟巡りをしている人なら誰もが実感していると思うのだが、古い場所ほどクルマでは行きにくいもの。なおかつその里が今でも「生きている」場合、旧道沿いに集住する民家の立ち退きは容易なことではなく、再開発も思うに任せないわけだ。

ともあれ、ようやくその用水路越し、反対側に美しい社叢と社殿を見つけ、クルマで渡れそうな農道の橋を見極めて、なんとかかんとかたどり着いた。
さらに……神社仏閣に幼稚園や保育園が隣接している例は多いわけだが……素敵なヤンママさんと彼女たちが運転する軽自動車とチビっ子たちの大群に囲まれ、大いに往生したものである。
まあ、時間帯が悪かった。

古野神社全景

苦労した甲斐あって、さほど広くはないまでも、なかなか風情のある境内である。特に欅の古木がすばらしい。境内を楽しみつつ、ゆっくりと拝殿に向かって歩を進め、扁額を見上げた。

古野神社鳥居

古野神社。
……と、ある。

あれ?
違うじゃん!
なかなかいい趣の神社ではあるのだが……あとで調べてみたら、村の鎮守の八幡様らしい。それこそ新田系か。
なんにせよ、八幡社にはあまり興味がない。まあ本家の宇佐はまったく別だし、合祀にも注意しなければならないが、基本的には招魂社と神明社の次くらいに興味がないのだ。寺でいえば、そう、禅寺くらいに……って、どうでもいいね!

地図で確認すると……用水路のせいで、東に半キロほど行き過ぎたようである。
日没に向けた焦りがぶり返したが、まあ、なんとかなるものだ。
目当ての池生神社は、よりわかりにくく、より目立たない住宅地の中にひっそりと鎮座していたのであった。

長池池生神社全景

今度は間違いなし。

うーん……かなり小さい部類かなあ。しかし「祠」というレベルの小ささではなく、それなりの境内地をともなった立派な「神社」ではある。だいたい武居エビスくらいの規模かなあ……って、同等にマイナーな例を比較に出してもなんの意味もないし!
にしても、「諏訪信仰を調べていてこの神社を訪れた人って、過去にほとんどいないんじゃねえか?」などと、つまらん選民意識が脳裏をよぎったものであった。

長池池生神社拝殿

長池池生神社裏手

長池池生神社扁額

拝殿、蔵、覆屋、すべて安っぽい現代作だが、氏子が絶えていないことの証左でもあるので、それはそれで好ましい。本殿は拝殿の奥、覆屋の中でまったく見えないが、暗闇を透かし見るに、おそらくそれだけは年季の入ったものであろうことが推し測れた。
社叢は極めて貧弱(だから見つけにくかった)。古木とはいいがたい針葉樹が数本、という程度。ただ、裏にはけっこうな広さで農地が残っていて、これまた好ましい。いっぽうで、期待された池は付近に見当たらず、湧水の気配もなかった。敷地に接して用水路が見られるのみだ。

長池池生神社用水路

状況だけ見れば、農業を前提とする水神として祀られたとみてほぼ間違いないだろう。「長池」という地名から察するならば、まあ、千曲川氾濫の名残の水溜り(三日月湖的な)でも存在した時期があったのかもしれない。ただ、以前書いた通り、遠からぬ位置に諏訪系の郷村で祀った長池神社と長池水原(みなもと)神社があるので、地名についてはそっちとの縁を考えるほうが妥当であろう。

とりあえず、出会いの第一印象として、この神は諏訪周辺に見られる鬱蒼とした森の中の泉の神と同神ではなさそうである。無論、アニミズム的意味合いにおいて、の話だが。
大河に近い拓けた平地に祀られる、むしろ、イケ/イキ神社(のレポートも、今回のシリーズでアップする予定)の神様と同じ神なのではないかという印象を持った。

それから、諏訪もんとして当然のように気になったのが、御柱の存在である。

長池御柱01

これぞ諏訪系の証!
なにしろ今年は御柱年なので、どこに行っても新品の御柱、新品の社殿に行き当たる。

長池御柱02

控えめサイズの御柱が、二本だけ、社殿の脇に並んで建っていた。冠落とし(曳行終了後、柱を建てる前に先端を切り落とし、三角錐または四角錐状に形作る処置)をしておらず、先端は丸太状のままだ。皮も剥いていないので、杉らしき材の個性がそのまま残されている。

結界、または門の意味すら持たない配置と、無造作な処理、そして奉納者の個人名が書かれた板が打ち付けられているあたり、諏訪もんとして違和感をおぼえずにいられないところだが、北信では別段珍しくもないスタイルなのだということが、今回の東北信ツアーではよっくわかった。

だが、「コレ」は珍しい。
たぶん。

長池御柱03

先端の御幣に、おかめの面が取り付けられているのである。

諏訪とおかめの関係という話になると……まあ多少の薀蓄はあるのだが、非常に新しい話なので、ここではスルーしておこう。あ、いや、逆に最大限古い話もあるのだが、確実性が全然ないので、そっちも当面スルーしておこう。
ただ、ひとり密かに抱きつつある「もしかして池生命って女神様なんじゃないか?」という疑念には、もしかしたら関係あるかもしれないので……心の中にメモっておいた。

そして最大の収穫は、由緒書きの看板である。
小さな神社にもかかわらず、真新しく情報性の高い由緒書きがあるということは、氏子の熱心さがそのままそこに示されているのである。ますますもって好ましい。
とはいえ、社殿も境内も清々しく手が入っているのに由緒書きが見当たらない、という神社も少なからず存在するので、まあ、関係者やご近所に郷土史マニアのご老人がいるかいないか、という程度の違いなのかもしれない。
それもまた大事なことだと個人的には思うけれど。

長池池生神社由緒書

さて、その由緒書きの内容だが、まず「言い伝えによると貞観8年(866)の創建」とある。むう……言い伝えにしてはいくらなんでも具体的すぎやしないか。なんらかの文書(遥か後世の文書だとしても)の存在を想定しなければおかしな話である。国史現在社(式外社)論社としての見解なのかとも思ったが、池生命が三代実録に初登場するのは元慶5年(881)の記事なので、多少の誤差がある。たった15年だけ国史より古い、というあたりがインチキ臭くもあり、説得力があるようでもある。
まあ、この件はもうちょっとちゃんと資料に当たって検証しなければどうにもならない。
こうした由緒伝承は、ありがちとはいえ、ないよりはあったほうがいいのである。古社の魅力として。

そして、もっとも興味深かったのが以下の一節だ。

社名の呼び方が社宮司(しゃぐうじ)・産神(うぶがみ)・産土神(うぶすながみ)社子神(しゃごじん)などいろいろあって紛らわしかった。明治五年、いい伝えられてきた祭神池生命の池生をそのまま社号にと願い出て明治十一年に許可されている。

産神、産土神はともかくとして……社宮司、社子神と来ましたか……。

まあ、引用の後半部分は、例によって国史現在社としての社格をゲットするための国家神道的価値体系に基づくアピールに過ぎないわけだが、かといって、「いい伝えられてきた祭神池生命」という部分を黙殺するわけにもいくまい(ゆえにこそ、時の神祇庁の認可が下りたのであろう)。
だがそれよりも、社宮司、社子神のほうが問題だ。

「社宮司」はミシャグジの表記としてごくごく一般的。「社子神」もさほど多くはないが、散見はされる。
ただ、ミシャグジと池生命が重なるような祀り方に関しては、まったくの初見である。
これはいったいどういうことなのか。

そこで思い出されたのが、同じ長野市の善光寺脇、かの健御名方富彦神別神社が鎮座する城山の丘の麓に居を構える「社子神社(しゃご・じんじゃ/しゃごじん・しゃ?)」のことである。
ここの祭神は……本当にいったいどうなっているのか……あろうことか、「出速雄命」なのである。

実をいうと、今回の弾丸ツアーでは、この長野市三輪(「三輪」ねえ。実際、この地には美和神社があるのだが……)の社子神社にも立ち寄っている。

というわけで、次回、社子神社のレポートという形で話の続きを展開してみたい。

それにしても、この神社の由緒書きはなかなかに情報量が豊富であった。ということは、郷土史関係の書籍でそれなりに触れられている可能性が高いので、資料の発見を今後の課題として残しておこうかと思う。

次回長野に行くときは、丸一日県立図書館に籠もるスケジューリングをしないと……。
プロフィール

LooseFrog

Author:LooseFrog
基本的に怠惰で、社会人として問題の多い中年男です。
でも、興味の対象には嬉々として食いつきます。

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もちろん、助言や感想も歓迎いたします。

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P盲な私がいまさら細かいところいじるとワヤになりそうなので、ブラウザの拡大機能の使用を推奨いたします。

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