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御子神十三柱の覚書 その5

妻科比売命(後編)

今回あれこれ当たってみたのだが、妻科比売命を祭神とする神社は、本家・妻科神社以外にまったくといっていいほど発見することができなかった。もっとも、出早雄命の項でも触れた通り、小祠、特に摂末社として祀られている場合、もとよりそう簡単に見つけられるものではない。

ところが、偶然にも、ひとつだけ発見できたのである。

出早雄命の項で、下諏訪町東山田の熊野神社について触れた。その記事を書く前に現地を再訪してみたのだが、残念ながら出早雄命を祀った痕跡は発見できなかった。
そのかわり……というわけでもないのだが、妻科比売命を祀った小祠に出会ったのである。

東山田熊野神社若宮社
東山田熊野神社 若宮社
一見、相当に年季が入っている。が、屋根はおそらく倒壊した古い燈籠の笠を転用したものだろう。

「東山田史話会」による由緒書の看板を以下に写しておく。

 若宮社

 祭神 妻科比売命(建御名方命の子)
 旧神護寺鎮守神で金刺大祝下屋
 敷に鎮座 砥川畔より
 明治四十二年 境内へ奉遷

 (改行ママ)

「神護寺」といえば京都高雄山が有名だが、意味としてはおおむね神宮寺と同じで、本地垂迹説に基づき、神社に付属する形で建てられる寺院のことである。
諏訪神社下社の神宮寺として一般に知られているのは、以下の三寺。いずれも明治の神仏分離で廃絶した。

・海岸孤絶山法性院神宮寺
秋宮の隣に位置し、秋宮本地仏千手観音を奉る下社本地垂迹の一大拠点。高野山直轄の由緒正しい神宮寺で、盛時には二十数坊を擁する大寺であった。
・松林山三精寺
秋宮境内にあった小寺で、金刺氏の氏寺との説がある。岡谷市平福寺に現存する旧本尊阿弥陀如来座像は、慶派正統の作風を伝える鎌倉末期の優品。
・和光山観照寺
春宮境内、門前向かって右手の立派な石垣の上が旧地。形式上は法性院神宮寺の末寺だが、春宮本地仏の薬師如来を本尊とする、実質春宮の別当寺。

多くの院坊も含め、「神護寺」という名は見当たらない。が、春宮周辺の古郷東山田に「寺宮路/じぐじ」という字名が近代まで残っており、さらに18世紀前半の古地図である『諏訪藩主手元絵図』には、はっきりと「神護寺」という地名が記されている。そしてまた、武田の支配下にあった室町時代の記録には、「神護寺若宮」の名の下に、千野氏(諏訪神氏の系統)が管理する下社の神領があったことが記されているのだ。

宮地直一博士との共同研究等で諏訪信仰研究史に揺るぎない足跡を残した伊藤富雄は、『下諏訪町誌』において、神護寺は上代における観照寺の前身であろうと推測している。武田時代には観照寺はすっかり成立しており、すでに神護寺は名残すら留めていなかったものと思われるが、にもかかわらず、その鎮守社だけが下社末社として残り「神護寺若宮」の名を伝えたのである。

改めて『諏訪藩主手元絵図』を見ると、なるほど、神護寺とされる地域の砥川近くに「若宮」が見える。これは由緒書の「砥川畔より」に一致する。明治の遷座ということで記憶も確かなのだろう、現地には「若宮址」の石碑が残っている。

若宮址
若宮址
日差しが強く石碑の文字が読めそうにないので、雰囲気写真とした。右下が件の石碑

ただし、その先は……口碑の比重が増してくる。間近には、大祝邸址と伝わる場所があり、その裏にあったという古墳「大祝塚」は『諏訪藩主手元絵図』にも見える。「蚊無川/かなしがわ(→金刺川?)」の字名もあるし、武居祝系図(それ自体は江戸末期に国学の影響下で成立したと思われる信頼性の低い文書だが、より古い文書からの引用は多々含まれているだろう)には、貞観時代の大祝金刺貞長について「住山田在春社北」とある。そして、地域の私家本『東山田古代史』によれば、この若宮は大祝下屋敷の祝神だったとの伝承があるという。
由緒書の記述は、この伝承に基づくもののようだ。

大祝居館(神殿/ごうどの)遺跡や五官祝の遺跡は秋宮周辺にも多く、春宮秋宮の鎮座順等々含め議論は尽きないのだが、とりあえず、いずれかの時代に、いずれかの形で金刺氏が東山田に在していたことは認めてもよさそうである。
また、宗教的鎖国に凝り固まっていた諏訪に、最初に仏教を持ち込んだのが誰なのかは知らないが、少なくとも諏訪神社に習合させる形で定着に成功したのは、疑いの余地なく金刺氏である。
すなわち東山田神護寺の奉斎者は金刺氏であり、大祝邸祝神という伝承をたとえ信じないにしても、この若宮に金刺の意図が入っていることは間違いないだろう。そもそも、水内にたった一柱しか祭られていない無名な地神である妻科比売をわざわざ諏訪に勧請する動機を持つ者は、金刺一族をおいてほかにはいないのだ。

ただ、根本的な問題から目を逸らすわけにはいかない。この若宮が妻科比売を祭神とすることの根拠はどこにも求めることができないのだ。いつからなのかはもちろん、その信頼性もまったく不透明。しかしながら、諏訪で「若宮」といえば御子神十三柱をセットで祀るのが習い性なのである。この習い性はそう古くからのものとも思えないが(といっても中世までは十分遡り得るだろう)、多少古層に属するのではないかと推測される前宮境内末社の若御子社では、二十二柱を祀っている。
そこで、若宮という社名のもとに御子神の一柱を単独で祀るという特異性は、古層の名残と見るのが自然なのではないだろうか。
とにもかくにも、

大祝金刺氏が、下諏訪神社の片隅で、水内の地主神を祀っていた。

この事実は重い。
上社では、神長官守矢氏が洩矢神を祖神とするはいうに及ばず、権祝矢島氏が池生神を、副祝守矢氏が児玉彦命を、祢宜太夫小出氏が八杵命を、下社では、武居祝が武居大伴主をそれぞれの祖神と伝えてきた。下社大祝金刺氏も、これらの例と同じように妻科比売命を祀っていたのかもしれないのだ。
金刺にとっての建御名方命/八坂刀売命とはいったいどういう神だったのか、依然謎のままではあるが、水内という出自の記憶と妻科比売への信仰は失っていなかった、その点だけは確かなようである。
以上、間接的ではあるが、八坂刀売が妻科比売の神格を取り込んでいることの傍証とはならないだろうか。

ひとつの結論として、妻科比売は、度重なる上書きによってほとんど消されかかっている古代の人格神である、と考えたい。
この神の命脈を妻科神社の名の下にかろうじて永らえさせたのは、中近世の水内における善光寺信仰の隆盛であろう。にもかかわらず、当地ではいつしか祭神から消されてしまった。だがそれ以降も、諏訪の地では、神仏習合の時代背景の中、軽視すべからざる善光寺信仰と旧地への接点の証として、御子神という形で意識的にその名を留めたのであろう。
そして、上社の古族にとってほとんどなんの意味もないはずの彦神別や妻科比売がこれだけ重視されている以上、御子神十三柱という概念は、下社主導で成立したものと断言できる。であるならば、その成立は平安期~鎌倉期の間にほぼ限定されることになる。

なお、長野市内の地名でもある「妻科」の「科(しな)」という語は、科野、更科、埴科、仁科、豊科、明科、蓼科/立科など、近隣の地域で多数見受けられるのだが、その関連は不明。語源としては、植物の「科の木」に由来するという説と、坂や段丘状の地形を意味する「しな(階)」を示すという主に二つの説がある。「階」説にはある程度の説得力を感じるが、これだけ局地的集中的に使われているとなると、また別の共通する重要なニュアンスがあったように思われてならない。もちろん「妻」も文字通りの語源だったとは考えがたく、「端」とか「対」のような意味が本来だったのだろうが、「科」がわからない以上、読み解きようがないのである。

(妻科比売命・了)
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御子神十三柱の覚書 その4

妻科比売命(中編)

さて、いったん話が飛ぶが、妻科比売命は、三代実録記載時の表記では「妻科地神」となっている。「地神」というのは普通に地主神と解してよさそうだが、要は、他所でその名を聞くことのない、全国区では無名な神だったのだろう。それがなにを意味するのかというと、ほぼ確実に、水内を真地・本拠とする神だということだ。
(問答無用で真地を特定できる神というものが決して多くないという事実は、認識しておいていただきたい。御子神十三柱中でも唯一といっていい)

いっぽう、善光寺とそれを取り巻く一連の諏訪社の奉斎者は、ヤマトから派遣(もしくは任命)された信濃国造一族と考えてほぼ間違いない。であるならば、妻科比売は彼らがどこか他所から連れてきた神ではなく、
・彼らが水内に入る以前から(弥生時代以前)そこに祀られていた有史以前の神か、
・彼らの支配が始まってから(古墳時代以降)そこで生まれた神か、
そのいずれかと断ずることができるだろう。

前者の推論でいくと、あたかもミシャグジやアラハバキのような原始の神ということになるのだが、そういった古層の神特有のアニミズム的な呪術性や遍在性はまったく認められない。
その点、後者の推論のほうが発展性がある。
すなわち、妻科比売は極初期の信濃国造一族に縁のある歴史上の人物を根拠としているのではないか、という見方である。

この見解の上に立って細々とした蓋然性の糸を手繰るなら、「妻女権現」の別名を持つ会津比売命との関連を疑うことができるかもしれない(「つづきを読む」にて注記)。初代科野国造建五百建の妻であり、また出早雄命の娘でもあるとの伝承を持ち、松代の会津比売神社に、これも全国でただ一柱のみ祀られている神である。
(→出早雄命の項でもちょっと触れている)
妻科比売と会津比売を同神とみなすのは、さすがに大胆すぎる仮説だとは思う。まったく結論めいたことをいえる段階ではない。しかし、建御名方と古層の信濃国造一族との縁を探ろうとするとき、この二柱の謎の姫神は、間違いなくその存在感を増して、同時に立ち上がってくるのである。
どちらにしても、下社大祝金刺氏の祖神に当たる神である疑いは非常に濃い。

以上、追ってきて、ひとまず提示できるのは、妻科比売は下社の主祭神である八坂刀売とイコールとまではいえないにしても、「八坂刀売という習合神を構成するいくつかの神のうちの一柱だったのではないか」という仮説である。

八坂刀売命は、その実体を捉えるのが非常に難しい神ではあるが、基本的には下社の神と考えられている(安曇族との関連については、またいつか別項を設けて検討したい)。有員以降、上社が金刺にとりあえず従って上下社が一体となっていたのだとしても、その傾向は揺らがない。上社前宮の祭神が八坂刀売命とされたのは明治中期のことであって、その信憑性は極めて薄い。だからといって上社本来の祭神が建御名方であるといえないところが諏訪信仰の難しいところなのだが、いずれにしても、下社大祝の宝印(奈良時代のものと推定されている)は「売神祝印」であり、数々の伝承から見ても八坂刀売は下社の神なのである。そして、下社が信濃国造一族の後裔の一大拠点であったことに疑いの余地はない。
建御名方に関してはなんともいいようがないが、こと八坂刀売(と建御名方富彦神別)については、金刺が古代から奉斎してきた神であると見て大筋問題はないだろう。

いっぽう、安曇族の本拠である穂高神社に密接な関係を持つ池田町の川會神社にこそ八坂刀売に関する伝承が残されているが(もっとも、諏訪が権勢を誇った中世に作られた伝承である可能性は相当に高い)、かつて信濃国造一族の拠点であったと考えられる水内、松代、上田、塩田平の近辺で、古い時代に八坂刀売を奉斎した痕跡または伝承は、これをまったく発見することができないのである。

八坂刀売もまた、国史には見当たらない「地神」といえる。下社の(問答無用に強力な)神奈備である八島ヶ原湿原にその神格が仮託されている面があることは否定しようがないが、そこまで古層の信仰になると、アニミズム的自然神、もしくは大地母神であって、古墳時代以降のような人格神であったとは考え難い。あらかじめ下社の原型となる祭祀があり、そこに女神が祀られていたと仮定するにしても、人格神としてのヤマト流の「神名」をそこに上書きしたのは、間違いなく金刺である。
であれば、水内の地主神である妻科比売にその原型を求めるのも、さほど無理な話ではないように思うのだ。

そこで。
ささやかながら、ひとつだけ、この大胆な仮説の傍証を発見したので、次回完結編にてその報告をしておきたい。

(つづく)

(100809:川會神社の件を訂正)

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御子神十三柱の覚書 その3

妻科比売命(前編)

えー、どんどんハードに、どんどんディープになっていきます。
完全に諏訪信仰マニア限定な内容です。
すんません。

 * * * * * *

諏訪信仰と極めて密接な関係を持つ善光寺で、古くから「善光寺三鎮守」と呼ばれ重視されてきた三つの諏訪社のうちのひとつが、式内社「妻科神社」である。
現在の祭神は八坂刀売命とされているが、かつては妻科比売命を祭神としていたことが記録上はっきりしている。

祭神が八坂刀売になってしまったのは、おそらく「妻」の字に引っ張られた後付けの解釈であろうと思われる。また、本田善光の妻を祀るとする伝承もあるが、これも同様の経緯で生成されたのだろう。
ただ、善光寺本堂に秘仏本尊と並んで安置されている「三卿」に対し、この「三鎮守」を、さらには「建御名方、八坂刀売、健御名方富彦神別」の三柱を対応させる祀り方については、どこまで古いのか新しいのか判然としない。
(※三卿:善光寺開祖と伝わる本田善光に、その妻と息子を合わせた3人)

たとえば三鎮守の一角である湯福神社境内には、かつて宝塚と呼ばれた古墳(考古学的に検証されているのかどうかは未確認)があり、大正期の造成で人骨が発見されたという。現在、石室材と思われる大岩を磐座とし「本田善光廟」として真新しいお堂に祀っている。
上書きが古層の見解をねじ曲げている場合、むしろ古層の発掘はたやすい。だが、古層の見解と同じ立場から近世以降の恣意的な上書きがなされている場合、古層の発掘がかえって難しくなってしまう。
三卿を三鎮守に当てはめようとする志向性が古くからあったことは間違いないと思うのだが、それがどれだけ恣意的なものだったのか、それとも根源的なものなのか、まったくわからないのである。

そんなわけで、善光寺開基の時代を知る術がない以上、「本田善光の妻=妻科比売」であったという飛躍した想定も、まっこうから否定することはできない。同様に、本田善光という伝説上の人物が、初期の国造一族、もしくは彦神別命や他の地主神等と重なり合う可能性もないとはいえないだろう。
参考程度に付け加えておくと、科野国造一族は「百済に渡り、百済滅亡時に帰国してきた一族である」との伝承があり、また、百済からやってきた一団のリーダーの名が「善光王」であったという話もある。さらに、善光寺開祖伝説を持ち、なおかつ八坂刀売との繋がりの痕跡が見られる麻績氏、その麻績氏にかかわる多くの伝承も加味しながら検証していかなければならない。
(※麻績氏系の開祖伝説では、本田善光に当たる人物は「若麻績東人/わかおみ・あずまんど」とされる)
そこから先は、もはや本格的な善光寺研究の範疇になってしまう。善光寺と諏訪のかかわりについては本気で追ってみたい気が十二分にあるのだが、一朝一夕でどうにかなるようなテーマではない。この続きは、ひとまず保留とさせていただく。

が、善光寺をひとまず置いても、まだ検討材料は十二分に残されている。

妻科神社には「建御名方命」と「彦神別命」が配祀されているのだが、これは「建御名方彦神別命」一柱を読み違えて二柱に分断してしまったという見方が一般的で、私もまったく異論はない。いうまでもなく、諏訪でいう建御名方彦神別命(→当blogの既出記事)に当たるわけだが、ここに大きな齟齬がある。
御子神十三柱というカテゴリーの中では、妻科比売命と建御名方彦神別命は当然のごとく兄妹神ということになるわけだが、当地の伝承では、「妻科神社の祭神である八坂刀売命」は、健御名方富命彦神別神社(現・長野市城山)の祭神(すなわち、健御名方富彦神別命)の妻である、ということになっている。

(ややこしくて申し訳ない。単に神名がややこしいせいだと思うのだが)

ここに見る混乱は、単純に祭神の置き換えというだけの問題ではなく、たとえば美保神社おける事代主と三穂津姫の関係のように、親神の妃神なのか御子神の妃神なのか、判然としなくなってしまっている状況なのである。

ちなみに、当地では妻科神社を「つまなし神社」ともいうらしい(古文献には「妻成」表記も見られる)。夫神がせっかく近くに鎮座しているのに単独で祀られているから、という話らしいが、じっさいにはちゃんと旦那が配祀されているのだから首を傾げてしまう。まあ、そう遠くない昔に「お一人ではおかわいそうだから」みたいなことがあったのであろう。

まだ調べが十分でないのだが、とりあえず国史の上からは、妻科神社の祭神が八坂刀売に変わったのは、もっとも早くて平安時代後期(三代実録以降)ということになる。じっさい結構な時間が経っているらしく、かように祭神を八坂刀売とする前提での伝承はあっても、「八坂刀売とは別神としての妻科比売」の神格を窺わせる伝承を見出すことはできない。
水内においては、「建御名方命/八坂刀売命」という夫婦神と、「健御名方富彦神別命/妻科比売命」という夫婦神が、そのままデュアルに重なり合っているのだ。
と同時に、それこそ、いつのころからの話かはまったくわからないのだが、

水内において、健御名方富彦神別命と建御名方命は同一視されていた。

という事実に注目しなければならない。
とはいえ、神名の類似から後世に混同され、妻の字に引っ張られて八坂刀売が連れてこられた……と、これが常識的な読み解き方というものであろう。
だが、金刺にとっては水内が旧地なのであって、諏訪はあくまでも新たな進出地なのだ。そして、建御名方はいざ知らず、彦神別の真地が水内であることには、文献的にも、状況的にも疑いの余地がない。加えて、彦神別という神は、諏訪において単独で祀られている例が認められない(十三柱の中の抽象的な存在として以外には、むしろその存在が認知されていないといっていい)。
ならば、こと彦神別という神に関しては、あくまでも水内中心に考えるべきなのである。
だからここでは、諏訪中心にバイアスがかかった考え方を極力排除して検討しなければならないだろう。「逆の可能性」を黙殺すべきではないのだ。
つまり、「水内において同一視されていた」のではなく、

健御名方富彦神別命と建御名方命は、本来同神だったのではないか?

という疑問についても、その可能性をきちんと追うべきなのである。
であれば、妻科比売と八坂刀売についても、単純に「妻」の語に引っ張られたというだけではなく、この地には同一視するだけの根拠があったのかもしれない。

(つづく)

金刺の城を取り戻せ!(誰から?)

桜ヶ城址(下社大祝金刺氏・中世居城跡)

今回はお気楽に、諏訪大社の周辺をお散歩したときの話です。
実をいうと、方針に悩んでいただけなんで、ネタはけっこう書き溜めてあるんです。今度はそう簡単に途切れません。

春先くらいのことだったと思います。ま、お散歩コースには事欠かない環境でして、フラリと秋宮裏の「桜ヶ城址」まで登ってみました。

桜ヶ城というのは、諏訪神社下社の大祝を代々務めてきた金刺氏が中世に陣取っていたとされる山城です。中世の諏訪氏や金刺氏は、「神主さんだけど武将」という非常に忙しい立場でした。この地における神主さんってのはイコール施政者ですから、そりゃもう忙しい。信仰も政治も戦争も、地域内における全権を握っていたってことです。
んで、室町時代にまで至ると、この両者は血で血を洗うエゲツない闘争に明け暮れていたのです。
神主さんなのにね。

まあ……城とか戦国時代とか私の専門じゃないんですが、ていうむしろ個人的に日本史の中で一番興味の薄いジャンルなんですが、まあ諏訪さんと金刺さん絡みのことなら仕方がないです。少しは興味持ちます。
つーか歴史的興味以前に、秋宮から15分も歩けば(急峻な道のりではありますが)素晴らしい眺望が楽しめる素敵な場所なのでね。

私が子供のころには知る人ぞ知る忘れ去られたスポットでした。
その後、「鎌倉街道ロマンの道」という、とってつけたような遊歩道が町によって整備されました。
でも、観光客はおろか地元民すら訪れることはまれで、やっぱり知る人ぞ知る忘れ去られたスポットのままでした。
ときどき下のほうで犬の散歩を見かけたくらいかなあ。

ところが最近になって、意欲的に整備が進められてきたのです。産業が滅びつつあるこの地にあって、残されたのは観光くらいという自覚が生まれてきたということもあるのでしょう。しかし、自治体主導ではなく、主に近在の方々のボランティアによって事が成されているのは素晴らしいことといえましょう。自然にせよ文物にせよ、地元の人が本気で愛し誇っていなければ絶対に観光なんて成功しませんからね。特に景気復活なんてありえないこのご時勢下ではね。

方向性としては公園化ってことで……まあそれも善し悪しなんですが、道が整備され、花なんか植えられて、眺望も開け、ちょっとした展望台が設けられ、より快適で清々しい場所に生まれ変わりつつあることは確かです。
ある程度林を切り開き、整備されてみて初めてわかったんですが、町のどこから見上げても実によく目立つんですね。やっぱり、お城ってのはそういうところに築かないと意味がない。これには改めて感心させられました。

joyama01.jpg
秋宮門前から桜ヶ城址遠望

おわかりでしょうか。真ん中の小高い丘がそれです。てっぺんじゃなくて、その下の灰色っぽい段々状のあたり。

ちょっと近付いて、秋宮社叢裏あたりから見上げてみます。
……あ、万が一気付いてない人がいると悲しいので念のため書き添えておきますが、サムネールをクリックすると多少大きな画像見られますからね。

joyama02.jpg
「小湯の上」から桜ヶ城址遠望

こんな感じ。
観光用のノボリ旗が立っているのがわかるでしょうか? それはまあ無理かもしれませんが、展望台は確認できるのではないかと思います。
これなら、うん、なんだかちょっと登ってみたいような雰囲気を醸し出してますよね?
ノボリ旗には、「風林火山」とか「由布姫の里」とか書いてあります。NHK大河ドラマ(『風林火山』は一昨年でしたかね?)にあやかって客を呼ぼうという例のやつ。

でも!
あいかわらず観光客なんかぜんぜん見かけません!

どんなにがんばったって、クルマで行けない急坂の上なんて場所では観光は成立しないんです。まあそんな時代は終わりを告げてほしいものですが。

ともあれ。
先日、天気のいい夕方にフラリと登ってみました……という最初の話に戻ります。

そしたら、珍しく人がいましたね。
三十絡みの青年です。
小さな犬を連れてるんで……近所の人が犬の散歩でもしてるんでしょう。
でも、なぜか、ネイビーブレザーにグレーのスラックスでビシッと決めています。

よく、わからない……。

でも、もっとよくわからないのは、彼が激しく暴れていたことです。

ノボリ旗に飛びついて、激しく破く、毟り取る。
膝で竿をへし折って、残骸を崖下に放り投げる。
いきなりそういうシーンに直面したわけです。

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joyama04.jpg
「彼の仕事」の痕跡

そらまあ、引きますよ。

無論、たしなめたい気持ちもありましたが、なにしろ相手はアブナイ人。なんの遺恨もないのに血を血で洗うようなことにはなりたくありません。かといって、わざわざ踵を返して引き返すのもなんだか癪に障ります。

とりあえず、黙ってじっと観察してみることにしました。
人が見ていることに気付いたら、彼も止めてくれるんじゃないかと。
(なにしろ、滅多に人に出会わない場所なんで)

そしたら、気付きましたね、彼。
一瞬気にするようなそぶりを見せて遠ざかっていったんですが……でも、その先で、また旗を破き始めたのです。ある種、確信犯的に。
私はちょっと思案して、ゆっくり近づくと、なるべく刺激しないよう工夫して声をかけました。

「どうかしましたか?」

すると彼は、

「こんな! こんなね、ぜんっぜん違うんですよ! ここはね、金刺盛澄って人の城で、武田信玄とか全然関係ないんです!」

……とても怒ってます。

オレに怒られても困るんだけど……まあ……盛澄ってのは鎌倉時代の下社最盛期の有名人でね、その人一代の城ってわけじゃないし……むしろ戦国時代に入って、諏訪氏に滅ぼされたときの最後の金刺宗家大祝、昌春が逃げ出した城という印象のほうが強いんですけど……まあいいや。

このとき私は「裏」から登っていったんで、それで彼も虚を衝かれたのかもしれません。

「そんなほうから登ってきたってなんにもわかんないんですよ! こっち側から登ってくればいろいろわかりますから。勉強してください!」

そっすか。
いや、ま……オレのほうが全然詳しいと思うけどね(笑)。

しかし、そうかあ。

「そういう怒りなら、まあ、わからんでもないかなあ……」

半笑いでそういってやると、「とにかく! こんなとこに風林火山なんて……」彼はプンプンしながら山を降りていきました。
犬を連れて。

うーん。

まあ、ね。
「そんなに金刺好きか!」って感じで。
奈良時代~鎌倉時代初期の金刺氏は知略に長けた名族で尊敬に値しますが、戦国武将としての金刺氏は……ちょっとねえ、姑息で情けないというか。
まあそれは関係ないです。
彼のいってることは基本的に正しくて、金刺氏を滅ぼしたのは諏訪氏、その諏訪氏宗家を滅ぼしたのが武田氏なんで、確かに直接的には関係ないんですよ。この城址に「風林火山」のノボリ旗を掲げるってのは、だから、一種冒涜的な感じを受けなくもない。確かに。

もちろん、彼のしたことは犯罪です。大した犯罪ではないですが、やっぱり犯罪です。
でもね。
愛ゆえに怒った彼の筋というものは認めてあげたいですね。
なんの勉強もせず、ルーチン仕事でなんも考えずにノボリ旗を立てたお役人さんたちには、彼を罰する資格なんてありません。
むしろ土下座して泣きながら謝ってもらいたい。

ほんと……集客と金儲けしか考えてない観光産業は、早晩滅びますよ。
行政がそのへんを理解する日は、果たしてやってくるのでしょうか。

まだ街中に立ってますよ、ヘンなノボリ。

「みのもんたの朝ズバッ!で紹介! 万治の石仏」

マジでね、彼でなくても破きたくなりますから。

joyama03.jpg
桜ヶ城址から秋宮社叢を見下ろす
諏訪湖対岸、小高いところが守屋山、右手前の小さな森は青塚古墳。

御子神十三柱の覚書 その2

出早雄命

十三柱の中で、おそらく、もっともよく知られた神であろう。この神の名を冠した社が、県内中心にぼちぼち見受けられるのである。
父神を助け、信濃の平定開拓に力をつくした等々の伝承を持ち、また、「出」を「伊豆」と表記したり、「出雲」に通ずること等から、太平洋ラインで天竜川から入諏した南方海人族系や出雲族の象徴として捉える解釈もよく見かける。健御名方とイコール、もしくは名代的な解釈をする説もあるようだ。

また、長野市にある「会津比売神社」に祀られる「会津比売命」と、諏訪の真志野郷にある「蓼宮神社」の「草奈井比売命」は、ともに出早雄命の御子神であるとの伝承を持つ(いずれも、他の神社では見られない生粋の地主神である)。中でも会津比売命は、初代科野国造建五百建命の妻であるとする伝承があり、出早雄命の出自と年代を考証する上で非常に興味深い存在である。独自の項目を立てたいくらいだが……ひとまず、十三柱中の他の神の項目でまた触れる機会もあろうかと思う。
ちなみに「会津比売命」の「会津」だが、われわれは条件反射的に「あいづ」と読んでしまう。しかし出早雄の娘であるという前提で見るならば、「えづ」と読むのが正しいのかもしれない。

ともあれ、出早雄命には妻もいれば子もいるというわけで、健御名方彦神別命とは対照的に、かなり人格神としての色合いが濃い神である。もちろん、健御名方彦神別命と出早雄命が異名同神という可能性もあるだろう。

さてここからが本題だが、三代実録の信濃の項に「出速雄命」の名がある。小祠は別として、この神の名を社名に掲げる神社は、現状私が確認できている範囲内で、県内に4社ある(100712訂正:5社)(100810追記:社名には掲げていないが主祭神とする長野市「社子神社/しゃごじんじゃ」を入れて6社)。
三代実録の指す神社を特定することはできないが、やはり諏訪盆地の北端にある諏訪大社摂社の「出早雄小萩神社」が最有力候補だろうか。

出早雄小萩神社拝殿
出早雄小萩神社 拝殿

諏訪盆地湖北の平地の過半分(現状、岡谷市街の大半)を占める広大な横河川扇状地の咽元、かつてはそこに「出早雄神社」として一柱で祀られていた。現在は同じ御子神の興岐萩命と合祀され出早雄小萩神社と号しているが、この合祀は戦後高度成長期の乱開発によるものである。出早雄神社から1キロほど降った扇状地の中ほど、下社の境外摂社の中でも格別に重んじられた古社、「小萩神社」が健っていたのだが、宅地造成のため鎮守の森ごと完全に取り払われてしまったのだ。振り返ってみれば、恐ろしいほどに民度・文化度の低い時代であった。……まあ、国家神道の反動で神道が必要以上に敬遠、軽視されていたという背景もあるのだろう。

この出早雄小萩神社、地勢的に見れば非常に重要かつ印象的な場所に鎮座しており、規模も相当に大きいのだが、ただ、境内とその周辺に古代の匂いがあまりにも希薄なのが少々気にかかるところではある。
もっとも、社地周辺には縄文時代の遺跡が複数発見されている。横河川扇状地がおおむね洪水野だったとしても、上部における地盤の安定はかなり早かったのだろう。また、ここの「上向遺跡」から横河川産の石材を用いた玉類が多く発見されていること、さらに東側数百メートルの山沿いにある高台には、特殊な敷石住居址で知られる縄文の大集落、梨久保遺跡があること、さらにその間を結ぶ山際に古墳群が見られること等から、古代における祭祀エリアとしての説得力は十二分にある。

川べりの古代祭祀址の場合、その上流も注視しておく必要があるだろう。
横河川の川筋上流には、キャンプ的な縄文~弥生の小遺跡が複数発見されている。有史以前は下社側においても当然狩猟生活を営んでいたであろうという証左でもあるが、石材採取行の痕跡とも解釈できる。また、その水源たる鉢伏山は、塩尻峠を越した安曇野側では強力な霊山として、また水分信仰の聖地として重視されてきた。ところが、鉢伏山が諏訪側で信仰された痕跡は、どうしたことかまったくといっていいほど見当たらないのである。これも大いに引っかかるところだ。

とはいえ、記録や伝承から見て、どんなに遅くとも中世までには鎮座していた古社と見てよさそうである。それどころか三代実録の指す「出速雄命」をこの宮だとするのなら、9世紀初頭にはすでに存在していたことになるのだが……どうも他の諏訪の古社のようにはピンとこない。重ね重ね非論理的で申し訳ないが、とにかく「雰囲気がない」のである。手付かずの社叢はカタクリや紅葉の名所としても知られる明るく美しい森で、市の天然記念物にも指定されているのだが、ただ、風格のある古木大木が見当たらない。
思うに、中近世の大洪水(中世、横河川の川筋が変わってしまうほどの大洪水のあったことが、しっかり記録に残っている)できれいさっぱり流され、地形すら変わってしまった後に再興したものかもしれない。

出早雄小萩神社舞屋
出早雄小萩神社舞屋
参堂から舞屋を遠望。この舞屋は旧小萩神社より移築したものだそうな。

いっぽう上社では、本宮の表参道の鳥居のすぐ脇に、他の摂社と並ぶでもなく、また、摂社としては格別な位置取りと規模をもって「出早社」が祀られている。上社側の認識としても、御子神の中で別格扱いの神なのである。しかもその祀られ方は、門番神、客人神としてのアラハバキの祀られ方を直接的に想起させるものだ。
ひょっとしたら、アラハバキ~長髄彦~手長足長という極めて心もとない微かなトレースラインの延長線上に、この神の名を並べることができるのかもしれない。そう仮定した場合、出早雄は健御名方へと上書きされてしまった古層の神、すなわち本来の諏訪神である可能性すら出てくるのだが……とりあえず、予断は禁物。

ただ、ひとつ考えられる妥当な案として、(今でいう)本宮の本来の祭神だったのではないか、という仮説がある。古層では前宮の場所が上社の真地であり、本宮が後から整備されたという論に異説はない。が、だからといって、それまで本宮の場所になにもなかったのかといえば、到底そうは思えない。硯石の参拝ラインがあるし、禁足地もあるし、本宮の北側(前宮とは反対側)山中には、諏訪としては極初期に属する片山古墳が遺されているのだ。
本宮の鎮座地は急斜面と尾根筋に囲まれた日当たりの悪い場所で、古い時代に人が住んでいたとはちょっと考えられない。初詣に行ったことのある人ならよくわかると思うが、冬季のこの場所はとてつもなく寒く、午後2時にもなれば日が翳ってしまうのである。逆にいえば、そんな場所に社殿を築いただけの理由は必ずあったはずだ。

ここで他の論社にも目を向けてみよう。現状で確認できているのは、以下の3社だ。

・上田真田町「出早雄神社」
・上田鼠宿「会地早雄神社」
・松代皆神山「熊野伊豆速雄神社」

真田町の出早雄神社は、明治に入ってから出早雄を号し、それ以前は「出配神社」という水神信仰の宮だったという。確かに、神社の社名や祭神は明治政府がデタラメに引っ掻き回してくれたのだが、盗人にも一分の理というか、国学なり古文献なり、それなりの根拠をもって合併、改変に臨んでいたことは確かである。ゆえに、古層でもやっぱり出早雄神社だった可能性はある。が、あわよくば三代実録記載式外社に見られたい、というアピールだった疑いもやはり濃いので、まあ検討材料からはひとまず外しておきたい。

以下二つの神社に関しては、ともに熊野信仰絡みで祀られている。中世以降、修験による習合がおこなわれたものと考えられる。習合の根拠は不明だが、とりあえず、熊野神「速玉男」との神名の類似が大きいだろう。天台系修験か、それとも吉田神道あたりの枝葉末節を探れば、なんらかの具体的な情報が出てくるかもしれない。
ただ、西からやってきた神であるとする説も故ないことではなく、速玉男と同神または縁故の神という可能性もゼロとまではいえないだろう。

鼠宿の会地早雄神社もそれなりの風格を備えているようだが、松代の「熊野伊豆速雄神社」のほうが、三代実録記載式外社としての説得力は数歩勝る。古代信濃国造一族の拠点に近いということ、そして神奈備山として極めて印象的な皆神山の山頂に鎮座すること等から、岡谷の出早雄小萩神社と式外社を論ずるに足る存在といえよう。ただ、「あの」皆神山の山頂に鎮座するがゆえ、例のピラミッド騒動に巻き込まれてしまい、電波系の情報とかトンデモ系の話題とかのノイズが極めて多く、どうにも実体に迫れない。地元の古伝承でもなにかあれば参考になるのだが……これは今後の課題としておきたい。

とりあえず、熊野との習合の件から手の届く範囲で推察できるのは、諏訪において現在熊野神社とされている宮が、本来出早雄命を祀っていた可能性がある、ということだ。なぜというに、この地方では江戸後期から昭和初期に至るまで、大いに修験道が隆盛したからである。
今後ひとつひとつ訪ね歩いてみたいと思っているが、特に、下諏訪町「東山田」地区(旧岡谷市)の産土社である熊野神社は、氏子の素性と立地から(下社春宮の最古にしてもっとも密接な奉祭者たち)その疑いが非常に濃い。旧「西山田」地区の産土社である先述の出早雄小萩神社との関係が大いに気になるところだ。

さらに……まだまったく調査が進んでいないのだが、県外にも多少気になる祭神が見受けられる。

猿田彦を主祭神として祀る三重は松阪の式内社、阿射加神社には、かつて荒ぶる先住神であったと伝えられる「伊豆速布留神(いずはやぶるのかみ)」が、また、健御名方の旧地ともいわれる阿波に鎮座する式内社、天村雲神社には「伊自波夜比売命(いじはやひめのみこと)」が祀られている。
いずれもはっきりとした関連を見出すことはできないが、無視することもできまい。

伊豆速布留については、現状なにも語れることがない。猿田彦の宮という部分は引っかからなくもないが、実は諏訪古族からはあまり山人の匂いがしてこない(性質は山人でも、まったくの独立系という意味で)。ミシャグジと猿田彦の習合はさほど古層のこととも思われず、まして阿射加神社は三重に鎮座するということで、両者を繋ぐ糸を見つけるのはなかなかに難しそうだ。

伊自波夜比売に関しては、中世の時点ですでに出早雄命の御子神説が語られており、またそれゆえにか、会津比売命と同神ともいわれるようなのだが……これも確かなことはまったくわからない。阿波には「諏訪」があったり、「名方」群に式内社の「多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社」があったりして非常にややこしいので、まあろくに知らない段階であれこれいうのは控えておきたい。

(出早雄命・了)

■100712追記■
・高森町に「出早神社」あり。詳細未確認。

御子神十三柱の覚書 その1

建御名方彦神別命

この神の人格神的な性質を覗わせる伝承や文書の存在を、私は知らない。
長兄とされる御子神だが、どう見てもこの神名は一般名詞である。「別(ワケ)」は古代の人名の末尾として一般的ではあるが、「彦神別」という順序だと、むしろ分祀もしくは支族であることを示すように思われる。そして「彦」は、そのまんま息子(御子神)を意味するので、ごくおおざっぱに概観すると、「建御名方の神格を引き継ぐ御子神」くらいの意味であろう。

この神名を戴くもっとも重要な神社は、長野市、善光寺の東に並ぶ城山に鎮座する「健御名方富命彦神別神社」である。式内社だが、雪深い飯山市と信州新町にそれぞれ同名の論社がある。「富」の一字が入るのが諏訪における御子神の名と違うところだが、延喜式にある「南方刀美」や「健御名方富命」は一般的に健御名方の別名と理解されているので、この誤差は大きな問題ではないだろう。
また、「健御名方富命彦神別神社」という表記における「命」と「別」の位置関係から考えられるのは、「健御名方富命の、彦神が、分かれた神社」という読み方で、だとすれば、現在諏訪大社でいわれる「建御名方彦神別命」という神名は、この神社の社名から引っ張られて余計な「別」を混入させてしまっているのではないかとも考えられる。つまり、ごくごく単純に「建御名方命の御子神」というのが本義と見てよいのではなかろうか。

hiko_haiden
健御名方富命彦神別神社(長野市)
諏訪造りっぽいけどちょっと違うかなという微妙な作りの拝殿

ところで、この長野市に現存する健御名方富彦神別神社は、持統天皇による風鎮の勅令で知られる「水内の神」に比定されるいっぽうで、現在地への鎮座が極めて新しい(明治の神仏分離による)こともはっきりしている。その前身は、善光寺の後戸神として祀られていた「年神堂」であるらしい。また、善光寺の創立前から、現在善光寺の建つ地には金刺氏の祀る宮があった、という伝承もある。

日本書紀にいう「水内の神」を善光寺年神堂(のちの健御名方富彦神別神社)に比定する根拠のひとつとして、諏訪神社のバイブル『諏方大明神画詞』の記述が引き合いに出されることが多い。

「本国水内の郡善光寺別社の事 日本記(日本書紀)第三十には 持統天皇五年勅使を遣して諏方水内(の)神等を祭ると見えたり 又延喜神祇式には諏方郡南方刀美神社二座 水内群健御名方田富彦神別神社と云えり 当社の分座疑なし 是れ則ち当郡善光寺郭内の当社なり」(今井広亀著の読み下し本による)

というのがそれで、続けて善光寺の「当社」における神事の描写が少々続いているのだが、ここには大きな問題がある。まず第一に、『画詞』はあくまでも室町時代初期における諏訪神社側の見解であり、水内側当事者の公式見解ではないのである。しかも当該記事は「当社の分座疑いなし」という表現をしている。つまりこれは著者小坂円忠の主観でしかないのだ。少なくとも彼は、なぜその「分座」が善光寺にあるのか、善光寺と諏訪社にはどういう縁があるのか、この表現を見る限り、まったく知らずに書いていたものと考えられる(少しでも知っていてくれたなら、神仏習合&諏訪信仰マニアとしてどんなにかありがたかったろう!)。
円忠は上社方の人間なので、『画詞』は完全に上社側に軸足を置いて書かれている。だが、善光寺と深い縁で結ばれているのは下社のほうなのである。要は、「善光寺郭内の当社」という貴重な歴史的証言を除けば、日本書紀と延喜式という公式古文献のみを頼りに語っている点で、現代の神社マニアが式内論社を検討しているのとさほど変わらない内容なのだ(まあ極論だが)。いかな「バイブル」とはいえ、鵜呑みにするわけにはいかないだろう。

加えていえば、現在の健御名方富彦神別神社は、明治の遷座の際、式内論社としてのアピールのため必要以上に立派に築造した気配が濃厚である(時代背景から見れば、むしろそれが当然)。持統天皇の勅があった7世紀末……これは非常に微妙な時期ではあるが、善光寺はすでに存在していた可能性が高い。その時点で大寺の風格を備えていたとは到底思えないが、それにしても、往時の年神堂(の前身)は今に見る寺院内の鎮守社のような小祠であった可能性が高いわけだ。当時、社殿の大小が中世以降のようには意味をもっていなかったにしても、果たして式内の名神大社にふさわしい宮だったのかどうか……少々疑問に感じざるをえない。

それでも、善光寺境内に古くから諏訪神が巣食っていたという点だけはそれこそ疑いの余地がないし、後戸神のように諏訪神が祀られていたという状況も非常に興味深い(まあ、後戸に配したのは後の天台宗徒なのだろうが)。また、伝承通り、それが善光寺以前の金刺氏奉斎神社の後身であったとするならば、当時の金刺氏の権勢からいって式内社とされてもまったく不自然ではない。ただその場合、7世紀末においては健御名方富彦神別神社が主であり、善光寺が従であったという神宮寺のごとき状況を想定する必要がある。なにしろ本地垂迹以前のしかも東国、現代からは想像もできないような神仏混交状態がそこにあった可能性だってあるのだ。
(→式内社指定についての参考資料
しかしながら、このあたりの問題はあまりにも深く、果てしがない。また、当ブログのメインテーマど真ん中でもあるので、ここではこれ以上深入りせず、機会を改めることとさせていただきたい。

さて、以上総合的に見てくると、他の二論社も決して軽視できない存在であることはおわかりいただけるかと思う。特に飯山の健御名方富彦神別神社は、「庭津女命、知奴命、沙南豆良姫命、麻背命、八須良雄命、武彦根命」と、耳慣れない(おそらく)地主神ばかりがずらりと配祀されている点が大いに気にかかる(祭神は「玄松子の記憶」による。正規には未確認)。ただ、麻背命についてだけは十分すぎる手がかりがあって、これは金刺氏系図のごく序盤に登場する科野国造、金刺舎人麻背その人であろう。
この点だけ見れば、飯山の健御名方富彦神別神社は式内論社として非常に優位に立つ。と同時に、健御名方富彦神別命の正体は、麻背もしくは初期の科野国造なのではないか、もっといえば初代国造とされる建五百建命ですらありうるのではないか……と、これは妄想の域になってしまうが、それにしても、他所の国造がしばしば古社の祭神とされいるのに対して、建五百建を祭神とする信濃の神社が極めて少ない点から、十分に可能性のある妄想なのではないかと思う。いうまでもないが、その場合「健御名方富彦神別命」の名は、諏訪勢力が権勢を増した後世に御子神に組み込む形で上書きされた神名、という解釈になる。諏訪神社はその手の操作が大得意なのだ。

いずれにしても、水内なり松代なりに、信濃国造一族が奉祭した相当に大物の神が絶対にいたはずなのである。そして、金刺氏と他田氏ののちの繁栄ぶりを見れば、その神が現代にまったく痕跡を留めていないということは、まず考えられない。その神はどの神なのか……もちろん結論は出ないのだが、健御名方富彦神別命を候補のひとつとすることに大きな問題はないのではないだろうか。
いや、もちろん、建御名方そのものと考えるほうがより率直ではある。ただ……奈良時代までの金刺氏からは、どうも建御名方を貶めようとする意図が感じられるのである。その点についてはまた機会があれば別項で詳しく触れてみたいが、今のところは「古事記の件」だけを例として挙げておこう(→詳細は「つづきを読む」で)。

謎は謎のままに残るが、とりあえず、この神名を筆頭に挙げることで諏訪神社は水内を最重視する姿勢を示していた、ということだけはいえそうだ。諏訪信仰の中心地として、諏訪神社が揺るぎない権威と求心力を獲得した後も、旧地に対する敬意を示し続けていた、ということなのではないだろうか。
といってもそれは金刺氏にとっての話で、守矢神長官以下、上社側の古族にとっては知ったことではないだろう。そもそも御子神十三柱という概念はどちらかといえば下社側中心の概念なのだ。上社の「十三所」のほうがより古層と土俗を感じさせる神秘的なラインナップなのだが、その内容は御子神十三柱とはまったく異質である。

諏訪社では上下問わず「十三」という数に格別の意味が持たされているようで、だとすれば、十三柱にせよ十三所(上中下で合計三十九所ある)にせよ、無理繰りに数合わせをしていることも大いに考えられる。
なにがいいたいのかというと、「健御名方彦神別命」のような一般名詞的神名は、他の確固たる神名を持つ神と重複している可能性もあるのではないか、ということである。
別に「健御名方彦神別命=建五百建命説」を蒸し返そうというのではない。おそらくこの問題は、十三柱を検証していく中で何度も直面することになるのではないかと思うのだ。

hiko_onbashira
健御名方富命彦神別神社(長野市)の御柱
諏訪人にしかわからないと思うが、これを初めて見たときには少なからぬカルチャーショックを受けた

(健御名方彦神別命・了)

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御子神十三柱の覚書(イントロダクション)

再度のごあいさつ、そして前フリ

再開宣言後、また沈黙。お恥ずかしい。
開き直った結果として、いきなりハードな内容での再開です。たぶん諏訪信仰マニアにしかついてこれません。
ごめんなさい。
でも、ま、以前のような、いや以前以上に軽いタッチのやつも随時差し挟んでいくつもり……そう、つもり、ではあります。

それと、最近は諏訪信仰研究ずっぷしなので、本来のテーマである怪しげ習合系のネタにはなかなか行かないかもしれません。その代わりといってはなんですが、気分次第で「ただの日記」も混入させていこうかなあ、とか思ってます。
……そう、思っては、います。

では、はじまり。

********************************

神社の祭神というものは、ときどきの権力者の個人的願望や事情によって、いとも簡単にすり替わってしまう儚いものである。式内論社ともなれば、神官たちは本来の祭神を曲げてまで「本家」を称したがり、そのためには伝承の捏造すら厭わなかった。
もちろん、すべての責任を権力者や祭祀者たちに押し付けるのはフェアではない。流行や、掲げられる霊験の内容によって、庶民からの人気も乱高下を示す。信仰する側にとっても、知らない神よりは知っている神のほうがいいに決まっている。まして現世利益を期待する貧しき庶民は、どこまでいっても「寄らば大樹の陰」である。いかに古い歴史を持つ地主神でも、土着民にその名を忘れられ、中央の有名神の人気に負けてしまった時点で、すでに死んだも同然なのである。

そうした歴史を潜り抜け、なんとか生き延びてきた地方神も、近代に至って決定的なダメージを受ける。明治政府の神社合祀政策は、(結果的にではあるが)ひとことでいうと「地方神・無名神を対象としたジェノサイド」に他ならなかった。記紀の神々をエリートとして選別した実情を加味すれば、「神道界のアウシュビッツ」とすら表現できるだろう。
明治政府は列強に対抗する必要から、「戦争に強くなる」という現世利益に特化し、神道という汎神教に一神教の方法論を適用、思うさまに改造したのである。
こと信仰という側面だけ見るならば、明治政府ほど愚劣な政府は日本史上類がない。モダンな支配体系と思想を伴うぶん、法敵としての邪悪さは信長の比ではなかった。仏教にとってはもちろんのこと、民俗信仰にとっても、そして……神道にとってさえ。

ゆえに、現代にその名を残す無名な地方神の存在は、非常に尊い。

有名神の分布や伝播の経過を調べることからは学術的な成果が大いに期待できるが、それはどちらかといえば表向きの教科書的な歴史の世界のこと。物質主義的、中央集権的なモダンの価値観が限界を顕わにしたこの時代、それは人々の興味の中心ではなくなりつつある。民俗学、信仰研究の側からのアプローチとしては、生き残った無名な祭神を探すことにこそ価値があるといえるだろう。プチ瀬織津姫ブームもその現れだろうし、現代に至って今井野菊の調査記録が再評価され、その内容がわれわれを惹きつけてやまぬ所以でもある。

そして……幸いなことに、ここ信仰のガラパゴスともいうべき諏訪の地には、少なからぬ土着神がいまだその息を永らえているのである。

……さて。

建御名方命の御子神十三柱とは、以下をいう。

・建御名方彦神別命(たけみなかたひこがみわけのみこと)
・出早雄命(いずはやおのみこと)
・妻科比売命(つましなひめのみこと)
・池生神(いけふのかみ)
・須波若彦神(すわわかひこのかみ)
・片倉辺命(かたくらべのみこと)
・蓼科神(たてしなのかみ)
・八杵命(やきねのみこと)
・内県神(うちあがたのかみ)
・外県神(とあがたのかみ)
・大県神(おあがたのかみ)
・意岐萩命(おきはぎのみこと)
・妻岐萩命(つまきはぎのみこと)

「それぞれ、どこの神社に祀られているでしょう?(若宮と十五社を除く)」という質問に対し、4つ以上答えられたら相当な諏訪信仰マニアといえるだろう。

諏訪に戻って以来、あちこちをうろついてみてつくづく痛感するのは、神社を取り巻く信仰というのはその中心部だけを見ていてもなにもわからない、ということだ。むしろ印象的なヒントは、周辺部や、忘れ去られたような片隅にこそ見つかるのである。

その意味で、「御子神十三柱」として今に語り継がれている十三柱の神々には、さまざまなヒントが隠されているように思う。まして、この建御名方の御子神というのは、その多くが建御名方入諏以前の先住神であるといわれているのだ。その伝承を信じるかどうかはともかくとしても、建前と権威に基づいて常に更新、上書きされてきた諏訪信仰の(表向きの)中枢部に対し、御子神を祀る辺境部にこそ古層の記憶がストレートに残されている可能性が高いのではないか。

そんな動機から、当面可能な範囲で、御子神十三柱の正体を追ってみた。無論、この内容は今後も更新され続けていくだろう。ゆえに、現状「覚書」なのである。

このシリーズでは特に、おそらく……今まで他に誰もいっていないこと(つまりデタラメの可能性があること)を多々口走ることになると思うので、引用元を示さない違法引用等はくれぐれも自重願いたい。ご自身の名誉のために。



プロフィール

LooseFrog

Author:LooseFrog
基本的に怠惰で、社会人として問題の多い中年男です。
でも、興味の対象には嬉々として食いつきます。

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デタラメやカン違いや不適当な素材の使用等ありましたら、ご指摘ください。
もちろん、助言や感想も歓迎いたします。

***

字が小さいとの御指摘をちょくちょくいただきます。
P盲な私がいまさら細かいところいじるとワヤになりそうなので、ブラウザの拡大機能の使用を推奨いたします。

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