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そこにあるはずのない白鳳仏 その3

そこにあったはずの白鳳仏?

どうもねえ……こう、写真が並んでて気軽に読めるフィールドワーク系な……そういうブログにしたかったんですが……これはもう、サガですね。仕方ないですね。

と、与太はさておき、長老・宥勝師への聞き取りを終えた寺務長さんが戻ってらっしゃいました。
「いやあ……」
寺務長さんは頭を掻きながら、なにやら書きつけられた藁半紙を、我々(というのは……紹介者その人と、この件に強い興味を示す身内が同行し、計3人での訪問だったんで)に示します。
「なかなか……話があっちこっち行っちゃって、時間かかったわりに核心がねぇ……」

なるほど、期待していた秘仏本尊の具体的な目撃談がない……。
うーん……。
しかし、それでも、長老の解説は我々を驚愕させるに十分なものだったのです。

さあ、お立ち会い!
特に諏訪の人はお立ち会い。

と、その前に。
後でしっかり調べてみたところ、このとき長老がお伝えくださった内容は、先述の2つの私文書にほぼすべて記されていました。ただし……さすがに一流の学者さんです。なにひとつ、1行たりとも「予断」はしていない。たとえば年表の照光寺関係の項目に、ある記述があるとします。それについて、「ゆえに照光寺はこの時代から存在していた」とか、「こういうわけで、この件は照光寺に関係がある」といった「説」を、いっさい提示していないのです。「こういう事実があります。わかる人はわかりますね? これ以上は説明しませんが」という姿勢。
ま、部分的に憶測は憶測として書いてはいるんですが、そういう場合には、はっきりと憶測である旨を断っています。本当にまったく、邪馬某国論争なんかの人たちに爪の垢を煎じて飲ませたいような、極めてニュートラルかつフェアな記述なのです。

なんていうか、さすがに……品位というものを感じさせてくれます……。

ゆえにこそ、この聞き取りは貴重でした。文書上は主張していなかった各証拠間の「つながり」「意図」を、かなり具体的に匂わせてくださったからです。

つまり、こういうことです。
一見、記述はニュートラル。出過ぎたことは言わない。しかし、かの寺の歴代住職は、自らの寺の伝統と誇りを胸に、強烈なモチベーションとエネルギーで古文書を精査し、口には出さない自説ーーそれは諏訪信仰の常識に真っ向から逆らう、ある意味異端学説でもあるーーを何代もかけて組み上げていたのです。それが、宥勝師という大学者を得て、ついに「照光寺誌」という具体的な形に結実したわけですね。

そこで!
品位のカケラもない厚顔無恥な私の出番です。
このことを知ってしまった以上、今、ここで、強いて予断を加えつつ、わかりやすくストーリーにまとめて見せなければなりませんでしょう。

だって、誰もやってくれてないしー。
つーかまあ、ここ10年20年の発見がキーになってるんじゃ、まだ地元資料に反映されていないのも仕方のないところなんでしょうけどね。

では、始めます。
いいですか?
今から諏訪の古代史が変わっちゃいますよ?

まず、照光寺のある「岡谷市」という場所について。
そこは岡谷市の中でも「旧岡谷市街」もしくは「岡谷区」と呼ばれる地域で、この地名の根拠は、「岡屋(おかのや)」という古地名にあります。照光寺が中世、現在地へと移転する以前の旧跡に隣接する「岡屋遺跡」は、縄文中期以来の遺跡ですが、諏訪地方では珍しく弥生文化が充実している希少な例として知られています。

次に、これは「岡屋」に関する最古の記述としてよく知られていることですが、10世紀初頭に成立した「延喜式」に、信濃19牧のひとつとして「岡屋牧」が挙げられています。
ここでいう牧というのは、いわゆる官牧もしくは勅使牧のことであって、大和朝廷直轄の馬の放牧場です。毎年、そこで育てられた馬が中央に納められるわけですね。そのへんの事情は、どの選集だったか忘れましたが、超メジャーな和歌集にも「岡屋」の名とともに登場しています。
牧はどこにでもあったわけではなく、「科野国(ほぼ現在の長野県)」は、上野、武蔵などと並ぶ代表的な牧の大々的所在地でした。

「牧」は律令で整備されたシステムですから、早ければ7世紀の成立、延喜式に記述があることから、どんなに遅くても9世紀までには存在していたことになります。
また、諏訪の古墳文化は貧弱だと以前書きましたが、数は決して少なくない。そして……もっとも古いと思われる上社筋のフネ古墳、糠塚古墳あたりは5世紀に遡り得ると考えられていますが、主流をなすのは7世紀後半。そして……この時期の古墳の副葬品としては、馬具類が顕著に目立っています。特に、岡谷市で発見されている古墳のほとんどが、このタイプに属しています(※注1)。

そして……他文献で触れられていない重要かつ衝撃的な記述が、照光寺の現代資料にあったのです。といっても、照光寺独自の記録ではまったくありません。おそらくは、古文献を広く精査した近代以降の照光寺住職のいずれかが「発見」したものと思われます。
すなわち、

9世紀初頭、弘仁5年に成立した「新撰姓氏録」に、「岡屋公林氏(おかやこう・りん・し)は百済国比流王の末裔なり」とある(※注2)。

いやあ、これには驚きました!
(なおのこと驚く私的な理由があったのですが、それについてはたぶんおしまいのほうで触れます)
さすがに私は、今の時点で原典の確認をしていませんが、おそらくは「諸蕃」に分類された326氏の内に存在するのでしょう。この書には畿内を中心に千余氏しか収められておらず、渡来人系氏族である「諸蕃」のほかには「神別」と「皇別」という分類しかないのですから、この書に載っているということは、よほどに由緒正しい氏族であると言えます。

さて、7世紀中盤~後半にかけ、大和朝廷は、滅亡した百済からの莫大な人数の亡命者(海を渡って亡命できる技術力と組織力があったのは、当然王族やその従臣たちに限られるでしょう)を受け入れます。そのへんは日本書紀にかなり詳細に記されていて、たとえばかの秦氏の祖先などは、1万人を引き連れてきたとありますし、彼らの処遇として地域を指定して開拓に当たらせたという記述も複数見られます。中でも、天智天皇の代、2千人以上の渡来人を東国に派遣したとのこと。

これだけ材料がそろえば十二分でしょう。
「林氏」は、百済仕込みの馬の飼育管理技術を見込まれ、岡屋牧の管理者として派遣された……それ以外には考えようがありません!
そうなると、岡屋牧は7世紀中には成立していたと考えるのが自然の流れというものです。

ところで、うん。林氏は7世紀来の百済からの渡来人である、と。

いやあ、もうね。
当然すぎるほど当然の話ですが……そこが諏訪バイアスの恐ろしさ。私自身思いもよらなかったことなのですが……彼らが仏像(ていうか仏教)を持ってきてないわけがないんですよね!

いや……そこで冷静に考えるとですよ? 金刺氏だって、どんなに遅くても8世紀には諏訪に入り、下社と関係していた。金刺氏は、中央からやってきた科野国造系の氏族ですから……やっぱり仏像持ってますよねえ!?
少なくとも下社において、「現人神・大祝」は実は仏教を奉じていたという……。

なんかもう、笑えてきますね。歴史的大スキャンダル!?(笑)

この時点で、状況証拠的には「諏訪の仏教伝来」の年代は(少なくとも)一気に300年遡ってしまうわけです。そしてその物証は……と、いうわけなのですが……。

しかし、照光寺歴代住職執念の研究はこれにとどまりません。次々にダメを押されます。
それを前提に、冷静になって考えれば考えるほど、諏訪人の「諏訪明神原理主義」が揺らいでいくのです。それは……もう、上社筋に至るまで!

というわけで、ぶつぶつと文字だらけで次回に続きます。

……あ。「次回で一段落つける」って書いたのに(笑)。
いや……もう1回で一段落つくかなあ。どうかなあ。

090726:注2を追加。

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そこにあるはずのない白鳳仏 その2

照光寺の私資料を読む

「照光寺誌」は、本当に素晴らしい本です。現代において、これだけの私的寺伝書はそうそう見当たらないのではないでしょうか。

まったく私的な話ですが、私がとりわけ感動したのは、通称「下社神宮寺起立書」の全文が付録的に収められていることでした。もちろん、前回書いたように、照光寺の根拠に関わる重要な古文書なので収録すべき必然性はたっぷりなのですが、それにしても、名ばかり見知っていても専門的な古文書参照など及びもつかない私のような素人には、たまらない資料でした。これがあれば下社神宮寺の旧態をかなり細かく再現できる! ……ってのはまあ、完全に個人的な趣味の世界なんですけどね。

ともあれ、寺務長さんは、本来それを参考資料として見せてくださっただけだと思うのですが、私のあまりにも前のめりなハァハァっぷりに免じてか、「この本はもう在庫あんまりないんですが……差し上げましょう!」と、太っ腹なところを見せてくれたのでした。

もう! ホントに! 感謝にたえません!
どんなにうれしかったことか!
だって非売品ですからね。今から欲しいといったって、正規に入手する手段はないんですから。

というわけで、本題に戻ります……。

照光寺薬師堂秘仏本尊、薬師如来。
さて、これはいったいどういった像なのか?

先述の通り、「照光寺誌」には、「像高33センチ、木造」とあります。
「木造」のすさまじい衝撃にすっかり私は幻惑されていたのですが……あれ?
サイズが書いてある……よ。

当ブログ「絶対秘仏萌え!その2」において、私は「秘仏はその絶対度が気になるところ」と書いたわけですが、現代の書物にサイズが書いてあるということは、「絶対度」はそんなに高くないのかもしれません。
ま、前回書いた通り、「長老だけが見ている」ということは確認できていますから、この記述も長老の実見に基づくものなのでしょうか。

とりあえず、続きを読んでみることにします。
ここは、「照光寺誌」中の「仏体」という章で、寺蔵の仏像リストになっているのですが……とにかく、この薬師仏の項を引用してみましょう。

薬師如来・木彫坐像 高さ三十三・三センチ
薬師堂本尊、厨子入り秘仏。制作年代不詳なるとも、仏体上半身に焼跡が認められるので、明和天明の大火以前、おそらく憲阿法印の延享元年の作か。


……あ、あれ?
延享元年というのは……1744年、江戸中期ですね……。
今度は千年飛び越えてしまいました。
うーむ……そうなるともう、まったくもってごくごく普通の話ですな……。

それでまあ、仕方なく他の照光寺私資料を当たってみるとですね……あ、ありました!

現住職・宥洪師の普山記念として発行された、これもまた非売品の写真集の序文的な「沿革」に、

また、当寺に伝わる薬師如来(旧本尊)は今から1300年以上前の白鳳3年(西暦675)銘のものであることが最近明らかになった。

と、あります。

う、うーん……?

そこで、両資料を再度しっかり確認するとですね、ともに非売品の私文書ながらも立派に通例に則った奥付がありまして、それによれば、「照光寺誌」は1985年8月、後者の写真集「瑠璃の光」は1995年11月の発行となっていました。

つまり……疑いの余地なく、「白鳳3年銘」の根拠は、「85年以降95年まで、10年の間に、宥勝師が実見した結果である」と断定できるわけです。

加えて言えば、85年以前にも、宥勝師、もしくはその先代か先々代かわかりませんが、まあセンチと書いてある以上それ以前は闇の中であって、とにかくその御三方もしくはその全員が実見し、そのうちのどなたかが実測している、ということになるわけですね。

もう、この時点で、秘仏マニアな私は猛烈に震えてしまいます。

あーと、これはね、マニアックで些細なこととみなさんは思われるかもしれませんが、

「絶対秘仏」と、(密教的な)「非公開仏」は、別物だ

とも思うのですよ。
たとえば、以前話題に出したことのある深大寺の深沙大将像とか、世間的には絶対秘仏だとされていますが、出版されている前住職の日記に、彼が若き日、当時の師匠に導かれて1回だけ拝観したことがある旨、記されています。
いっぽうで、絶対秘仏として高名な善光寺、東大寺二月堂、浅草寺、また、三井寺の本尊は、おそらく、現在の最高責任者も、先代も、先々代も、実見していないはずです。

と、それはそれとして……それにしても、です。
ここで私が感じている興奮がどれだけの人に伝わるのか……はなはだ心もとないのですが、隠された歴史の秘奥を抱いた(絶対?)秘仏がですね、もう少しで手の届きそうなところにある。という実感。
これはもう、とてつもなくエキサイティングなわけですよ。
「エキサイティング」とかいってると、本当にもう、信仰の側から見れば失礼極まりないことだとは思うんですけど……でも。はい。正直な実感として。

私の興味の核心を理解してくださった寺務長さんは、「そうなると……私の一存ではお答えできませんね。ちょっとお待ちください」と、席を外したのでした。

なにぶん、宥勝師は御高齢ですので……。

ほぼ30分後に、寺務長さんは戻っていらっしゃいました。

つづく。

……ていうか、あの、まだまだこの話は終わりません! 終わらないというのはつまり、今日明日には解明しきれないんですが……でも、次回で一段落はつけますからね!

そこにあるはずのない白鳳仏 その1

諏訪信仰史のタブーを秘する古刹、照光寺

「どうしたものでしょうか?」と引っ張っておいて、さて、実際にどうすればいいのかと考えるに、これはもう、直接聞いてみるしかないわけです。
で、私は、そうすることにしました。

……と、その前に。まずは、このテーマの舞台となる照光寺というお寺について、ざっとご説明しておかねばなりますまい。ただし、蓋然性(つまり、考えられる仮説等)については、強いてこの段階ではカットします。バイアス抜きで、客観的な現況を把握していただきたいからです。

城向山瑠璃院照光寺。真言宗智山派。
本尊は、正徳3年(1713)銘のある金剛界大日如来像。

照光寺山門風景

こちら、山門の風景。小さな山門ではありますが、寺格の高さをそのまま感じさせてくれる立派なプロムナードです。

先述のように、ここには下社神宮寺の什宝が数多く伝来しています。特に、下社神宮寺の本地仏であった小仏の千手観音像(鎌倉初期、平安末期説もあり)、同じく三重塔本尊であった脇本尊の胎蔵界大日如来像(室町時代の正系慶派仏師・康忠の銘あり)、この2点は相当な名品です。

創建は不明で、記録の上ではっきりと確認できるのは、諏訪大社下社の別当寺である「海岸孤絶山法性院神宮寺」の起立書が最初です。照光寺が下社神宮寺唯一の末寺であり、応永2年(1395)に神宮寺の僧が照光寺に入って中興した、との記事があります。

この起立書自体が江戸中期、寛保のものではありますが、まあ特に疑う理由のない記事ではあるので(「弘法大師開基」という真言寺院お決まりの古伝承を除けば、「粉飾」と言えるだけの大げさな内容がほとんどない)、まず大前提として室町中期の再興であり、普通に考えて鎌倉期までには存在していたであろうことがおおよそ推定できます。

また、照光寺の正式名称が「城向山瑠璃院照光寺」であり、また、この再興時点では「瑠璃院」がそのまま寺名であったらしく、そのころは「東ノ坊」という冠もついていたという点から明確に察することができるのは、本来、東方浄土の仏であり「瑠璃光」の尊名を持つ薬師如来が本尊であったろう、ということです。
ちなみに、下社秋宮から見た照光寺は西に位置するので、神宮寺の末寺として「東ノ坊」を称する理由はありません。
あ、あと、「城向山」にも相応の根拠があるのですが、その点については、また後で触れます。いや、触れないかもしれないけど。必要に応じて。

照光寺本堂

こちら、照光寺本堂。
諏訪大社下社春宮の拝幣殿と同じ、大隅流の宮大工による18世紀の堂々たる建築です。

しかしまあ、鎌倉期の寺院であれば、諏訪の歴史としてはなんの不都合もないのですね。上下社の神宮寺も、慈雲寺、仏法寺(現・仏法詔隆寺)、他いくつかの寺も、鎌倉期にはすっかり成立していたと思われるのですから。
問題は「それ以前」であって、額面通りに受け止めるなら、やはり「白鳳の秘仏」とはまだ500年余の隔たりがあるわけです。

とにもかくにも、前回紹介した看板以外にまったく資料がないのですから、いやもうホントに、「あれってどういうことなんでしょう?」と、直接聞いてみるほかないのですよ。

まあ……私も昔取った杵柄というか、「取材」という行為には慣れ親しんでいるので、飛び込みで取材を申し込んでもよかったのですが……なにしろ相手の格式が高い。比べてこちらには、仕事としての取材のような出版社等の後ろ盾がまったくないわけです。単なるチンピラ同然のいちマニアに過ぎない(すみません、見た目もわりとチンピラなので)。ちょっと……厳しいかなあ、と。

そこはしかし、地元の強み! 照光寺さんの門前に、高校時代以来の友人の実家があるのですね。しかも、がっつりと檀家さんらしい。「あるコネは使え」というのがこの世界(どの世界?)のセオリーですから、私はこの友人に甘えさせてもらうことにしました。
……ちなみに、浅草寺の資料をお願いした友人と同一人物ですが(笑)。

おかげさまで取材は速攻実現し、寺務長さんが対応してくださいました。

なにしろ、先代も現住職も「碩学」のひとことでは片づけられないというか、高踏的というか、もはや生きながらにして聖性を帯びた存在なので、正直、かなりビビリも入ってたんですが……寺務長さんは素晴らしくフレンドリーな方で、とても救われました。ホントにもう、感謝にたえません。

さて、ここからは話の順番が難しいのですが……ま、素直に行きましょう。

あいさつもそこそこに、本題である薬師如来像の話題に切り込みます。

「秘仏ということは……あの、特に御開帳とかなくて、一般に公開してないってことですよね?」
「ま、そういうことですね」
「それで、ご住職とか、こちらの方々は見たことがあるんでしょうか?」
「や、それはね……長老だけが見ています」
「そ、そうなんですか……!」

宮坂宥勝先生だけが見ている!

いやもう。なんか。大変なことに……。
それを根拠に「白鳳銘」ってことなんですね……。

オロオロ……。

「なんか、上半身に焼け焦げの跡があるみたいです」

えっ……!?

そこで、寺務長さんが見せてくださった新資料の登場です。

「照光寺誌」。

詳しくは追って説明しますが……要するに、檀家さん向けにまとめ、檀家さんに配った私資料で、非売品。照光寺の古文書をベースに、檀家筋の協力のもと宥勝師に至るまでの三代かかってまとめ上げたという大変な労作です。編著者というか、出版の最終責任者が宥勝師ですから、これはもう、あだやおろそかにはできません。
(諏訪の郷土史好きな方々へのお知らせ:後で確認したら、岡谷市の図書館にはちゃんと入ってましたよ!)

初めて見たこの「照光寺誌」に、件の薬師如来像は、「像高33センチ、木造」とありました。

え……?
えええええーーーっ!?

木造!

いや……白鳳仏と聞いた時点で、しかもこの辺境の東の地に残っているという時点で、なんかもうすっかり金銅仏だと思い込んでたんですよ。や、先入観といえば先入観なんですが、しかしね、常識的に考えてそうじゃないですか?

木彫仏が!
白鳳の!?

(も一度)えええええーーーっ!?

ますますもって、とんでもない……。

さあ、以降は、この(オレにとっての)新資料と合わせて話を進めていきたいと思います。

というわけで、今回はここまで!

そこにあるはずのない白鳳仏 序章つづき

諏訪は本当に仏教不毛の地なのか?(2)

さて、続きです。

……いきなり余談ですが、本文下に勝手に入る"Ads by Google"のアドで、さっそく三面大黒天チャームの販売サイトが入ってきましたね(笑)。予想通りというか、期待通りというか……ちょっとうれしい。

ええと、諏訪固有の歴史観、神宮寺のスルーっぷりという話でしたね。

つまり、早い話が、諏訪は仏教不遇の地なのです。
なにしろ諏訪明神!
……いや、ホントは「明神」って時点で仏教が習合してるんですけどね。

ともあれ、なんだろう、ある種の純粋主義と言いましょうか、諏訪神本位主義と言いましょうか、まず第一に、仏教の伝来が異常に遅かった、と。そして遥か時を経て、神仏分離→国家神道の思想統制によってその痕跡は駆逐され、とにかく現状、仏教というのは脇役に追いやられているわけです。ここ、諏訪では。

いや、お寺ならそれなりにたくさんあります。そして実際にみんながお葬式をどう出しているのかといえば、圧倒的に仏教が主流です。それこそ、神宮寺もしくはその系列寺院の中世~近世における圧倒的な勢力を示す証拠にほかならないんですが、そういう受け取られ方はしていないんですね。感覚としては。
「葬式仏教」と言いますが、要するに葬式請負システムとしてしか受け入れられていない面がある。どこのお寺も、参詣してみれば実際に近世以降の匂いが濃厚に漂っていますし、つまり、「諏訪本来の歴史には関わっていない」という認識なのです。

ま、一般の人々は当然そこまで意識的ではありませんが、郷土史家もしくは郷土史好きな人たちの共通認識として、「そういう感じ」なわけです。そして、それこそが「諏訪の独自性」であり、誇りなわけです。
……まあ、国家神道の思想統制の名残がいまだに拭い切れていないという事情があるのかないのか、そこはなんとも言えませんが、少なくとも、諏訪大社そのものに関して言えば、神社本庁の方針に極めて忠実な運営をしていて、つい1世紀前まで神宮寺があったとか、本当の主神はミシャグジだとか、そのへんは忘れたフリをしているように見えます。

現実問題、諏訪に平安後期より遡る仏教遺物は存在しません。……いや、ずっと、そう思われてきたのです。少なくとも文献上の証拠はありません。つい数十年前までは、岡谷市川岸の観音堂にある聖観音像、これが平安末期とされ、諏訪最古の仏像とされていました(あ、ちなみに、諏訪の盆地を出れば、長野県にも平安期の仏像がゴロゴロしています。北信に行けば奈良時代初期の金銅仏も、由来伝来はともかく、いくつか存在しています。まあなにしろ善光寺の秘仏本尊もあるわけですし)。

この観音にはもっともらしい伝承がありまして、なんでも、塩尻峠の向こう、重文平安仏の宝庫である牛伏寺の御本尊と同じ木材を使っていると。この口碑ゆえに、平安仏と判断されていた面もあるのかもしれません。
なんにしろ、一見してそれとわかる典型的地方作なので、制作年代の比定は簡単ではなく、最近では室町時代の作というのが岡谷市教育委員会の見解となっているようです。
しかし……この見解自体が、諏訪的先入観の影響を受けていないと言い切れるのかどうか……そのうち、この仏像も自分の目で確かめに行ってみますが。

しかし。
正直な話、私自身が、この諏訪固有の先入観に毒されている面が確かにありました。

たとえば、奈良時代の墳墓が発掘された。それが火葬墓であったと。火葬墓ということは、その時点で仏教の影響が入っているらしいぞ、と。そういう記事をちらりと見かけますわな。
そうすっとですね、「まー、弥生文化なんかと同じで、ちょっとくらい影響は入ってくるだろうけど、仏教ってことはねーよなー(わらい)」てな感じで、スルーしてしまうんですね。無意識のうちに。ニュートラル史観の持主たることを自負する私にしてからが、そういう「諏訪バイアス」を自分の中に感じてしまうのですね。

やあ、困ったもんです。

さて、ところで。
下社神宮寺に並々ならぬ思い入れを持つ私が、在りし日の下社神宮寺を偲ぶよすがとして、ま、旧跡巡りもあるんですが、もうひとつ、廃仏毀釈時に神宮寺の什物を引き取ってくれた近在のお寺を訪ねる、という手段があるわけです。
上社は上社でいくつもの寺が仏像等を引き継いでいますが、下社の場合、神宮寺の寺外に縁の深い寺院があまり多くなかったという事情があり、その名残を偲べるお寺はほとんど2つに限定されています。
それが、ともに岡谷市に現存する、照光寺と、平福寺です。(※注:090718追加)

前者は下社神宮寺唯一の末寺として、後者は金刺氏の氏寺・三精寺に縁が深かったということで、それぞれ神宮寺絡みの仏像や什物が相当数残されています。平福寺は平福寺で、胸を張って重文級!と言い張れる旧三精寺本尊(現状、県宝。たぶん、湛慶時代かその直後くらいの慶派仏師の作で、個人的には「諏訪地方最高の仏像」に推します)を擁し、とても素敵なお寺なのですが、やはり照光寺は寺格の高さで圧倒的です。なにしろこのお寺の長老(前住職)は、密教研究、空海研究の国際レベルでの第一人者である、宮坂宥勝師なのです。
ていうか、真言宗に興味を持つ人でこの名前を知らなければモグリもいいところですね。智山派の管長を二期に渡って務めたお方ですから。猊下ですよ、猊下!
ちなみに……現住職も、チベット仏教の研究者として中沢新一も一目置くような、ものすごいお方です。

と、まあ、それはいいのですが、とにもかくにも、下社神宮寺の旧本尊はここにあるのです。

下諏訪神社本地仏千手観音!
武田勝頼の念持仏!
60年に一度御開帳の秘仏!

一昨年、特別開帳があったのですが……私は見逃しました(痛恨!)。写真を見る限り、院派系列の端正な小像で、保存も最高。切金紋様(たぶん)も美しい優品です。……ということは、鎌倉初期あたりの造像が想定されます。

実際に参詣してみても、なかなかに立派なお寺です。境内や雰囲気からは近世臭しかしてきませんが、まあ、例によって何度も何度も燃えてるらしいんで、中世以前の姿を偲ぶことが難しいのは仕方のないところでしょう。

てなわけで、昨年私は、久々にふらりとこのお寺に立ち寄ってみたのですね。

そこで、エライもんを見てしまったのです。

skj_ysd01.jpg

ここは、照光寺、薬師堂。
通称、お観音さま。……というのは、下社本地仏を脇本尊として奉っているお堂だからなのですが。

えーと……。

skj_ykd_ks.jpg

「本尊秘仏薬師如来(白鳳三年銘)。」

はあっ!?

諏訪信仰史の常識を豪快にちゃぶ台返す、この力強い解説。
見た通り、かなり新しい看板で、少なくとも私には見おぼえがありません。

おいおいおいおい……。

私は諏訪関係の郷土史資料をそれなりに見直してみました。
しかし……この件について書かれた資料は、いっさい!見当たらないのです。

まあ……普通だったら、眉に唾して終わりです。
あまりにも突飛!
なにしろ、400~500年からの空白を一気に飛び越えるわけですからね。
なんぼなんでも飛距離ありすぎです。

しかし、このお寺の住職さんは、並みのお寺の住職さんとはわけが違う。
仏教美術が専門ではないとはいえ、学者さんでもあるわけですから(長老は名古屋大学名誉教授)。
安易に無視なんてできるわけがないんです。
にも関わらず、地元の資料では無視されている……。

ちなみに、岡谷市の文化財指定リストにも入ってません。このお寺は、市内でもっとも指定文化財の多いポイントなんですけどね。
ま、秘仏ってことだからしょうがないんでしょうけど……。

さて。
どうしたものでしょうか。

次回に続きます!

090718:少々追記訂正、と同時に注を追加。
090722:追加した注記に恥ずかしい間違いがあったので、以下に訂正とお詫び。

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そこにあるはずのない白鳳仏 序章

諏訪は本当に仏教不毛の地なのか?

さて。
私は当ブログ立ち上げ時より、いくつかの「大ネタ」を構想しています。
そのひとつめに、いよいよ着手することにしましょう。

なにしろ大ネタということで(笑)、段階を踏んでいく必要があります。まずはこの話の背景確認から始めなければなりません。……地元の人には退屈かもしれませんが、まずはお付き合いください。

えー、多少なりとも歴史や伝統に興味を持つ人にとって、自らが住む(もしくは生まれ育った)地域の歴史の特異性というのは、自負であり、誇りでもあります。特に諏訪という地はその特異性を前提に、異常に多くの郷土史家、もしくは郷土史家予備軍、さらには、歴史に興味を持つ素人を抱える地域です。そして……その特殊性の軸になっているのが、ほかならぬ諏訪信仰であることは言うまでもありません。

諏訪の歴史、すなわち諏訪祭政圏の特殊性については、今までにも繰り返し述べてきました。まず、ミシャグジ神の祖形を奉じた(と思われる)縄文文化が比類なき繁栄を見せ、その祭政圏の強固さゆえ、弥生文化、古墳文化ともに限定的な影響しか受け入れず、はね返し続けてきました。奈良時代に至るまで独自の体制を保ち続け、ゆえに仏教の流入も遅く、本地垂迹説によって諏訪神社の神官が体系的に仏教を受け入れるまで、仏教を拒否し続けてきたわけです。……と、まあ、そういう定説なわけです。

私も諏訪人である以上、そうした諏訪の特性に愛を感じています。「こまったもんだな~」と思う部分も多々ありますが、それを含めての愛です。
しかしながら、アニミストであり、諏訪信仰マニアであると同時に仏像マニアでもある私としては、「神仏習合」をまた、こよなく愛するわけです。そして……理念が先か経験が先か、それは知りませんが、私の生まれ育った実家は、諏訪神社の神宮寺跡地にあったわけですね。
そりゃあもう、神宮寺ってものには(ましてや諏訪社の神宮寺には)並々ならぬ愛とこだわりがあるわけですよ。

ところが。
この地では、神宮寺の旧跡ってものが、あまりにもないがしろにされすぎているのです。
えーと、下諏訪神社(←諏訪大社下社の古称です)の本地仏を奉る本堂に、三重塔、弥勒堂、仁王門、鐘楼、開山堂、本坊に庫裏、いくつもの鎮守にいくつもの池を抱えた広大な庭園、加えて26院坊を擁する高野山直属の大寺院があったというのに、まーったく! なーんにも! 痕跡が残っていないのです。
人々の記憶にすら!

……という話の、とっても端的な例証として、私はこのサイトを紹介したい。

http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sos_kamisuwa.htm

タイトルページはリンクに入ってますが、ここでは、失礼ながら当記事に関連する諏訪神社神宮寺の記事に直リンさせていただきました。

いやね。私は、下社神宮寺のことをネットで調べ得るのか?という疑問の下に、ほんの遊び心で検索チャレンジをしてみただけなんです。そしたら、このとてつもないサイトにブチ当たったわけです。

この、資料収集の鬼、フィールドワークの鬼のminaga氏がですね、

残念ながら、下社神宮寺跡を明確に知ることは叶わず。(神社、附近での聞き取りをするも、誰も知らず。)絵図や現状からの推測も困難と思われる。

って、書いてらしたんですよ。

いや! もう、ね。
神宮寺に愛を抱く諏訪信仰マニアの私としては、いや、それ以前に地元出身者として、この記事を読んで深く恥じ入った次第ですよ。つーかなんつーか、ぶつけどころのない怒りを感じたというかね。

附近での聞き取りをするも、誰も知らず。

ああ、情けない!
オレに聞いてくれよ!

というわけで、思わず、メールしてしまったわけです。
「もし、またいらっしゃる機会がありましたら、詳細にご案内いたします」。

そしたら……ほんの2~3ヵ月後に、彼はやってきました(笑)。
すごい人です。
いや、本当にね。跡形もないんですよ?
それを見に、わざわざ関西方面から訪ねてきてくださったのです。

というわけで、下社神宮寺の旧跡に関しては、上記のurlをご参照ください。

……で、本題に戻るとですね、それだけの大寺があった。武田信玄(正確にはそれを受け継いだ勝頼)再興の大寺が明治維新まであったというのに、地元民がそのことをきれいさっぱり忘れ去っている(もしくは忘れたフリをしている)。

最初に書きました。
「多少なりとも歴史や伝統に興味を持つ人にとって、自らが住む(もしくは生まれ育った)地域の歴史の特異性というのは、自負であり、誇りでもある」と。
にも関わらず……?

そう……そこがまさに、諏訪の特殊性の裏返しなのです。

なんだか書いてて力が入るので、前提編、次回に引っぱります。
ま、前提編なので、さすがにもう1回でまとめますけど。
すいません。

三面大黒天のこと

近世台密習合神の代表格

えー、うちのブログのマスコットについて、一度は語っておかなければなりますまい。

というわけで、今日は余談系なんですが……でも、長くなると思います。
性分なんで、お許しください。

さて、改めて見てやってください。このページの上部に表示されている、怪しげな絵のモチーフとなっている神様(仏様?)のことです。

このお方が、「三面大黒天」です。
大黒様の両脇に、武士形の天部と女神さまが控えているというわけではないのです。阿修羅って顔が3つあるであしょ? アレと同じ。三面一体でひとつの尊格。だから「三面」大黒天なんです。

普通の大黒様は、みなさん、ご存知ですよね?
米俵の上に立ち、右手には打ち出の小槌、肩に背負った福袋。白髪髭を伸ばし、満面の笑みを浮かべた、好々爺然とした福の神です。七福神の一員としてもおなじみですね。

このダイコクさま(大黒天/大国天)自体が、日本的「習合」の権化みたいな存在です。なにしろ、世界最強の破壊神というか混沌神シヴァにルーツを持ちながらの、福の神。そんでもって、日本国土のドンたるオオクニヌシが習合している。だいたい、シヴァ自体が日本に伝わってくるまでにえらくいろんな神様を習合してますし、オオクニヌシだって国津神の代表として、本来は別の神であったろうオオナムチやヤチホコ神といった、超重要古代神を何柱も習合しているわけです。
そればかりか、踏みしめた2つの米俵はキンタマのメタファーであり、頭巾をかぶった頭部を後ろから見ると亀頭の形をしていることもある(明らかに意図的に造形されている例が多々あります)、というわけで、日本古来の生産神、豊穣神、生殖神……つまり、道祖神まで習合しちゃってるわけですよ。

そのとてつもない習合の権化に加えて、さらに! 戦いと守護の最強神・毘沙門天と、財産と技芸と水(すなわち豊作)の神・弁才天まで習合してしまったという恐るべき万能の神様が、この三面大黒天なのです。
ま、早い話がひとり七福神ですね(エビスの本質は欠けてますが)。

この三面大黒天は、豊臣秀吉が奉じていたことでも知られています。現世利益の権化みたいな神様ですから、そりゃあもう、エネルギッシュなスーパー俗物の秀吉がいかにも飛びつきそうな感じです。
江戸っ子なみなさんは、上野の弁天様脇に祀られていることを御存知かもしれませんし、関西の方でしたら、東山は圓徳院の、秀吉念持仏そのものと伝わる三面大黒天のことを御存知かもしれません。
そして昨今、ミーハー的現世利益の神として、ポピュラーな信仰が再燃しているフシもあるのだとか。ググってみるとわかるんですが、チャームとしての三面大黒天像、やたらにあちこちで売ってます(※注)。

いやあ、すごい。

いっぽう、仏像マニア的視点から見るとですね、はっきりいって、まったく魅力のない尊体です。中近世のキッチュ仏ですからね。「仏像マニアとしての私」自身も、この尊体にはぜんぜん興味がありません。じっさい、どこの三面大黒天の写真を見ても、うさんくさい民芸品系の近世仏像でしかありませんし(本当に失礼だなあ)。

にもかかわらず、私が自分のブログの看板にするほどこの尊体を愛する理由は、やはりその圧倒的な「習合パワー」にあるのです。
いや……その「うさんくささ」自体が好き!ってのも大きいかな(あの『珍寺大道場』系な、ね……)。

コレもまた台密筋の仕事なんですが……本地垂迹&修験系台密思想のナンデモアリっぷりには、つくづく恐れ入ってしまいます。

余談になりますが、私には、私自身で辿り着いた「創作の奥義」として、「象徴は、関連する象徴を作為/無作為に並べ、配置し、適宜結びつけることで、作者が意図した以上の意味を乱反射のように勝手に増殖させる」というのがあります。
……やー、そんなことはね、台密の坊さんたちや修験者たちは、あたりまえのようにわかってたんですね。
台密の象徴と意味論の迷宮には、ちょっと触れただけでクラクラしてしまいます。特に、仏像マニア的にはついつい軽んじてしまう近世がすごいですね。マニエリスティックに熟成された台密の教義と尊体は、近世、恐るべき深化を遂げていたのです。
……同時に、避けがたくキッチュ性も帯びてしまうわけですが。

たとえば、蛇頭三面十臂の天河弁財天とか……実にすばらしいです!
モンスターですよ、モンスター!(↓これです)

天河弁財天
天川弁財天曼荼羅図(部分)
データはhttp://www.geocities.jp/noharakamemushi/から拝借しました。


私はそんな怪しげでキッチュな神仏を愛してやみません。ゆえに、ふと思い立ってキャッチーな三面大黒さんをシンボルにしてみたわけです。
なんでふと思い立ったかというと……これがね、ブログ初回のシリーズ……浅草寺&善光寺の件に遡ります。
この二寺の比較論は結局スルーしちゃいましたが(あんまり深いレベル、もしくは面白いところまで考えが進まなかったんで)、いやね、この二寺には相似部分が非常に多いのです。それはまあ、同じ江戸参詣観光系天台寺院として、出開帳を通じて直接に影響し合ったことが非常に大きいと思うのですが、しかし、個人的に特に気になったのが、

どちらの寺も、仁王門の裏に、三面大黒天と青面金剛が奉られている。

ということだったのですよ。
まあ……いろいろわけあって、どちらの門も近現代の再建なので……ね。それ以前の時代からこの二尊がいたのかどうか……しかし現代には現代なりの根拠はあるのでしょうし、しかも今のところその根拠に辿り着けていませんし、今なお強い興味を抱き続けてはいるのですが……まあ、とりあえずこの件は保留とさせていただきます。
加えて言えば、青面金剛は青面金剛で、これまためちゃめちゃ複雑に習合した非常に面白い神仏なんですが、その話にも今は触れません(ネット上で検索するだけでも、相当にディープな考察がいくつも見つかりますよ)。
ともあれ、仁王門の裏にいて、ろくに拝む人もいない三面大黒天の悪相(ああ、またもや失礼なことを)が、非常に印象に残っていたのです。

とにかく、怖い。
なにが怖いって、福神ならではの満面の笑みをたたえた大黒様の顔が、「どす青い」こと。
どっちの寺でも、かなりの巨像ですしね。

さて、その三面大黒天の由緒ですが、とりあえず秀吉が信仰していたという端的な証拠、鎌倉時代までの大黒天は憤怒形で一面二臂だったこと等を考え合わせ、成立はおそらく室町時代で、それ以上は遡らないと考えられています。今に知られる典型的な大黒様の尊形の成立は、それよりもさらに下ると考えるべきなのでしょう。

しかしながら、三面大黒天は比叡山由来! かの最澄が感得したという伝説も根強く残っているのですね。

ものすごい時代的ブランク。

ちなみに、典型的な鎌倉期の大黒天像は……まあ、このへんを見ておいてください↓
http://www.kohfukuji.com/property/cultural/100.html
典型的というにはちょっとアレかな。袋と反対の手には、杖というか、棍というか……正式名称を失念し、かつ、たった今ネットで調べても芳しい成果が上がらなかったのでそのままにしておきますが……ま、「独特の棒」を持っているケースが多いです。あと、憤怒形の天部にふさわしく、甲冑を着込んでいる例もぼちぼち見られますね。

で、このへんの由緒伝来の「きちんとした話」については、三浦あかね著『三面大黒天信仰』をおすすめしておきます。学者ではない著者が、しかし素晴らしく正統的に、端的に歴史をまとめてくれています。しかも昨今のブーム需要に答えて具体的な呪法までカバーしているという、とってもいい仕事してる本なのですが……しかし私は、この尊体に対してもっと感覚的なひとつの考えを持っています。

「最澄感得」の意味です。
ま、現実としては、「鎌倉末期~室町期の天台宗徒が勝手に言い出したこと」って線が妥当だとは思うのですが、なんらかの古文書、いや単なる口碑でもいいんですが、根拠となる伝承はあったのだろうと思うのです。それがなきゃ、イメージとして無理ありすぎですからね。
面白いのは、「それを当時の天台宗徒がどう解釈したか?」ってとこなんですよ。

つまり、最澄が唐に渡った際、現地で大黒天像を目撃していた可能性は十二分にあるわけです。ま、比叡山に始まる台所神としての祀り方とその根拠に関する伝承は、それはそれとしてこの際問題にしませんが(とにかく比叡山が何度も焼けてるんでルーツは辿りようがありませんし、実際、今の比叡山の食堂に祀られている秘仏三面大黒天も、決して古いものではありません)、とにかく、最澄その人がかの地で見てきた大黒天/マハーカーラの尊体について、弟子かなんかに話して聞かせ、その伝聞がなんらかの形で残っていたという可能性は十分あると思うのですよ。

では、当時の当地におけるマハーカーラがどんな姿をしていたのか?ということになるんですが、この時点ですでに、「いろんなものが習合してわけわからなくなったシヴァ神」だったものと思われます。
ただ、三面多臂の憤怒形であったことは間違いないでしょう。あと、顔は「どす青」かったでしょうね。

この「どす青い」顔については、インド由来、密教で言われることとして、「赤い顔した怒りはまだまだ、青い顔してるのが本当の怒り」みたいな話があります。蔵王権現とか明王なんか、みんな青い顔して怒ってますよね。さっきちらっと出た青面金剛なんて、名前自体がその性質をあらわしています。
ざっくばらんにいえば、「戦闘系の守護神天部より格上ですよ、もっとこう、魔王的なすごい神仏なんですよ」みたいな感じをアピールをしているわけです、教義的には。

さて。そこで。
中世末期の天台宗徒が、数百年のブランクを経て、大黒天に関する最澄の目撃談をなんらかの方法で知るに至ったと。
しかしですね、その時点での大黒天は、もうすでにかなり「福の神化」が進んでいたんですね(それがなぜなのかは、今の私にはわかりかねます)。つまり、もう笑顔の大黒様になっていた。
その福々しい笑顔ゆえに人気も出始めていた大黒様ですから、いまさら憤怒形に戻すわけにもいかない。んで……困った挙句、そのままの表情でどす青い顔にしちゃったんじゃないでしょうか。

笑顔で激怒! いやあ、いい仕事だ!

しかも、その目撃談には三面六臂とある。さあ、天台宗徒はますます困ってしまいました。長い間一面二臂で来てるのに、しかも福の神なのに、いまさら憤怒神の典型的特徴である三面六臂だといわれても……。
そこで、誰だか知りませんが、ひとりの天才(でもないかな・笑)が勝手に思いつき、勝手に創作したんでしょうね。
「あと2つの顔に、毘沙門と弁天をはめてみよう!」

いや……まあ、先の『三面大黒天信仰』によれば、シヴァ系の神様が片方女神の三面を持つ例も実際インドのほうにあるらしいんで、そういう根拠も多少あるのかもしれませんが……もっとこう、強引でいい加減なパワーを私は感じるわけですよ。だって、この尊体、冷静に考えてめちゃくちゃですよ?
んでもって、そのめちゃくちゃさをこそ、私は心底愛するのです。
数百年かけて順調に日本化、近世化しつつあった尊体に、いきなりインド/原初密教方面からの強烈な揺り戻しをミックス。すさまじい時空のギャップを、一尊の中に平然と混在させているのですから。

と、当ブログのマスコットを題材に今回言いたかったことはですね、「日本独自の習合信仰パワーの素敵さ」につきます。
そして、それこそが、当ブログ本来のメインテーマである、と。

そういうことなんでした。

090710:ちょっとだけ訂正加筆。
090714:再訂正。

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心地よく古墳めいたところ その2

諏訪大社職舎直下の怪しい物件

さて、前にも触れたことがありますが、大前提として、諏訪地方の古墳文化は貧弱です。というか、「その伝統のわりには貧弱」というのが正しい表現でしょう。
つまり、古墳時代後期~末期、さらには奈良時代にかけての小円墳であれば、ぼちぼち遺されているというわけです。墳丘が完全に失われてしまったものまで含めれば、諏訪市、茅野市、岡谷市、下諏訪町の諏訪湖を囲む(現在では茅野市は諏訪湖に面していませんが)4自治体の総計で、軽く50や60は発見されているでしょう(←適当な数字です)。(※090709付記注)

ただ、規模の大きいやつは全然ないですね。まず、唯一の前方後円墳とされる青塚古墳、それから、周濠があったと伝わり、もしかしたら前方後円墳だったかもしれない岡谷市長地のスクモ塚古墳の2つがそれなりに大きいくらいです。それでも墳長100メートルはなく、全国にあまたある巨大前方後円墳に比べれば、子供の砂遊び程度のもんですね。

そういった条件を前提としても、諏訪社4宮中秋宮周辺だけが、際立って古墳が少ないんですよ。ま、先述の青塚だけが秋宮の直近にあるのですが、ほとんどそれだけ。下社大祝・金刺氏以下、五官と称される重要な神職たちが秋宮周辺にいたにも関わらず、です。
もっとも、春宮周辺にも大祝邸跡と伝わる遺跡があるのですが、これはおそらく、下社の衰退期に一時的に本拠を移したものなのではないか、と考えられています(※注1)。なんといっても、五官筆頭、上社の神長官に相当する武居祝が、古代から維新に至るまで秋宮上の武居地区を拠点としていたわけですからね。

にも関わらず、上社周辺は言うに及ばず、春宮周辺の高台にも少なからぬ古墳が点在しているというのに、秋宮周辺だけが極端に貧弱、それでいて、青塚古墳1基だけが突出しているという奇妙な状況なのです。
秋宮周辺で青塚のほかに確認されているものとしては、武居祝の拠点からさらに沢を登った山奥に小円墳が2基、記録には残っています。いや、2基中1基は昭和の半ばの段階で石室の存在がしっかりと確認されているので、もしかしたら現存するかもしれません(所在地の自治体である下諏訪町は、正式な調査はおろか、保存等の対策をいっさい講じておらず、完全放置プレイです。罵倒に足るアンポンタンっぷりですが……まあ、予算がないんでしょう)。
……ま、そうですね、藪の枯れる時期になったら、探しに行ってレポートでもしてみますか。

ともあれ、その2基があまりにも山の中にあるんで、周辺に未発見の古墳がいくつか眠っている可能性は十分にあります。古墳の発見……いやあ、ロマンですね! 人として生まれてきた以上、生涯に古墳のひとつも発見してみたいじゃないですか。や、無茶苦茶言ってますが。
そんなわけで、私はこの周辺を散歩する際、いつも怪しい物件に目を光らせているのです。

たとえば……青塚古墳のすぐ上、山際に「小湯の上」と称する古集落があるのですが……このへんなんかものすごく怪しい。プンプン匂います。古くから民家がぎっしり建っている場所なので古墳があったとしても残っている可能性は非常に薄いんですが、でもね、民家の庭に鎮守の祠かなんかあって、それがでっかい平石(ただの庭石なんだろうけど)に乗ってたりすると……思わず立ち止まり、腕組みして沈思してしまったりもするわけですよ。

さてそこで、この周辺にひとつだけ、とても怪しい場所に、とても怪しい物件がひとつあることを私は知っています。今回の本題は、ソレの紹介です。

……いや、ようやく本題に辿り着きましたね。

その場所というのは、諏訪大社職舎のすぐ裏手、というか、崖の直下です。
諏訪大社職舎というのはですね……ええと、かつては「官舎」と呼ばれていた気がしますが、要するに、諏訪大社に赴任した神職のために用意された職員宿舎ですね。

宿舎といっても立派なお屋敷です。昔は植木に挟まれた石畳の奥に立派な木造の門がしっかりと扉を閉ざしていて、裏手の崖下から見上げると東屋らしきものが見えたりして、子供心にも神秘的に思えたものです。
……ま、その美しかったプロムナード部分も、いまはこんなですけど。

諏訪大社職舎入口

車を乗りいれることができないのが不便だったのでしょう。せっかくの広い敷地なんで、マイカーだって敷地内に駐車できるに越したことはないでしょうから。
いつだって、合理と利便性が文化を破壊します。と、嘆いてみてもはじまりません。

職舎の位置は秋宮から徒歩5分、武居祝の屋敷跡(それこそ、広大な敷地です)にほとんど隣接する地籍ですね。南側の直下は、今は亡き下社神宮寺の核心部分。というわけで、この諏訪大社職舎と神宮寺跡地に挟まれて、こんな知られざる古道があります。

古道1

……ちょっといいでしょ?
石垣と生垣に挟まれた、石畳の細道。写真上方から手前に向けて下ってくると、眼下に諏訪湖の眺望が広がってきます。
ちなみに、右に見える高い石垣の上が、職舎の敷地です。
そしてその先には、こんな風景が……。

物件周辺の風景

激しく音を立てて急流を成す汐(※注2)。柿の木なんか生えてて、右のほうには畑があります。風情がありますねえ。
と……おや? 柿の木の根元になんか……あと、登り坂の右手にも……?

天井石っぽいやつ

いかにもな平たい形をした巨石が……。

物件近くの巨石

こっちにも。

上から見たところ。

巨石俯瞰

巨石に加えて、ひと抱え級の石がごろごろと……。

ま、でもね、これだけならなんてことはありません。ムー的電波を受信しないよう日々心がけている私ですから、これだけのことで「古墳かも!」なんてことは言いませんよ。
でも、ね。
先の石畳と、この巨石までの距離がほんの数十メートル、その間の石垣にですね……ええと、これがその石垣の道なんですが……。

物件横の石垣

おや?

古墳もどき脇

こ、これは……。

正面から見てみましょう。

古墳もどき正面

…………。

いや……古墳に関する専門知識なんて全然ないんで、まったくわからないんですけどね。しかしこれ、横穴式石室……という規模はないにしても、横口式の石槨というか……そういう風に見えるというか、モロにそういう構造をしているというか……。

「これ」がなんなのかといえば、中央下にパイプが見えている通り、「湧水」です。かつては近隣住民の生活用水として重宝されていたようで、大正生まれの土地の古老(いや、私の身内ですが)によると、かつては神宮寺境内の湧水とペアで、金銘水、銀銘水とか呼ばれていたらしいです(どっちがどっちなのかはわからない)。

まあ……泉が湧く石室なんて聞いたこともないですよね。しかも左右に連なる石垣に穿たれた穴なんで、墳丘の存在は想定できません。
でもって、横穴の奥行きは大したことないです。

石槨?

2メートルはないかな? ま、奥が崩れてたとしたら関係ないんだけど。

でも……でも……なんでわざわざこんな構造に? だってね、生活用水としての湧水の注ぎ口として、この横穴、なんの必然性もないんですけど……。
古墳ではないにしても、こんな構造物を作った動機がわかりません。
識者の御意見を乞いたいところであります。

この項は、とりあえず以上でおしまいです。
また晩秋にでも、武居の古墳を探しに行って続編を書くかもしれません。


090707付記:
物件の上方、写真に見る汐の横の坂道を登ったあたりの空き家の庭に、もとは水を引いていたと思われる庭園の石組があり、そこには、建物及び庭の規模と比べて不自然なまでの立派な巨石がごろごろしています。
この地には、中世、神宮寺の院坊が建っていたと推定されるので、付近に転がっている巨石は、あるいはかつての院坊の庭園遺構と考えるのが妥当かもしれません。
もっとも……その時点ですでに崩れかけていた古墳の遺構を流用したという可能性もありますが。

ま、可能性って話なら、なんだって言えてしまいますね。

続きを読む

心地よく古墳めいたところ

御作田神社にふらっと寄る

諏訪大社のお膝元に生まれ育ちながら久しく郷里を離れて暮らしていたため、自分でも意外なほどに、地元の旧跡や祭事を見たことがない私です。
そんなわけで昨年の秋からがんばって見て回ろうと心掛けているのですが、特に祭事に関しては、もう、全然ダメですね。明日どこそこの祭事だとわかっていても、明け方までパソコンの前でうだうだしていて(いやまあ仕事の場合だってあるのですよ)、見逃してしまう。そんなんばっかです。昨秋、初めて新嘗祭を見に行ったのと、何十年ぶりかで節分の福投げに行って大人げなく清酒引換券数枚をゲットしたくらいが関の山でしょうか。

これではいけない!と一念発起、御作田社の田植神事を見に行こうと思い立ったわけです。

御作田社というのは、明治に拓かれた新道(下諏訪宿から和田峠へと続く国道142号線、つまり、中山道のバイパス車道)の崖下に位置し、境内はごく小さなものですが、諏訪神社摂社中でもかなり重要な位置を占める古社です。
その狭い境内地に、ほんの2坪ばかりの神田があって、ここで田植神事を執行します。本質は農耕神と言われる下社における最重要神事のひとつであり、この小さな神田に植えた稲は(うっそうとした社叢の木蔭にもかかわらず)いち早く実るということで、下社七不思議のひとつにも数えられる由緒正しい神社なのです。

加えてこの地は、(今ではまったく言いませんが)古くは、字「宮津子」と呼ばれており、たった10年間だけ存在したと伝えられる「諏方国」の国造があったのではないか、などと言われる場所でもあります。

はい、これが御作田社の本殿です。

misakuda.jpg

そんで、これが神田。

misatanbo.jpg

ま、由緒があるとはいえ、神官が狭い狭い田んぼにお田植えする神事を見てもどうということはないのですが(いや、古態を遺しているとも思えないので)、奉納される巫女さんの舞が見られる、というのが、正直、メインのモチベーションだったのですがね(前述した新嘗祭もそれが目的でした。だって、諏訪信仰が興味の対象なんだから、本当だったら神社本庁的な新嘗祭なんて見る価値ゼロですもんね)。

ついでなので、その新嘗祭における巫女さんの舞の写真、上げておきます。

niname_mai.jpg

また、下社オリジナルの最大神事として知られる「御舟祭」ですが、中世までの古文書では、これは「御作田祭」と呼ばれていたようです。加えて、この祭の御魂代である翁と媼の人形は、もはや残骸と化し意義も失われた、しかし下社最古の信仰形態の名残を遺す「内御霊戸社」において、祭の後に焚き上げられる、という儀式が今も続いているのです。
それだけ、農耕神としての下社の重要ポイントだったわけですよ。

ま、一度は見ておかなければなりますまい。

時間があんまりなかったんですが、とにもかくにも駆けつけてみました。

harigami.jpg

……ああ、そうですか。

いや。あのさ。重要な神事なんでしょ?
いいのか、そんな適当なことで。
雨、完全に上がってたよ? まあ、地面はぬかるんでたかもしれないけど。

舞の奉納は、しばらく後で春宮の神楽殿においておこなわれ、田植えもやらないわけにもいかないだろうし、日暮れ前にちゃんとやったらしいんですけどね。
や、この神事に連続して春宮付近でおこなわれる茅の輪くぐりの神事もあるんで、そっちにまとめちゃったんですね。

まあいいけど……。

そんでまあ、何度となく来たことのある場所ではありますが、せっかくなんで改めて見渡してきました。

この場所に関しては、藤森栄一先生が「あるいは古墳址かも」という見解を述べられております。
根拠としては、
・「諏訪史」によると、神木の根元を掘ったら岩盤に当たったので神威を畏れて中止
・言い伝えに、金属製品若干が出土したとか
・境内に石室跡と思われる石が残っている
・このあたりは、字「宮津子(みやつこ)」と呼ばれていた

まあ……うん。
とりあえず、古社が古墳址の上に建っているというパターンは、全国に死ぬほどたくさんあります。特に、平地から石垣なんかを築いて、一段高くなった狭い境内地を持つ住宅街のただなかの神社なんかは、いっそう怪しいですね。
ここ、御作田社も、まさにそういう感じではあります。
こんな感じで。

misaku_gaikan.jpg

しかしなあ。
その、残ってる石ってのがね。
今はこんな。ていうか、これだけ。

masa_ishi.jpg

これだけじゃねえ……。
いや、「下諏訪町誌」の藤森先生の記事におけるこの石の写真はね、もうちょっとだけ、もっともらしいんです。ひと抱えくらいの石がいくつか並んでる上に、この巨石が乗ってる感じで。
位置もなんか今とは違うな。

ええとね、これです。

misaku_koz.jpg

書物からデジカメで拾ったもんなんで、画質は許してくださいね。
この調査は昭和20~30年代だと思うんですが……その時点と比べてすら、今はずいぶん様子がかわってしまっているようです。
仕方ないことなんだろうけど、ねえ……。

あと、字「宮津子」なんですが、この根拠はとっても疑わしいです。一時的にせよ諏訪に国造があったとして、また、そうでなくとも金刺入諏以降は「郡衙」くらいは確実にあったのでしょうが、処々の遺跡から考えるに、これは岡谷市の沖積地が有力です。こんな場所にはたぶんない。

で、ね。江戸末期まで、下社筋の神官組織に「宮津子祝(みやつこほうり)」という神職がいたので(いつからいたのかは今の私にはわかりません)、地名の由来は、そっちを考えるのが妥当かもしれません。
藤森先生は、たぶん、この件は見落としてました。
つまり、「宮津子祝」がこのへんに屋敷を構えていた時期があったというだけなのではないかと。

とはいえ、うーむ。
この「宮津子祝」がよくわかんないんですよね。現代語に読み下された古文書資料のいくつかをちらっと読み齧った程度の知識しかないんで偉そうなことはなんにも言えませんけど、ニュアンスとしては「神事担当」というか、まあ、単純にこの御作田社の担当神官だったのかもしれませんけど、役割がよくわからない。ま、追って勉強してわかったことはまた書きますけど。
少なくともね、上社にはそんな神職はいません。
まあ……「宮津子」なんていう名詞を戴いた神職が、この片田舎で維新まで存在したという、そのこと自体が面白いんですけどね。ただ、この場所に古墳があったとは、どうにも考えにくいです。

まず、周囲に類する古墳がない。多少離れた場所にあっても、それはもっと高台にある。
こんな山裾の窪地にね、古墳はないですよ、普通。いや、普通じゃなくても、この地方の近隣の例からみればね。

ていうか、そもそも下社まわり……じゃないな、秋宮まわり、武居祝まわりの古墳址が少なすぎるのがね。どうにも納得がいかないんですけど。個人的に。
ただひとつ、諏訪唯一の前方後円墳とされる青塚古墳が秋宮直近にあるばかりでね。

そのへんの疑問を引き継ぐ感じで、この項、もう1回(もしかしたら2回)続けます。
プロフィール

LooseFrog

Author:LooseFrog
基本的に怠惰で、社会人として問題の多い中年男です。
でも、興味の対象には嬉々として食いつきます。

loosefrog★gmail.com
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デタラメやカン違いや不適当な素材の使用等ありましたら、ご指摘ください。
もちろん、助言や感想も歓迎いたします。

***

字が小さいとの御指摘をちょくちょくいただきます。
P盲な私がいまさら細かいところいじるとワヤになりそうなので、ブラウザの拡大機能の使用を推奨いたします。

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