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【諏訪信仰覚書】縄文土器はなぜ消えた?

ミシャグジ信仰は本当に縄文由来か?

前回の【諏訪信仰覚書】で、以下のように書きました。

これら(八ヶ岳山麓の遺跡群)縄文文化の遺産には、あからさまに集団生活を前提とした「信仰」の痕跡が見てとれます。それがミシャグジ信仰となんらかの関わりがあったであろうと類推するのが普通でしょう。いや、実際、定説だと思います。逆に、関係がないと考えるほうが推論を立てるのが難しくなります。

というわけで、その「難しいこと」を、今回はしてみようと思います。
……つーか、しないわけにはいかないんですよね。

なぜなら、どう考えても、諏訪祭政圏における縄文の祭祀文化は一度断絶しているからです。

いや、本当に諏訪は難しい。
なにが難しいといって、諏訪は「日本古代文明のガラパゴス」だからです。

ああ、説明が面倒くさいなあ……つまり……日本の古代史、考古学における編年は、「土器編年」とか言われるように、そこで作られていたものの様式を基準にしているわけです。つまり、相対編年ですね。
今でこそ、年輪年代測定法とか、箸墓問題も記憶に新しい炭素なんちゃら年代法とか(←一部では「ゴッドハンド」とか陰口も叩かれてますが)、科学的手法による絶対年代も取り入れられてきましたが、現状、実際に適用されているのはほんの一部の遺跡・遺物だけです。

んで、土器様式等による相対編年というのは、当然のことながら地域差による誤差が多少なりとも出てくるわけです。特に諏訪は、その誤差が非常に大きいと思われます。なぜかというと、最後までヤマト王権に逆らい、独立を保っていた地域だから。……このへんも、普通に事情を知ってる人にとってはハナクソほじりたくなってくるような話だと思いますが……あー、ま、説明はこれくらいでいいや。
というわけで、古代諏訪圏には以下のような大きな特徴があります。

・弥生文化の痕跡が限定的にしか見られない(縄文文化の痕跡の膨大さに比べると、異常なまでに少なすぎる。もしくは、土器様式において弥生文化が主流となった時期が非常に短い)
・古墳文化(すなわち渡来人~九州~畿内勢力の影響)の流入が非常に遅く、かつ貧弱(※注1)
・仏教の流入も極めて遅く、はっきりと確認できるのは平安末期に至ってようやく

上記、すべての原因は、おそらく諏訪信仰にあります。早い話が、諏訪はその古代祭政圏の強固な体制ゆえ、ある種の鎖国状態にあったと考えればいいでしょう。ですから、「弥生文化主流の時代を(ほとんど)すっ飛ばしている」「ヤマト王権の勢力が十分に及ばなかった」という定説で基本的には説明できるのです。
が……しかし!

まだ、ひっかかるのです。

弥生文化を十分に取り込んでいないにしては、よそ同様に、縄文文化があまりにもきっぱりと途絶えてしまっていやしないか?

そのことです。
確かに、信仰形態は最古級ですし、その信仰の連続性を証明するかのような呪術的な縄文の遺産も豊富に発見されています。
でも……でも、ですよ? じゃあどうして、縄文土器や土偶に見られるシンボリックな図形、蛇体紋、水渦紋等と呼ばれるあまりにも個性的な様式、すなわち文化が、きれいさっぱり消えてなくなってしまったんでしょう?

弥生式の土器焼成法が伝わった、と。いや、もっと下ってもいいでしょう。土師器、須恵器が伝わってきたと。より薄くてより丈夫な文明の利器ですから、そりゃまあ採用するでしょうよ。
でも、信仰と文化が連続しているのなら、土師器の素材にあの奇怪な紋様を刻んでいたっておかしくないはずじゃないですか。
そうでしょ?
ところが、それはしていない。
少なくとも土器に限っていえば、他の場所とまったく同じように、縄文文化は途絶しているのです。

確かに、竪穴式住居としか思えない仮屋を作り、そこにヘビの人形を抱いて籠もるという「御室神事」とか(呆れたことに中世までおこなわれていました)、抽象的な存在でしかない自然精霊(←ミシャグジですね)を神木に下ろす儀式とか(今でもやってます)、あまりにも古態です。
いっぽうで、鉄鐸(さなぎの鐸)を用いる託宣の儀式や(※注2)、神宝中の神宝である鹿角製の「御宝印」などからは(※注3)、弥生の匂いもプンプンしてきます。
そして、この2つの神宝のいずれもが、維新までは神長官が厳格に護持していたのです。

諏訪信仰最古、かつ核の部分である「ミシャグジ」を奉じる守矢神長官から、弥生の匂いがする。

ということは、ミシャグジ/洩矢神という原初的関係の中に、縄文/弥生という断絶を見なければならないわけで……。

諏訪信仰の一番奥深くて難しくて面白いところが、まさにここなんです。
すなわち、

誰があらかじめそこにいて、誰がそこに入ってきたのか?(そして、その繰り返し)
ここが複雑多層に入り組んでいる。

整理するとですね、

縄文文化←弥生文化←古墳文化←ヤマト王権の直接的支配(干渉)

と、諏訪なりの特殊事情はありながらも、やっぱり基本的な編年はある、と。古代諏訪にも、4回(以上?)に渡る文化の「上書き」が確認できるというわけです。

この相関関係に対して、

ミシャグジ←洩矢神←建御名方←金刺氏

の、どれを、どこに当てはめるのか? それとも当てはめないのか?
……ま、4つと4つでぴったり合うんで、そのまんま対応させる説も十分考えられるんですけどね。

ただ、今回私が想定したような「ミシャグジにおける、縄文→弥生の断絶」を想定していない論もありますし、また、金刺(もしくはその祖先)=建御名方という解釈も、それはそれで不可能ではないというか、そっちなりの説得力もあったりするので……一ヶ所がずれると全部ずれてきますから。そのへんが難しいんです。
そこに加えて、二社四宮の関係が交錯してくる……。

ま、ひとつ言えるのは、「諏訪に入ってきた弥生文化」は、弥生文化の中でも相当初期のもので、以後、古墳文化が入ってくるまで、周囲に見られるような弥生文化の更新(進歩)がなかったのではないか、ということです。
つまり、周囲の地が渡来の高文化を積極的に受け入れていた時期に、かたくななまでに新文化の流入を拒んでいたという、非常に、こう、ひきこもりの伝統というか……。

「御建名方は決して諏訪から出ないと誓って許された(古事記)」→「大祝には郡外不出の厳格な不文律があった(※注4)」
という流れがあるわけですが、なんかもう、諏訪のひきこもりはそれ以前からの伝統なんじゃないかって気すらしてくるわけですよ。

や、現代の諏訪人にすら感じるんですけどね、そのへんのメンタリティは……。

それはまあ与太としても、「外からの侵入や攻撃に対しては力強く抵抗するのだが、別にわざわざ外に出て勢力を広げようとするわけでもない」と。そんな感じ(※注5)。
であるからこそ、ヤマト勢力としては長年(せっせと東征してた時期に、へたすれば実に3世紀もの間!)放置することができたんじゃないでしょうか。
古事記の記述は、こうした諏訪勢力のひきこもり的性質に対する皮肉、揶揄なのではないかと……ええと、確か藤森栄一先生もおっしゃってました(違う人だったかも。そのうち確かめておきます)。

ご存知でしょうか? 諏訪に「神無月」はないんです。神様、諏訪から出ちゃいけないんですから。

けれども信濃一宮!
日本三大軍神!
分社数国内第3位!
ひきこもりだって偉くなれる!
ひこもり諸君、元祖・引きこもりのお諏訪さまを信仰しよう!

しかし、なんかね。そのたびに矛盾するような考察ばかり重ねてますが。
つまり私は、「自説」を組み立てるなんてことにはほとんど興味がないわけです。だって、自説なんかより、新たに知る真実のほうがずっと面白いじゃないですか。
「こういうことを思いついた」/「こういう疑問が生じた」。
それが矛盾したとして、私には、個々にそれぞれを提示することしかできません。そのどちらかへの妄執が、どちらかの発想を握りつぶすような思考だけはしたくないなあ、と思っているのです。どっちもどっちで客観的に考えたい。結果、取捨選択ができればそれが理想だけど。そこまでするには勉強不足すぎるというか、素人の手に余ります。

あんまり【諏訪信仰覚書】が続くとブログの性質が変わってきてしまうので……いや、この話はまだまだ(ほとんど永遠に)続くんですが、せめて次回は、「鎮神社編」みたいな単独のフィールドワークネタをなんか拾いたいと思っています。

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【諏訪信仰覚書】守屋山考察 その2

戦略的要衝の地としての前宮

さて、ミシャグジの総本社とされる祠は、神長官守矢氏の邸宅裏にあります。この位置は、諏訪大社上社本宮と前宮の中間部、やや前宮寄りに当たります。ここから前宮にかけてが、まさに諏訪信仰の故郷、はじまりの地といえるでしょう。

ものすごく適当な概略図です。どうぞ。

諏訪湖周辺

この位置取りを、以前から不思議に思っていました。北東方向に面して壁を成す急峻な山塊の付け根。とりあえず、日照時間が短いです。寒いです。
今でこそ目の前には豊かな沖積平野が広がっていますが、しかしここは、古代において、諏訪湖の底か、せいぜい低湿地だったはずです。諏訪湖に面しているのは漁獲とか水運の面でプラスですが、経済的ヒンターランドという見地からは非常に弱い。たとえある程度陸化していたとしても、毎年のように洪水が起きていたことでしょう。
端的に言って……あんまりいい場所じゃありません。
なんでそんなとこに?と、やっぱり思ってしまうじゃありませんか。

ところで、諏訪湖周辺の古代史・考古学においては「800メートルライン」というのが有名です。諏訪4社をはじめとする主だった古代遺跡は、みんな標高800メートル付近に位置しているというのです。
ミシャグジ総本社擁する守矢邸も当然のようにこのライン上にあって、これを挟む本宮、前宮とともに800メートルライン上にきれいに並ぶような位置取りになっています。
ちなみに、現在の諏訪湖の湖面の標高は759メートル。これがなにを意味しているのかといえば、つまり、かつての諏訪湖はもっと大きかったのであろう、ということです。
ま、地質学的にもそれは間違いないそうです(それなりの増減を繰り返しながら湖岸線が後退していったと思われるので、各時代における正確な湖岸線の推定は難しいようです)。

下社神宮寺より高島城遠望
データはminagaさんの「がらくた置場」より拝借しました。

たとえばこの図。下社神宮寺から対岸の高島城を遠望しているわけですが、江戸期でさえも、諏訪湖は今よりひと回り、いやもっと大きかったことがよくわかります。中央上方の岬が「浮城」と呼ばれた高島城で、現在は相当陸に入り込んでいます。その背後にまだ諏訪湖の続きが広がっているわけですからね。

しかしこのことは、イコール「諏訪湖の湖面は古代において標高800メートルであった」ということを意味はしません。なぜというに、10年に1度レベルの増水や氾濫で水没してしまうような場所に、耕作地は(場合によっては農村も)あったとしても、重要な機関を置くはずがないからです。では、往時の諏訪湖の標高はどれくらいだったのでしょうか?

小坂地区の「白波社」、上社の「波除鳥居」といった名称、中世に遡り得る沖積地上の農村の存在、さらには春宮大門の大燈籠が漁師の灯台代わりにされていたという伝承等が、かつて(といってもそう古くない時代、まあ、おそらくは中世まで)の湖岸線の位置を推測させてくれます。
また、中世まで下社の神殿(ごうどの/大祝の居館)があったとされる台地の小崖直下にあたる沖積地からは、縄文~中世までコンスタントな繁栄を見せる四王前田遺跡が発見されています。

こうした要素から考え合わせるに、多分に恣意的な推測ではあり、まったく断定はできませんが……古代~中世くらいまでの諏訪湖の標高は、おおよそ770~780メートルくらいだったのではないか……というわけでざっと描いてみた概念図がコレです。

古代諏訪湖

かさねがさね、本当にざっとですみません……。
濃い青が現在の諏訪湖、薄い青が、想定される古代の諏訪湖です。
ま、文章だけで説明してても全然ピンとこないでしょうから、イメージだけでもお伝えしたいと思って描いてみた図です。学術的、資料的価値ともにゼロですので、そこんところはご承知置きください。

しかし……誰か、加工使用フリーの優秀なデジタル白地図/地形図を教えてくれませんかね? 有料でもいいですから。

……ともあれ、この図を見て初めて(いやウソだ。もちろん「文献上の古諏訪湖推定図を見て初めて」が正解です)、私は、諏訪信仰始まりの地にしてミシャグジ本拠地の位置取りに、合点がいったのです。

古代諏訪湖の南端。南は守屋山の山稜と、北東方面は永明寺山(当時はそんな名前じゃなかったでしょうけど)に挟まれたボトルネック(※注1)。そして背後は急峻な壁に守られている。ボトルネックの東に広がるのは、富士の裾野とも比肩し得る、広大無辺な八ヶ岳の裾野。
そこは……中期縄文文化が全国有数の隆盛を見せた場所です。「禍々しい」とも表現できる、魔術的な蛇体紋の土器、土偶の数々……。

これら縄文文化の遺産には、あからさまに集団生活を前提とした「信仰」の痕跡が見てとれます。それがミシャグジ信仰となんらかの関わりがあったであろうと類推するのが普通でしょう。いや、実際、定説だと思います。逆に、関係がないと考えるほうが推論を立てるのが難しくなります。
同系統の信仰・文化を匂わせる縄文遺跡は八ヶ岳山麓から甲斐方面、諏訪湖周辺一帯から天竜川を下った伊那谷北部にまで見られますが、その規模、密度、質ともに、八ヶ岳直下の山麓が圧倒的です(できれば縄文中期~弥生の時代別遺跡分布もマップに入れたかったんですが……すんません、そこまでマメじゃないもので…)。
となれば、ミシャグジ(と、その祭祀者集団)のルーツは八ヶ岳山麓にある、と考えるのが自然の流れでしょう。前項に書いた、上社御射山と御小屋山に見られる八ヶ岳古信仰の名残という見地から見ても矛盾しません。

さて、縄文時代後期から気候は寒冷化しはじめます。そうなったとき、平地に乏しいとはいえ、漁獲が期待できる諏訪湖周辺は魅力的な場所です。諏訪湖周辺は今でも寒冷地ではありますが、八ヶ岳の裾野(主だった縄文中期遺跡は標高900メートル級)はもっと寒いですし、風も強いです。少なくとも栽培や採集による食環境は劇的に悪化したことでしょう。
八ヶ岳の裾野で縄文中期文化を花開かせた人々は、続々と諏訪盆地へと下っていったのではないでしょうか。

ところが。

湖岸には湖岸で在来の一族のムラがあったわけです。それも1つや2つではありません。
発見されている縄文遺跡、由来の古い産土神の存在、立地条件、守矢家の伝承等々からざっと考えるに、ある程度まとめて考えてみても、10ヶ所近いムラの存在が想定されるのです(※注2)。

ここに、八ヶ岳山麓文化圏vs諏訪湖周辺文化圏の対立構図が成立すると思うのです。

むろん、ひたすら戦争したわけではないと思います。食料の余裕があれば平和的共存もしたでしょうし、融合もあったでしょう。
しかし、それでも……諏訪湖周辺勢力と、八ヶ岳山麓勢力との明確な区別は、あったのです。諏訪人なら実感としてわかるはずですが(なんてこと言われても困る人が大多数でしょうけど)、それこそが、上社vs下社、もしくは「上筋/下筋」という関係になって、しっかりとのちに名残をとどめているのですから(※注3)。

このへんは、御柱祭等の祭事を各郷村が持ち回りで受け持つ「御頭郷(おとうごう)」という制度(※注4)において判定できる面が大きいのですが、ただ、例外として、現在下社に奉仕する天竜川河口から西側の山の端に位置する集落、川岸~湊~小坂に関しては、古代から中世に至るまでの強力な証拠の数々において(※注5)、往古には明らかに上筋であったと考えられます。ま、上筋本拠地にそのまんま並んでますしね。

つまり、諏訪湖周辺先住民の本拠地は湖北、八ヶ岳山麓勢力の本拠地が湖南の前宮周辺。
これで構図がすっきりします。
上下勢力が対峙する最前線はといえば、西岸においては言うまでもなく天竜川(近世に至っても、川というのは……特に天竜川級の大河であれば……そうやすやすと越えられるものではありませんでした)。そこはまさに、諏訪明神と洩矢神が対峙したと伝えられる場所です。
対して、東岸は非常に微妙ですが、各時代の遺跡の傾向からは、のちの上原城のあたりに曖昧ながらも境界があったものと考えられます。

と、そこまで俯瞰すると、もう疑いの余地はありません。
前宮の場所は、まさにこの2勢力の連続と非連続において、要衝中の要衝だったわけです。
八ヶ岳山麓勢力にしてみれば、その出自である広大な旧地を背後に押さえつつ、諏訪湖周辺文化圏勢力に対峙する位置取りなわけです。

前項で紹介した守屋山の画像、あれ、実は秋宮のすぐそばから撮ったものです。秋宮から諏訪湖を挟んで真南に、守屋山が聳えているのです。
や、真南であることに、その……レイラインとかなんとか、そういう話を持ち出す気は今のところ全然ないんですけどね。
ともあれ、守屋山が信仰上どうであるか以前に、前宮の位置は戦略的要衝であったのではないかと。背後の守護山であったがゆえに、結果的に信仰対象となった、という順序も想定できるのではないかと。
そういうアイデアの提示でありました(※注6)。

090714:画像追加&多少の加筆訂正。

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【諏訪信仰覚書】守屋山考察

なぜ守屋山が神体山なのか?

守屋山。言わずと知れた諏訪大社上社の神体山です。三輪山や浅間神社同様の「本殿を持たない古信仰の形」というのも、この山あってこその話です。
しかし私は、昔から……それこそ少年時代から引っかかっていたのです。

守屋山って、そんな、神体山になるほど印象的な山かぁ?

そうなのです。神体山というのは、だいたい印象的な姿形をしています。先の「本殿持たないシリーズ」で例に挙げた三輪山、富士山は言うに及ばず、それと知られた火山にせよ、宇佐の御許山にせよ、ある程度は独立峰的な目立ち方をしています。そうでなくても、戸隠や妙義山のような顕著な岩山とか、山容自体が印象的なのが当然というものです。

その点、守屋山ははっきりいって地味です。
諏訪盆地というのは、急峻かつ奥深い山稜が諏訪湖を取り囲む地形になっているのですが、北は諏訪湖から流れ出る唯一の川である天竜川の伊那谷、南は八ヶ岳の広大な裾野へと繋がる諏訪市から茅野市にかけての平地、この2ヶ所でのみ山稜が途切れています。つまり、諏訪湖を取り囲む山稜は、東側と西側に2分できるわけです。

八ヶ岳から続く、霧ヶ峰~鷲ヶ峰~鉢伏山~美ヶ原といった高原性の山々の前哨山地である東側山稜。
南アルプス(赤石山脈)の北端に当たり、諏訪湖が天竜川へと流れ出る釜口で途絶える西側山稜。

守屋山は、諏訪湖に面する西側山稜がもっとも高く、厚くなっている箇所に当たります。

なんですが……あくまでも山稜の一部の高まりであるからして、独立峰としての存在感はありません。それでも、諏訪湖対岸や、諏訪市側の対斜面から見上げる守屋山には圧倒的な量感がありますし、お膝元の茅野市市街部から見上げると、山頂部(正確には、地図上の守屋山山頂である西峰は、間近からは見えません)もなかなか迫力があります。
それでも、ね。たとえば他所から来た観光客が、「あの山はなんて山?」と聞きたくなるほどの存在感と独立性はないのです。
逆にいえば、そういうお客さんに「あれが守屋山だよ」と教えたところで、「ん? どれが?」といった調子で、まったく要領を得ないと思います。

ここで、もっとも全体像を把握しやすい、対岸からの守屋山の写真を見ていただきましょう。

mori0101.jpg

さあ、守屋山はどれでしょう?

……ね? ピンと来ないでしょ?

答えはですね、アンテナ塔が立っている右側、山稜ひとつ奥まった、画像中もっとも高い緩やかな山稜、その右端に、地図上、守屋山の山頂とされる三角点があるのです。

「ふーん…?」としか言いようがないですよね。ちなみに、この山稜の微妙なピーク群を指して「守屋三山」と称することもあります。
「三山」ねえ。ま、山岳修験の三山信仰になぞらえた表現なんでしょうけど……そんな大げさなもんじゃないですよね、見るからに。

そして、一番左(東)の山頂には、石祠があります。その下に、なにやら紋様めいたものが刻まれた怪しい石碑もあります。そして景色は最高です。眼下に諏訪湖を見下ろし、周囲には、八ヶ岳に加えて、南・中央・北アルプスのすべてを視界に収める大パノラマ。

ただ、ね。よく誤解されるんですが、この石祠は諏訪大社上社の奥宮でもなんでもありません。反対側、伊那谷の麓にある「物部守屋神社」の奥宮なのです(※注1)。
諏訪大社上社の神体山は、あくまでも「背後にある山」であって、諏訪大社の立場としても、「守屋山が神体山」という特定はしていません。そもそも頂上付近一帯は禁足地でもなんでもありませんし(山腹は今でも厳格な禁足地)。
強いていえば、江戸中期と推定される「諏訪社遊楽図屏風」図中、守屋山中に「もりや大神」と示された祠が見えますが、もちろん場所は特定できませんし、今の山頂の石祠に当たるものかどうかも不明。そもそも遊楽図であって諏訪社オフィシャルなものではありませんから、現代人がそうであるように、物部守屋神社の奥社を民間信仰的に諏訪社に関連付けて解釈してしまっている可能性も大でしょう。

そもそも、神体山は、その山麓に直接の影響を及ぼす山でなければなりません。里に直接面した山稜の向こう、さらに奥の山を神体山とすることはまずないといっていいでしょう。それが許されるのであれば、諏訪盆地には他に相応しい山がいくらでもあるのです。少なくとも、守屋山のほんのちょっと南に位置する入笠山、釜無山だけを見ても、人里との直接の連続性は大前提として(ただし、諏訪湖岸からは離れる)、印象的な山容、標高、ともに守屋山を遥かにしのいでいるのです。

このあたりについては、「諏訪大社と御柱」の運営者の方も同見解で、勇気づけられます(→ここの「神体山・守屋山」)。

しかし、さらに加えて言いたいのは、本宮でもいいですが、特に前宮を背にして立った時。これは実際にその場に立ってもらわないとわからないかもしれませんが、対面する八ヶ岳の偉容が圧倒的で、しかもその雄大な裾野が次第に斜度を落とし、足もとの平地まで直接続いてきている。そこには、八ヶ岳を水源とする無数の河川が下ってきており、それが宮川、上川となり、上社の足下を抜けて諏訪湖に流れ込んでいるのです。
どう考えたって、こっち(八ヶ岳)を神体山とするのが筋というものではないでしょうか?

(※えー、ここには、後から相応しい画像を入れたいと思ってます)

じっさい、上社の古信仰が八ヶ岳を拝んでいる気配は残されています。
まず、下社同様に奥宮/山宮とする御射山社が、前宮の遥か南南東、八ヶ岳の裾野ど真ん中に位置する御射山神戸にあること。
そして、神聖なる御柱の御用材を伐り出す社有林が、御小屋山にあること。
付け加えるなら、「ひとまとめで独立峰」といった堂々たる山様を呈する八ヶ岳連峰中で、諏訪側からもっとも大きく、もっとも高く、もっとも厳く、顕著な姿を見せるのは阿弥陀岳であって、この御小屋山は、阿弥陀岳からまっすぐ手前へとくだってくる長大な尾根の途中にあります。
御小屋山には巨大な石祠もあり、「本来はここが上社御射山では?」という説もあります。

ま、その真偽は置いておくとしても、ここまで説明すれば、「なんで守屋山が神体山なの?」という私の疑問もご理解いただけるのではないでしょうか(※注2)。

いや、肝心なことを忘れてましたね。
守屋山固有の、信仰的性格です。

まず、水分(みくまり)の山としての信仰の問題。
確かに、前宮脇を急流で流れ落ちる水眼川は印象的ですが……はっきりいって、盆地を取り囲む山稜から無数に流れ出ている小川のひとつでしかありません。ていうか、この件はもう、説明が終わってましたね。水分の神だったら、八ヶ岳のほうがずっと重要な上に印象的なのです。

ついでなので諏訪湖北岸における例も見てみましょう。北岸では、その沖積地を形成した砥川、承知川、横河川という3本の川が深い谷を持つ代表的な河川なのですが、いずれも沖積地へと流れ出るまさにその場所に、春宮、秋宮、出早雄小萩神社(これも重要な古社)がそれぞれ陣取っています。
これを上社に当てはめるなら、やはり重要なのは上川、宮川(諏訪湖がもっと大きかった往古にには、この2本の川はほとんど一緒みたいなものだったと考えられます)。そして
その水源となる川は、やっぱり八ヶ岳以外にあり得ないのです。

次に、雨乞い山としての信仰。
これは結構な説得力があります。諏訪盆地の農民たちの間には、古くから「守屋山に雲がかかると雨が降る」という伝承があり、気象予報の拠り所とされてきました。
じっさい私も、そんな信仰のことも、守屋山の名もまったく知らない子供のころから、誰に聞くともなくそのことを感じていました。
これはなんの不思議もないことで、諏訪盆地から見て真南、南北に連なる巨大な壁である南アルプスに、南西方向から吹いてくる季節風が当たり、北上してくるわけですから、守屋山が気候変化の気配が最初に現れる場所であることは、まったくの合理なのです。

これは重要かつ決定的な信仰の根拠となり得ます。しかし、たったそれだけが、守屋山の信仰の拠り所なのでしょうか? それではどうにも納得がいきません。八ヶ岳という山の圧倒的な魅力と威容、そして実際の恵みをもたらす神体山候補がありながら、強いて地味な守屋山を選ぶだけの理由とは考えられません。
もしくは、先に述べたように八ヶ岳信仰が古態だったと仮定するならば、そちらを半ば捨ててまで、守屋山へと信仰を移すだけの理由がなければならなかったはずなのです。

守屋山には、それ以上にどんな意味があるのか?
考えてみました。
次回に続きます。

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【事後報告】浅草寺本尊、明治の実見

宿題の提出はクラスで一番最後でした

えー、宿題にしてあった「明治の実見」の裏を取る典拠の件です。

以前のレポート(ここから4回連続)を書いている最中に、ネットで見つけた出典情報が2件ありました。
ひとつめは、小沢昭一著「ぼくの浅草案内」に記述あり、というもの。
これはさっそく確認しましたが、伝聞形で情報も不確か。しかも、さらに原典があるとのことで、それは松本清張・樋口清之共著「東京の旅」という本だとか。これは入手できず、またそこまでする気もなく。

もうひとつの情報が期待大でした。わりと最近、産経新聞の文化面企画で、関係者への直接取材が記事になっているとか。
さっそく日付を確認し、記事を入手しました(しかし大新聞の過去記事データベースは会員制で結構いい金取るので……いや、持つべきものはマスコミ系大企業社員の友人です)。

以下は、2005年8月21日付け日本経済新聞 連載「美の美」秘仏特集 より。
取材に答えているのは、前・浅草寺教化部執事、塩入亮乗氏とのこと。
概要は以前書いた通りでおおむね合ってましたが、なんとか引用と言える範囲内で、核心部分だけを抜き出しておきます。

 そのスケッチは寺に残され、戦前に見た人が何人かいたという。てっきり、戦災で焼けたと思われていたその秘仏の絵が、今から十年余り前に見つかったのである。発見したのはほかならぬ塩入執事だった。
「伝法院の蔵の中を整理していて偶然見つけたのです。桐の箱の脇に、みだりに開けるべからず、と後の大僧正が記した文言があり、判が押されていた。封印も厳重でした。戦前にその絵を見た方の話が伝えられていて、秘仏は像高が五十センチ以上あると思われる木造で、手足がかなり傷んでいる、とのことでした。スケッチの箱は今も厳封のままです」


なるほどー!

ネット上にはさらにディープな情報もありましたよ。出典も書かれているので確かな話のようですね。

世界一マニアックな浅草寺観光

おおおお……御宮殿内部の秘密が……!
機会があったら、どっかの図書館で「浅草寺志」を覗いてみようっと。

以上、事後報告でした!

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鎮神社 その2(完結)

なにを鎮める蛇神様?

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「鎮神社(しずめじんじゃ)」とは、あまり聞かない社名です。祭神不詳ときて、見るからに近在の民の地主神然としたたたずまいですから、ごくごく当たり前に「鎮守」の別の言い回しと考えるのが普通ですし、たぶんその通りなのでしょう。

でもなあ……。

とりあえず……わりと近所、塩尻峠の反対側から木曽谷への入り口に当たるかつての宿場町「奈良井」に、「鎮神社」という名の神社があることは知っていました(けっこう立派なお宮で、盛大なお祭りもあったりするらしいので、そのうち行ってみます)。
そんな近くに同名の神社があるわけですから、別に珍しいものでもないんだろうと思っていたんですが……いやね、"鎮神社"でググっても、全然ヒットしないんですよ、これが。
当たるのは奈良井の鎮神社ばかり。まれに、ここ長地の鎮神社の記事があるほかは、鬼鎮神社とか龍鎮神社とかの「×鎮神社」が紛れ込んでくるのみ。ただ、まれに摂末社のリストに見られるということは……つまり、ググって当たるほどの認知もなく注目もされない、いかにも鎮守らしい小祠にはいくらでもある名なのかもしれませんが……。

それでも辛うじて拾い上げたのが、まず、松本市の鎮神社。
曰く、市内を流れる女鳥羽川は暴れ川で有名で、松本城を建設した石川数正は、城下町整備の一環でこの川の治水工事も敢行。その際に建てたのが、「鎮神社」とのこと。

うーん、社名の由来になんの謎も奥行もないなー。しかもご近所さん。

もうひとつ、水内鎮神社というのもありました。
あれ? 長野の水内って……確か諏訪信仰と縁の深い……って、おいおい! 「御柱祭で有名」って書いてありますよ。案の定、諏訪の神を祀ってるし。
県内の上に、ご親戚でしたか……。
うーむ……。
(※今後、諏訪信仰と善光寺の関係に触れるテーマをなんらかの形でまとめることができる時が来れば、この神社も再登場することになると思います)

まあいいんですが、あとは、福島市の「大地鎮神社」が見つかったくらいです。
ただしこれは「大地主神社」という別名も持っています。大地主または地主神社というのは、もっとずっとポピュラーで一般的な土地の鎮守のネーミングですね。京都東山は清水寺の鎮守社(縄文の匂いのする怪しい神社でもある)で有名です。
とすると、地名が「大地」というわけでもないんで、つまり「大地鎮」で1単語、「鎮神社」という固有名詞に数えるわけにはいかないでしょう。

そういうわけで、ま、「鎮神社」という社名は、鎮守に類する一般名詞のバリエーションに過ぎなかったとしても、決してポピュラーな表現ではないようです。

と、そこで改めて奈良井の鎮神社のことを調べてみたんですが……む、祭神がフツヌシですか……。

多少なりとも古代史や日本神話に通じた諏訪人にとって、これはいい気持ちのしない名前です。なぜなら、仇敵タケミカヅチとペアを成す、東征の神だからです。
千葉の香取神宮の祭神であり、また、宮城の多賀城は塩竈神社に祀られていることからも(その説話からも)東征の神としての性質は明らかです。
そんな神様が、諏訪の勢力圏から尾張方面への直通ルートの入り口に陣取っているというのは……どうにも愉快な気はしません。

とはいえ、奈良井鎮神社の縁起は「元和四年、この地に疫病が流行り、これを鎮めるために下総香取神社から経津主神を勧請した」とのこと。味もそっけもないくらいリアルで、疑うどころか神話的解釈の余地すらまったくない、きっぱりとした縁起です。
……いや、つまらない深読みをしてしまったようですね(実は裏の裏だったりして)。

しかし、いずれにしても、「鎮」という言葉には穏やかならざるニュアンスがあります。
暴れ川の鎮め、疫病の鎮め、そして……ヤマト系神社の本義とも言われる怨霊鎮め。

ものの本によると(調べたらwikiもそれなりにフォローしてましたが)、今ではまったく区別されることのない、地主神、産土神、氏神、鎮守、本来はそれぞれに違う意味を持っていたようです。

地主神というのは、一番ストレートです。そこの土地の神(言うなれば、その土地固有の自然環境、自然特性そのものを神格化したものか)をそのまんま畏敬し、祀り、土地の住民の守り神となってもらうものです。

産土神には、その言葉通り、豊穣神・生殖神としての性質が加わってきます。「その地で産まれた者を守ってくれる」というニュアンスで、道祖神のような民俗的な古信仰が習合しているのでしょう。いわば地母神ですね。

氏神もまた、文字通りです。ムラという組織は血族で構成されるのが原型ですから、ひとつところに同じ氏、姓を共有する者たちが固まり住むのが、近代までは(いや、現代にも無数に残っていますが)ごくごく当たり前の形でした。
こうした一族の守護神が氏神です。ただし、「氏」という言葉はもともとそのへんに当たり前にいる血族に使われるものではありませんでしたから、本来は、たとえば「物部氏→石上神宮」みたいな大仰なものを指していたようです。

そして「鎮守」というのは、読んで字の如し、「鎮めて守りとする」のが本義です。
「荒ぶる神、転じて守護神」というパターンは、古神道はもちろんですが、インド由来の仏教でも多くの例が見られ、まして密教系では王道中の王道、黄金パターンの必殺技です。おなじみの阿修羅なんかがモロにそのパターンですね。
先の例でいう「暴れ川を鎮める」みたいな、あらかじめその場にいた荒ぶる神を鎮めるという基本的な祀り方は当たり前として、実際の適用パターンを見ると、ある場所に新たになにかを設置するとき、「もともとその場にいた神を祀って許しを乞う」もしくは、「強力な神を他所から招いて先住の神を服従(もしくは融和)させる」というニュアンスが強いように思われます。「地鎮祭」なんか端的な例といえますし、中央にとって、「国家レベルで見た場合の諏訪の鎮守」が建御名方、という表現もできるかもしれません。
だから「村の鎮守」という場合、その村が開拓村であるほうがしっくりきますし、寺院の庭に鎮守社があったり、伝統あるデパートなんかが屋上に鎮守を祀っているのも(多くは元地にあった祠を移設しているわけですが)納得のいく例です。

ま、今となってはどれも一緒になっちゃってるんですけどね。

それでまあ、実際のところ大した意味はないのかもしれませんが、
「長地の鎮神社は、いったいなにを鎮めているんだろう?」
なんてことを、ついつい考えてしまうわけですよ。
暴れ川という場所ではないけれど……かつて山崩れがあったとか……はたまた、山の上の古墳に眠る「誰か」の霊を鎮めているとか……それとも蛇……いやいや!
でもまあ、たまたまこの付近で白蛇を見かけたらその後なにか特別なことが起きて……とか、そういう素朴な話ならあってもおかしくなさそうなんですが……でも、どんな筋書きにせよ、別段それらしい伝承はこの地に残されていません。

そしてもうひとつ。
これは別項のネタとしてとっておきたかった話なのですが……ちょっとだけ触れちゃいます。

中世以降、おそらく近世に至ってからの話だとは思いますが、関東甲信越のあちこちに、第六天とミシャグジが習合していた気配が残されているようです。
いずれ修験系の連中(※注1)が近世にやらかした一連の怪しげな習合操作に属するものなのでしょうが……いやしかし!
あろうことか、ここ鎮神社の「魔王第六天」は、金刺の姓を冠した江戸末期武居祝の揮毫なんですね。

うひー。

ま、そのへんの話は機会を改めたいので今はこれ以上突っ込みませんが、まあ……うん、武居祝による保証付きの第六天、そして蛇とくれば……やっぱりごくごく自然に考えて、この祠の祭神はミシャグジなんじゃないでしょうか。
ミシャグジが鎮められてるのか、それともミシャグジがナニカを鎮めているのか……それは知りませんけど。

いずれにしても、境内はそこそこ清らかに保たれていて、下の行屋と広場には、今でも近在の住民が集うことがあるようです。
以前蛇神様に会いに来たときには、中学手前くらいの女の子3人組が自転車に乗ってやってきて、本殿の裏に回り蛇神さまの存在を確認していました。

愛されてますね~。

この地に鎮められているナニカも、安心して鎮まっていてくれることでしょう。

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090618:付記と訂正
すごくマニアックな内容になるので、一般の方はスルーしていただいて構いません。
文中、鎮神社「魔王第六天」の揮毫は武居祝と書きましたが、「小萩祝」の誤りでした。すみません。
実は、同じ岡谷市内に、ほとんど同時期の武居祝揮毫の第六天碑がほかにありまして、ゆえに、うっかりカン違いしてしまった次第です。
「小萩祝」というのは、注にも出てきた出早雄神社と小萩神社の神主を兼任する神職のことで、下社系組織に属するうえ、基本的に武居祝の支族が務めていたので、大きな間違いではありません(と、言い切っておく)。小萩祝は江戸期には武居姓の一族が務めていましたが、武居祝同様に(なぜか武居祝一族本来の姓は今井)、金刺姓を名乗っていました。

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長地 鎮神社 その1

プリティな蛇神さまを祀るお社

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こちら、鎮神社の門前風景です。
場所は岡谷市長地(おさち)。諏訪大社下社春宮のお膝元にして本拠地である東山田と地続きの地籍で、頂点に出早雄小萩神社(※注1)が鎮座する横河川扇状地の東端、山際に位置します。

巨木を含む鬱蒼たる森を背後に従えた、なかなかのたたずまいです。
右の建物は、地域の寄り合い所でもある行屋(※2)。
左の坂を登っていくと、関連があるのかないのか……山中に古墳時代末期のコウモリ塚古墳(※注3)が見つかります。

行屋の前庭には、石祠と文字碑群。

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立派に神仏習合してます。というより、村の辻、寄り合い広場としての素朴な伝統を感じさせてくれて、大変に好ましいです。

鳥居の後ろには、2本のサワラの大木が脇を固める門のようにそそり立っています。
かなりの古木。ちゃんと市の天然記念物に指定されています。

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鳥居の柱に身を隠すように、反面、堂々たる大きさと位置取りで、まるで社号を主張するかのようでもある、「魔王第六天」碑。

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魔王……第六天……。

諏訪でしばしば文字碑を見かけるこの尊格に関して、多少の調査結果、及び思うところもあるのですが……ま、そのうち気が向いたら別項を起こすことにします。話としては面白いんですが、しょせん近世ネタなので……。

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こちらが本殿。というか覆屋。拝殿を持つほど立派な構えではありません。
ちなみに、祭神不詳
手掛かりはあまりないのですが、ま、後の考察編で少しは考えてみましょう。

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覆屋の中の本殿。格子の間から間近に撮るほかないので、全体像は見えません。ごめんなさい。でも、小さいながらもそこそこ立派な細工の社殿です。
本殿脇には鉄剣(といっても形式化した近世のもの)が数本、無造作に置かれています。

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覆屋の両脇には、小祠がいくつか。主神すらわからないのに、正体がわかろうはずもありません。
ただ、ひとつだけ、右の祠に寄り添っているような小さな石碑に「若宮大神」とありますから、右のやつは若宮なのでしょう。と言っても、若宮というのはいわゆる御子神を祀る宮の一般名詞であるからして、具体的な祭神名はやっぱりわかりません。

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左脇に文字碑。あまり聞いたことのない組み合わせの三山さまと、大黒天。
……かなり適当なラインナップですね。
いい感じです。

ただ……大黒天と第六天は親戚と言えなくもない、か……な。
(単に音が似ているという話ではないです)

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社の背後は、鬱蒼とした杉林の急斜面。
本殿の裏に回ってみましょう。

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……。
石がゴロゴロっと……。

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んん!?

本殿の真後ろに、こんなものがありました。

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ヘビ、ですね……。
かわええ……。
(※もし画像が切れてたら、他のサムネール同様にクリックしていただければ、尻尾まで見られます)

まあ、彫り口から見てもそんな古いものではなさそうですが……しかし、蛇が祀ってあると聞けば色めき立ってしまうのが古代史マニアのサガ!

「おかや歴史の道 文化財めぐり」の解説では、宇賀神(※注4)と結びつけ、「農業神としての信仰から祀ったものであろう」と解釈しています。
まあ妥当な解釈だとは思いますが……ここは諏訪ですからねえ。

蛇といえば、ミシャグジ!

もっとも、中近世においてその連想が生きていたかどうかといえば、はなはだ心もとないですし、そもそもミシャグジの本拠地は上社、ここは下筋ですから……って、いやいや! ここから諏訪湖側に向けて広がる横河川扇状地の中腹には、ちゃんとミシャグジの祠が点在しています。関連したなんらかの民間信仰が細々と続いていた可能性もないとは言い切れないでしょう。

まあ……言い切れないってだけの話ですけどね。

ちなみに上社筋の茅野市にある道端の石造物群の中に、やはり線刻された蛇の石碑があるとの話を聞いたことがあります。
そのうち見に行ってみなければなりますまい。

さて、鎮神社編は、もう1回だけひっぱります。
祭神についてと社名について、多少の考察がありますので。

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【諏訪信仰覚書】前フリ

脳味噌からだらだらと否応なく洩れてくる妄想を少しずつでも書き記し始めようと思ったのですが、いや、困りました。
普通に書き始めてしまうと、デフォルトで諏訪信仰中級者以上限定な話になってしまいます。だけどブログ形式でやってるもんの最低限の矜持として、説明責任ってありますよねえ?
諏訪信仰について語る、その前提をね、多少なりともこのブログを気にかけていただける方々に対しては説明しなければいけない。んだけど……概要説明を真面目にしようとしただけで、なんか気が遠くなります。どうしよう。

もう、ね。諏訪信仰絡みだけは別口。わかる人だけわかって!っていうか、マニアックな検索ワードでたまたま引っかかった人だけ読んで!
という開き直りもアリかと思ったんですが……開き直りきれないなあ……。

考えあぐねた結果、まず、

「諏訪信仰のどこが重要でどこが問題なのか?」

という点に関してだけ、ごくごくおおざっぱにまとめておこうと思いました。
前提知識については、文句なしにここの「諏訪大社雑学」の項をおすすめしておきます。
リンク紹介でも書きましたが、web上における諏訪信仰研究の一大拠点といっても過言ではありません。諏訪大社オフィシャルページの一千倍くらい充実しています(まあ、オフィシャルの立場では言えないことが、浜の真砂ほどあるせいでもあるんですが)。

では、文章が長くなりがちなサガの私ですが、最大限がまんして行ってみます!

■御柱祭の謎
有名な御柱祭は、極めて古い神事の姿を留めているとされます。巨大な丸太を神殿の四隅に立てる意味、伊勢の柱立て神事との関連、出雲ほか巨大掘立柱との関連、ネパール奥地にそっくりな祭がある、等々、さまざまな視点から熱い視線を集めています。
でも、このブログではそれほど熱心には触れないかもしれません。

■二社四宮という特殊形態
諏訪湖の南側に本宮、前宮からなる上社、北側に秋宮、春宮からなる下社。この二社四宮をもって、総体を諏訪大社と呼びます。
ただし上記の体制が整ったのは明治のことで、上社と下社には中世までそれぞれ別の「大祝」(建御名方の子孫にして現人神でかつ諏訪の統治者で戦国時代には武将)がいて、それぞれ独立した活動をしていました。同じ諏訪社として共通の祭事をおこなっているかと思えば、それぞれ独自の祭祀も持ち、また激しく反目し合うこともあり、室町時代に至っては武将としての方針の違い等から両者の全面戦争が起こってしまい、下社の大祝家は滅ぼされてしまったのでした。両大祝の系図にしても相当に混合・混乱していて、同根とする解釈も有力です。
どういう関係だったのか、まったくもってわけがわかりません。
さらに、上社は上社、下社は下社で、それぞれの二宮の関係がまた謎だらけで(上社のほうが幾分明快です)、はっきりしたことが全然わかっていません。

■古事記と縁起で異なる建御名方像
古事記に出てくる建御名方は、国津神の親分であるオオクニヌシの息子で、天津神たちによる「国譲り」の提案に最後まで抵抗する役どころです。高天原の使者タケミカヅチの霊威に恐れをなして逃げ出し、諏訪で追い詰められて降参し、二度とここを出ないと約して服従を誓います。これをもって国譲りが完成をみます。
ま、情けない神様ですね。でも歴史的には、軍神として、風神として、全国的に大人気だったわけですから不思議なもんです。
いっぽう諏訪神社側の縁起書等での建御名方は、洩矢神が治める諏訪にやってきてこれを屈服させ、統治者として君臨、洩矢神の子孫が代々司祭を務めて諏訪の神に協力してきた、というものです。
また、先代旧事本紀ほかの伝承において、建御名方は、高志の沼河比売(古事記において、八千矛神≒オオクニヌシに求婚され受け入れた、という女神。その際の歌のやり取りで有名)の息子とされます。
いっぽうで、日本書紀には、母ともどもいっさい登場していないのです。
それぞれの伝承に潜む、それぞれの史書の編纂者たちの意図を考えなければ、もつれた糸は解けそうにありません。

■ミシャグジと神長官守矢氏
絶賛大流行中、大人気の神様とその司祭です。いまさら説明するのも面映ゆいので、注目ポイントだけ整理しておきます。
・一子相伝で秘儀を口伝する司祭の家系が、早ければ縄文時代、どんなに遅くとも古墳時代から、明治維新に至るまで続いていたという奇跡。そこには、奇跡ですますことのできない根拠があるはずです。
・その司祭は代々「ミシャグジ」という自然精霊を祀ってきましたが、大祝を奉じる形式が整って以降も、諏訪神社(現大社)はミシャグジの祭祀ばかりやっています。諏訪の民も、建御名方の神を奉じ、敬愛しながらも、民間信仰の具体的な内容はミシャグジを奉じるものばかり。建御名方の姿がちっとも見えてこないのが謎です。
・神長官が司る祭祀には古代の匂いが漂っています。たとえば、ミシャグジ/諏訪明神は蛇神信仰の気配が色濃く、出雲系の古信仰との関連がしばしば指摘されます。さらに、諏訪ではおどろおどろしい蛇体紋を有する独自の形式の縄文祭祀土器&土偶とその遺跡が、極めて多数、出土しているのです。そこにどのような関連性があるのか、あるいはないのか?
・ミシャグジを祀っていたと思われる祠は、諏訪を中心に、関東甲信越全体まで幅広く、数多く点在しています。東北のアラハバキ同様、中央が一貫して認知しようとしない土着神がそこまで幅広く信仰されていた背景はなんなのでしょう?
・ミシャグジの祠の多くは、陽根型の石棒(縄文時代の遺物であることもまれではない)を御神体として祀っています。それが塞の神、同祖神等の素朴な民間信仰と習合している気配が色濃いのですが、いったいなにを大元として、なにとなにがどう習合したのでしょう?

■下社と武居祝
上社における神長官の位置に、下社は「武居祝」という、これまた古き一族の最高神職を置いていました。地元の伝承では、洩矢神とともに建御名方を迎え撃ったいくつかの先住民一族のひとつとして語られています。
しかしなにぶんにも下社は一度完全に焼かれているため、重要な古文書がほとんど残っていません。ゆえに研究対象となりにくく、ゆえに注目度も低く、識者やマニアからは放置されがちなのが現状です。上社前宮と相似形の祭祀システムを今に遺す秋宮、神奈備→里宮という最古の信仰形態を直接的に感じさせてくれる春宮、そして両者の関係……実は、上社以上に謎に満ち満ちているのが下社なのです。

■諏訪と出雲と海人族と渡来人と
諏訪を掘っていると、否応なく東アジア全域レベルの古代史と無縁ではいられなくなってきます。
逆にいえば、古代史を掘り始めると、どうにも諏訪が無視できなくなってきます。
これ以上突っ込んだ話はここではしませんが……ま、そういうわけなんです。

……そんなところでしょうか。
諸々の問題に対してあれこれ思うところはあるのですが、素人の身勝手な妄想を妄想のまま垂れ流すのではなく、せめてご同輩の方々へのささやかな示唆くらいにはなるよう、できるだけ慎重な考察を心がけ、ボソボソとこぼしていこうかと思っています。
いっぽうで、誰にでも読んでいただけるフィールドワーク中心モノも諏訪信仰絡みでやっていくつもりなのですが、多少なりとも前提知識と興味のある方限定になってしまうであろうこうした考察系のシリーズを、【諏訪信仰覚書】と銘打つことにしました。

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絶対秘仏萌え! 最終回

御戒壇巡りレポート

というわけで、善光寺名物、御戒壇巡りです。

私自身の御戒壇巡り体験は今回が二度目なのですが、一度目は小学生の時なので……分析的、批評的に体験するのはやっぱり初めてのことです。
ただ、よそのやつはほとんど経験がないので(アトラクション的に派手に展開する秘宝館めいたやつも世の中には相当数存在するらしいですね)、比較論はできないのですが、いや、元祖御戒壇巡り、実によくできていると思いましたよ。

下が、テキトーに描いた御戒壇巡りの概念マップです。

御戒壇マップ

基本的に、内内陣の瑠璃壇の外周を廻る位置取りになっているらしいです。
スケール等はだいたいの感じというか、要するにデタラメですのでその点はご承知置きください。

まずは、「右の壁を触っていってくださーい!」という指示を聞きながら、「←」の階段を降ります。階段が何段あったかは全然覚えてませんが、回廊の天井は身長180センチ余の私が別に屈まずに普通に歩ける高さがありますから、まあそれくらいは降ります。
ちょっと進むと、もう目の前は真の闇です。
そこで不安になって振り返ると、降り口から差し込む光がしっかり見えて安心します。
そのまましばらく(感覚的には15メートルくらいだと思うんだけど、暗闇のことですからわかりません)直進すると、回廊が右折します。
右折してしまうと、もう振り返っても入口の光は見えません。360度真の闇に包み込まれるわけです。
「うわあ」とか思ってると、ほどなく、もう一度右折します。

いや、ね。
たった2回右折するだけなんですよ? それなのに……暗闇の効果というものでしょうか、それとも単に私が方向音痴なだけなのでしょうか、方向感覚を失って、現在位置がまったく掴めなくなってしまうのです。
そしてしばらく進むと、壁に沿わせていた右手が、フッと壁面の窪みに出会います。
その窪みの奥、概念図上の☆の位置に「触れると極楽往生が約束される鍵」があるわけです。

実際には、鍵というよりも取っ手ですね。縦30センチ幅くらい、2支点の金属製の取っ手がついていて、これを握ると多少の「遊び」があり、ガチャガチャと音を立てながら左右に動かすことができる。非常に、こう、「実感」を与えてくれる仕組みになってます。

この取っ手部分は、(写真を見たこともあるのですが、触感で慎重に把握しました)、仏具の「独鈷杵」の形をしています。

窪みを過ぎ、しばらく行くと回廊は三度右折、途端に出口の光が目に入ってきます。
階段を登れば、御戒壇巡り終了。

どこまで計算されたものなのかはわかりませんが、極めて単純な構造と短い距離の範囲内で、かなりのスリルと達成感が味わえるシステムです。
いやあ面白い!
早朝で空いているのをいいことに、思わずもう1周してしまいました。

それにしてもわからないのは、「鍵といってもなんの鍵?」ということです。
いやそれ以前に、なんのための地下通路なのかと。

調べてないんで100%憶測で書きますが、現存するこの本堂の「これ」自体は、おそらく御戒壇巡りに供することを前提に作られた通路なのだと思います。けれど、習慣として受け継がれている以上、先代の本堂にもきっとあったに違いないんですよね。いや、先々代にもあったろうし……どこまで遡れるのかはまったくわかりませんけど、最初のモデルはどこかの時代にあって、「それ」は別に、御戒壇巡りのためにつくったわけじゃないと思うんですよね。普通に考えて。
いや、逆に、最初のモデル自体が御戒壇巡りを想定して設計したもので、御戒壇巡りというシステムを発明した人がこのお寺にいたのだとしたら、それはそれでとっても凄いことなんですが。

そもそもね、「御戒壇巡り」という言葉が意味不明です。
「戒壇」というのは、説明するまでもないかもしれませんが、「出家者に仏教の戒律を授け、正式に僧侶として認定する神聖な場」です。鑑真和上が初めて唐招提寺にこれを築いたことでも有名ですね。

となると、善光寺のこれ、戒壇と全然関係ないし。上にあるのは戒壇じゃなくて瑠璃壇だし(この言葉もおかしい。「瑠璃」ってタームは薬師如来の専売特許じゃないですか)。
考えられるのは、当寺の出家儀式において、かつてはイニシエーション的に使用していたシステムを、参詣イベントとして一般に開放した……ということくらいでしょうか。

ともあれ。
今回私は、「鍵」のついた窪みの部分をじっくりと触診してみました。
この場合、触診という言葉があってるのかどうか知りませんけど。
で、まあ、窪みの奥には明らかに扉があり、その扉の取っ手であり鍵であるということは、はっきりとわかったわけです。
あと、ものの資料によれば、その位置は御本尊の真下に当たり(それが本当なら、絶対秘仏本尊の安置場所は瑠璃壇の向かって左側になるので、概念図の窪みの位置は間違っていることにもなります)、扉の奥には密室があるんだとか。
うひー。

なんのための密室?
密室の中になにがあるの?
なんで秘仏本尊の真下に??

とまあ、激しく妄想が掻き立てられてしまいます。
なんつーかまあ、密教臭い。鍵の形自体が密教由来だし、この構造、天台宗筋の企みなんじゃないかという気はすごくしますね。
だとすれば、天台宗らしい深謀遠慮、錯綜した祭祀構造がそこにあると考えるのが自然の流れ。密室内になにもないってことはないだろう? 誰がいるの? 摩多羅神みたいな、だけど善光寺独自の知られざる怪しい神様がいたりするの? カラッポってことはないよね? でも、カラッポならカラッポでそれはすごく不気味……。

とか、ますます妄想は膨らんでいくわけですが……ま、秘仏本尊の正体同様、その答えが得られることは未来永劫ないのでしょう。

それにしても……そういう密教らしい、怪しげで、秘中の秘!という匂いのする中枢ポイントに、一般参詣者を招き入れるどころか、名物にさえしてしまっているあたりが、つくづく善光寺らしいです。

てなわけで、善光寺編はここでひとまず完結します。
忠霊殿資料館の諸仏とか、長野県信濃美術館の「善光寺信仰展」とか、あと経蔵とか、それぞれに感じるところ大ではあったのですが、このブログのテーマからはちと外れてしまいそうなので。

ただ、諏訪信仰と善光寺の関わりについては、また稿を改めて触れることになると思います。諏訪人驚愕の変態御柱とかありましたしね。
そのへんは、再度の長野行きを敢行して後のことになるのかな~。

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絶対秘仏萌え! その8

善光寺如来に御対面3

善光寺の御開帳にお出かけになる方にアドバイス。
って、御開帳が終わってからする話じゃありませんが、ま、6年後の参考までにひとつ。

普通の観光寺の拝観時間は、朝9~10時から、夕方は4~5時ころまでというのが一般的です。しかし、庶民の味方・善光寺だけは違います! かつてはお籠りと称して多数の信者が泊まり込みで参拝する風習があったらしいのですが、さすがに廃絶してます。その名残というわけでもないのでしょうが、早朝から夕刻まで、内内陣に入っての参拝が可能なのです。

夕刻が何時までか、正確なところがわからないことをお詫びしますが、早朝6時ころから始まる「お朝事」直後くらいのタイミングで参拝するのがおすすめ。宿坊からの団体さんの波に乗ったり、やり過ごしたりすれば、御本尊参拝もお戒壇巡りも自由自在です。

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というわけで、早朝の仁王門前にやってまいりました。

ちらほらと人はいますが、御開帳真っ最中の賑わいとは無縁です。
この門の仁王像は、高村光雲作。無論、古仏としての価値はありませんが、近現代の仁王像としては出色の出来だと思いますです。

んで、写真はありませんが、この門の裏側には、向かって左側に三面大黒天。右側に青面金剛が祀られています。どっちもかなり怖いです。

……と、ここで「ん?」と気づく人は相当な通ですが……この、「仁王門裏に三面大黒天と青面金剛」というスタイルは、浅草寺と一緒なんですね。
その点については、別に比較編を立てようと思ってるんでここでは触れませんが、ただまあ、表の仁王が高村光雲ってことでわかるように、浅草寺同様に新しいものなんで……。
仁王門自体、明治に燃えてるんで、これは大正の再建です。それでも見事なものですが。

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午前7時すぎの仲見世。それでもけっこうな人出ですね……。

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山門、そして山門から透かし見る本堂。
この構図、計算されてますねー。いや、写真がじゃなくて、伽藍としての話ですよ?

修理が終わった山門には、拝観料別途必要ですが登ることができます。上層には四天王に囲まれた文殊菩薩の騎獅像が奉られています。等身以上の法量を持つ堂々たる群像ですが、美術品としても古仏としても……まあ。うん。
周囲には八十八か所だったかな、門の上層で非常によく見受けられる、巡礼シミュレーションパターンの小仏がズラリと並んでいます。

しかし……この手のプチ巡礼仏群で、オリジナルの像容を意識したやつって見たことないですね。江戸のキンキラの同一作風で、個々の尊型パターンを押さえてるだけです。
まあ、オリジナルが秘仏だらけだからしょうがないんだろうけど……もう少し真面目にやってもいいんじゃないだろうか、といつも思います。

とはいえ、本堂と同時期建立の堂々たる山門。国内有数の規模ですからね。急で狭い階段を登り降りするのも楽しいですし、見下ろす景色も雄大ですから、500円払っても損はしないんじゃないでしょうか。
……本音をいえばせめて300円くらいにしとけ、と思いますけど。

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そして、神々しい(あ、違った!)回向柱を前にした、堂々たる本堂!

回向柱には、早朝でもそれなりに人がたかってます。日が高くなると、これが大行列になるわけで。
ま、並ぶのも参拝イベントのうち、と考えるみなさんもいるのでしょうけどね。

ここで、大勧進の偉い人がやってくるぞとおふれがあって、「御印紋」「お戒壇巡り」と並ぶ3大イベントである「御数珠頂戴」のチャンスがあったのですが、逆に「これは余裕を持って御本尊に迫るチャンス!」と見てスルーしました。そっちが本来の目的なんだからしょうがない。

……で、当然ながら、本堂に踏み入ったのちは写真がありません。

堂内は、その壮大さ、瑠璃壇(通常の須弥壇に相当)上の特殊な構造といったところが見どころで、内陣の左右に江戸期の丈六弥勒仏と延命地蔵が向かい合っている程度で仏像マニア的にはほとんどそそりません。このへんは、浅草寺のみならず、江戸の参拝観光で隆盛を見た寺院の共通項のように思います。ま、「延命地蔵」って聞いた時点で、もう仏像マニアとしては萎えてしまいますね。

前立本尊には、読経の合間を狙って間近に迫ることができました。
いや、ほんと間近に。1メートルくらいの距離で見られましたよ。前立だからこそ、という面もあるんでしょうが、それにしたってねえ。
さすが庶民の寺です。

さて、像容です。
ま、以前書いたように写真が出まくってるんで今さらなんですが……でも、リアルな質感、量感をしっかりと感じられるのは実見ならでは。
キンピカの江戸江戸しい後補光背はともかくとして、そのシンプルかつスマートなマッスには感じるものがありました。
小仏という先入観ゆえ余計にそう感じたのかもしれませんが、思ったより大きいです。台座光背込みだとひと抱え以上、やすやすとは移動できない感じ。
三尊とも、鍍金はほとんど剥げ落ちて、薬師寺の像のように黒光りしています。といっても、あんな素晴らしく精緻な出来ではなくて、素朴な印象ですけどね。

なんていうか……仏像マニア的にそれほど期待できる対象ではなく、「一度くらい実見しとくか!」くらいな気持ちだったんですが、意外と……といったらホントに失礼ですが、かなり印象的でした。
なんだろ。存在感としか言いようがないんだけど。こう、三尊ともに、やけに細くて、ぶっきらぼうなまでにまっすぐな感じがね。

像容に関するこれ以上の考察は、また稿を改め、長野県信濃美術館で同時期に開催されていた「善光寺信仰展」の感想編に譲りますが、しかし……浅草寺と違って、一介の素人マニアがどうこう言えるレベルではないほどに研究が進んでいます。はい。

今回はここまで。
次回は「お戒壇巡り」の感想とか、周辺部のレポートとかをお届けします。
その後、上述の「善光寺信仰展」、さらには浅草寺との比較考察、そして……。

恥ずかしながら今回初めて知った、「善光寺と諏訪信仰の密接な関わり」についてもちょっとだけレポートします。端緒もいいところですけどね。

そんでもって……本ブログでは、ようやく本来のメインテーマである諏訪信仰絡みのネタへと徐々に踏み入っていくわけです。

あー、たぶん、気まぐれによって順序は激しく前後すると思いますけど。

絶対秘仏萌え! その7

善光寺如来に御対面2

さて、善光寺のどこが世界遺産に値するのか?
端的に言い切ってしまいましょう。
「中世~近世の大寺院の信仰形態をそのままの形で残している」
この点につきます。

仏教系の古刹を訪ね、その由来書きを読むと、しばしば「往時は何十いくつの院坊が立ち並び」みたいな記述に出会います。でも……実際にそういう光景に出合うことはまずありません。
ここに坊があった、あそこに院があった、もっと悪いと(といっても、ごくありふれた例だけど)大寺の本体はきれいさっぱりなくなっていて、かつては寺に付属していた院や坊だけがポツンとひとつ残っていたりします。(※注1)

ここで思わず、廃仏毀釈への恨みつらみ、国家神道への憎しみを語りだしそうになるところなんですが……そこはぐっとおさえて、と……。

今も院坊が立ち並んでいるという点で、比叡山、高野山、そして吉野のお山は例外といえますが、これらには山岳修験道場としての特殊性があります。修験道はリアルタイムで人気があるし(オレだって修験者やってみたいとちょっと思ってるしー)、また、実際問題として、この3つはすべて世界遺産の一部になってます。

これらの例と善光寺が大きく違うのは、「一般庶民による、江戸期の参拝観光の形をそのまま残した信仰形態である」という点です。
たとえば今回比較の俎上に上げている浅草寺の門前町なんか、江戸文化の代名詞になっていて、確かに庶民の参拝観光の形はよく残しているのですが、院や坊はそんなにない。実質上の本坊(※注2)である伝法院の存在がよく知られているばかりです。

その点、善光寺がどうなのかといえば、まず、門前町、仲見世の賑わいは負けてない。

仲見世

そして……なんといっても、本坊が2つある。
天台宗の「大勧進」と、浄土宗の「大本願」。

大勧進

これは……大勧進の門前です。この風情だけ見ても、独立した立派なお寺でしょ?

ま、この点だけ見ても十分にレアです。宗派の違う2つの本坊が1つの大寺院を治めているという例は、現時点ではもちろんのこと、過去にも見当たらないんじゃないかと思います(すいません、真面目に調べてないんでツッコミは謙虚に受けます)。
善光寺ってのは、納骨供養に関して宗派を問いませんからね。そのへんも、「来るものは拒まず」的な、日本ならではの習合形態を端的に表わしていてとっても貴重なのですが……さらに加えて、善光寺には、今現在、25院14坊、計39の院坊が、信仰の場として生き続け、門前町に広大なエリアを形成しているのです。

裏手の院

門前の坊

この路地、まるごと全部、院坊です。
んで、門前エリアにおいて、これはほんの一部の例でしかありません。

しかも、これらすべての院坊が、個別に仏堂と本尊を持ち(※注3)、宿坊としての機能を今も持ち続けているのです。
大寺院がアカデミーとしての性質を持っていた中世までならいざ知らず、このご時世に……それでおまんま食えてるってことですからね。

これは本当にすごい!

実際、まあ御開帳期間で特別ではあるけれど、朝イチで参詣に向かうとですね、その39の院坊すべてから、旗持った案内役に引率された参詣者の集団が、ぞろぞろと出かけて行くわけですよ。

どうして善光寺だけが廃仏毀釈の嵐をくぐり抜け、また、江戸末期に激増し現在にまで尾を引いている民間の修験者たちの熱意を借りることもなく(※注4)、こうした形態を保ち続けることができたのか……それはもう、信仰のおおらかさ+巨大さとしか言いようがないんです。

あと……辺境だってこともあるけど。

さて。
実をいうと、善光寺編に関していちばん言いたかったのは以上の点なのですが、ともあれ、御本尊に対面しなければお話になりません。

次回「こそ」、御開帳参拝レポートです。

……わりとあっさりすんじゃいそうな気もするけど。

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