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御子神十三柱の覚書 その8

守達神(後編)

式内社の問題はとりあえず置き、というか、その比定の参考とする上でも、いつものように三代実録における神階授与記事に当たらなければならない。
三代実録において、式内・守田神社の祭神と想定されるのは、基本的に「守達神」である。これはまあ、定説といっていいだろう。
ところが、ここで大きな障害にぶち当たる。
松沢義章も参照した『本朝六国史』に、「守達神」は登場しないのである。
その代わり、守宅神、安達神、宇達神という神が登場する。

守宅は「守」の字が共通し、音にも近いものがある。
安達と宇達は「達」が共通し、「安」と「宇」はいかにも「守」と誤読もしくは誤写しやすそうな字である。
一般的に、これらは同神だと考えられることが多い。

いっぽうで、この便利なサイト
http://www013.upp.so-net.ne.jp/wata/rikkokusi/(有坂理紗子氏ご教示)
で検索を試みると、まったく違った結果になる。ここがどういった原典を使っているのかわからないが、非常に正統的なものであることは間違いないと思う。国史大系の類に当たって近々確認したいと思うが、ここに守宅神は登場せず、代わりに「寶宅神」という神になっている。
「寶」は「宝」、普通に読めば「ほうたくのかみ」だが、これを「ほたかのかみ」と解し、穂高神社の神階授与記事だとする主張がある。
そしてここでは安達神の代わりに宇達神、最後の宇達神のところでは、そのものズバリ、というか……ようやく、守達神が出てくるのである。

さらに……もはや笑うしかないのだが、長野市内には「宇達神社」も「安達神社」も現存しているのであった。

なにがなにやら……。

しかしながら、神階授与記事をきちんと見直せば、ある程度のことはわかってくる。

■貞観元年(859) 守宅神(寶宅神):従五位下→従五位上
■貞観5年(864) 安達神(宇達神):従五位下→従五位上
■貞観7年(866) 宇達神(守達神):従五位上→従四位下

これを見ただけではっきりするのは、「守宅神≠安達神」だということだ。同じ神が「従五位下→従五位上」という同様の神階上昇を二度繰り返すことはないからである。
同様の見方から、「安達神=宇達神」の可能性は高いように思われる。

三代実録のバージョン違いについて検討すると、まず、守宅神が正しいのか寶宅神が正しいのか……これについては、とりあえず保留しておくしかない。守宅神については今までも御子神十三柱テーマの派生で何度か扱っているが、この項でも後に多少触れることになる。その際に、守宅神/寶宅神問題についても一応の検討は加えたいと思う。

さておき、すべての混乱を全体として俯瞰してみると、

「安達神=宇達神=守達神」≠「守宅神(もしくは、寶宅神)」

と考えるのがもっとも妥当なように思われる。

次に、少々胡散臭くはあるのだが(失礼だなあ)、安達神社と宇達神社についても当然検討しておく必要があるだろう。

安達神社は、長野市平林、守田廼神社の北東700~800メートルばかりの至近距離に鎮座している。
祭神は、五十猛命、建御名方命、誉田別命。
……やっぱり三柱である。
現状、決定的に情報が不足しているので確かなことがなにもわからないのだが、平林地区は、宇達神社のある宇木地区とともに室町期諏訪上社の頭役を務めた記録があること、そしてなにより一本梶の神紋が見られることから、諏訪社が本来であることは間違いなさそうだ。といっても、長野市内には非常に多くの諏訪社が当たり前のように鎮座しているので、だからどうだという話にはまったくならない。
ことさらに「安達神」を祀っていない点からみて、強引に国史見在社を主張した痕跡とも思われないのだが……とにかく、社名の根拠とされる伝承なり記録なりをひとつも掴めていないので、なんともいえない。

宇達神社は、式内・美和神社の北方数百メートル、下宇木に鎮座する。地図を眺めてみると、北から宇達神社、安達神社、守田廼神社と、善光寺を取り囲むような位置取りにも見える。
祭神は、宇達神、健御名方神、八坂斗売神(これまた三柱……)。
社伝によると、当地開拓の産土神「泥土立神(にとのたち・かみ)」の名が変化して「宇逵神(うき・の・かみ)」と呼ばれるようになったとのこと。
これは……全然意味が通っていない。
泥土立神という神は聞いたこともないが、連想されるのは神世七代の「泥土煮命(うひじに・の・みこと)」である。よもやこの神のことではあるまいが、「うとたつ・の・かみ」とでも読めば、「宇達神(うたつ・の・かみ)」に転訛したという話にも納得がいくのだが……。
また、「宇逵神」の話があった通り、「宇逵神社(うき・じんじゃ)」の別名があり、鎮座地の字名は「宇木(うき)」。
これは、もう……後付けで国史見在の神名に合わせたという疑いが非常に濃い。
しかしながら、諏訪神夫妻を従えて聞き慣れない名の産土神を主祭神とする形は決してありふれたものではなく、相応の古さと根拠を感じさせる。

いまだにその実体がつかめていないのだが、「芋井郷内二十一社」という概念があるらしく、その二十一社ではいずれも諏訪御子神を祀っているという伝もある(以前紹介した社子神社の社伝)。ゆえに、宇達神社の謎の祭神も、ある時代において諏訪御子神とされていたのではないか、という気配を濃厚に漂わせている。
これまでに見てきた御子神の中から似た音の神を探すと……守達神を別にすれば、せいぜい多都若比売くらいだろうか。八杵命の御子である八立神は、少なくとも現時点において「はちりゅう」と読まれている(諏訪市の八立神社については、原直正氏が本地垂迹を背景とした画期的な論考を『決定版・諏訪大社』に発表している)。あとは、式外の神に名立神というのがおり、松代と飯山にある「名立神社(なたてじんじゃ)」では、いずれも諏訪神を祀っている。しかし、どちらの宮でも名立神という神名は伝えておらず、また、諏訪御子神の系譜にもこの神は見られない。ただ、諏訪信仰の中で、「タツ」の音を持つ神というのが、なんらかの関連性において複数存在しているようにも思える。
しかしながら、ここは正体不明の無名神を引き合いに出すまでもなく、「泥土立神」は守達神の別名、と素直にみたほうがすんなり理解できそうだ。

それよりも気になるのは、生島足島神社の旧地といわれる「泥宮」や、上十三所筆頭の所政社など、諏訪信仰の古層における大地信仰との関わりが感じられる点なのだが……当面、これ以上掘り下げる材料がない。
ただ、「守田神社」は、その名の通り、田を守る神、すなわち農耕神とみる見解も根強いわけだが、泥の神もまた田に通じるわけで、これらの宮のすべてが同じ神の信仰で貫かれているというシンプルな見方もそう突飛なものではあるまい。
というわけで、安達神社、宇達神社とも、社名が国史におもねった後付けであったとしても、守達神に相当する神がかつて祀られていた宮であると想像する分には、さほど無理はないように思う。どれが本家にせよ、式内社たるもの、近在にいくつかの分社があってもいっこうに構わないのだから。

ところで、信濃國の神々とその国史上の現れについては、信濃の怪人的伝説的郷土史家である栗岩英治がかなり熱心に検証している。特に卓見というべきは、「嘉祥4年に全国のあらゆる神に無条件で従六位上の階位を授けているにも関わらず、初登場時に無位の神がいる。ということは、その神の社は嘉祥4年以後の創立である」とする見解である。この説に従えば、いくつかの神社について、創立年を極めて短い期間に特定できてしまうのだ。また、平安初期、全国的に神社創建ブームがあったことも想像される。
これは画期的な視点である。と同時に、初登場時、すでに従六位より上の階位をもって現れる神がおり、ということは、すなわち神階授与の記事が抜け落ちている(おそらくは、編集方針の違う三代実録以前の国史から)ことも多々あるのではないか、という指摘も極めて重要であろう。
たとえば……諏訪御子神研究者の視点でいわせてもらえれば……伊豆早雄命の宮より守達神の宮のほうが古い、と断言できてしまうのである。
無論、嘉祥4年の時点で中央の登録から洩れていた神社もあった、という可能性は踏まえておかねばならないが。

栗岩はまた、守達神以下、これら神名の混乱した神々について、『信濃地名考』の見解を踏まえ、「安達神(あがたのかみ)」と解するべきだと主張している。
信濃で「アガタ」といえば、未解明な部分を多く残す非常に重要なキーワードである。また、神名帳信濃國佐久郡の項には英多神社(エタ・ノ・カミ・ノ・ヤシロ)の名がみえ、現存する英多神社は「あがた・じんじゃ」と称している。
古代~中古にかけ、北信から東信には明らかに地域的な連続性があり、いずれも信濃国造一族、もしくは金刺・他田一族の拠点とされた時期があったものと考えられている。ゆえに、もとは水内にあったアガタ神の宮が、施政者の拠点の移動に伴って延喜の時代までに佐久へと移ったのではないか、とする栗岩の説も的外れとはいえないだろう。
そもそも「安達」を「あがた」と読めるのかどうか、ちょっと疑わしくも思えるのだが……漢字の読み方について戦前の学者に文句をつけるというのも分不相応な話である。

もし水内にアガタの音を持つ神がいて、しかも諏訪信仰と縁があるのだとしたら、まず、御子神十三柱の大県神(おおあがたのかみ)との関連を疑う必要がある。そして、英多神社の論社のひとつである佐久の新海三社神社では、その主祭神・興波岐命の異称を大県神、もしくは八縣宿禰(やあがた・すくね)と伝えている(ちなみに、守田神社の系図に見る興波岐命は、「興津波岐命」となっている)。新海三社神社は古墳祭祀とムロ山祭祀、そして水源祭祀を起源とする複合的な形式を明確に残す堂々たる古社であり、佐久一ノ宮とされ、しかも驚くほどの規模と格式を誇っている。にも関わらず、延喜式に直接その名はない。そして三代実録には八縣宿禰の名がある(この神を祀る神社はいくつかあるが、他の英多神社の論社では祀っていない)。
佐久における英多神社の論者争いはいまだに解決を見ていないような状況なのだが(というか、いまどき誰も続けてはいない)、非常にわかりやすくまとまった考察がネット上にあり、私はこの見解に同意である。
(http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/sinka.html)
ゆえに、アガタの神はアガタの神、守達神は守達神で別個に存在していたと私は考えたい。が、栗岩説を完全に排除することもせず、起源としては「守達神=興波岐命」であったという可能性も、いちおう頭の片隅には置いておきたいと思う。「興波岐命編」を書くときのために……って、「興波岐命編」で書くべきことをけっこう書いてしまったが……。

さて、守達神と諏訪信仰との深い関係を示す状況証拠については、七二会守田神社のことを調べると次々に現れてくる。
続きは、七二会守田神社を訪問しながら、ということにしよう。


同日:御指摘いただいた明らかな誤りを削除し、周辺を調整。
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御子神十三柱の覚書 その7

守達神(前編)

まず、前説をさせていただく。
御子神十三柱シリーズについては、「池生神」がなお未完のままである。その状態で他の神を扱ってしまうのは忸怩たるものがあるのだが、しかし、現在継続中の「児玉石を巡る冒険」終盤において、本来であれば「池生神」の後編で語るべき事柄が主題となってくる。「児玉石を巡る冒険」に手を付けたことによって、とりあえず今後「児玉彦命編」が書かれることはなくなったわけだが、同じように、池生神の後編は書かれることがないかもしれない。ただ、まだアップしていない池生神社系列社の参拝レポートや、今後の新発見があれば、また別の項目を立てて扱うこともあろうかと思う。

では、本題!

守達神。
この神は、現在の諏訪大社オフィシャル十三柱には入っていない。いっぽうで、前宮若御子社の二十二柱には入っており、また、岡屋十五社、古田十五社の十三柱にも入っている。現状知り得ている十三柱バリエーションの中では、比較的出番の多い方だろう。
読み方ははっきりしていない。というのも、詳しくは後述するが、異称らしきものが多く、歴史的な混乱が感じられるのだ。
まあとりあえずは、「もりたつのかみ」で問題ないだろう。

この神を主祭神として祀る神社は、(おそらく)ただ一社のみ。
長野市七二会(なにあい)の「守田神社」である。
山間の高台に鎮座する古社で、大型の重厚な拝殿が印象的である。
祭神は、

正殿:守達神
左殿:大碓神、久延毘古神、事代主神
右殿:健御名方神、誉田別神、素盞鳴神

となっている。
基本的に出雲神が目立つ。事代主は諏訪系列社のレギュラーだが、しかし、久延毘古は非常に珍しい。
大碓、つまりヤマトタケルについては、信濃國も通過ルートである以上、それなりに祀られているほか、佐久あたりでは諏訪信仰との縁を感じさせる痕跡もちらほらと見出せる。
素盞鳴(スサノオ)については、天王社を合祀していることがはっきりしているので、これは牛頭天王で問題ないだろう。
誉田別については、いまさらなにも言う必要があるまい。

この神社には諏訪神社発行とされる独自の神系図が伝わっており、そこでは、諏訪御子神は十九柱とされている。
(宮坂喜十いうところの「御子は史書によって十三柱・十九柱・二十一柱などと諸説がある。」の、十九柱は発見できたわけだ)
この系図の内容については、また改めて紹介及び検討する項(「御子神十三柱の再確認」のつづき)を設けるつもりだが、とりあえず、これまでの検討から洩れている神はいないようだ。
しかし、表記や神名が微妙に異なっている点、リストの上位の顔ぶれがまったく違う点、そして、ある程度古いものと考え得る理由があることなど、非常に興味深い資料である(※有坂理紗子氏ご教示)。

さて次は、おなじみ、式内社だ国史見在社だといった國学院の講義めいた話になっていくわけなのだが……この神については、他に類を見ないほど事情が複雑である。

まず、延喜式神名帳には、「信濃國水内郡 守田神社」の名が記されている。論社は、七二会守田神社のほかに(とりあえず)二社。いずれも長野市内にある。

ひとつは、長沼穂保の守田神社。
清々しい場所に立地するが、さほど大きな神社ではない。祭神は、大碓命、大己貴命、大山咋命の三柱。守達神はいない。建御名方もいない。
いつも(一方的に)お世話になっている玄松子氏のページ(http://www.genbu.net/)に下記のような社伝が載せられていたので、申し訳なくも引用させていただく。

一説に、往古は、このあたり一体は湖であったといい、景行天皇の御宇、皇子の下向があり、溝を開き、水を治めて陸地にしたという。
後、守の君大田の君の子孫が居住し、その祖神を勧請して祀ったのが当社。
元は、守田島という場所に鎮座していたが元和元年(1615)、あるいは慶長二年(1597)に流失し当地へ遷座したという。


残念ながら、私はまだこの社伝を見つけていない(『平成祭礼データ』かなあ…)。
創建伝承にはヤマトタケルが関わっているようだが、国学ルネッサンス以前は日吉山王社だったということで(つまり、大山咋が主神の山の神。ちなみに、七二会守田神社は、多くの諏訪系列社同様に諏訪明神社であった)、諏訪系列社の痕跡が見られない。
ただ、「守の君」を守矢氏、「大田の君」を多氏と解釈するのは……いや! さすがに度を越した妄想というものであろう。
明治ではなく、それなりに古い時代(おそらくは移転前)に合祀合併があったのではないかと思わせる要素が多く、古層にまで手の届かないもどかしさを感じる。
いずれにしても、式内・守田神社の比定社としては弱いだろう。

いまひとつは、高田八幡沖の守田廼(もりたの)神社。
現在、長野市の市街地の中にあって、なかなかの威風を示している。
祭神は、誉田別命、建御名方命、保食神。
以前、どこかの神社の訪問記で「北信には三間社の本殿が多い」という感想を漏らしたことがあるが、実際、この地には三社に整えようとする風があったのかもしれない。であるならば、玉依比売命神社もその類例であろうか。
ちょっと変わった社名については、論社争いに敗れて「廼」の字をつけることを強いられたとのこと。かつて八幡社であったことがはっきりしていることから、論社としては確かにちょっと立場が弱い。
ただ、現在の本殿は、神仏分離で撤去された善光寺年神堂をそのまま移築したものである。この年神堂は『絵詞』において諏訪の分社であるとされ、謎の「水内神」や、建御名方富彦神別命、武居祝の支族との伝承を持つ秘密めいた一族による年越しの秘祭など、諏訪神社と善光寺との関係の深層に大きく関わっている重要な宮であった(関連して言うべきことが多々あるのだが、このテーマだけで余裕で20回シリーズくらいにはなってしまうので、今はこれ以上触れない)。ゆえに、中世以前はともかくとしても、近世において「諏訪信仰的方向」から重視されていた気配は十分に感じさせるのである。

三社とも水内にあって、特に守田廼神社は善光寺の諏訪信仰と関わりがあることからみても、もともとは同系列の神社だった可能性は十分にあるだろう。延喜の時代にどこが「本家」だったのかはなんともいえないが、二社において守達神の存在が忘れ去られてしまったのだとすれば(しかも一社は、今なお諏訪信仰との関係を保ち続けているにも関わらず、だ)、その起源は中世以前にまで遡ることができそうに思える。

というわけで、式内社の比定という点では一概に結論を出すことができないが、「諏訪御子神・守達神の宮はどれなのか?」という問題に限っては、議論の余地なく七二会守田神社で決まりである。祭神がそうなのだから仕方がない。もちろんそれだけではない強力な根拠が多々あるのだが、それは本項における今後の展開の中で自ずと明らかになっていくはずである。
早い話、児玉石シリーズにおいて検討材料として扱うのは七二会守田神社だけ、ということをここでは言っておきたいのである。

しかし……話がややこしいのはここからなのだ。
というところで、以下、次回。

(つづく)

御子神十三柱の再確認 完結編

御子神独自分類の試み

【十三柱の全バリエーションに登場する神】

伊豆早雄命、須波若彦神、池生神、片倉辺命、蓼科神、八杵命、意岐萩命

これら七柱の神々は、諏訪御子神の中でもより普遍的に重視されてきた神々である。
と、とりあえずは判断することができるだろう。当然のことながら、諏訪周辺にそれなりに立派な拠点(真地とは限らない)を持つ(または持っていた)神がほとんどである。
だがしかし、この分類については、より多くのバリエーションを探し確認していかなければならない。少なくとも、あと2つ3つはバリエーションを拾える可能性があるので、個々の神の重要度や普遍性を探るのはそれからの話だろう。
なんとなく、ではあるが、彦神別がこぼれるラインナップがあったのは意外なことだった。


【諏訪圏内で現在も信仰されている神】

伊豆早雄命、蓼科神、垂姫神

まあ、「信仰されている」という表現は大げさというか、実情を鑑みて非常に微妙なものがあるので、「一般に忘れられていない神」とでもするのが妥当であろうか。
須波若彦などは習焼神社に祀られているという意味では「今も諏訪で信仰されている」と確かにいえるのだが、おそらく鎮座地の南真志野以外の一般住人でその名を耳にしたことのある人はほとんどいないだろう、という意味でここには入れていない。草奈井比賣や兒玉彦も同様である。
反対に、「蓼科神という名の諏訪御子神」を知る人はまれだろうが、伝説や地名等から、「蓼科山の女神さま」という漠然としたイメージは普遍的に共有されている(もっとも、御子神の蓼科神が本当に姫神なのかどうかは知らない)。同様に、御子神がどうとかは知らなくても、八ヶ岳山麓の景勝地である「多留姫の滝」に女神さまがいるらしいということも、わりと知られている。半世紀も前に潰れてしまったが、「樽姫」という銘柄の地酒が健在だったころはもっと知られていたはずだ。

たるひめちゃん
「多留姫文学自然の里」マスコットキャラクター
著作権ヤバイかな~(笑)


まあこれらは観音さまみたいなもので、わりとミーハーなアイコンを連想しやすいがゆえ、現代人のアンテナに引っかかっているというだけの話かもしれない。
いっぽう、伊豆早雄命(諏訪では「出早雄」表記が一般的)は、間違いなく諏訪でもっとも有名な御子神である。岡谷市に大きな神社があり、紅葉の名所としても広く知られているがゆえであろう。また、本宮入口の門番神として、上社側の氏子にも知られている。ただ、諏訪の外にもこの神様を祀った立派な神社が二つならずあるという事実を知っている諏訪人は、滅多にいない。また、小萩神社が健在だった時代(昭和30年代初頭まで)は小萩命(意岐萩命)も同様に記憶されていたかもしれないが、現在、「出早雄小萩神社」と号した「小萩」の部分を気に留める人も、これまた滅多にいない。
付け加えると、御子神では全然ないが、手長さま足長さまは、デエラボッチとの重ね絵としての性質も含め、とてもよく知られている。


【自然神としての性格が強い神】

池生神、蓼科神、垂姫神、大橡神、兒玉彦命

池生神については、直近であれこれ語っているので仔細は省略。氏神属性も濃厚に感じさせはするものの、基本的に水神だということである。
蓼科神と垂姫神については、先の項で触れてしまった。それぞれ、特定の山、特定の滝を根拠とする自然信仰が原型である。そういう意味では、御子神といっても建御名方なんかより遥かに古い神である可能性が高い。結果的にこの二柱は、出自が諏訪だということがはっきりしている特例的な御子神でもある。まあ、蓼科神に関しては、山の反対側、佐久の側にも出自がありそうで、また北信で祀られていたりもして氏神的な性格も窺えるのだが。
大橡神は現状行方不明の神なのだが、諏訪市四賀に、かつて「橡(トチノキ)さま」と呼ばれる巨木と小祠があったらしい。いずれ湛木の名残のひとつでもあるのだろうが、これを氏神としていた古族がいたのかもしれない。山や川や岩なら半永久的に受け継がれていくが、巨木信仰となると、その木が枯れた時点で消滅する場合も多い(ひこばえ等で受け継がれる場合も、もちろんある)。
兒玉彦命の場合、その「岩の神」としての性質が濃厚である。諏訪市大和と湯の脇の境付近にある児玉石神社の主祭神で、ここの境内には巨大な磐座がごろごろといくつも並んでいる。上社の聖地、小袋石の脇の小祠に祀られているのは「興玉命」で、これは同神と考えていいように思う。また、かつて諏訪社では、分霊の際に「児玉石」という神宝を分け与える習慣もあったらしい(武石村子檀嶺神社の社伝。有名な玉依比賣命神社の児玉石も類例であろう)。そこに感じられるのは、「増殖する石、豊穣・生産の岩」といった神格である。が、その一方で、神長官系図には、かなり人間臭い存在として刻まれている。
伊豆速雄命も「いづ」の音から水神説があるが、それが本来であったとしても、そうした性質はあまり明確に伝えられておらず、人格神としての性格が色濃くなっている。

【地名関連の神名を持つ神】

妻科比賣命(長野市妻科)
片倉邊命(高遠町藤澤字片倉)
内縣神/外縣神/大縣神(諏訪祭政体の行政区分)
高志奈男神(岐阜県揖斐郡の高科か?「こし」と読んだ可能性もあるが…)
神坂雄神(飯塚久敏は佐久説だが、阿智村神坂峠のほうが必然性を感じる)
愛遲子神(も、もしかして「エチゴ」って読むのか?)
高石姫神(武石村説が散見される)
倉稲主神(千曲市倉科か?)
宇惠春神(茅野市上原、または上原氏関係……だろうか?)

地名由来の神名なのか、神名由来の地名なのかは永遠の謎であって、結論は出ない。氏族名と地名も古代に至っては同様である。ただ、中には、強引さが感じられるというか、そういう意味でなんとなくインチキ臭いやつもいる。
国家神道の影響下で社名を改めた神社なんか典型的なのだが、古色を演出して箔をつけたかったのかなんなのか、ただの地名にわざとややこしい漢字を宛てている例が多く見受けられる。ま、具体例を出すことは避けておくが、あのセンスを見ると、「ああなるほど、国学的センスというやつは、右翼経由で暴走族が受け継いだんだね」ということがよくわかる。夜露死苦神社! 尊皇Joey!
ま、歴史的視点から憶測するなら、ある地域が諏訪祭政体の支配下に入った際、そこの産土社に諏訪神を(つまり施政者としての神官も)送り込んだ上で、地名を冠した御子神を古来からの神としてデッチ上げる、なんて操作をやっていたのかもしれない。

【血統や親等関係に疑問のある神】

守達神
式内・守田神社の論社が水内のみに3社、うち1社がはっきりと守達神を祀っていることから、水内を拠点とする神であると見ていいだろう。しかし、その娘の美都多麻比賣が上社古族の守矢家に輿入れしているのはいったいどうしたことなのか。しかもその旦那は建御名方血筋の兒玉彦である。……とまあ、神様の系図を人間の系図のように読み解こうとしても詮無いのだが、少なくとも、なんらかの勢力関係の反映をそこから読み取ることはできるのではないかと思う。だいたい、「守宅神」というのは「もりや」とも読めるし、「もりた…」に通じる音でもある。守宅神と守達神って(ひょっとしたら洩矢神も)、もともと同神なんじゃねえの? といった疑念も生じてこようというものだ。
ちなみにこのあたりの関係は、有坂理紗子氏(この回で紹介)にご教示いただいた、善光寺齋藤神主家の伝承との関連も感じさせる。善光寺周辺で諏訪神を奉じる一族に「ぼくら金刺じゃなくて守矢なんだよ」といわれるといかにも唐突に聞こえるが、「もともと水内に拠点を置いていた国造一族ではなく、諏訪からやってきた諏訪ネイティブの一族が善光寺まわりで諏訪祭祀を始めた(それも、金刺との類縁で水内に進出した?)」という表現をするのなら、それはそれで十分に筋が通る。ただし、守矢一族と武居一族が同族という大胆な仮説を前提にしなければならない。
いつ、誰が、どっちからどっちへ行ったのか? それも何度も繰り返されている? というあたりが、善光寺と諏訪との関係の難しさである。ただ、このお戒壇のごとき真っ暗闇の迷宮の中の微かな灯りのひとつとして、守達神は輝いてくれるように思う。

都麻屋美豆姫命
単純に、美都多麻姫神と名前が似すぎてやしないか? という疑問である。また、「水」とか「玉」とか出てきて姫神となると、諏訪信仰周辺でうろうろしている安曇神(ていうか住吉神だが)、玉依比売命のことを思い出さずにはおれない。玉依比売には一般名詞説があり、また明らかな同名異神も存在するようなので、諏訪にもまた「別の玉依比売」がいたのかもしれない。

垂姫神
建御名方の御子神とされるいっぽうで、神長官系図では洩矢神の御子、守宅神の妹としている。山浦地方の中心にある多留姫の滝が真地であることに疑いはないわけで、だとしたら……たとえば、古代の諏訪で極めて有力だった山浦古族に対し、金刺勢力と守矢勢力との間で綱引きがあった、なんて読み方もできるだろう。……ま、あくまでもたとえばの話。

八縣宿禰
難解な神である。なにしろ別名が多い。佐久新海三社神社の社伝では、興波岐命、六老彦神、御佐久地神、そして八縣宿禰は同神とされる。
武居祝系図と諏訪旧蹟誌神系略図において、八縣宿禰は伊豆速雄の御子。いっぽう、諏訪旧蹟誌神系略図には興波岐命も同時に登場しており、こちらは建御名方の御子である。興波岐命は、御子神十三柱にももれなく参加している。
未だおぼろげなビジョンしか得られていないが、この神の正体に迫るためには、群馬、山梨、静岡、さらには畿内にまで足を伸ばす必要があるようだ。その筋道でピンと来る人もいるかもしれないが、ヤマトタケル伝承との関連も(武居祝絡みで、つまり後世の付会である可能性も当然踏まえて)疑っている。

というわけで、若宮の考察でも書いたように、御子神といっても現実に親神の直接の子、生物学的な親子であるか否かというのは、この際まったく問題ではない。オオクニヌシという名の人間が実際にいて、本当に何十人もの子をもうけたと考える酔狂な研究者はまずいないだろう。
だが、神話を構成する上で、矛盾が出てしまうのはいただけない。というのは建前で、個人的にはそういう部分こそが面白くてたまらないわけである。

しかしまあ、文献だ。
そもそも御子神十三柱という概念が登場する古文献にいまだ出会えていないのはどうしたものか。
今回何度も引いている「諏訪旧蹟誌」にしても、御子神オールスターズは出ているのだが、十三柱というカテゴリーには特に触れられていない。
当面、その根拠を十五社神社とその成立時期等に求めるしかなく(いや、せっせと文献を通読するのが本当は最優先なのだが)、そんなわけで十五社神社の実態の見極めが急務になってきたのであった。

(御子神十三柱の再確認シリーズ・了)

御子神十三柱の再確認 その3

由緒正しい御子神たち

まずは過去の文献に倣って、「延喜式神名帳」及び「三代実録」にその名が記載された諏訪御子神を挙げておこうと思う。ここで挙げられる神々は、いわゆる国史によって、平安時代前期までの段階でその存在を保障される由緒正しい神ということだ。
俗っぽくいえば、格の高い神々である。

ただ、注意しなければならないのは、古代から信仰されていた神だとしても、その時点で諏訪の御子神、もしくは諏訪系列の神と看做されていたかどうかは、まったくの別問題だということだ。
以前から書いている通り、私の考えでは、それぞれの神がもともと諏訪に出自を持つとは限らないので……いや、むしろ、諏訪に出自を持つ神のほうが特例というくらいの話なので……だから、いつの段階で、誰の(どこの)神が、どういった事情によって諏訪御子神に組み込まれたのか? それを知ることこそが究極なのである。
むろん、それを真実として突き止めることはまず不可能なのだが、「蓋然性の高い推論」くらいまでもっていけるのであれば、それはもう望外の喜びといえる。

ところで、今までなんの断りもなく専門用語を使ってきたが、いちおう解説しておくことにしよう。釈迦に説法な方々には申し訳ない。
一般に「延喜式」に記載された神社を「式内社」、延喜式には見られないが「三代実録」等に見られる神を祀っていたと思われる神社を「国史現在(見在)社」、または「式外社」などと呼ぶ。現存する神社へと比定する際に候補が複数見出せる場合、それぞれを「論社」と呼ぶ。

表現がややこしくて申し訳ないのだが、それは、「延喜式」では神社名、「三代実録」では神名しかそれぞれ挙げていないためである。よって、国史が示す神社とその祭神との照応や特定が困難な場合が、多々ある。
また、「延喜式」では郡まではっきり特定されているいっぽうで、「三代実録」では「信濃國」というところまでしか特定できない。なんとももどかしいところである。
「神社ではなく神に階位を与えているのだから、神社を特定する必要はないのではないか」という見方も建前としてできなくもないのだが、複数の國にまたがって多数の神社で祀られている神などいくらでもいるわけで、その点から考えると、この時代、いずれかの場所(神社)がその神の真地、本家と特定されていたと考えざるをえない。國別の但し書きを伴う以上、全国に散らばった分社末社ひっくるめ、抽象的存在としての神それ自体に階位を与えている、という解釈はできないのだ。

そもそも、「分祀」という方法が広く認められ、各地で実行されるようになったのはいつのことなのだろうか。今日の状況を見ても、本家以外で有名神を祀っていて、しかも上古以前まで遡れそうな古社の場合、もともとは名もなき地主神を祀っていた痕跡が残されている例が非常に多い。
たとえば信濃國の式内古社でも、現在、大己貴命や八幡神、住吉神等を祀っている社は数多くある。しかし、それらの神が三代実録「信濃國」の条で階位を受けた記事を見出せるのかといえば、当然、それはないわけだ。
延喜式の神社は神社、三代実録の神は神としてまったく別に理解した上で、また次の段階の作業としてそれぞれの照応を進めなければならない。
というわけで、「延喜式」と「三代実録」を分けた形でリストアップすることにしよう。


【延喜式記載神社】

頤氣神社
 関連御子神:池生神
 論社:長野市内の西寺尾、小島田にそれぞれ同名社
 現在の祭神
  西寺尾:池生神 配祀・建御名方命、事代主命
  小島田:頤氣神
 ひとこと:詳細は過去の踏査報告参照。

武水別神社
 関連御子神:別水彦神
 論社:桶知大神社など(ただし、武水別神社が圧倒的優位)
 現在の祭神:武水別大神 配祀・八幡三神
 ひとこと:神名からの連想で挙げたまでのことで、関連の根拠は薄い。

妻科神社
 論社:(なし)
 関連御子神:妻科比賣命
 現在の祭神:八坂刀賣命 配祀・健御名方命、彦神別命
 コメント:三代実録における神名は「妻科地神」と「妻科神」、2種の表記がある。

守田神社
 関連御子神:守達神
 論社:長野市の七二会と穂保に守田神社、市街地に守田廻神社
 現在の祭神
  七二会:守達神、大碓命、久延毘古命、大物主命、健御名方命ほか2柱
  穂保:大碓命、大己貴命、大山咋命
  守田廻:誉田別命、建御名方命、保食神
 コメント:論社争いが激しかった。守田廻神社本殿は、元・善光寺年神堂。

健御名方富命彦神別神社
 関連御子神:建御名方彦神別命
 論社:長野市城山、飯山市、信州新町にそれぞれ同名社
 現在の祭神
  城山:健御名方富命
  飯山市:健御名方富命 配祀・馬背神ほか六柱(彦神別の御子神たち)
  信州新町:彦神別命、健御名方命、八坂戸賣命、神八井耳命
 ひとこと:同じ延喜式における本家・諏訪神社の表記は「南方刀美神社」である。

高杜神社
 関連御子神:高杜神
 論社:中野市、高山村にそれぞれ同名社
 現在の祭神
  中野市:少那彦名之命 配祀・大國主之命、健御名方之命
  高山村:健御名方命、高毛利神、豊受姫命、武甕槌命、市杵嶋姫命
 ひとこと:中野市の鎮座地は「赤岩」、高山村は隣接する地域が「赤和」と共通する。

子檀嶺神社
 関連御子神:高石姫神、倉稲主神
 論社:青木村、武石村にそれぞれ同名社
 現在の祭神
  青木村:木俣神、健御名方富神
  武石村:健御名方刀美命、倉稻魂命、八坂刀賣命
 ひとこと:御子神の倉稲主神は「くらしなぬし」と読む。それが、超有名神である
  「倉稲魂命/ウカノミタマ」へと誤読・転訛したのではないか、という純粋な憶測。
  ま、諏訪神を祀る倉科神社との縁を考えるほうが筋かもしれないが。
  武石村と高石姫を結びつける説は、「諏訪旧蹟誌」で飯塚久敏が触れている。

須波若御子神社(遠江國式内社)
 関連御子神:須波若彦神
 論社:静岡県磐田市の淡海國玉神社に合祀され、境内摂社として現存。
 現在の祭神:須波若御子神
 ひとこと:諏訪では習焼神社の主祭神で、遠江との縁故を物語る伝承も残っている。


【三代実録記載神】

妻科地神/妻科神
 妻科神社を指すことは間違いないだろうが、イコール妻科比賣と断言しきれないのが辛いところ。

宇達神/安達神
 いずれも守達神の誤記説がある。要は式内・守田神社? だが宇達神社も長野市内に現存するのだ。

池生神
 神名は問題なし。ただし論社の絞込みは、当ブログ直近記事に見るようにかなり困難である。

出速雄命
 論社それぞれ決め手に欠け、これまた絞込みは非常に困難。

馬背神
 従三位にまで達した、御子神孫神中の出世頭。小県の馬背神社東西宮が最有力である。※1

八縣宿禰
 佐久新海三社神社には興波岐の別名とする伝承がある。それ以外の情報は極少。

會津比賣神
 會津比賣神社で確定としてよさそう。同社には、建五百建の妻とする非常に興味深い伝承がある。

草奈井比賣神
 諏訪市北真志野、蓼宮神社の祭神。ほかには小野神社付近の小祠に祀られている程度。※2

蓼科神
 蓼科山信仰が原型であることは確かなのだろう。しかし、立科町の蓼科神社に特定していいかどうかは微妙。

八櫛神
 長野市の八櫛神社くらいしか候補がない。神仏習合の形を遺す、別名「ぶらんど薬師」。

※1 その後、山ノ内町、字「夜間瀬/よませ」に馬脊社を発見。ただし祭神はスサノオ。
※2 筑北村の味酒部神社に比定するのは『東筑摩郡誌』の憶測に基づくであろう誤情報。



……と、以上は前提としてざっとまとめるだけのつもりだったのだが……結果、大仕事になってしまった。

当ブログ独自分類の試みは、想定外の4回目にて!

御子神十三柱の再確認 その2

十三柱のバリエーション総覧

『土俗より見た信濃小社考』という本がある。在野の研究者である小口伊乙という人の著作だが、この書の中の「十五社明神」という項目が、おそらくは諏訪の十五社神社に関するまとまった考察のテキストとしては唯一のものではないかと思われる(むろん浅学ゆえ、他のテキストがあるようなら是非ともご教示願いたい)。
郷土史家らしく、それなりに独創的な持論を持つ人なので扱いに注意を要する面はあるが、タイトル通りに民俗学的視点でのフィールドワーク記録として見れば、第一級の資料といえる。現地をひとつひとつ訪ね、関係者の話もたんねんに聞き取っている。貴重である。
まったく……たかだか30~40年ばかり前の踏査記録が極めて貴重に感じられるのが、まさに民俗学たるところなのだが。

さて、この「十五社明神」の項目から、各社氏子への聞き取りを前提とした十三柱のバリエーションを拾い出すことができる。

【岡屋十五社】
彦神別命、出早雄命、意岐萩命、諏訪若彦命、守達神、池生神、蓼科神、片倉辺神、大県神、内県神、外県神、八杵命、高杜神

【新倉十五社】
伊豆速雄命、多津若姫命、多留姫命、建志名命、妻科姫命、池主命、都麻屋美豆姫命、八杵命、洲羽若彦命、御倉辺命、興波岐命、別水彦命、高杜命

岡谷の他の2社についても著者は確認しているようなのだが、残念ながらそこまでは具体的に記述されていない。ただ、論の展開上、「2社とも7番目に蓼科神がいる」旨のみ、明記されていた。
あー……今、改めて読んでいて気付いたのだが、茅野市宮川に、私の把握していない十五社がもう1社、存在するようである。これは追って確認したい。
(「神宮寺の床屋さん」なら即座に教えてくれそうな気がする…と、独り言)

それから、『豊平村誌』には古田十五社における十三柱が記されている。

【古田十五社】
洲羽若彦、彦神別、片倉辺、八杵、高杜、伊豆速雄、建志名、興波岐、池生、恵奈武耳、妻科媛、別水彦、守達

これは走り書きのメモから起こしたため、「命」と「神」の区別を失念してしまった。が、順序はあっているはずだ。なんにせよ、追って確認したら書き直しておくこととする。

以上、オフィシャルのラインナップを加えると、4つのバリエーションを拾うことができた。文字表記の違いについては江戸時代以前の感覚では取るに足らないことだが、「命」と「神」の尊称の使い分けに齟齬が見られる点は興味深い。それ以前に、想像を遥かに超えるだけの大きな違いに改めて驚かされた。

また、宮坂喜十『諏訪大神の信仰』によれば、「御子は史書によって十三柱・十九柱・二十一柱などと諸説がある。」とのことなのだが、この「諸説」の載った「史書」を個人的に未だ見出せていないのがなんとももどかしい。
それが最初に挙げた問題点の3と4なわけだが……かように文献に弱いのである。ま、おそらくは、既知の文献の未読部分にあっさり載っていたりするのではないかと思うのだが。

ともあれ、十三柱の内容が一定しない以上、「十三柱」というくくりとは無関係に、知りうる限りの全諏訪御子神のリストを挙げておく必要性も感じるわけだ。たとえばの話、「オフィシャルにいないから高杜と守達は無視ね」というわけには、まったくいかないのである。

さてそこで。以前にも触れたことがあるが、前宮の境内摂社「若御子社」には、二十二柱の神々が合祀されている。以下は『平成祭礼データ』によるが……実は持っていない。これはなんとしても手に入れておきたいのだが。
というわけで、今回は「神奈備/kam-navi」さんのお世話になった。

【前宮若御子社】
建御名方彦神別命、伊豆早雄命、妻科比賣命、守達神、池生神、須波若彦神、片倉邊命、蓼科神、八杵命、内縣神、外縣神、大縣神、惠奈武耳命、高杜神、意岐萩命、妻岐萩命、都麻耶美豆比賣命、奧津石建神、多都若比賣神、垂比賣神、竟富角神、大橡神

続いて、出典不明ながら、先述『諏訪大神の信仰』からは、以上の二十二柱からさえも漏れている神の名がいくつか拾い出せる。

【『諏訪大神の信仰』より、その他の御子神】
八重隈根命、殖春神、雛若姫命

そして最後に、現時点で私が認識している範囲内でもっとも詳細な御子神データを参照することにしよう。飯塚久敏(江戸末期の国学者)の「諏訪旧蹟誌」に載っている「神系略図」である。
著者がいうには、これは下社の系図から引用しているとのこと。現存する武居祝系図の神代部分は相当にいい加減なもので似ても似つかないので、つまり、江戸末期の段階では下社に神代を含む詳細な系図が残されていた、ということになる。上社の系図は、有員以前には最初から触れたがらないため、神代の系図資料は逆に貧弱である。ゆえに、この飯塚久敏が参照した下社系図は非常に貴重な資料であり、また、今なお出現の可能性を期待できる古文書なのではないだろうか。

さて、その内容だが、まず最初に建御名方の御子神として、前宮若御子社の二十二柱に非常に近いラインナップが挙げられている。よって、江戸末期~明治期にかけ、この資料を参照して若神子社の祭神を定めた可能性もいちおう考えられる。が、表記のみならず一致しない点がいくつか拾い出せるので、より古い別の典拠がある可能性のほうが高いだろう。
この差異についても、ひと通り洗い出しておくことにしよう。

まず、彦神別から意岐萩までの十五柱については、順序も含めて一致している。ただ、表記の違いはいくつかある。以下、比較の順序は、前者が「若御子社祭神」、後者が「諏訪旧蹟誌神系略図」とする。
・建御名方彦神別命 → 建御名方彦神別命 亦名彦神別命
・伊豆早雄命 → 出早雄命 亦名出早神
・妻科比賣命 → 妻科姫命
・池生神 → 池生命
・須波若彦神 → 須波若彦命
・「旧蹟誌」には、内縣神、外縣神、大縣神の後に「以上三神流鏑馬之祖神也」と注記

十六柱めからは、神名そのものに齟齬が出てくる。

・「旧蹟誌」には妻岐萩命が出てこない。代わりに、若御子社にはいない別水彦神が入る。
・都麻耶美豆比賣命 → 妻屋美豆姫神
・多都若比賣神 → 鶴若姫神 (※同神かどうかは微妙なところ)
・垂比賣神 → 垂姫神

以上である。

さて、続く「旧蹟誌」の記述だが、以降は御子神の御子神、すなわち建御名方の孫神が挙げられてゆく。そこまではとても追いきれないのだが……中には「馬背神」など、明らかに重要な神が何柱か含まれているので、これもとりあえずのリスト化だけはしておくことにしよう。後の自分のためにも。

【彦神別命の御子神】
庭津女神、馬背神、八須良雄神、武彦根神、知弩神、佐那都良姫神

【出速雄命(表記、旧蹟誌のママ)の御子神】
八縣宿禰命(亦名佐和惠多良六老彦神)、出速姫神(亦名會津比賣命)、草奈井姫神、可毛神、若木姫神

【守達神の御子神】
高志奈男神、美都玉姫神

【池生命の御子神】
神坂雄神、愛遲子神、池若御子神、底多久神、高石姫神

【八杵命の御子神】
久留須神、比良父神、八立神、倉稲主神

【恵奈武耳命の御子神】
宇惠春神、茨田神、菅根神

以上である。
余談もいいところだが、美都玉姫神の名を見ると、反射的に草間彌生を想起してしまうのは私だけだろうか。つーかそれ以前に、美都玉姫神の名を日常的に目にするような機会があるのは私だけだろうか。という話なのだが。

最後に、諏訪御子神に類する存在として、もう1カテゴリーだけ追加しておこう。
各神の位置づけや注記も整理して添えておく。

【神長官系図における御子神的な神々】
・守宅神(洩矢神の御子。神長官系図では、その妹を多留姫命としている)
・千鹿頭神(守宅神の御子)
・兒玉彦命(片倉邊命の御子。美都多麻比賣神を娶って千鹿頭の跡を継いだとする)
・八櫛神(兒玉彦命の御子。すなわち、建御名方のひ孫)

以下、もう数代にわたって神様っぽい名前が続くが、とりあえずここまでにしておこう。

リストはこれですべてである。ふう。

ここまで見てくると、十三というのがなんらかの意味での吉数であり、そこに当てはめているだけの話であろうことが明白になってくる。とはいえ、公式見解としての御子神十三柱の定義は、「御子神の中でも、国土開発に特に功のあった神々」ということになっている。そこで、重要度によってランク分けがなされているという事実を見逃すわけにはいかないだろう。国土開発云々を歴史的解釈で言い換えるなら、「諏訪祭政体への貢献度」ということになる。そこは当然、評価する者の立場、所属、出自等々によって変わってくるわけで、つまり十三柱のバリエーションから、神々の出自をその痕跡だけでも辿ることのできる筋道が、微かながらも見えてくるわけである。

ともあれ、十三柱という枠組みの意味が曖昧化してしまった以上、その「重要度」の比較によって、御子神たちをまた違った視点から分類してみる必要があるように思う。でないと、とっ散らかりすぎていて、なにがなんだか全然わからないからである。

というわけで、この項はもう1回だけ引っ張っておくことにしよう。

御子神十三柱の再確認

「十三柱」とはなんなのか?

前回予告した通り、今回は「御子神十三柱」の再検証をしておきたい。
調査を進めるにつれ問題になってきたのは、以下のような点である。

1.十三柱のラインナップにはいくつかのバリエーションがある。
2.「十五社神社」の全体像を把握する必要が生じてきた。
3.そもそも、十三柱の根拠となるべき文献に出会えていない。
4.ここで扱う神々を、諏訪の御子神と定義する根拠についても同様。


この問題点に沿って検証を進めていきたいが、その前に、前回、由緒書看板の写真だけを紹介した「諏訪大社公式見解における御子神十三柱」を再確認しておきたい。

建御名方彦神別命(たけみなかたひこがみわけのみこと)
伊豆早雄命(いづはやおのみこと)
妻科比賣命(つましなひめのみこと)
池生神(いけのおのかみ)
須波若彦神(すわわかひこのかみ)
片倉辺命(かたくらべのみこと)
蓼科神(たてしなのかみ)
八杵命(やきねのみこと)
内県神(うちあがたのかみ)
外県神(そとあがたのかみ)
大県神(おほあがたのかみ)
意岐萩命(おきはぎのみこと)
妻岐萩命(つまきはぎのみこと)


十三柱選定のバリエーション、表記の違い、読みの違いなどさまざまあるわけだが、そんな中で、今後はこれをとりあえずの「標準」とした上で、さまざまな差異を検討していくことにしようと思う。

さて、各論に入る前にもうひとつ、話の中で前提になってくる「十五社神社」について、ざっと説明しておきたい。
十五社神社の名を持つ神社は、まず、現在の自治体区分における諏訪地区の中に、9社ほど確認することができる。諏訪においては、「建御名方、八坂刀賣、御子神十三柱」を祀るというのがその本義で、合わせて十五社という意味である。十三柱の内訳まで伝承されている神社もあれば、御子神については(おそらく)忘れられてしまい、「建御名方、八坂刀賣」の二柱だけを祭神としているところもある。
以下、諏訪における十五社神社の内訳を挙げつつ、字名に応じて各十五社神社に仮の識別名を与えていくことにしたい。

まず、岡屋十五社、間下十五社、今井十五社、新倉十五社と、岡谷市に4社。続いて茅野市に、米沢十五社、古田十五社、御作田十五社、大日影十五社と、これも4社。残る1社はやや離れた富士見町に、上蔦木十五社がある。

この分布の偏りには注意が必要だろう。
岡谷市一帯は、のちに下社大祝となる金刺一族が郡司として最初に本拠を置いたであろうと考えられるあたりで、岡屋牧にも直結する場所。茅野市のほうは、地元では「山浦」と呼ばれる一帯で、こちらは対照的に上社古族側の最古級の心臓部である。
そのほかの場所、たとえば地主神の古社が立ち並ぶ西山一体や、山浦から山稜ひとつへだてた諏訪湖側、やはり土着の古社が立ち並ぶ諏訪市内にも十五社は見当たらない。また上社、下社とも、その境内地の付近にはなぜか見当たらない。
ただし、御子神十三柱を祀るとされる下諏訪町富部の若宮神社(『信州の神事』では祭神彦神別となっていたが、これは「二柱め以降省略」と考えるのが妥当なように思える)と、「建御名方、八坂刀賣、御子神十三柱」を祀るという岡谷市長地の神明社(なぜ?)も、リストに加えていいかもしれない。また、この若宮神社は秋宮の直近、下社の五官祝が住んだという伝承のある「五官」「本郷」「富部」といった地名を持つ古村の山際に鎮座しており、先のロケーション検証の中では例外的存在となる。

さて、諏訪地方の外にも十五社神社という名の神社は少なからず存在している。ただ、注意しなければならないのは、明治の合祀ほかさまざまな事情でいくつもの神社が合併している場合であろう。十五柱の神さえ祀っていればその内容はなんであれ「十五社神社」と名乗りうるわけで、三社神社とか、五社とか七社とか、四柱神社、八柱神社等々、ある種、一般名詞としての社名でもあるわけだ。実際、岐阜県や和歌山県の十五社神社など、諏訪との関係を想定するのは難しいだろう。
他所の十五社神社で標準的なパターンとしては、「天神七代、地神五代の十五座二十柱を祀る」とするもの。ただ、このラインナップはいかにも国学臭いというか吉田家臭いというか、とにかく近世臭しかしてこないので、古層のものではまったくありえない。もし古社であるのなら、例によって、無名な地主神たちが国学者や神祇庁の連中に抹殺された痕跡という可能性も考えられるだろう。

本ブログでいちおう検証範囲内としておきたいのは、松本市の中山で埴原神社に合祀されている十五社、旧三郷村小倉(現・安曇野市)の十五社、それから、山梨県の八ヶ岳南麓、長坂と須玉にそれぞれ鎮座している「十五所神社」である。その多くは「天神七代、地神五代」やそれに類する中央神のラインナップになっているのだが、いずれも諏訪信仰の影響が極めて濃厚な地なので、別系統が本来の姿と考えるほうが不自然である(各社への具体的な検討はまた機会を改めて)。

というわけで本論に入りたいのだが……すでに結構長いので、今日のところは「引き」ということにさせていただく。
まあ、さほどの間は空かない。はず。

というわけで、今後直近の流れとしては、十五社巡りレポートも差し挟んで行きたい。ここまでに挙げた検証対象の十五社……って、あれ? すげえ偶然だな。この場合、「15社」という表記で分けたほうがいいだろうよ。で、その15社のうち、行ったことがあるのはまだ半数ほど。実際に行ってみてナンボという基本姿勢を保ちつつ、引き続き話を進めていきたいと思う。

********

あ~、また書き忘れちゃった!
というわけで1時間後の追記。
天竜川が静岡県に出るあたり、今でも「霜月祭」をやっている古社のひとつが、十五社神社だったんでした。
ただし、祭神は諏訪御子神ではないらしい。
が、諏訪神楽の古層を残し、周辺にいくつかの諏訪神社、馬背神社、諏訪湖へと遡る龍神の伝承等々を残すこの地で「十五社」を名乗る以上、これも必然的に検証対象に加わってきます。
というわけで……追跡対象は16社になっちゃいました(笑)。

頤気神社(長野市小島田)

御子神踏査報告 その6

長野市小島田付近の交差点は、なかなかに規模の大きい、地方なりに「交通の要衝」的な交差点である。長年東京にいたとはいえ、都落ちしてからいい年して渋々免許を取ったというような軟弱の身としては、片側3車線が60~70キロの巡航速度で流れているような道路なんぞまっぴらごめんなのである。ましてその交差点……こんなのどうやって右折すんだよ!
てなことを思わされた「古戦場入口」を右折すると、まもなく、マクドナルドとラーメンチェーンの「くるまや」があり、そこが「いき」の交差点なのであった。

自動車文明ゴリゴリの交差点から、間近に小島田頤気神社の小さからぬ社叢が確認できる。これを目印に幹線を逸れれば……そこはいきなり長閑な農村地帯のただ中だ。

うーむ……。
ニュアンスも規模もまったく違うが、猛スピードで巡航する極太車道をちょっとでも離れれば、そこは見渡す限りの荒野……という、ルート66を彷彿させる。
……おおげさですね。

トランザム!

とはいえ、ほんの百メートルばかりで現代の真っ只中から一瞬にして近世的農村へと至る感覚には、なかなか印象深いものがあった。

余談もいいところだが、アメリカをフォローしていく日本の生き様に限界が感じられるどころか、アメリカそのものの国家スタイルに限界が感じられる昨今、こういうのはあまりいいこととは思えない。というか、こういうギャップ感の究極こそが、かの中国大陸における地域格差というやつなのではないだろうか。日本が長年東南アジアや中国相手にやり続けてきた搾取の構造を自国内で賄っているというのだから凄い国である。
もうね、中国なんて都市部以外のすべてが世界遺産みたいな国なんだから、国家がいい気になってそれを資本だと勘違いしているうちに、ユネスコさんは片っ端から世界遺産指定してやればいいのではないかと。文革で失われた文化度を取り戻せば取り戻すほどに、それが資本の足枷であることにやつらは気付いていくのだ。
もっとも、日本でも地方自治体レベルではいまだに気付いてないみたいだけど。
日本も中国も、さっさとヨーロッパのような「年老いた国」になってしまえばいいのに。

などというインチキ文明論を展開している場合ではなかった。
まあ……しょせん物見遊山に訪れる身にとって、面白いことは面白いギャップ感ではある。

農村らしく狭く入り組んだ道を抜けて到達した小島田頤気神社の境内は、広く、明るく、開放的な雰囲気。

小島田頤気社社頭

小島田頤気社標柱

「式内頤気神社」。
こっちも、しっかりと主張している。

「古色蒼然」といった趣はないが、なんとも清々しく好ましい境内である。境内地全体を覆う下草が、芝生のように美しく整っている。

小島田頤気社境内1

目を瞠るほどの古木はないが、ないなりに風格のある美しい社叢である。明るい印象が強いのは、木々が密でないということもあるのだが、おそらく広葉樹が中心だからだろう。
春に訪れてみたい神社だ。

境内地は千曲川の堤防に並行している。人口堤防に面して祀られた神社が新しいわけがない……ともいえるのだが、ただ、「前フリ」で説明した千曲川の巨大さを思い出していただきたい。

堤防の上に登って、社の東、河川敷側を眺めてみた。

小島田頤気社河川敷1

小島田頤気社河川敷2

畑と果樹園が延々広がっている。
正面に印象的な山容を見せているのが、前述した尼厳山である。
……どこが千曲川?
という話なわけで、「ここ」全体が、その河川敷なのである。
下の画像をよく見ると、平行に連なる緑のラインが地層のように色合いを変えている部分が確認できるかと思う。この奥のラインが、対岸の河川敷……の始まりなのである。

感覚的には……大河の地勢に慣れていないという個人的欠点を露呈してしまうが……なんともいいようがない。
ただ、『シナノの王墓の考古学』という本(名著!)に載っていた分布図を見る限り、小島田頤気神社周辺には古代の遺跡群の存在が確認できるのである。古い古い、それこそ「古代からの農村」である可能性も、完全に打ち消すことはできまい。

堤防を降りて社地に戻ろう。
境内地は非常にゆったりした印象だが、冷静に見ると、神社としての境内規模はさほどでもない。ただ、境内に隣接する民家等の建造物が少なく、特に高層の建造物や山地丘陵地が付近にまったく見当たらないため、実質以上に広く感じるのである。

小島田頤気社堤防より

拝殿も小ぢんまりとしたもの。

小島田頤気社拝殿1

小ぢんまりとはしているのだが、個人的には非常に好きな拝殿だ。なんといえばいいのだろう、要するに親しみやすいのだが、その親しみやすさは、おそらく「村の薬師堂」とか「観音堂」とか、そういう類の雰囲気を醸し出しているがゆえなのではないかと思った。

小島田頤気社拝殿2

小島田頤気社拝殿3

この、正面一間のみが開け放たれ、拝殿内部がオープンエアになっている感じ。
そして近世っぽくゴテゴテした瓦葺の屋根。
などが、そう思わせるのだろう。

小島田頤気社本殿覆屋

本殿は閉ざされた覆屋の暗闇の中、まったくその姿を窺い知ることはできない。

小島田頤気社社務所

社務所……というか、実質、寄り合い所なのだろうが、新築ピカピカである。
氏子衆は、確実に健在だ。
周辺部も含むこの美しい境内を、末永く守っていってほしいと願うばかりである。

印象は好ましく、信仰としての生命力も感じさせてくれるいっぽうで、「古社」であるべき根拠はあまり提供してくれない。おそらく、本殿次第で最低限の古さは保障してくれるのだろうが、そうはいっても、常識的にいって江戸中期以前まで遡ることは難しいだろう(文化財表示も特になかったし)。

小島田頤気社摂末社1

小島田頤気社摂末社2

摂末社については、この地域にしてはかなり少ないほうで、また、格別に気になる存在もない。ただ、少ない摂末社のうちの2社が、立派な覆屋に収まっていた。
こうした規模の神社の場合、摂末社の少なさは基本的に明治期の合祀の少なさを示すが、それがこの地の場合なにを意味するのか……ちょっと思い当たらない。江戸末期、ここは孤立した小さな村だったのだろうか。

小島田頤気社庚申塚

社頭には庚申塚など民間信仰の石碑等がぼつぼつ見受けられるが、それにしても決して多いほうではないし、古層の名残を見出すことはできそうにない。

実見できた材料の範囲では、やはり中世以前にまで遡ることは難しいように思う。古代遺跡の痕跡がある場所だけに、いったん水害で失われ丸ごと復興している可能性は考慮しなければならないが、単純に式内論社として西寺尾頤気神社と比べた場合、西寺尾の側に分があるといわざるをえないだろう。
あとは両社の因果関係や伝承、資料等を探るほかないのだが……近在の図書館がこの地域の郷土史に関して非常に弱いため、その先は「またそのうち」ということにさせていただく。
また、池生神の本質を考える上で、西寺尾頤気神社での考察以上に加えるべき点は特に見当たらない。陰と陽、正反対の印象を持つ神社ではあったが、祭祀の根幹に関わる部分では、やはり共通するものを想定するほかないようだ。

以上、長野市内3社の池生神社と頤気神社を巡ったわけだが、水内の池生神からは、氾濫鎮め、それも農耕神としての性格が強く窺えた。千曲川に近いという共通項もあるが、社殿の向き及び社地からの展望を鑑みるに、千曲川そのものへの信仰とは考えにくい。
川そのものへの信仰である場合、上流に奥宮があるとか、水源に垂迹伝承があるパターンが多い。ただ、これだけの大河になると生活圏の範囲内で「上流」という感覚は持ちにくいし、まして水源を実感することは不可能なので、また別の信仰形態を想定する必要はあるかもしれない。

いっぽう、塩田平の池生神社1社に関しては、水神としての性質も保持してはいるが、神格云々以前の一般的な農村の鎮守と見てよい。
同項で、池生神を祀った特殊事情を考慮する必要がある旨書いたが、「小島」と「小島田」という名称の相似(あまりにもありふれた地名ではあるが)に、氏子移住の痕跡を探ることができるかもしれない。

残るは本山宿と信濃境の池生神社、そして3社の槻木泉神社である。加えて、池生神に関連してレポートしたい神社がもう数社控えている(これは増えるおそれも当然ある)。その中にはまだ訪問していない社が残っているため、今後のレポートは順序バラバラ、しかも飛び石になるだろうと思われる。
し、か、も! 池生神を追う過程でどうしてもはずせない某古族神官家の追跡が挟まってくる可能性があり……このテーマがまた、底なしに深いのであった。

本編の再開は遠い……。

■1012131:少々加筆。

頤気神社(長野市西寺尾)

御子神踏査報告 その5

まずは南に位置する、西寺尾の頤気神社から訪問したのだった。別に意図があったわけではない。単純に行程上の都合である。

千曲川から半キロばかりの平野部で、しかも蛭川、神田川という2本の川が合流する三角地帯の中央に鎮座している。……という地理的条件からは、あまり古くから土壌が落ち着いていた場所とは思えない。
が、意外なことに、かなり入り組んだ住宅街路地の奥にあって、辿りつくのに少々苦労させられた。つまり、所在郷村の古さは十分に感じさせるのである。その点、先に報告した長池の池生神社に状況がよく似ている。
いっぽうで……雨上がりに訪れたとはいえ、境内中がほとんどぬかるみだったことには少々驚かされた。水源という意味で境内が水っぽい古社はたくさんあるが、それは基本的に山際もしくは山腹に鎮座する神社である。大河近くの平地で、水はけの悪い印象の境内というのも……。水害の危険に怯えこそすれ、水不足に悩まされることがあるとは考えられない、そういうロケーションなのである。

さて。境内は相当に広い。

西寺尾池生社頭

西寺尾池生社境内

たまたま本殿脇、つまり裏側から侵入してしまったのだが、正面の鳥居がかなり遠かった。拝殿から百メートルでは全然きかないだろう。しかも、参道脇には住居が迫るでもなく、広々と境内地が確保されている。名神大級式内社のような知名度(つまり観光参拝需要)がなく、かつ住宅地内に鎮座する神社としては、望みうる最大限規模の境内地を確保しているといっていいのではないだろうか。

参道脇には境内摂社が点々と。

西寺尾池生社摂末社1

西寺尾池生社摂末社2

そして、非常に立派、かつ重厚な拝殿。

西寺尾池生社拝殿

前面に舞台を備えているので、「神楽殿・兼・拝殿」ということになるのだろう。そのこと自体は珍しくもないが、間口が五間と広く堂々たる建築で、立派な向拝を備えた正面観にはただならぬ風格が漂っている。赤いトタン張りの屋根が少々残念な感じだが……しかし葺き方は銅板葺の方法のようでもあり、屋根の厚みの感じとか向拝部分の微妙な曲面的形状等を見ると、かつては桧皮葺であったのかもしれない……などとも思うのだが、建築の専門性は持ち合わせていないので、正直よくわからない。だが、もしこれが桧皮葺だったら、それこそ重厚な、極めて品位の高い建築物であったろう。

西寺尾池生社絵馬

舞台奥正面の欄干に、巨大な神話絵馬が掲げられている。昔の絵本の「オオクニヌシのお話」みたいな感じで非常に微妙な代物なのだが、なんだか素朴で好ましい。
まあ……描き手の人間性が滲み出ているのであろう。
その額の中に祭神「池生命/健御名方命/事代主命」と書かれているのだが……この絵のモチーフについては、どこかで見たような湖を見下ろして佇んでいる風情から見て、おそらく池生ではなく建御名方を描いたものなのではないかと推察される。
古いものではなさそうだが、それゆえにこそ余計に、池生命の姿を具体的にイメージできるほどの情報や材料が全然なかったんだろうなあ……ということをリアルに思わされた。

西寺尾池生社本殿

本殿は、オーソドックスな一間社流造。全体にシンプルだが、脇障子には凝った彫刻が施されている。素っ気なくもなし、ゴテゴテでもなし、諏訪育ちの感性にはしっくりくる(ということは、いずれ大隅流か立川流か。まあ、ちょっと調べればたぶんわかることだ)。

ちょっと面白かったのは、拝殿の背後から本殿へ、板張りの玉垣に囲まれた禁足地の様子。拝殿後ろの石段から本殿の足元まで、庭園風の石橋で結ばれていたのである。

西寺尾池生社石橋

おそらくは単なる「趣向」であって、深読みするほどのものではないのだろうが、珍しいことは珍しい。なんというか……ソソる。実際に自分で渡ってみたくなる感じというか。
強いて深読みするなら、水あっての橋……水神の本殿前の趣向としてはなかなか気が利いているように思った。雨が降るとぬかるむような境内地だけに。

本殿周辺にも小祠がいくつもある。

西寺尾池生社摂末社3

西寺尾池生社摂末社4

拝殿の左脇には、参道と両部鳥居まで備えた境内摂社が。
しかし全体に、摂末社に関しては格別に引っかかるようなものはなかった。
ヤマトタケルがいたのが、ちょっと気になった程度か。

そして、御柱。

西寺尾池生社御柱

二本立てである。
そう大きなものではないが、これぞ、氏子の諏訪系列社としての自覚の証。

西寺尾池生社大欅

ケヤキの古木は見事。優に400~500年級であろう。
ほかにも200~300年級と思われるケヤキが何本もある。

雨上がりの上、木の繁った暗い境内で、いつも以上に写真の質が悪いことをお詫びしたいのだが……そう、社殿も、境内も、全体に重々しい印象の神社であった。古社の趣、式内の格式は十分に感じられる。
また、平地・住宅地の中にあり、かつ観光需要もなしにこの規模の境内を今も維持し続けているということの素晴らしさ……そこは、代々の宮司さんと氏子さんたちへの最大限の敬意とともに特筆しておきたい。

境内に隣接する民家も、ただの民家ではないぞ、というオーラを漂わせている。

西寺尾池生社民家2

西寺尾池生社民家1

いずれ、有力な氏子衆なのであろう。

個人的な経験則と感覚では、少なくとも中世までは遡りうる古社なのではないかと感じた。まあ、さほどあてにはならない「個人的な経験則と感覚」ではあるのだが、にしても、立地における説得力において、湧水信仰の宮ではない、ということだけは確実にいえる。
たとえばそれが江戸期の創設であるならば、ありふれた農村の鎮守、すなわち農業を支える水神という可能性も出てくるのだが、境内規模と重厚な雰囲気からはとてもそうとは考えられず、式内論社としての説得力すら十分に感じさせるのだ。となれば、やはり氾濫鎮めの祭祀を原形とする古社であるとの判断を私は採りたい。

この宮が池生神の真地か否かはさておくとしても、「池生神の本質(のひとつ)として、氾濫鎮めの機能があった」ということは認める必要があるように思う。

頤気神社(長野市西寺尾/長野市小島田町):前フリ

御子神踏査報告 その4

長野市には2つの頤気神社がある。いずれも式内「頤気神社」に比定される論社であり、また、三代実録記載「池生神」の候補でもある。
南側の頤気神社は、旧松代町の西外れ(以後「西寺尾頤気神社」と呼ぶ)、北側の頤気神社は、かの川中島古戦場にほとんど隣接して鎮座する(以後「小島田頤気神社」)。
正確には、両社とも「気」は旧字が用いられており、小島田のほうは「頤」の字が微妙に違っている(へんに一本タテ線が多い)。また、「イキ」と読むか「イケ」と読むかはどちらをとってもいまひとつはっきりしないのだが、小島田のほうは「イキ」という字名があったようで、付近の交差点の表示にそれが残っている。
ロケーションとしては、いずれも千曲川の河畔と呼べる位置取りである。


より大きな地図で 南北イケ神社の位置関係 を表示

中断している池生神編の前編でも触れた通り、この二社は論社を争うにはあまりにも距離が近すぎる。しかも地図上で見る限り、鎮座地のロケーションもほとんど同種と考えられる。千曲川の右岸と左岸という違いはあるものの、蛇行地点を2社で挟み込むような位置取りは、むしろ最初からペアで祀ることを前提にしていたかのようにも見えるのだ。となれば、上下社、あるいは春社秋社という可能性もあるのではないか……という件にも、すでに触れた。いずれにしても、非常に気になる存在ではあったのだ。

池生神を扱う上で重要な神社であることに疑いはなく、また、せっかく(初めて)地図も引いてみたことだし、周辺の地勢についてもざっと説明しておこうかと思う。
以下は地図を参照しながら読んでいただければ幸いである。

まず、最大のランドマークが千曲川なのだが、これは国内最大級の大河である。秩父山塊を源流とし、佐久、上田地方を抜けて善光寺平へと至る。そこで、上高地を源流とする梓川もろとも、西側の渓谷を抜けてきた犀川を呑み込む。小島田頤気神社は、この大合流点の手前(上流)5キロばかりの至近距離に位置している。
水量豊かな滔々たる流れはそこからさらに北上していき、いくつもの川を吸収しながら新潟県に至る。そこで信濃川へとその名を変え、日本海へと注ぎ込む。
このラインは、遺跡や古信仰の分布を見る限り、古代シナノと日本海文化圏(出雲~越~そして……非ヤマト経由の渡来人も?)とを結ぶ幹線として、翡翠で知られる姫川ルートより遥かに重要だったのではないかと思える。何度か話に出た「あの」柳沢遺跡もこのエリア、新潟県との県境に近い千曲川河畔にある。

そんな信濃川水系全体を見渡したとき、頤気神社の鎮座する長野市周辺は中流域ということになるのだろうが、それでも河川敷は相当に広い。たとえば……東京都内における多摩川を比較対象とするなら、それに倍する規模をイメージしてもらってまったく問題ないだろう(それでもまだ足りないくらいだが)。
それだけの大河で、かつ山間で蛇行しているだけに、かなり古い時代から自然堤防が発達している点には注意が必要だ。というのは……基本的に川の周辺部は古代人の避ける洪水野なわけだが、このあたりでは、河川敷から遠からぬ場所に弥生~古墳時代の集住遺跡が多数確認できるのである。もちろんすべての場所がそうだというのではなく、氾濫原は氾濫原として広範に存在する。

東から南にかけての山地は、いくつもの尾根が低地から直接、恐竜の背のように立ち上がり、独特の風景を形成している。尾根と尾根の間には扇状地もあるにはあるのだが、それ以上に、まっ平らな洪積平野から唐突に尾根が立ち上がっているという印象のほうが強い。
そして、尾根と尾根に囲まれた「谷戸」ともいうべき懐状の場所に里が営まれている。
里の背後の尾根上には多くの古墳を見出すことができるのだが、特に北東方面間近には積石塚の群集墳で知られる大室古墳群があり、転じて南側数キロには、かの森将軍塚(4世紀後半、東国最古級の本格的な前方後円墳で、竪穴式石郭の規模だけでいえば全国でも最大級)がある。

東に聳えるのは尼厳山(あまかざりやま)と、尾根続きの奇妙山(きみょうさん)。ともに印象的な山容を持つ信仰の山である。
手前の尼厳山はきれいな三角錐形を成す雨乞い山で、その奥の奇妙山は……おかしな名前だが、かつては帰命山とでも書いたのだろうか……露岩の目立つ修験の山である。
もう少し南下すると、かの、"ピラミッド"皆神山もあるが、そこまで行ったらもはや別のエリアと見るべきだろう。

さて、近辺の地勢に関する説明はこれくらいにして、次回から、それぞれの頤気神社のレポートを順にお送りしたい。
それにしても今回は、「やはり現地に行ってこそ実感できることはあるなあ」と、つくづく感じ入ったのだった。両社は地図上で見る限り、その地勢においてまったくの同類としか思えないのだが、境内の印象はまったく対照的だったのである。

池生神社(上田市小島)

御子神踏査報告 その3

次に見る池生神社だが、これまた興味深い場所に鎮座している。それは塩田平……といって、一般にどこまでピンと来てもらえるのかどうかはなはだ心もとないが、ここもまた、信濃国造一族、すなわち金刺氏ゆかりの地と考えられているのである。
詳しい話を始めるとまた話が逸れてどんどん広がっていくので、自重。事情をご存じない方は、ただ、「ああそうなんだ」と納得しておいていただきたい。そのうち、きっかけや気分次第では、今回訪ねた「生嶋足嶋神社」や「安曽神社」を扱うこともあろうかと思う。その際、存分にやらせていただきたい。

とにもかくにも、そういう場所にある池生神社なのである。

塩田平は小盆地である。東方やや遠く浅間山、南方間近には独鈷山の荒々しい岩尾根が立ち上がっているのが見える。独鈷山の麓には「小鎌倉」として知られる別所。北方だけが開けていて、善光寺平へと続く千曲川がゆったりとした流を成しており、その対岸が、国分寺や科野大宮(ある時期の信濃国総社)がある上田市。周辺は長閑な農村地帯である。
下は、浅間山遠望。

浅間山遠望

地域性に加えて注目したいのは、ここが「池の端にある池生神社」である点だ。
池生神を、その名の通り素直に池の神と看做していいのかどうか。その判断材料のひとつとして期待される。

というわけで、これが「小島大池」。

小島大池

先述した通り、この地域は讃岐並みとはいわないまでも、県内の小学校の社会科で必ず習う程度には溜池で知られている。実際、無数の溜池が点在しているのだが、この「小島大池」は、中でも比較的規模の大きい部類といえる。溜池をある種の「名物」として自治体で意識しているのか、真新しい案内看板が立っていた。

小島大池看板

小島大池看板2

ま、ふーん、という程度の話。
真田さんの普請記録が豊富に遺されているため、由来についても非常にはっきりしているらしく、この看板には元和4年(1618)の築造と書かれていた。江戸の初期も初期、幕藩体制成立の直後にこれだけ大規模な土木工事を遂行している点には感心させられる。

灌漑のための人造溜池というのはまあ予想通りだったのだが……。

小島池生社頭

池に直面する形で、右手に鳥居が建っているのが見える。
正面の山が、塩田平の水分山として信仰(→塩野神社)されてきた先述の独鈷山。

小島池生池側鳥居

池の端の鳥居。参道は右手直角90度に折れ、その先に拝殿がある。
写真正面に一対の石燈籠が見えるが、そこからちょっと石段を降りた先にも、もうひとつ鳥居がある。

小島池生正面鳥居

構造上、どちらが正面なのかよくわからないが、「国史現在池生神社」の標柱があり、登った先が池、という印象面から、後者、下段の鳥居が正面だろうか。

小島池生社境内

拝殿は新品。御柱こそ建っていないが、御柱年ごとの式年造営が守られているのかもしれない。であれば、正統の諏訪系列社であることが認められる。

小島池生社本殿

本殿は三間社流造。シンプルながら、なかなかの風格だ。
三間の区切りが非常にはっきりしているので、相殿神二柱の存在も想定される。

小島池生境内社

摂社末社。
天神、金比羅、蚕影。もう2~3社あったかも知れないが、忘れた。
北信、東信では境内社に限らず天神と金比羅の小祠が非常に多かった印象がある。あと、猿田彦もだ。

小島池生社御神木

御神木。さほどの古木ではなさそうだが、実に立派な枝ぶり。種類はよくわからないがドングリ系の類であろう。

さて……。
なんだか通りいっぺんなレポートになっているわけだが、到着時、早々に真実に気付いてしまったのである。

暗い写真で申し訳ないが、これが池の脇。正面に黒々とした社叢が見える。

小島大池土手

左の土手の上が小島大池になる。つまり、盛り上げた土手(堤防)で囲まれた中が池になっているのだ。天井池……という言葉があるのかどうか知らないが、天井川と同じように、周囲の平地より水面のほうが高い位置にあるのである。溜める水をどうやって流し込むのかは知らないが……灌漑目的に都合のいい構造ではあるのだろう。
今一度、池と反対側の入り口の風景を見てもらおう。

小島池生土手下社頭

この石段は、池を囲む堤防に取り付けられているわけだ。そして社地は……左上、堤防と同じ比高の台地上に築かれている。

というわけで、構造的にいって、この神社は堤防の完成以降に祀られたということが明らかなのである。
すなわち、創建は元和4年以降。

無論、もともとあった神社を小島大池築造時、堤防上に移転したという可能性も残されている。が、近在の郷村にとってまさに命脈であるところの溜池、その守り神として「池生」の名を持つ神を勧請した、そう考えるほうがより自然であろう。
よって、この神社に関しては、「国史現在社」との主張は残念ながら却下である。と同時に、池生神の由緒や出自、本質を探るための参考物件からは除外せざるを得ない。

とはいえ、溜池の守り神に池生神という「いかにも」な組み合わせが、この溜池集中地帯にあって定着するでも流行るでもなく、ほぼこの場所でのみ、特異例としてしか認められないのは逆に不自然な感じもする。いずこかの池生神社の氏子が移住してきたとか、たまたまそのころ諏訪関係の神官が近所にいたとか訪れたとか、特殊な事情があったのだろう。池生神というのは、分析と理解にそうした配慮が必要な程度にはレアかつマイナーな神なのである。

由緒書がないので、正式な祭神についてはわからない。追って、地区の郷土史でも当たってみたい。しかし、社殿を新築するほどの熱意があるのだから、由緒書のひとつも用意してほしいものである。

なんだか冷たくあしらってしまった感じだが、本来、江戸最初期創建の神社ともなれば、十分に古社として尊重されるに足る……ということは付記しておきたい。
プロフィール

LooseFrog

Author:LooseFrog
基本的に怠惰で、社会人として問題の多い中年男です。
でも、興味の対象には嬉々として食いつきます。

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もちろん、助言や感想も歓迎いたします。

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