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天災と日本人

blogは滞っていたわけだが、なにしろ状況が状況である。
まずは被災者の方々に、心からのお見舞いを申し上げたい。

想像を絶する大自然のエネルギーには、ただただ唖然とするばかりである。
そして信仰研究を志す者としては、日本ならではのアニミスム的立場から、現在の状況、そして現代の日本というものをこう捉えている、という話をして、再開と新たな展開への口火としたい。

石原慎太郎の「天罰発言」が物議をかもし、結局は撤回と謝罪に至った。
個人的にこの人はとんでもない間抜け野郎だと思っているが、かといって馬鹿だとは思っていない。むしろ頭のいい人だろう(偏向は強いにしても)。今回の発言にしても、その内容は「あくまでも文化論として」なかなか鋭いことを言っていると思う。問題は、状況と自分の立場、被災者への配慮を欠いたことで、時と場合を選んでそういう発言をしろ、ということである。早い話が「超弩級のky」なのだ。
しかし、人間関係に臆病で、ネガティブ人間関係ワードを量産し続けている現代東京人たちがこの「ky大王」を支持するのだから、世の中よくわからない。普段、言いたいことも満足に言えない鬱屈を痛快に晴らしてくれる代理者としての人気なのだろうか。だとしたら、なんともいじましい話だが……。

当blogの読者であれば説明するまでもないとは思うのだが、公開文としての責任上、まずは「文化論としての」石原発言の真意(と思われるもの)についての、私なりの解釈を示しておきたい。

「津波は我欲を洗い流す天罰だ」。

我欲とはすなわち、現代日本の社会構造と、それを疑うことなく受け入れている個人個人の姿勢を指す。すなわち、経済最優先のシステムのことである。
たとえば、自動車(特に自家用車文化)という存在が、いかに社会にとって、また文化にとってのマイナス要因であるか、という話をしたとする(都会から田舎に帰り、まして古跡巡りなんぞをしていると、つくづく痛感する)。現代日本人の大多数は、この話に耳を貸さない。苦笑してソッポを向くだけである。
なぜなら、自動車産業/流通/ほかは、日本経済の根幹を担っているからだ。
それはそれでもっともなのだが、言い換えれば、現代日本社会における「経済」は、環境、文化、(ごく一部だが日々確実に失われていく)人命に優先する、という価値観が無意識に受け入れられているのである。

もうひとつ例を出そう。
震災後、円相場は乱高下した。ある意図をもって売ったり買ったりする個人が多数いるからこそ、起きる現象である。その「ある意図」とは、「儲けたい」か「損したくない」のいずれか、すなわち……我欲である(実際には企業やグループの責任を負っていたりという事情はあるのだろうが)。
さて、日本の危急に対し、各国が積極的支援をしてくれている。本当にありがたいことだ。しかし、ここで火事場泥棒のようなこと(極端にいえば武力で攻め入るとか)をする国があれば、国際社会の集中砲火を浴びることになるだろう。
国内では支援と寄付の動きが活発化しており、反対に義援金をくすねようとしたヤンキー娘のごとき小者が、必要以上の批判に曝される。
ここでよく考えてほしい。日本が危機的状況にあるとき、誰かが己の損益のために円を売り買いしているのである。その結果、日本はより苦境に陥る。だが……この行動を「道義に反する」と指摘する組織、人間、メディアはどこにもいない。
すなわち、経済は道義に優先されるのが当然なのである。
そのことに、誰も疑問は抱いていない。

断っておくが、今のところ、それが良いとか悪いとかいう話をしているのではない。
今の社会はそういう社会なのだ、というだけの話である。

こうした価値観に対する個々人の意識の拠り所となるのが、「個人の幸せを自分で守る権利」である。だが、そこでいう「幸せ」とは、住環境、食生活などを含む経済的な豊かさのことである。理想論めくが、人間的精神的な幸せは、どんな環境でも獲得し得るし、歴史上多くの人がそれを成し遂げてきたはずだ。すなわち、これは「我欲の肯定の上に成り立った経済システム」なのである。今回の買占め騒動を「当然のリスク管理だ!」などと開き直る態度が象徴的であろう。そこでいうリスクは命の危険などというレベルでは到底なく、「生活水準を下げるリスク」程度のことでしかない。
ま、放射能絡みの買占め問題はまた違った意味を持ってくるが、原発の後始末問題の根幹にあるのは同じ話である。経済的損失とその責任、首都に与えるダメージを考え、初期に廃炉をためらったところが最大の岐路だったのである。すなわち、リスクに経済が優先されたという「今の世ではあたりまえの話」であって、本当のところ、「この社会」を享受していた我々に東電を責める権利などないのだ(そりゃオレだって感情として怒りは感じてるけどね)。

ま、本来こんな話は、「市場原理」とか「自由経済」てな言葉を出せば事足りてしまうのだが、ともあれ、こうしたシステムは、実のところ限界を見せ始めている。バブル崩壊もそうだし、その後いっこうに景気が回復しないのももちろんそう、リーマン・ショックなど、直近のシグナルである。
日本の高度成長とバブルは、万事における効率化、マス・プロダクツ化と、国際的な経済格差(海外の安価な労働力とか)に支えられてきたことはいうまでもない。だが今は、アジア諸国が経済的に成長し、中国など自国内に搾取対象を確保してしまった(エゲツないことをすると思うが、我々にそれを責める権利があるとも思えない)。そして流通と商業のマス・プロダクツ化が極限まで押し進められた今、地方商店街の大方がゴーストタウンと化している。
震災などなくても、現行の経済システムは手づまりになりつつあるのである。
少なくとも日米を基幹とする経済システムは、莫大な投資をエネルギー源とする、経済成長を前提にした拡大経済だ。負け組を前提にして伸びていくのは自由経済の常識だが、もはや国外に負け組を求めることは難しく、ゴーストタウン商店街のごとく、国内にも明確に一定数を占めるごく一般的な「層」として負け組が定着し始めているのである。日本でも、スラムの出現まであと一歩、というところまで来ていることは間違いない。

ものすごく単純化してしまうと、この経済システムは、本質的にネズミ講となんら変わらない。分け前をもらえずに泣き寝入りする末端参加者がいなくなったら、もう後が続かないのだ。

病状は確実に悪化に向かっている。
おそらく、わかっている人はいくらでもいる。
拡大経済はやめにしよう!
もう無理だ!
でも、誰も言えない。
誰だって生活水準が下がるのがイヤだから。
また、自分の力で現実に変えられるとは思えないから。

そして、今回のような巨大なカタストロフは、この経済システムの限界を、ほころびを、リアルに突きつけてくる。
今までのやり方のままで復興は叶うのか?
いや! まだ十分なんとかなるだろう。
でも……もし、東京から大挙して人が逃げ出すような事態に至ったら……。
これはもう、絶対に無理だ。
そして、そんな事態が、決して蓋然性の低くない現実的な問題として突きつけられている。
見て見ぬをフリをしてきた、気付かぬフリをしてきた現実が、目の前に立ち現れてくる。

……というような意味で、私は石原発言を解釈している。
ま、そこまで考えが至っているかどうか知らないが、感覚的にはそういうことだろう。

ただ、石原発言の内容で非常に気に入らない点がひとつある。
(内容ではなく発言したという事実そのものは、もちろん最初から気に入らない)
「天罰」というタームである。
ま、日本の伝統の中でも決して新しい言葉ではないのだが、しかし日本古来の信仰感にはそぐわない。さすが、右だ右だいわれるだけあって、絶対的善悪の規律に縛られた一神教の価値観を取り入れた、あの国家神道のニュアンスを伴った表現といえるだろう。

日本の旧き神は、人に罰など与えない。
そんな小さなことに関わりはしないのだ。
(人と他の動物を差別する一神教的価値観では、それは「小さなこと」ではない)
彼らはただ、その巨大なエネルギーの発露を見せるのみ。
それが「たまたま」人にとって助けとなれば和魂、試練となるなら荒魂。
雷が人に落ちれば即死するが、雷が降らせる雨は、農業にとって重要な恵みである。
神とは豊穣なる自然エネルギーそのものなのであって、こざかしい人間の恣意性になど、いっさい関知しないのだ。
だから……畏れ、敬い、感謝するほかに、人間に出来ることはない。
ただ、和魂の発露を「願い」「祈る」ばかりである。
それが、「神=大自然」である旧き日本の神々の本質というものであろう。

面白い話がある。
ヤマト王権が東征にやっきになっていたころ、鳥海山は幾度も噴火を繰り返した。
これは東征軍にとっても脅威だったはずなのだが、この鳥海山の神、噴火を起こすたびに階位を授けられ、どんどん神階が上がっていくのである。
暴れれば暴れるほど偉くなるのだ。
当時の人にとって、自然に対する畏れが、イコール敬意であったということがよくわかるエピソードであろう。

まあ……こうした信仰と仏教とが習合した日本固有仏教においては、「罰を避け、恩恵に与るために日々の行動を改める」という思想もあり、それはそれでとても尊いことだが、「神の意志」とやらがあるにせよないにせよ、そんなものは、もとより一人の人間にどうにかできるようなものではないのだ。

さて。
科学を知る我々は、もう素朴なアニミスムの世界に帰ることはできない。
そのことを、我々は故郷を失った悲しみのように痛感すべきだ。
しかし、自然を敬い、共存していくことなら、もしかしたらまだできるかもしれない。
現行経済システムの範疇内でおこなわれる「エコロジー」など、論外の外。インフラをひとつずつ放棄していくくらいの覚悟がなければ、次の時代は見えてこないのではないか。
たとえば……本当に思いつきレベルのたとえばの話だが、ガスを放棄する代わりに、里山を育て、炭を作る。
自家用車を減らした分、駐車場を畑にしていく。
大量流通大量消費を整理し、いわゆる「地産地消」を当たり前のことに戻していく。

そこまでのことを考えなければならない時代が、すぐそこまで来ていると思う。

宅地造成も、もうやめよう。
国土中の宅地率が文明度の指標になるなど、本末転倒もはなはだしい。
考えてもみてほしい。
少子高齢化社会が進んでいるのである。核家族化への流れも、もうピークを超えただろう。
それなのにどうして、今なお、新たな宅地が造成され、次々に高層マンションが建つのだろうか?
地方の古い町では空き家が増え続けているというのに……。

ミシャグジ呼称のバリエーションのひとつに、「御佐久地神」がある。
これは開拓神であり、「佐久」は「開」、すなわち開拓を意味するのだそうだ。
skの言葉……境、坂、柵、作……この場合のskの意味するところはなんだろう?
そう考えていて、思い当たったことがある。

もともと、土地は人のものではない。それどころか自然そのものであり、であるならば、旧き観念においてそれは神の地である。電気もなく、武器も素朴なものしかなかった時代、そこは危険に満ち満ちた場所でもあった。里山の範疇は限られており、そこから先は神の住まいなのだ。素朴なアニミスム的世界観において、人が生活する場所を切り開くことは、神の土地を「裂き」、分けていただくことを意味する。それは、人の世界と神の世界との「境」を引き直すことでもある。それが「御佐久地神」のskなのではないか。そしてそれは、「尺神」にも通じるだろう。諏訪信仰において、諏訪神社の施政範囲を確認する「境締め」の神事で降ろされたのも、また、ミシャグジなのである。
そしてまた、新田の村に必ず鎮守の宮を作ってきたのも、いまだに「地鎮祭」をおこなうのも、こうした感覚の名残であろう。

だから我々は……敬意と、感謝と、畏れをもって、土地を開かねばならない。その土地が人にとって相応しいのか、慎重に見極めなければならない。急斜面を無理矢理造成したり、洪水野に街を開いたりすれば、荒魂が発露した際、きっと我々は耐えられない。
護岸工事、砂防工事、堤防……どこまでやっても、そのすべてに限界があるということを、我々は何万回、何十万回も学んできたはずだ。
そう、バベルの塔は、永遠に天には届かないのだ。
人間本位な一神教ですら、そんなことは知っていたのに……。

諏訪某所の古村は、数年前、土石流災害に見舞われた。多くの家が破壊され、幾人かの命が失われた。
事後、現地の人々が囁いていた。
「あのお宮より上に人が住んじゃいけないって、昔から言ってきたんだよ。そんなとこ造成して何軒も家が建っちゃったから……」
土石流は宮の上の沢から押し寄せ、社殿もろとも集落を呑み込んだ。

それを「天罰」というつもりは毛頭ない。
だが、「自然への敬意が足りなかった」という表現は、してもいいのではないかと思う。

自然から分けていただくことのできる土地に、ありがたく、つつましく暮らす。
別に「宗教」ということではなく、我々は、素朴な自然信仰の心を取り戻さなければならないのではないだろうか。
「じゃあ今すぐお前がやれ!」といわれてできない自分もまた、衆愚の一員である。
けれど、もし、そんなモデル村を作るなんてプロジェクトがあったら、志願してもいいかもしれない……なんてことは思う。
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新年のあいさつとか

遅ればせながら……

あけましておめでとうございます。
なんとか松の内には一度更新を、と思っていたのですが、もはや小正月寸前です。

諏訪は冷えてます。
諏訪湖も全面結氷寸前までいったようです。ま、御神渡りにはまだまだですけどね。
御神渡りができるには、この状態から一度まとまった量の雪が降って、再度冷え込みが続かないといけません。
建御名方と八坂刀売はもちろんですが、諏訪信仰周辺をうろつく下照比売や高照比売、興波岐さんなんかも御神渡りができないと面目が立たないので、なんとか今年はきっちりと派手な割れ目を御開帳してもらいたいものです(げっひーん!)。

余談ついでに妄想レベルの自説をひとつ披露しておきます。お年賀代わりに。
……ならないね、お年賀には。そんなものは。

八坂刀売の奥様は建御名方の旦那様と喧嘩して下社へと移った。以降、冬になると旦那様が奥様のもとに通うのが御神渡りだというわけなのですが、なにもそんな厳寒期にデートしなくてもねえ。という点から察せられるのは、御神渡り神事も冬至祭の一種というか、生命力再生の祈りが込められた行事なのではないかと。御室神事研究家のTM師なんかは、御室に入るソソウ神が渡った徴だと考えてらっしゃるようです。
それはそれとしてもうひとつ思うのは、古族(最近、昭和三十年代くらいまでの論考に見られ現地人を意味する「土人」という言葉が気に入ってまして、本当は古族なんてスカシた表現でなくズバリ「土人」といいたいところなんですが)の祭祀である上社に対し、下社はヤマト勢力の手先が祀ったというのが定説なわけですが、その流れからするとヘンな伝承だぞと。
そこで考えたのは、上社から離反者が出て下社を祀ったのではないか(いち早く金刺に転んだと解釈するのもアリ)ということです。
それが武居祝の祖先なんじゃねえかなあ、とか妄想してるんですが。

この期に及んでという感じでひとつ宣言しておきますが、当ブログというか私の最終着地目標地点のひとつが、「武居祝」の正体に迫ることです。なんか……諏訪信仰とその周辺のことを知れば知るほど遠ざかるいっぽうですけどね。いや、そうでもないか。善光寺まわりからの搦め手はそれなりに進んでるかもしれません。ただ、どこからどうブログに記していけばいいのか、その点、途方に暮れています。

途方に暮れていても仕方がないので話を変えます。

初詣はしっかり行ってきました。下社秋宮と、上社本宮に。
マニアだったら逆だろう、前宮と春宮だろう、というツッコミもわからなくはないのですが、単純に家が秋宮の氏子なんでね。前宮は神官家の墓所なんだし(大胆説をさらっと)。あと春宮は、この時期お留守ってことになってるしね。
で、気付いたんですが(本当は去年のうちに気付いてましたが)、秋宮境内摂社の由緒書看板が新調されてましたよ。上社と違って下社の境内摂社には大したものがないんですが(国学の尻馬に乗って仇敵の鹿島まで祀っているていたらく)、若宮だけはもちろん別です。
そこに、はっきりとした字で改めて御子神十三柱が記されていたので、確認しておくことにします。
というのは、表記とか読み、さらには列せられる神にまでバリエーションが見られるので、現在の諏訪大社オフィシャル見解として、これを当ブログでも標準としておこうというわけです。

御子神公式リスト

基本的にはこれ、現代諏訪大社のオフィシャル文献である『諏訪大社復興記』の記述に基づいているものと思われます。二十二柱や孫神なんかも細かく記載されており、その中の十三柱に○印がつけてある形です。
……と、まあ、このあたりからライトなご挨拶の範疇では収まらなくなってますので……続きは項を改めることにします。
「御子神十三柱の再定義」みたいな感じで。
これは直近でやります。たぶん。

で、まあ、幾分ライトな感じを意識しつつ話題を選びますが、たまたま家にあった(昔、父が買ったのであろう)『信州の神事』という本を再発見しまして、これがとてつもなく役に立っています。
古い本じゃありません。平成2年刊です。
長野県神社庁監修で、長野県神社庁に属するすべての神社が祭神とともにリスト化されているのですよ!

もう大興奮!

誰もわかってくれないだろうけど……。

いや、ネット上にも長野県神社庁のサイトはあるんですが、このリストがねえ。祭神が載っていないというお粗末極まりないもので。たまに(本当にたまーに)やる気があってパソコンの使える神主さんがいると、その神社だけ、解説とか興味深い記述もあってある程度助けにはなってるんですが、それにしても……卑しくも神社を名乗る以上、祭神ってのは一番大事にすべきものじゃないんですかい? それとも、なにかい? ……って、やめておきましょう。まあいいです。この本がありますから。

この本にしても主祭神一柱しか書いてないのがほとんどで、資料として十分とは到底いい難いのですが、それでもなお、「まず祭神に注目する」という最近の私の手法が効力を持ち得るということを再認識させてはくれました。

以前にも書いた通り、神社の祭神というものは、文化レベル的には残念としかいいようのない明治政府によって、さんざんに引っ掻き回され、蹂躙されています。
しかし、それでもなお、残るものは残るんですね。いや、そこで個々の神社が強く主張した痕跡があれば、なおのこと注目に値します。むしろ目立つから。

そう、ズラズラと並ぶリストの大半は、超メジャーな神で占められています。長野県ですから圧倒的に多いのはもちろん建御名方ですが、出雲系の近親者やご先祖も同様に多いです(まあスサノオはたぶん牛頭天王由来が多いんだろうけど)。
それ以外だと、八幡系とか、稲荷系、山ノ神系もどっさり。猿田彦が多いのは道祖神やミシャグジと習合しているせいですが、國常立もかなり目立ちますね。これは、近世、諏訪神社が御射山の祭神を國常立と定めたせいで、まあ建御名方のバリエーション、もしくは山ノ神のバリエーション程度の意味に受け取っておいて問題ないでしょう。安曇近辺には綿津見一家もぼちぼちいますし、もちろんアマテラスさんとか天神様もいますよ。

そんな中で……ちゃんと見つかるもんですね、特異点が。
御子神十三柱のいずれかを単独で祀る未知の神社。
八坂刀売を単独で祀るいくつかの神社(これには驚きました!)。
建御名方のドッペルゲンガー、御穂須々美を祀る神社も少なからず。
瀬織津比売もけっこう目立ちました。不気味に。ま、水神としてはミズハノメが圧倒的多数ですけど。
あと天白系らしきやつもけっこういましたが、難しいので近寄りません。今のところは。

ともあれ、オレ的追跡リストに相当数の神社が加わったのでした。

で、灯台下暗し。
幼少時からよっく知っている「若宮」がわりと近所にありまして、境内地もなかなか大きく、立地的にも相当な古社であろうとは思っていたのですが、祭神については「どうせ御子神十三柱合祀だろ」と、正直タカをくくっていたのでした。じっさい、そういう記述も見たことあるし。

でも、この本によると、この若宮の祭神は、彦神別単独なんですよね……。

ま、「彦神別命(以下十二柱省略)」という可能性も十分に考えられるので、慎重に対処しなければなりませんが。
神主さんに面会申し込むしかないか……。

というわけで、妻科比売を祀った新発見の神社(HN師ご教示)とかもあることだし、当面の主題である池生シリーズもそれはそれとしてぼちぼち進めつつ、新年からは随時寄り道を差し挟んでいこうかと思っております。

今年もよろしく。

あ、今年は仏像ネタも少しはやりたいなあ……。
でも今夜は、一杯引っ掛けてサッカー見ます。

お日様が生まれ変わる日の雑談

さりげなくどこにでもある呪術

隠居のような生活をしている昨今ですが、たまさかに地元のチェーン居酒屋に行く機会があったのでした。忙しく立ち働いているフロアの若いお姉ちゃんが席の横を通りかかったので、追加注文をしようと「すみませーん!」声をかけました。
すると、
「はいよろこんでぇ……」
と、心底面倒くさそうに、投げやりに、溜息交じりで応えてくれたのでした。

まあ、文字で書いてても伝わりにくい話なんですけどね、なんつーか、すげえインパクトがあったんですよ。別にバイトちゃんの心がけの悪さとかチェーン店はだからダメなんだとか、そういう話をするつもりはまったくありません。
ただもう、面白くて面白くて。
なんだろう、場の空気が揺らぐほどのインパクトを感じましたね。酒入ってるからってのもあるんだろうけど。
いわゆる、その、シニフィエ? シニフィアン? なんだかよく知りませんけど、ズレまくってますよね。だけど、にもかかわらず、彼女自身の実感はしっかりこもっている。単に面倒くさそうに「はい……」とだけ返事するより、遥かにリアルに彼女の実感が伝わってくる。
力強い!
「言霊みたいなもの」が、そこで揺らいでいるわけです。空気が尋常の空気でなくなる。平々凡々なリアリティってやつに、亀裂が生じる。

……大げさですか?
しかしまあ表現が大げさなだけでね。私はそう感じたのです。

といったところで、なぜか当ブログ本来のテーマに寄っていくのですが(笑)、私は、シャーマンの機能、祭祀というものの本質は、「これ」に通じるのではないかと思っています。

場の空気を支配し、その空気を通じて他者の精神に介在する。

「これ」あってこその、信仰の説得力なのです。
信仰対象となる自然現象でも同じことで、森、山、激流、滝、大河、雷、寄せては返す波、強風、夕立、強烈な夕焼け、明るい月夜、火山に地震……その場の空気を圧倒的に支配し、我々の心理状態になんらかの影響を及ぼします。そんな大自然のパワーには遠く及ばないまでも、人間の力によってこの作用を起こす。自然と呼応できればなおよし。
それが、シャーマンによる祭祀の本質だと思うのです。

現代に伝わる表現でもっとも「これ」に近いものはなにか?
まず思い当たるのが、音楽です。
「場の空気を支配し、その空気を通じて他者の精神に介在する」。
まさにそれですね。
いうまでもなく、音楽のルーツは信仰儀式です。「音」が生み出す異化作用で空間をねじ曲げる。そこにいる人間たちに共通した感覚を与える。人々の心に(たとえ幻でも)一体感を与える上で、極めて有効な方法でしょう。
ありとあらゆる音楽はこうした性質で成り立っています。陳腐な歌詞のラブソングで泣けてしまう効果というのは、非現実的な内容の祝詞や祭文に説得力を与える効果とまったく一緒です。
また、音楽が心理に与える影響は、基本的に「エキサイト←→カーム」です。エキサイトには凶暴な衝動という方向と、元気が出る高揚感とがあり、また、カームにもメロウな情感に浸るタイプと、心やすらかな無風状態に持っていこうとするものとがありますが、いずれにしても、こうした二面性は「荒魂←→和魂」という神(または自然)の本質にも通じます。
この機能にもっとも純化しているのが、サイケデリック系の音楽でしょう。往年のサイケデリック・ロックももちろんそうですが、その流れを汲むトランステクノなんてのはひとつの究極です。粉飾を削り落とし、構造主義的に機能に特化してますからね(ま、思想の上では、ってことですが)。いわゆるレイヴパーティーなんてのは、太古の宗教儀式と機能的にはまったく変わりがありません。目的意識が違うというだけです。いうまでもなく、ドラッグカルチャーというのは原始社会の信仰にルーツを持ってますしね。

ちょっとチェーン居酒屋のお姉ちゃんから離れてしまいましたか……。
このお姉ちゃんに近い効果を意図的に利用するものとしては、現代詩の朗読なんかがあります。ただ、このパターンでは、下手な現代詩人よりプロレスラーのマイクパフォーマンスのほうが優秀だったりもして、その頂点に君臨するのがアントニオ猪木でしょう(詩の朗読も含めて)。普通の詩人は、どうしても肉体性に欠ける場合が多いですからねえ。

転じて、その肉体性を最大限自覚的に生かし、かつシャーマンそのものにもっとも近いのが(現代)舞踏のダンサーでしょうね。とはいえ、近代的なシアターの中で、目の肥えた観衆相手に演じる範囲内であれば、それほどまでの効果は持ちえません。やっぱり、舞踏についてなんの予備知識も持たない一般人の前で、かつ、お約束でない場所でおこなわれてこそ、最大限の効果を発揮します。だからこそ状況劇場(今は唐組?)はテントを張るのだし、天井桟敷は町に飛び出し、劇場でやるときには劇場を異化させる工夫を欠かしませんでした。
かつて頭に「暗黒」と付いた類の舞踏は、その名の通りすごい暗黒エネルギーを放射しますから、「舞踏についてなんの予備知識も持たない一般人」は、まず間違いなく最初にドン引きします。
「場の空気を支配する」上で、この「ドン引き」は大事ですよね~。
私も若かりし頃、初めて天井桟敷(結果的に最後の公演でした)を見たときは、しっかりドン引きしました。ドン引きで生じた心の裂け目に特濃コンテンツを流し込まれる強烈体験によって、すっかり「ヤラレた」ものです。

そういうわけなので、千五百年の長きに渡って「お約束」を続けてきた神道祭祀というものが、そのエネルギーをほとんど失ってしまったのも無理からぬことなのでしょう。まあ「能」なんかの形で残っているとはいえるのでしょうけどね。あと、修験や密教の護摩行なんかは、現代人が見慣れていないだけに、まだなかなかのパワーを残しています。
ただ、形式化してしまった祭祀でも、ちょっとした異化作用によって力を取り戻す場合があります。

というわけで、もうひとつの最近の体験談でこの項を締めたいと思うのですが……。

先日の水内~小県弾丸ツアーで参拝した、あれは……そう、善光寺鎮守の湯福神社でした。境内を見て回っていると、ピンク色のジャージを着たおばさんが、不自由な片足を引きずりながら一人で参拝にやってきたのです。
拝殿の前に立ったおばさんは、拍手を打ちました。
パン、パン、パン、パン……。
えっ!? 出雲式? と一瞬思ったのですが、いやいや、それどころじゃない。
パン、パン、パン、パン、パン、パン……。
長々と、おそらくは優に一分間くらい続く拝礼中、彼女は延々と拍手を打ち続けたのでした。

そうした作法がどこかにあるんだかないんだか知りませんが、ま、私は冒頭のお姉ちゃんと同じようにド肝を抜かれたのです。
「音」が生み出す異化作用で空間をねじ曲げる……そのもっともシンプルな原点が、拍手なのでしょうね。

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ええ、さて。
関係ない話ですが……いや、感覚的にはちょっと関係あるのか(笑)。

いつものように、いつものようなテーマで検索をかけていていたら、こんなページにブチ当たりました。

神話時代から続く神主さんのおうちへ行ってきたの

絵文字入りのポップな女の子文体を読み進めていくと……お、おいおいっ!
内容がとんでもなくディープじゃないですか!
オレ的興味ド真ん中の話。知らない情報も多々。
しかも……さりげない説明、さりげない但し書き等々から、尋常ならざる知識量と、深いレベルにおける確かな歴史認識をうかがい知ることができるのです。
し、シニフィエとシニフィアンが……(笑)。

おずおずと質問のメールを出してみると……翌日、「本かよ!」というほど情報量たっぷりの超長文メールが返ってきたのでした。
ま、細かいことや具体的なことは表に出さないスタイルでやってらっしゃる方なのでアレなんですが……文献史学については完全にプロ級ですね。ちょいと覗いただけじゃ全然わかりませんが。
その後、意見や情報の交換等もあり、文献方面が最大の弱点である拙ブログとしては、大変に心強い師匠を得ることができたのでした。
めでたし、めでたし。

というわけで、トップページをリンクに追加しておきます。


■今後これ↓は「かしわで」と読んでください。でも、別に2回ずつ押せって意味じゃないです(笑)。

そろそろ始めます

またまたご無沙汰してしまいました

もうなんていうか……このブログはそういうもんだと思ってください。
ついに開き直ってしまいましたが。
ただ、絶対に投げ出しません!
どんな形であれ、生きている限り、これだけは続けます。

遠慮がちに付け加えるなら……いったん再開すると、しばらくは続きます。

じっさい、現実生活の中ではいっそう深く郷土史と関わっていたのでした。
フィールドワーク数知れず。
祭への参加も。
そして尊敬すべき先生方先輩方との交流。
特に大きな個人的事件は、当ブログ初回でその名を挙げさせていただいた某大先生と知遇を得たばかりか、先生の研究室の諏訪フィールドワークで、先生じきじきに案内役に御指名いただき、せいいっぱい努めさせていただいたことです。

人に説明するというのは、自分の考えも整理できて実にいいですね。
と同時に、趣味レベルに留まらず、ますます気合入れて本気で研究に邁進しようという元気をいただきました。

資料も……まあ読んでます。
勉強が苦手な体質なので、自分自身、満足いくレベルにはほど遠いんですけどね。

今後の予定ですが、予告してそのままになってる塩尻は洗馬の槻井泉神社も含め、ドーンと踏査した複数の池生神社、槻井泉神社のレポートをアップしていき、それを踏まえた上で池生神編を完結させたいと思います。
もちろん、知れば知るほどますます謎が深まるのが常でして、経過報告であることに違いはないのですが。

そんで最後に、ここしばらくの沈黙期間の成果のひとつとして、ゲットしたての自慢のグッズを紹介させていただこうかと思います。

御左口御柱01

御左口御柱02


御柱、しっかり曳いてきました!
地元の人には説明するまでもないのですが、この「輪切り」は、前回の御柱なわけですね。

ええと、あの、その……御当主手ずから、直接渡していただいて……それはもう感激いたしましたよ。

八朔過ぎての余談

だらだらした話

少し開きました。

まあ仕事も少しはしてましたが、地元の長持ちの練習に出たり、下社御舟祭で地元の長持ちに参加したり、それなりに地元民らしく過ごしておりました。
長持ちもあれ、やってみて初めてわかることがたくさんあったんで、そのうちあれこれ書いてみたいものです。でもタイミングを考えて、次の御柱祭の前の年くらいがいいかなあ(5年後かよ)。

それにしても、いやあ、「妻科比売命編」には疲れました。
なので、今日のところは経過報告や身辺雑記でお茶を濁しておこうと思います。
御子神十三柱研究の経過報告なんて誰が読むんだという気もしますが、この広いネット世界、ひとりくらいは市井の諏訪信仰マニアさんが見つけてくれているのではないかと、淡い期待を抱きつつだらだらと書きます。

次回、予定では「池生神編」の予定なんですが……さて、どうするか。
実のところ、最終回予定の「意岐萩命編」を除けば、もうすでに書いてあるのです(意岐萩命編は、どう考えても最長になりそうな予感)。ただ、書いてあるといっても、それは覚書たる叩き台のそのまた前の叩き台なのであって、たとえば「妻科比売命編」だって、とっくに書いてはあったのです。それをいざアップするぞ、という段階になって再検証を始める。そしたらですね、当初の叩き台の軽く5倍か6倍か、という量になってしまったのでした。
あと、妻科神社の現地レポを入れられなかったのははなはだ不本意ですしね。今後、できるだけそのへん充実させていきたいなー、なんて思うと、さらにまた腰が重く……。

なにしろ「池生神編」は、現時点で書いてある文章だけで、すでに、公開した「妻科比売命編」に迫る量なんですよ。やあ、ホントにどうしたものかと。

そんなこんなしてるうちに、すでに「建御名方彦神別命編」と「出早雄命編」の加筆訂正をしたくなってきています。まあブログならではの表現として、過去の未熟さをも含めた思考過程を晒すのも一興なので、ひと通り終わってから新に別項を設けて補遺編を書くのが筋ってものでしょうか。

あとは……そうですね、「八杵命」が難しいです。ぼちぼちフィールドワークなんか進めてますが、最低もう一箇所は行かないと。下手すると八ヶ岳にも登らなきゃならなくなります。まあそこまではしませんが。
「片倉辺命」も情報が少なくて困ります。拠点が過疎ってる神様は、やっぱり生き永らえるのが難しいようで。この神様を主神として祀っている神社は、おそらくもうひとつも存在してないんじゃないかと思います。
いっぽう「須波若彦」は、書いてて自分で非常に盛り上がってます。かなーり面白い仮説が出てくると思うんで、お楽しみに。
「蓼科神」がねー、相当調べたんだけど、まだ煮え切らない。いっそ、某神社の神主さんに話を聞きにいこうかと思案しているところです。あと、やっぱ八ヶ岳にも登らなきゃならんかなー。まあそこまでしませんが。

ところで、あのー、大相撲問題とか、どうなんでしょう?
唐突なうえ、タイミング外しまくりですみません。
でもなんか、靖国問題にも通じるいやらしさを世間様とマスコミから感じてしまって、妙に落ち着かないんですよね。大相撲を「国技」と呼ぶのと、靖国神社を「日本人の心だ」と言い切るのは、同じ出所の欺瞞なんじゃないかと。

しかし、こういうこと書くと右寄りの人が怒るってのがどうにも納得いかなくてね。私は日本の古信仰や、古信仰以降に生じた日本固有の千年来の信仰の形を心から愛しています。信仰しているといえるのかどうかは別として(自称アニミスト)。なのにね、なーんで近代にたかだか百年しか続かなかった、日本史上異例中の異例である極めて畸形的な信仰形態を悪くいうだけで左扱いされなきゃならんのかと。まったく納得がいきませんな。私のほうがずっと日本好きだし日本の神様のこと勉強してると思うんですけど。
あ、ちなみに「国学」のことは相当に嫌いです(笑)。そこんとこは、ちょっと私情入ってること否定できませんね。ごめんなさい。

話戻すと、興行専門職と(所謂)ヤクザさんとの結びつきってものをね、見て見ぬフリをするのはまあいいですよ。でも、堂々と歴史を無視して正論ヅラで攻撃するってのもどうなんでしょう。無知かつ無教養な外野どもの良識ほど怖いものはないです。そういうお前らの薄っぺらい精神性と良識こそが軍国主義のダイナモだったんだ、ってことを自覚してほしいものです。当事者のおエライさんたちなんかは確信犯でしょうからまた別の話ですが。

そういえば、私が昔在籍していたとある会社では、毎年プロ野球トトカルチョやってました。私も喜んで参加してました。もちろん、ささやかなものです。ひとりが千円とか二千円とか出して、全部でまあン万円くらいになって、それを勝者が分けてもっていくと。
これ、犯罪なんですよねえ。
でもまあ、警察もそんなものは本気で検挙しませんよ。だって、誰にも迷惑かけてないし。チクられれば仕方なく重い腰を上げることもあるでしょうが、進んで捜査はしませんね。ここを許せばあそこも許さなきゃならない、だから全部ダメ的な、法律上の建前です。そういう法律上の不備とまではいわないまでも、理不尽というか、限界というか、そこは、われわれ庶民が自分の脳みそで考えてほどほどの線引きをしなきゃいけない。それだけのことでしょ。
たとえば教師が生徒をぶん殴るのだって、未成年が酒をたしなむのだって、そういうほどほどの線引きで成り立っているべきだった。それが本来「大人」ってもんだったはずでしょう。自分自身の脳みそで考えない人こそが、「なんでも取り締まれ~!」「取り締まらないから被害にあったぞどうしてくれる~!」的な発想に行ってしまうんですね。海外旅行で日本人が狙われやすいとかってのも、そういう話なんじゃないかと。

ちなみに私は阪神ファンです。いいぞ、平野!

しかしね、NHKの大相撲中継取りやめだけは、本当に納得いかない。
あれって、熱心な相撲ファンの老人たちを嘆かせるほかになにか効果あったんでしょうか。
うちの老いた両親の規則正しい生活も乱されました。
いつだって相撲をとても楽しみにしている、しっかりボケた齢九十の父は、日々戸惑っていました。もはや生中継と録画放映の違いもよくわかりませんからね。「今日は何時に相撲あるんだ?」毎日ききます。
田舎の平和な家庭の夕餉はきっちり午後六時から。本来なら、相撲が終わってちょうどご飯の時間です。ところが、いつもの夕食が始まってまもなく、相撲ダイジェストが始まる。目の悪い父は、食卓を離れテレビに寄って見入ります。老いた母は溜息をつきます。

今回のNHKの生中継自粛は、多くはご老人である相撲を愛する人々を苦しめる以外のことはなにもしてないんですよ。
だって、相撲協会が放映権料を返上すればいいだけの話じゃないんですか? なんで、なんの罪もない相撲ファンにまで自粛を強いるのでしょう? いわゆる連帯責任ですか?
ま、だからといって、それでNHKが丸儲けじゃもちろん困ります。だったら相当分の金額を、NHKがどっかそっかに寄付すればいいだけのことじゃないですか。……まーね、警察のヤクザ対策に寄付とかというとそれはそれでとっても微妙なので、なんか関係ないところでいいですよ。

こういう建前はつまらないなー。
なんかねえ、歴史の謎を紐解くのも、歴代のエライ人たちがオロオロしながら隠そうとして、建前で覆ってしまった部分をいまさらのように掘り返して喜んでいる……という露悪的な心理が、自分の中に少しはあるのかな~、なんてことを思いました。

や、もちろん、それだけじゃありませんが!

金刺の城を取り戻せ!(誰から?)

桜ヶ城址(下社大祝金刺氏・中世居城跡)

今回はお気楽に、諏訪大社の周辺をお散歩したときの話です。
実をいうと、方針に悩んでいただけなんで、ネタはけっこう書き溜めてあるんです。今度はそう簡単に途切れません。

春先くらいのことだったと思います。ま、お散歩コースには事欠かない環境でして、フラリと秋宮裏の「桜ヶ城址」まで登ってみました。

桜ヶ城というのは、諏訪神社下社の大祝を代々務めてきた金刺氏が中世に陣取っていたとされる山城です。中世の諏訪氏や金刺氏は、「神主さんだけど武将」という非常に忙しい立場でした。この地における神主さんってのはイコール施政者ですから、そりゃもう忙しい。信仰も政治も戦争も、地域内における全権を握っていたってことです。
んで、室町時代にまで至ると、この両者は血で血を洗うエゲツない闘争に明け暮れていたのです。
神主さんなのにね。

まあ……城とか戦国時代とか私の専門じゃないんですが、ていうむしろ個人的に日本史の中で一番興味の薄いジャンルなんですが、まあ諏訪さんと金刺さん絡みのことなら仕方がないです。少しは興味持ちます。
つーか歴史的興味以前に、秋宮から15分も歩けば(急峻な道のりではありますが)素晴らしい眺望が楽しめる素敵な場所なのでね。

私が子供のころには知る人ぞ知る忘れ去られたスポットでした。
その後、「鎌倉街道ロマンの道」という、とってつけたような遊歩道が町によって整備されました。
でも、観光客はおろか地元民すら訪れることはまれで、やっぱり知る人ぞ知る忘れ去られたスポットのままでした。
ときどき下のほうで犬の散歩を見かけたくらいかなあ。

ところが最近になって、意欲的に整備が進められてきたのです。産業が滅びつつあるこの地にあって、残されたのは観光くらいという自覚が生まれてきたということもあるのでしょう。しかし、自治体主導ではなく、主に近在の方々のボランティアによって事が成されているのは素晴らしいことといえましょう。自然にせよ文物にせよ、地元の人が本気で愛し誇っていなければ絶対に観光なんて成功しませんからね。特に景気復活なんてありえないこのご時勢下ではね。

方向性としては公園化ってことで……まあそれも善し悪しなんですが、道が整備され、花なんか植えられて、眺望も開け、ちょっとした展望台が設けられ、より快適で清々しい場所に生まれ変わりつつあることは確かです。
ある程度林を切り開き、整備されてみて初めてわかったんですが、町のどこから見上げても実によく目立つんですね。やっぱり、お城ってのはそういうところに築かないと意味がない。これには改めて感心させられました。

joyama01.jpg
秋宮門前から桜ヶ城址遠望

おわかりでしょうか。真ん中の小高い丘がそれです。てっぺんじゃなくて、その下の灰色っぽい段々状のあたり。

ちょっと近付いて、秋宮社叢裏あたりから見上げてみます。
……あ、万が一気付いてない人がいると悲しいので念のため書き添えておきますが、サムネールをクリックすると多少大きな画像見られますからね。

joyama02.jpg
「小湯の上」から桜ヶ城址遠望

こんな感じ。
観光用のノボリ旗が立っているのがわかるでしょうか? それはまあ無理かもしれませんが、展望台は確認できるのではないかと思います。
これなら、うん、なんだかちょっと登ってみたいような雰囲気を醸し出してますよね?
ノボリ旗には、「風林火山」とか「由布姫の里」とか書いてあります。NHK大河ドラマ(『風林火山』は一昨年でしたかね?)にあやかって客を呼ぼうという例のやつ。

でも!
あいかわらず観光客なんかぜんぜん見かけません!

どんなにがんばったって、クルマで行けない急坂の上なんて場所では観光は成立しないんです。まあそんな時代は終わりを告げてほしいものですが。

ともあれ。
先日、天気のいい夕方にフラリと登ってみました……という最初の話に戻ります。

そしたら、珍しく人がいましたね。
三十絡みの青年です。
小さな犬を連れてるんで……近所の人が犬の散歩でもしてるんでしょう。
でも、なぜか、ネイビーブレザーにグレーのスラックスでビシッと決めています。

よく、わからない……。

でも、もっとよくわからないのは、彼が激しく暴れていたことです。

ノボリ旗に飛びついて、激しく破く、毟り取る。
膝で竿をへし折って、残骸を崖下に放り投げる。
いきなりそういうシーンに直面したわけです。

joyama05.jpg

joyama04.jpg
「彼の仕事」の痕跡

そらまあ、引きますよ。

無論、たしなめたい気持ちもありましたが、なにしろ相手はアブナイ人。なんの遺恨もないのに血を血で洗うようなことにはなりたくありません。かといって、わざわざ踵を返して引き返すのもなんだか癪に障ります。

とりあえず、黙ってじっと観察してみることにしました。
人が見ていることに気付いたら、彼も止めてくれるんじゃないかと。
(なにしろ、滅多に人に出会わない場所なんで)

そしたら、気付きましたね、彼。
一瞬気にするようなそぶりを見せて遠ざかっていったんですが……でも、その先で、また旗を破き始めたのです。ある種、確信犯的に。
私はちょっと思案して、ゆっくり近づくと、なるべく刺激しないよう工夫して声をかけました。

「どうかしましたか?」

すると彼は、

「こんな! こんなね、ぜんっぜん違うんですよ! ここはね、金刺盛澄って人の城で、武田信玄とか全然関係ないんです!」

……とても怒ってます。

オレに怒られても困るんだけど……まあ……盛澄ってのは鎌倉時代の下社最盛期の有名人でね、その人一代の城ってわけじゃないし……むしろ戦国時代に入って、諏訪氏に滅ぼされたときの最後の金刺宗家大祝、昌春が逃げ出した城という印象のほうが強いんですけど……まあいいや。

このとき私は「裏」から登っていったんで、それで彼も虚を衝かれたのかもしれません。

「そんなほうから登ってきたってなんにもわかんないんですよ! こっち側から登ってくればいろいろわかりますから。勉強してください!」

そっすか。
いや、ま……オレのほうが全然詳しいと思うけどね(笑)。

しかし、そうかあ。

「そういう怒りなら、まあ、わからんでもないかなあ……」

半笑いでそういってやると、「とにかく! こんなとこに風林火山なんて……」彼はプンプンしながら山を降りていきました。
犬を連れて。

うーん。

まあ、ね。
「そんなに金刺好きか!」って感じで。
奈良時代~鎌倉時代初期の金刺氏は知略に長けた名族で尊敬に値しますが、戦国武将としての金刺氏は……ちょっとねえ、姑息で情けないというか。
まあそれは関係ないです。
彼のいってることは基本的に正しくて、金刺氏を滅ぼしたのは諏訪氏、その諏訪氏宗家を滅ぼしたのが武田氏なんで、確かに直接的には関係ないんですよ。この城址に「風林火山」のノボリ旗を掲げるってのは、だから、一種冒涜的な感じを受けなくもない。確かに。

もちろん、彼のしたことは犯罪です。大した犯罪ではないですが、やっぱり犯罪です。
でもね。
愛ゆえに怒った彼の筋というものは認めてあげたいですね。
なんの勉強もせず、ルーチン仕事でなんも考えずにノボリ旗を立てたお役人さんたちには、彼を罰する資格なんてありません。
むしろ土下座して泣きながら謝ってもらいたい。

ほんと……集客と金儲けしか考えてない観光産業は、早晩滅びますよ。
行政がそのへんを理解する日は、果たしてやってくるのでしょうか。

まだ街中に立ってますよ、ヘンなノボリ。

「みのもんたの朝ズバッ!で紹介! 万治の石仏」

マジでね、彼でなくても破きたくなりますから。

joyama03.jpg
桜ヶ城址から秋宮社叢を見下ろす
諏訪湖対岸、小高いところが守屋山、右手前の小さな森は青塚古墳。

【余談】雨の祭のその後

少々忙しく、ブログの更新が滞っております。
が、もうちょっとで再開予定。
すんません。

ちょっと珍しい光景を見たので、それをアップしてお茶を濁しておきます。

noborihosi

これは諏訪大社下社秋宮にある「参集殿」。
の、裏側です。

去る1日に執り行われた下社最大の祭事「御舟祭」は、あいにくの雨にたたられました。
これもかなり古代臭のする怪しい祭なのですが、ま、今日のところは扱いません。

明けて翌々日、東海地方等で梅雨が明け、久々の好天に恵まれました。
祭当日、御舟に先立って神格(「ご神体」とは言わないぞ)を春宮から秋宮へとお移しする遷座の行列があったのですが、この写真は、そのとき掲げていてぐっしょりと濡れてしまった幟幡を、ズラリと干しているところなのですね。

どってことないけど、ま、珍風景です。
プロフィール

LooseFrog

Author:LooseFrog
基本的に怠惰で、社会人として問題の多い中年男です。
でも、興味の対象には嬉々として食いつきます。

loosefrog★gmail.com
(@に置き換え願います)

デタラメやカン違いや不適当な素材の使用等ありましたら、ご指摘ください。
もちろん、助言や感想も歓迎いたします。

***

字が小さいとの御指摘をちょくちょくいただきます。
P盲な私がいまさら細かいところいじるとワヤになりそうなので、ブラウザの拡大機能の使用を推奨いたします。

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