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【事後報告】浅草寺本尊、明治の実見

宿題の提出はクラスで一番最後でした

えー、宿題にしてあった「明治の実見」の裏を取る典拠の件です。

以前のレポート(ここから4回連続)を書いている最中に、ネットで見つけた出典情報が2件ありました。
ひとつめは、小沢昭一著「ぼくの浅草案内」に記述あり、というもの。
これはさっそく確認しましたが、伝聞形で情報も不確か。しかも、さらに原典があるとのことで、それは松本清張・樋口清之共著「東京の旅」という本だとか。これは入手できず、またそこまでする気もなく。

もうひとつの情報が期待大でした。わりと最近、産経新聞の文化面企画で、関係者への直接取材が記事になっているとか。
さっそく日付を確認し、記事を入手しました(しかし大新聞の過去記事データベースは会員制で結構いい金取るので……いや、持つべきものはマスコミ系大企業社員の友人です)。

以下は、2005年8月21日付け日本経済新聞 連載「美の美」秘仏特集 より。
取材に答えているのは、前・浅草寺教化部執事、塩入亮乗氏とのこと。
概要は以前書いた通りでおおむね合ってましたが、なんとか引用と言える範囲内で、核心部分だけを抜き出しておきます。

 そのスケッチは寺に残され、戦前に見た人が何人かいたという。てっきり、戦災で焼けたと思われていたその秘仏の絵が、今から十年余り前に見つかったのである。発見したのはほかならぬ塩入執事だった。
「伝法院の蔵の中を整理していて偶然見つけたのです。桐の箱の脇に、みだりに開けるべからず、と後の大僧正が記した文言があり、判が押されていた。封印も厳重でした。戦前にその絵を見た方の話が伝えられていて、秘仏は像高が五十センチ以上あると思われる木造で、手足がかなり傷んでいる、とのことでした。スケッチの箱は今も厳封のままです」


なるほどー!

ネット上にはさらにディープな情報もありましたよ。出典も書かれているので確かな話のようですね。

世界一マニアックな浅草寺観光

おおおお……御宮殿内部の秘密が……!
機会があったら、どっかの図書館で「浅草寺志」を覗いてみようっと。

以上、事後報告でした!

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絶対秘仏萌え! 最終回

御戒壇巡りレポート

というわけで、善光寺名物、御戒壇巡りです。

私自身の御戒壇巡り体験は今回が二度目なのですが、一度目は小学生の時なので……分析的、批評的に体験するのはやっぱり初めてのことです。
ただ、よそのやつはほとんど経験がないので(アトラクション的に派手に展開する秘宝館めいたやつも世の中には相当数存在するらしいですね)、比較論はできないのですが、いや、元祖御戒壇巡り、実によくできていると思いましたよ。

下が、テキトーに描いた御戒壇巡りの概念マップです。

御戒壇マップ

基本的に、内内陣の瑠璃壇の外周を廻る位置取りになっているらしいです。
スケール等はだいたいの感じというか、要するにデタラメですのでその点はご承知置きください。

まずは、「右の壁を触っていってくださーい!」という指示を聞きながら、「←」の階段を降ります。階段が何段あったかは全然覚えてませんが、回廊の天井は身長180センチ余の私が別に屈まずに普通に歩ける高さがありますから、まあそれくらいは降ります。
ちょっと進むと、もう目の前は真の闇です。
そこで不安になって振り返ると、降り口から差し込む光がしっかり見えて安心します。
そのまましばらく(感覚的には15メートルくらいだと思うんだけど、暗闇のことですからわかりません)直進すると、回廊が右折します。
右折してしまうと、もう振り返っても入口の光は見えません。360度真の闇に包み込まれるわけです。
「うわあ」とか思ってると、ほどなく、もう一度右折します。

いや、ね。
たった2回右折するだけなんですよ? それなのに……暗闇の効果というものでしょうか、それとも単に私が方向音痴なだけなのでしょうか、方向感覚を失って、現在位置がまったく掴めなくなってしまうのです。
そしてしばらく進むと、壁に沿わせていた右手が、フッと壁面の窪みに出会います。
その窪みの奥、概念図上の☆の位置に「触れると極楽往生が約束される鍵」があるわけです。

実際には、鍵というよりも取っ手ですね。縦30センチ幅くらい、2支点の金属製の取っ手がついていて、これを握ると多少の「遊び」があり、ガチャガチャと音を立てながら左右に動かすことができる。非常に、こう、「実感」を与えてくれる仕組みになってます。

この取っ手部分は、(写真を見たこともあるのですが、触感で慎重に把握しました)、仏具の「独鈷杵」の形をしています。

窪みを過ぎ、しばらく行くと回廊は三度右折、途端に出口の光が目に入ってきます。
階段を登れば、御戒壇巡り終了。

どこまで計算されたものなのかはわかりませんが、極めて単純な構造と短い距離の範囲内で、かなりのスリルと達成感が味わえるシステムです。
いやあ面白い!
早朝で空いているのをいいことに、思わずもう1周してしまいました。

それにしてもわからないのは、「鍵といってもなんの鍵?」ということです。
いやそれ以前に、なんのための地下通路なのかと。

調べてないんで100%憶測で書きますが、現存するこの本堂の「これ」自体は、おそらく御戒壇巡りに供することを前提に作られた通路なのだと思います。けれど、習慣として受け継がれている以上、先代の本堂にもきっとあったに違いないんですよね。いや、先々代にもあったろうし……どこまで遡れるのかはまったくわかりませんけど、最初のモデルはどこかの時代にあって、「それ」は別に、御戒壇巡りのためにつくったわけじゃないと思うんですよね。普通に考えて。
いや、逆に、最初のモデル自体が御戒壇巡りを想定して設計したもので、御戒壇巡りというシステムを発明した人がこのお寺にいたのだとしたら、それはそれでとっても凄いことなんですが。

そもそもね、「御戒壇巡り」という言葉が意味不明です。
「戒壇」というのは、説明するまでもないかもしれませんが、「出家者に仏教の戒律を授け、正式に僧侶として認定する神聖な場」です。鑑真和上が初めて唐招提寺にこれを築いたことでも有名ですね。

となると、善光寺のこれ、戒壇と全然関係ないし。上にあるのは戒壇じゃなくて瑠璃壇だし(この言葉もおかしい。「瑠璃」ってタームは薬師如来の専売特許じゃないですか)。
考えられるのは、当寺の出家儀式において、かつてはイニシエーション的に使用していたシステムを、参詣イベントとして一般に開放した……ということくらいでしょうか。

ともあれ。
今回私は、「鍵」のついた窪みの部分をじっくりと触診してみました。
この場合、触診という言葉があってるのかどうか知りませんけど。
で、まあ、窪みの奥には明らかに扉があり、その扉の取っ手であり鍵であるということは、はっきりとわかったわけです。
あと、ものの資料によれば、その位置は御本尊の真下に当たり(それが本当なら、絶対秘仏本尊の安置場所は瑠璃壇の向かって左側になるので、概念図の窪みの位置は間違っていることにもなります)、扉の奥には密室があるんだとか。
うひー。

なんのための密室?
密室の中になにがあるの?
なんで秘仏本尊の真下に??

とまあ、激しく妄想が掻き立てられてしまいます。
なんつーかまあ、密教臭い。鍵の形自体が密教由来だし、この構造、天台宗筋の企みなんじゃないかという気はすごくしますね。
だとすれば、天台宗らしい深謀遠慮、錯綜した祭祀構造がそこにあると考えるのが自然の流れ。密室内になにもないってことはないだろう? 誰がいるの? 摩多羅神みたいな、だけど善光寺独自の知られざる怪しい神様がいたりするの? カラッポってことはないよね? でも、カラッポならカラッポでそれはすごく不気味……。

とか、ますます妄想は膨らんでいくわけですが……ま、秘仏本尊の正体同様、その答えが得られることは未来永劫ないのでしょう。

それにしても……そういう密教らしい、怪しげで、秘中の秘!という匂いのする中枢ポイントに、一般参詣者を招き入れるどころか、名物にさえしてしまっているあたりが、つくづく善光寺らしいです。

てなわけで、善光寺編はここでひとまず完結します。
忠霊殿資料館の諸仏とか、長野県信濃美術館の「善光寺信仰展」とか、あと経蔵とか、それぞれに感じるところ大ではあったのですが、このブログのテーマからはちと外れてしまいそうなので。

ただ、諏訪信仰と善光寺の関わりについては、また稿を改めて触れることになると思います。諏訪人驚愕の変態御柱とかありましたしね。
そのへんは、再度の長野行きを敢行して後のことになるのかな~。

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絶対秘仏萌え! その8

善光寺如来に御対面3

善光寺の御開帳にお出かけになる方にアドバイス。
って、御開帳が終わってからする話じゃありませんが、ま、6年後の参考までにひとつ。

普通の観光寺の拝観時間は、朝9~10時から、夕方は4~5時ころまでというのが一般的です。しかし、庶民の味方・善光寺だけは違います! かつてはお籠りと称して多数の信者が泊まり込みで参拝する風習があったらしいのですが、さすがに廃絶してます。その名残というわけでもないのでしょうが、早朝から夕刻まで、内内陣に入っての参拝が可能なのです。

夕刻が何時までか、正確なところがわからないことをお詫びしますが、早朝6時ころから始まる「お朝事」直後くらいのタイミングで参拝するのがおすすめ。宿坊からの団体さんの波に乗ったり、やり過ごしたりすれば、御本尊参拝もお戒壇巡りも自由自在です。

zen0201.jpg

というわけで、早朝の仁王門前にやってまいりました。

ちらほらと人はいますが、御開帳真っ最中の賑わいとは無縁です。
この門の仁王像は、高村光雲作。無論、古仏としての価値はありませんが、近現代の仁王像としては出色の出来だと思いますです。

んで、写真はありませんが、この門の裏側には、向かって左側に三面大黒天。右側に青面金剛が祀られています。どっちもかなり怖いです。

……と、ここで「ん?」と気づく人は相当な通ですが……この、「仁王門裏に三面大黒天と青面金剛」というスタイルは、浅草寺と一緒なんですね。
その点については、別に比較編を立てようと思ってるんでここでは触れませんが、ただまあ、表の仁王が高村光雲ってことでわかるように、浅草寺同様に新しいものなんで……。
仁王門自体、明治に燃えてるんで、これは大正の再建です。それでも見事なものですが。

zen0205.jpg

午前7時すぎの仲見世。それでもけっこうな人出ですね……。

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zen0202.jpg

山門、そして山門から透かし見る本堂。
この構図、計算されてますねー。いや、写真がじゃなくて、伽藍としての話ですよ?

修理が終わった山門には、拝観料別途必要ですが登ることができます。上層には四天王に囲まれた文殊菩薩の騎獅像が奉られています。等身以上の法量を持つ堂々たる群像ですが、美術品としても古仏としても……まあ。うん。
周囲には八十八か所だったかな、門の上層で非常によく見受けられる、巡礼シミュレーションパターンの小仏がズラリと並んでいます。

しかし……この手のプチ巡礼仏群で、オリジナルの像容を意識したやつって見たことないですね。江戸のキンキラの同一作風で、個々の尊型パターンを押さえてるだけです。
まあ、オリジナルが秘仏だらけだからしょうがないんだろうけど……もう少し真面目にやってもいいんじゃないだろうか、といつも思います。

とはいえ、本堂と同時期建立の堂々たる山門。国内有数の規模ですからね。急で狭い階段を登り降りするのも楽しいですし、見下ろす景色も雄大ですから、500円払っても損はしないんじゃないでしょうか。
……本音をいえばせめて300円くらいにしとけ、と思いますけど。

zen0204.jpg

そして、神々しい(あ、違った!)回向柱を前にした、堂々たる本堂!

回向柱には、早朝でもそれなりに人がたかってます。日が高くなると、これが大行列になるわけで。
ま、並ぶのも参拝イベントのうち、と考えるみなさんもいるのでしょうけどね。

ここで、大勧進の偉い人がやってくるぞとおふれがあって、「御印紋」「お戒壇巡り」と並ぶ3大イベントである「御数珠頂戴」のチャンスがあったのですが、逆に「これは余裕を持って御本尊に迫るチャンス!」と見てスルーしました。そっちが本来の目的なんだからしょうがない。

……で、当然ながら、本堂に踏み入ったのちは写真がありません。

堂内は、その壮大さ、瑠璃壇(通常の須弥壇に相当)上の特殊な構造といったところが見どころで、内陣の左右に江戸期の丈六弥勒仏と延命地蔵が向かい合っている程度で仏像マニア的にはほとんどそそりません。このへんは、浅草寺のみならず、江戸の参拝観光で隆盛を見た寺院の共通項のように思います。ま、「延命地蔵」って聞いた時点で、もう仏像マニアとしては萎えてしまいますね。

前立本尊には、読経の合間を狙って間近に迫ることができました。
いや、ほんと間近に。1メートルくらいの距離で見られましたよ。前立だからこそ、という面もあるんでしょうが、それにしたってねえ。
さすが庶民の寺です。

さて、像容です。
ま、以前書いたように写真が出まくってるんで今さらなんですが……でも、リアルな質感、量感をしっかりと感じられるのは実見ならでは。
キンピカの江戸江戸しい後補光背はともかくとして、そのシンプルかつスマートなマッスには感じるものがありました。
小仏という先入観ゆえ余計にそう感じたのかもしれませんが、思ったより大きいです。台座光背込みだとひと抱え以上、やすやすとは移動できない感じ。
三尊とも、鍍金はほとんど剥げ落ちて、薬師寺の像のように黒光りしています。といっても、あんな素晴らしく精緻な出来ではなくて、素朴な印象ですけどね。

なんていうか……仏像マニア的にそれほど期待できる対象ではなく、「一度くらい実見しとくか!」くらいな気持ちだったんですが、意外と……といったらホントに失礼ですが、かなり印象的でした。
なんだろ。存在感としか言いようがないんだけど。こう、三尊ともに、やけに細くて、ぶっきらぼうなまでにまっすぐな感じがね。

像容に関するこれ以上の考察は、また稿を改め、長野県信濃美術館で同時期に開催されていた「善光寺信仰展」の感想編に譲りますが、しかし……浅草寺と違って、一介の素人マニアがどうこう言えるレベルではないほどに研究が進んでいます。はい。

今回はここまで。
次回は「お戒壇巡り」の感想とか、周辺部のレポートとかをお届けします。
その後、上述の「善光寺信仰展」、さらには浅草寺との比較考察、そして……。

恥ずかしながら今回初めて知った、「善光寺と諏訪信仰の密接な関わり」についてもちょっとだけレポートします。端緒もいいところですけどね。

そんでもって……本ブログでは、ようやく本来のメインテーマである諏訪信仰絡みのネタへと徐々に踏み入っていくわけです。

あー、たぶん、気まぐれによって順序は激しく前後すると思いますけど。

絶対秘仏萌え! その7

善光寺如来に御対面2

さて、善光寺のどこが世界遺産に値するのか?
端的に言い切ってしまいましょう。
「中世~近世の大寺院の信仰形態をそのままの形で残している」
この点につきます。

仏教系の古刹を訪ね、その由来書きを読むと、しばしば「往時は何十いくつの院坊が立ち並び」みたいな記述に出会います。でも……実際にそういう光景に出合うことはまずありません。
ここに坊があった、あそこに院があった、もっと悪いと(といっても、ごくありふれた例だけど)大寺の本体はきれいさっぱりなくなっていて、かつては寺に付属していた院や坊だけがポツンとひとつ残っていたりします。(※注1)

ここで思わず、廃仏毀釈への恨みつらみ、国家神道への憎しみを語りだしそうになるところなんですが……そこはぐっとおさえて、と……。

今も院坊が立ち並んでいるという点で、比叡山、高野山、そして吉野のお山は例外といえますが、これらには山岳修験道場としての特殊性があります。修験道はリアルタイムで人気があるし(オレだって修験者やってみたいとちょっと思ってるしー)、また、実際問題として、この3つはすべて世界遺産の一部になってます。

これらの例と善光寺が大きく違うのは、「一般庶民による、江戸期の参拝観光の形をそのまま残した信仰形態である」という点です。
たとえば今回比較の俎上に上げている浅草寺の門前町なんか、江戸文化の代名詞になっていて、確かに庶民の参拝観光の形はよく残しているのですが、院や坊はそんなにない。実質上の本坊(※注2)である伝法院の存在がよく知られているばかりです。

その点、善光寺がどうなのかといえば、まず、門前町、仲見世の賑わいは負けてない。

仲見世

そして……なんといっても、本坊が2つある。
天台宗の「大勧進」と、浄土宗の「大本願」。

大勧進

これは……大勧進の門前です。この風情だけ見ても、独立した立派なお寺でしょ?

ま、この点だけ見ても十分にレアです。宗派の違う2つの本坊が1つの大寺院を治めているという例は、現時点ではもちろんのこと、過去にも見当たらないんじゃないかと思います(すいません、真面目に調べてないんでツッコミは謙虚に受けます)。
善光寺ってのは、納骨供養に関して宗派を問いませんからね。そのへんも、「来るものは拒まず」的な、日本ならではの習合形態を端的に表わしていてとっても貴重なのですが……さらに加えて、善光寺には、今現在、25院14坊、計39の院坊が、信仰の場として生き続け、門前町に広大なエリアを形成しているのです。

裏手の院

門前の坊

この路地、まるごと全部、院坊です。
んで、門前エリアにおいて、これはほんの一部の例でしかありません。

しかも、これらすべての院坊が、個別に仏堂と本尊を持ち(※注3)、宿坊としての機能を今も持ち続けているのです。
大寺院がアカデミーとしての性質を持っていた中世までならいざ知らず、このご時世に……それでおまんま食えてるってことですからね。

これは本当にすごい!

実際、まあ御開帳期間で特別ではあるけれど、朝イチで参詣に向かうとですね、その39の院坊すべてから、旗持った案内役に引率された参詣者の集団が、ぞろぞろと出かけて行くわけですよ。

どうして善光寺だけが廃仏毀釈の嵐をくぐり抜け、また、江戸末期に激増し現在にまで尾を引いている民間の修験者たちの熱意を借りることもなく(※注4)、こうした形態を保ち続けることができたのか……それはもう、信仰のおおらかさ+巨大さとしか言いようがないんです。

あと……辺境だってこともあるけど。

さて。
実をいうと、善光寺編に関していちばん言いたかったのは以上の点なのですが、ともあれ、御本尊に対面しなければお話になりません。

次回「こそ」、御開帳参拝レポートです。

……わりとあっさりすんじゃいそうな気もするけど。

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絶対秘仏萌え! その6

善光寺如来に御対面1

くだくだしい抽象論的な部分は浅草寺編でけっこうダベってしまったので、善光寺編はすっきりとレポートから入ります。
いやあ、まさに昨日、御開帳が終了したばかりですしね。
ま、善光寺編のレポートが終わったら、またグダグダと始まるんですけどね。

さて。

善光寺門前にやってまいりました。

009001.jpg

しかしまあ、門前町が長いのなんのって。長野駅前から延々2キロですよ!?
そりゃ仲見世と呼ばれる範囲は数百メートルですが、そこに至るまでのだらだら坂にも、門前町の香りは十分。伝統と品格が感じられる街並みです。
そりゃね、観光しか食いぶちのない田舎町ならがんばるのも当然です。でも、曲がりなりにも県庁所在地ですからね。都市として、ビジネス街としてもそれなりに充実している。にもかかわらず……と、考えた時、この門前町の民度の高さは称賛に値します。

長野県というのは深い谷と高い山脈に分断された広い県で、地域ごとの連帯感は非常に薄い土地です。ゆえに、私のような南信の人間は、北信に対して拗ねたようなところがあるんですよ。東京に近いのはこっちだし(いや、新幹線が通ったから時間的には逆転されましたが)、文化が相当に違うから、長野市中心に長野県を語られることに非常に抵抗感があるんです。だから、北信のことをある種バカにしているというか、斜に構えてみてしまうところがあるんですが……いやいや、実見して感服いたしました。
私個人が長野市及び善光寺にお邪魔するのは実に三十数年ぶりのことで、つまり大人の目線で見るのは初めてなわけですが、本当に素敵な町だと思いましたよ。観光客のみなさんには、心からお勧めできます。

ああいや、ついでだから言っておきますが、松本城擁する松本市もかなり素敵です。負けてません。どちらにしても、京都とか、(行ったことありませんが)金沢とか、首都圏なら川越とか、そういう種類の素敵さがある町なんです。
あと、「都市でありながら」という条件からは外れますが、別所~松代あたりもかなりいいみたいです。

ってのは、まあ、わが諏訪がね……観光客にはあまりおすすめできないというか……肝心かなめの門前の目抜き通りに新築のセキ○イハウス(←ごめんなさい、あくまでも例えです)みたいなもんがドーンと建ってしまうような民度の低い町なんでね……。

ああ、話が逸れてますが、いちおうテーマはありまして、つまり、善光寺というのは今、世界遺産候補に申請してるんですよ。そんで、うちの地元近くの岡谷市も申請してるんですけどね。
いやもう、村おこし目的の世界遺産申請インフレというか、最低なことになった結果として今は申請が締め切られちゃって、それは当然だし、どうでもいいし、お前らいい加減にしろよとか私も思ってるんですが……しかし!

善光寺にはその資格が十分にあると、私は思っているのです。

次回は、そのへんの軸から善光寺の素晴らしさを語ります。いえ、語らせてください。

あれ? すっきりとレポートから入ってないよ?

……すみません、そういうサガなんです。

【閑話】秘仏に関する覚書

「もったいない」の心

浅草から長野へと移動する前に、ちょろっと……。

「なんでわざわざ彫った仏像を秘仏になんかするんだろう?」
という疑問は、仏像好きなら誰でも抱いたことがあるのではないでしょうか。
彫像なんだから。もともと見られる目的で作られたものなんだから。

でも、たとえば西国三十三所の観音様はほとんどが秘仏だし(ただいま絶賛公開中!)、四国八十八ヶ所だって実見できる仏像のほうが少ないわけで。
あなたの街の近所にある無名なお寺にしても、たぶん……境内に立ち寄ったり、軽く参詣したことはあったとしても、御本尊を拝んだことは……ないんじゃないですか?
村(町でもいいけど)の観音堂や薬師堂を見つけたら、こっそり中を覗いてみてください。たぶん、扉の閉まった厨子が見えるばかりで、御本尊の姿が拝めることのほうがまれだと思います。

でも、多くの参詣者は、そんなこと全然気にしてません。

特に「観音」といえば、誰でも具体的にその姿をイメージできるくらい、メジャーで安定したヴィジョンが共有されています。だから、「観音を奉っている」と聞けば、「ああ、お堂の中には観音像があるんだな」ということが誰にでもわかって、かつ、具体的にイメージできるはずなんです。
にも関わらず、「××観音」等と呼ばれる人気の観音霊場の参詣者たちは、お堂の前でガランガランとやって、お賽銭入れて、手を合わせて、そんでおみくじ引いて御朱印かなんかもらって、そのまま満足そうに帰っていきます。観音像を直接拝まずともなんの不満も持たない。お堂の中を覗こうとすらしません。
それじゃ、神社にお参りするのとなんにも変りませんよね。祈りのポーズが違うってだけで。

で、「そこ」こそが、「習合」という方法論を持つ日本人ならではの信仰心なわけです。
それがいいんです。

個人的には、「秘仏」の重要な成立要因として、日本人ならではの「もったいない」感があるのではないかと思っています。
ま、根っ子を辿れば「神仏習合←アニミズム」って話で、定説通りなんだけど。

こう、ね、俗っぽい例だと、美人の奥さんを娶った男がだ、友人かなんかに、
「へー、ホントに綺麗な奥さんだなー」
なんかいわれて、ジロジロ見られた場合、
「あんまりじろじろ見るな!」
「いいじゃないか、減るもんじゃなし」
「いいや、お前に見られると減る!」
みたいな会話が展開したります。

ベタかつ卑俗ですみません。

しかし、この「価値が減る」って感覚、あるんじゃないかなあ。たぶん日本人にしかない感覚。

まあ、この下世話な例の場合、独占欲といってしまえば元も子もないんですが、ただ、秘仏のもう一方での成立要因……密教の秘法でですね、歓喜天や准胝観音、荼枳尼天なんかが代表的ですが、秘法のマニュアルに「秘法本尊の他見を許さず」みたいなのってあるわけでしょ? この手は秘仏といっても、本尊に帰依している秘法の使い手(基本的にはその像を所有するお寺の住職さん)だけは拝むことができるわけです。
そこにねえ……いや、修業を積んだお坊さんに対してはなはだ失礼ではありますが、「自分だけが拝める」という独占欲的な悦びって……実は……ちょっとだけでも、あるんじゃないかな~、とか思うんですよね。俗人ならではのいやしい邪推かもしれませんけど。

ま、それはそれとして、「減る」に話を戻すと、実際問題として、「霊験が減る」というね。奉ってる側として、これは困りますよね。いろんな意味で。
いかな伝説の霊験仏でも、常に誰に対しても霊験をだだ漏れにさせてたら、やっぱ霊験が減る感じ……するでしょう? しますよね?
なんでそういう感じがするのかといえば、「彫像という物体に、魂が宿っている」というアニミスム的認識を、無意識のうちにみんなで共有しているからこそ、だと思うんですよ。

「宿っている」からこそ、おろそかに扱えば「抜けて」いってしまう感じがする。

偶像に対してこの感覚をあたりまえのように共有しているのは、やはり日本人だけでしょう。
だから、そういう観音様とか拝む時は、「(私なんかに霊験をわけていただいて)ああ、もったいないことだ」というわけです。

だからこそ、無闇に霊験を発散させず、厨子に込めて霊験エネルギーを蓄積させておくわけですね。
「使わない時はスイッチ切っとけ!」みたいな。
「ただいま充電中!」とか。

ひどい例だとお思いでしょうが、いや、でもね、この例の場合もエコとか電力の安定供給とかってのはしょせん理屈であって、各種エネルギーもやっぱり偉大な自然からわけていただくものですから。感覚的には、それこそ「もったいない」って感覚が本義だと思うんです。

もちろん、そういう感覚を完全に失ってしまった人も現代社会にはたくさんいて、そういう人にとっては、「お金がもったいない」以外に「もったいない」を説明できる理屈はないんでしょうけどね。
で、それが無宗教者の価値観なんだとしたら、「私は無宗教者です」と表明するのがなんだか恥ずかしく感じられる時代になってきたような気もします。日本でも。
だからといって、戦争のダイナモとしての本質を抱える一神教なんてもんはツバ吐きたいほど大大大嫌いだし、特定のナンカに属する気もないんですけどね。

いやあ、時代は「アニミスト」かなー!
大自然に対する敬意と尊重が生き物としての基本でしょう、やっぱ。

1500年遅れてるよね、今のニッポンって!

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絶対秘仏萌え! その5

謎の浅草寺本尊 完結編

いきなり、ドーン!

観音御影

外陣からデジカメの望遠を最大にして撮った写真を、さらにフォトショで調整してみました。
コントラスト……明度……ついでにシャープもかけて、と。

……ま、こんなもんが限界ですよ。
ピンボケ、光度不足、手ブレの三重苦。
ちなみに、この写真は叱られたら引き下げます。あらかじめごめんなさい。
でも、いいよね、こんなダメダメ写真なら。まさに「御影」って感じじゃん。
みなさん、せめて拝んでやってくださいね。

ねんぴーかんのんりきー!

実見の記憶もおぼろげなので、この画像を土台にして、素人マニアなりにあれこれ考察を加えてみます。

えーと……けっこう、抑揚に富んだフォルムですよね。ポーズもくねっていて艶やか。そういう意味で、平安初期っぽくはないです。特に、足先がすぼまっている感じがなあ。これで堂々と両の足を広げ踏みしめていれば、もうちょっと古い感じもするんだけど……。フォルムの印象だけだと、鎌倉後期って雰囲気です。や、テキトー言ってますが。

しかし、前回述べたように、もしこれがオリジナル本尊のイメージにある程度忠実な像なのだとしたら、サイズと材質、尊形から見て……さらに本尊が古代仏だという前提に立つのであれば……オリジナル本尊は檀像(※注1)の可能性が高いように思われます。
となれば、渡来仏の可能性も十分にありうる。が、逆に、善光寺仏がそうである可能性ほどに古くはないということになりますが……それはしかし、創建年代にはぴったり来るということにもなり……。

……と、憶測に憶測を重ねても詮無いことですな。

しかし、ここで私は、前回最後に振っておいた「現代の謎」に直面することになるのです。

そういえば、前立像の写真って見たことないな……?

そうなのです。たとえば善光寺の前立像は写真出まくってて、鎌倉期の造像として重文指定も受けています。清水寺みたく、基本的に写真公開は前立像が身代わりを務める、という例も多いです。けれど浅草寺の前立像は……。
とりあえず、指定文化財のデータベース等を調べてみたのですが、国指定(※注2)、都指定、台東区指定、いずれにも見当たらないんですね。

そうすっと近世のパチモンか?(失礼!) 慈覚大師手彫りなんて大ウソか?(ますます失礼!)と、先走りそうになってしまうのですが、いや、ちょっと待ってください。浅草寺の仏像自体が、リストにひとつも見つからないんですよ。いや、宮殿脇侍の梵天・帝釈天にせよ、内陣左右に配された愛染・不動の各明王にせよ、裏堂中央の裏観音にせよ、せいぜい江戸期の像だとしたって、都指定か、せめて区指定くらいは受けていたっておかしくないじゃないですか。

あ、そういえば、裏観音の盗難事件の際、「文化財指定は受けていないが…」という記述があったような……。

http://www.47news.jp/CN/200512/CN2005122301001855.html

ニュースあった……。(※注3)

うう……それなりに古そうに見えたんですが、再建時の造立だったんですね……。
いきなり私の鑑定眼の底の浅さが明らかになってしまいましたが……そうすっと、周囲の仏像みんな昭和再建時の? え? じゃあホントは前立像も!?

……と、これまた性急な判断は避けておきましょう。
だって、じっさいもっと古い仏像は浅草寺には残ってるんですよ? でも、ひとつも文化財指定を受けていない。例外は二天門の二天像、伝法院の不動明王像ですが、いずれも本丸からは外れてるというか……あと、浅草寺蔵でなんらかの指定を受けているのは、二天門、六角堂といった空襲から焼け残った建造物、あとは「山東京伝机塚の碑」と、要するに露天のものばかりです。こないだの御開帳時に資料館?かなんかで見た歴代の絵馬なんかも、区指定くらいなら十二分なシロモノがざくざくあるんですけどねえ。指定リストには見当たらない。

うーむ……。

ここでひとつ考えられるのは、生きた信仰の中心であるが故のタブーです。
ま、前立像が昭和再建時のものだったとすれば、「それはなかったことにして」、慈覚大師手彫りの伝説を主張し続けているとか。「ツッコミは許さない!」って感じで……。

でも、心情的にはもうちょっといい方の解釈をしたいところです。

ひとつ考えられるのは……いや、憶測できるのは……いやいや、妄想できるのは、明治の実見が実話だったと仮定して、それゆえに、浅草寺が文化財調査に対して強いアレルギーを持っているんじゃないかと。調査の申し込みや文化財指定に対し、極めて慎重な姿勢を崩さないんじゃないかと(※注4)。
これ、ありそうじゃないですか?
タブーであればこそ、直接真否を問い合わせるような勇気は私にはありませんが……。

と、まあ、この妄想の真偽(妄想に真偽もへったくれもありません)はさておいて、もう少しだけ参考になる物件があるので、取り上げてみます。

温座観音

これは、「亡者送り」で知られる正月行事、「温座秘法陀羅尼会」の本尊とされる観音像です。以前注記したオフィシャル・ガイドブック「図説 浅草寺 いまむかし」から引用させていただきました。

ま、この行事自体は、江戸時代に岡山の金山寺から招来したものなんだそうで、そう古いものではないんですが……本尊と同じ尊格の別の像を、特定の行事に限って本尊に立てるって……密教臭え! なんだか二月堂の小観音すら彷彿させますね。

……本題に戻って、と。

これは……うん、木彫の聖観音像ですね……。
同書によれば、「(造像は)鎌倉時代」「源義朝が奉納したものと伝える」そうです。

ほら! ほらね! これ、指定文化財になってないの、おかしいでしょ?
や、典拠が「オフィシャル」の本だけに、なおさら余計に真偽が疑われる面は確かにありますが(笑)、でも、少なくとも昭和再建時の補作にそんな但し書き付けてわざわざ掲載するってこともないでしょう?
義朝といえば、かの頼朝の親父さんですから、寺伝通りなら平安末期(※注5)、それを「鎌倉時代」と記してるあたりの良心も信用したいじゃありませんか。
まあ……文化財指定もされてないのに誰が鑑定したのか知りませんけど。

そこで、「おまえの(ヘボ)仏像鑑定眼ではどうなんだ?」ってツッコミもあると思うのですが……いや、むしろしてほしいのですが!(笑) しかし……どう見てもこれ、模古作なんですよね……。

だってこの宝冠と宝髻、硬い立ちポーズ、胸部の彫り出し方、衣紋の形式……ズバリ白鳳~天平のスタイルですよ。もちろん、いくらヘボな私でもその時代の作そのものだとは思いません。あくまでも模古作だとは思います。なんていうか、その「模古っぷり」も中途半端な感じで……彫刻としての価値はあんまり……もごもご。

ただね、そこで思ったのは、「これ彫ったやつ、オリジナル見てねえか?」ってことなんですよ。
だって、なにを根拠に、鎌倉時代(ということにしておいて)に突然この形式で?
よその観音様をモデルにしたと仮定しても、ズバリ想定される像が思い当たりませんしね。

いや、「オリジナル」って表現を使ってしまいましたが、つまり、旦那衆(徳川家はじめとするエライ人たち)が奉納した観音像は浅草寺にたくさん残ってるわけですよ。多くは江戸期の像のようですが。そういう習慣はどこの寺でもあって(※注6)、前立目的の造像ではないにしても、要するに本尊の移し身ですよね。お手本になる本尊が秘仏だったら、仏師が尊名から適当に解釈して彫るのでしょう。この像も、義朝の伝説の真偽はともかくとして、大筋ではそういう類だと想像されるわけです。

で、この像容……?

「これはなんかある!」と思う私を誰も責められないと思うのです。
ちゃんと調べれば、すげえ簡単な種明かしに、あっさり足元をすくわれそうな気もしないでもないんですけど。
たとえば……祭事とともに金山寺から招来した、本来は浅草寺にまったく関係のない像だった、とか……。

ただ、もうひとつ。「秘仏」って概念は、そこまで古くないと思われるわけです。平凡社の『日本の秘仏』、毎日新聞社の『秘仏』、それぞれにおいて秘仏の起源に関する論考を寄せている藤澤隆子氏によれば、秘仏という概念の成立はともかく、「尊像を見せない、または隠す」という現象が記録に見られるのは、9世紀後半からのことだそうです。そして、各地で霊験仏の秘仏化が顕著に進んだのは、神仏習合が体系的に進んだ中世のこと。
善光寺なんかも鎌倉時代初期あたりが怪しいとされています。ま、善光寺信仰が大いに広がった時期でもあるんだけど、世に何百とある善光寺式一光三尊仏のほとんどが、鎌倉時代に作られているんです。
隠されたからこそ模刻仏が濫造された、という推理。
少なくとも、「この時期にはまだ秘仏本尊の尊形の記憶があった」ということにもなりますからねえ。

てなわけで。

私としては、「幻の浅草寺本尊は天平期の檀像、しかもひょっとしたら渡来仏ではないか。そして、秘仏化した時期は、実は早くても鎌倉期までは下るんじゃないか」と、推理……いや、妄想しているのです。

長くなってしまいましたが、以上で、浅草寺編「は」完結です。
次回は長野に出かけます。

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絶対秘仏萌え! その4

謎の浅草寺本尊3

てなわけで、やってきました、浅草へ。

仲見世

仲見世は相変わらずの賑わいです。中央の垂れ幕がおわかりでしょうか?
「浅草大観光祭 慶祝 観音堂落慶50周年記念」と書かれています。

「大観音祭」じゃなくて「大観光祭」なのね……。

宝蔵門

堂々たる宝蔵門。本来は仁王門なのですが、昭和の再建時、楼門上を収蔵庫にしたため、宝蔵門と名付けた由です。
「雷門スルーかよ!」と言われそうですが、ま、参詣紀行文が目的じゃないので、どんどん行きます。

ここには、
「本堂落慶50周年 記念開帳 平成20年10月15日~11月16日」
と、掲げられています。
そうそう、これが目的なのよー!と、気分も高まってきました。

ちなみに、お前立ちは年に一度の12月13日、すす払い行事の一環として、法要中のみ開扉されるそうです。いわゆる「虫干し」の建前に類する感じですね。が、時間も短く(なにしろ観音経を読む間だけですから)、厳かな法要中のみの開扉ということで、とても自由に見られる状況ではない。一般客相手にあけっぴろげに公開する機会は、やっぱり貴重といえるでしょう。
御開帳のタテマエは、原則33年に一度(観音様の定番)、ほかに、今回のような特別大きな祭事のときにも臨時開帳がある、ということになっているようです。
前立仏なのに33年に一度って……形の上だけなら善光寺よりはるかにうわ手ですな。

結縁の紐

さあ、「回向柱」が現れました。
……電柱みたく、結縁の紐を経由する柱があるのね。知らなかった。

この、御開帳と切っても切れないシンボルとしての回向柱も、浅草寺と善光寺の共通点のひとつです。今となってはあちこちの御開帳で見られる風景ですが、もっとも有名なのはやはりこの2寺で、他の多くの例はこの2寺の模倣と思われます(※注1)。

ただ……ルーツがどこにあるのか、いつごろに起源があるのか、そこがわかりません。ちょっとだけ調べてみようとしたんですが、本格的な資料検索スキルなど持たぬ素人のこと、あっさり挫折しました。
わかったのは、奈良時代の『日本霊異記』に、仏像に縄を繋いでそれを引きながら祈るという形式が何度も出てくるということ、それと善光寺の場合、「江戸の再建以降、回向柱は松代藩が調達するようになった」そうなので、「少なくとも江戸の再建以前から御開帳時には回向柱を立てていた」ということくらいです。

もちろん、この柱自体は卒塔婆の一種なんですが、「御開帳時、御本尊に直接繋がった紐を掴んで結縁する」というスタイルの起りは、いったいいつなんでしょうか。印象としてはそう古くなさそうですが……まあ、多くの一般参詣者が集まるようになってからの話でしょうし、御開帳をイベントとして盛大に催すようになってからの話でしょうし……そう考えると、早くても中世、普通に考えて江戸期ですかねえ。
……単なる憶測ですが!

回向柱

さて、例によって回向柱には人が群がり、列を作ります。とはいえ平日ですし、全然ましな部類でしょう。
どうでもいい話ですが、帰りに通りかかるとずいぶん長い列になっていて、見れば、先頭の人がよくばりにも全部の紐を束ねて掴み、続く人もその流儀に倣っている。思わず、「ひとり1本掴めばいいんですよ!」と、おせっかいをしてしまいました。

本堂軒下

回向柱から繋がった紐が、本堂の中へと入っていきます。
導かれるように、私も外陣へと踏み入ります。

本堂外陣

外陣のようす。多くの人は、ここでお参りして立ち去って行きます。
そして……。

宮殿開帳

確かに宮殿が、厨子が開いています!

……撮影禁止の表示もなかったんで、失礼してしまいました。
観音さま、ごめん!

続いて靴を脱ぎ、寺男さんに断っておずおずと内陣に踏み込みます。
内陣はさすがに撮影禁止。おばちゃんおばあちゃんを中心に、熱心な信者さんが坐して経文を唱えているので、迷惑をかけぬよう気を使いながらの拝観(本当は観察)です。

前立本尊は宮殿の中。あまり近寄れないし、暗いしで、細部まではわかりません。衣紋はけっこうシャープに、深く彫られている気もします。表情はちょっと読み取れない。
とりあえず、サイズは50センチ前後といったところでしょうか。木彫で、全体に褐色を帯びていますが、白木のままの御像とお見受けします。
右手を垂下し、左手に(たぶん)蓮の華、頭上には(どうやら)宝冠、像様からして、なるほど聖観音像であることは間違いないところでしょう。

そして……もし、明治の実見の話が本当であるならば、ですが……基本的に「本尊の像様に忠実な前立像」ということにもなってきます。

前立像は、寺伝によると9世紀前半、中興とされる慈覚大師が訪れた際、自ら彫ったものであるとのこと。
うーん……ま、「誰それ手彫り」というありがちな伝説は脇に置いておくとしても、実際にこの中興時の仏像だったとしたら、前立像自体に相当な価値が認められるはずです。もちろん、彫刻としての出来栄え如何にもよりますが、資料的価値だけでも国重文は堅いところでしょう。

……と、ここで、浅草寺本尊「現代の謎」に行き当たってしまいました。

次回、浅草寺編完結(の、予定)。

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絶対秘仏萌え! その3

謎の浅草寺本尊2

個人的な浅草寺への興味の中心がどこにあるのかといえば、古代におけるアズマの国の状況を想像する糧になる、という点につきます。善光寺とペアで扱う意味もまさにそこにあって、前々回に書いた「渡来人の動向という古代史最大の鍵が、絶対秘仏の古代仏には必ずといっていいほど絡んでくる」ってところですね。

寺伝の縁起書による浅草寺の創建はというと……628年、東京湾で漁をしていた網に観音様がかかりこれを奉ったことを起こりとし、645年、この地を訪れた勝海上人(※注1)によって秘仏とされ、寺院の体裁が整えられた(これをもって開基とする)、となっている。

聖徳太子の時代ですね。つーか、中央で仏教受け入れ問題ですったもんだしていた時期からたったの半世紀ばかりです。これは冗談じゃなく古い。マジかよ。

旧態依然の中央史観の感覚でこのエピソードをとらえると、「寺の縁起書なんてデタラメに決まってるじゃん。東国のド僻地で、そんな時代に寺が建つわけないだろ?」というのが当然の反応になります。
そういえば、徳川以前の江戸について、ある種伝説的なまでに語られるお決まりの風評がありますね。曰く、「藪だらけのじめじめした湿地帯で、僻地もいいところ。人が住むようなところじゃなかった」と。

ある意味、間違ってはいない。ある意味、ね。でもそれって、江戸の市街地中心部、今でいう下町あたり限定の話なんですよね。「武蔵国」全体として見れば、奈良時代の府中にはすでに国府があり、国分寺があり、多摩川沿いや狛江、さらに埼玉、千葉あたりには思わず仰け反ってしまうような大規模古墳群があるわけですよ。ヤマト政権のシンボル前方後円墳だってざくざくあるし、上野のお山にも芝公園にも古墳群がある。さきたま古墳群には日本最大の円墳、竜角寺古墳群には最大級の方墳がある。さらにさらに、狛江の古墳群からは弥生時代の方形周溝墓まで見つかってると来たもんだ!(※注2)

そして……府中、狛江にほど近い調布の深大寺と、千葉の竜角寺には、念持仏レベルのサイズではない、つまりホイホイと気軽に持ち歩けるサイズではない、立派な白鳳の金銅仏があるわけですよ。

とりあえず、「古代の関東=未開の僻地」という先入観は捨てなきゃいけません。縁起書の創建エピソードに土師氏が出てくるあたりも実にリアルですし(※注3)、万葉集の東歌に多摩川や筑波山が出てきたり、行基さんがうろうろしてたりとか、中央との人の行き来も普通にあったわけですしね。
東の国は、現代の我々が想像するほどに中央から遠くはなかったのです。

ただまあ、「とはずがたり」の記述に見る鎌倉時代の浅草寺がおかれた状況というのは、「霊験仏として高名なので参拝してみたが、なんにもない野っぱらを延々歩いていくと小高くなった場所に辿り着き、そこにお堂があった」みたいな話なんで、浅草周辺がド僻地だったことは事実なんでしょう。ただ、伝説のジメジメ湿地帯そのまんまじゃなくて、その中の丘状の地形というか、そういう場所ですね。もしかしたら、海岸線が後退する前は岬状の場所だったのかもしれません。
ちなみに、出土品等が確認されていないので確実視はされてないようですが、浅草寺周辺にも「浅草寺古墳群」がどうやらあった……みたいな、話も……一応、あります。

そんでもって本題に戻りますが、645年が浅草寺の開基と。ホントかよ、と。
ところがです。発掘調査によって、遅くとも奈良時代後期にはそこに寺があった、ということが考古学上確実になっちゃってる。さすがに規模までははっきりしてないようですが、もっとあちこち掘れば瓦ももっと出るだろうし、伽藍の跡も見つかるんでしょうね。
発掘調査は地道に続いてるらしいんで、今後の成果に期待したいものです。

でもって、善光寺との類似点はほんとあれこれあるんですが、私がもっとも注目している点が、まさにここなんです。
「中央から遥か離れた東の僻地に、奈良時代に寺が建っていた。その寺が、いまなお厚い信仰を集め続け、立派に生きている」。
まして、国府からはかなり離れた場所に……。

だからなんだって話……いや、別に具体的な自説をもったいぶってるとかじゃないんですが、端的にいって、ものすごく早い時期に(中央を経由せずに直接!)渡来人が入り込んでいたんだろうなー、と。んで、そういう証拠、いやせめて気配だけでも今に残されてるとしたら、それはとっても興味深いことだなーって、そういう話です。最近強く興味を持ってるテーマなんで、今後もこのへんの話は頻発すると思います。
この件に関しては注2も参照。

というわけで、次回、ようやく実地の拝観レポート開始!

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絶対秘仏萌え! その2

謎の浅草寺本尊1

絶対秘仏に関しては、その「絶対度の高さ」が気になるところです。
そして、漏れ伝わるわずかな情報に我々は食らいつくわけですが、さて浅草寺はといえば、比較的絶対度が低いといえます。なぜなら、あの、日本国二千年史上最低最悪国家システムである大日本帝国の横暴により、近代において実見がなされているからです。

……と、なにで読んだのか探してみたんですが、どうしても見つかりません。
そんなんばっかだ! ごめん!
とはいえ、秘仏ファンにはよく知られる広く流布した話なんで……とりあず、典拠はスルーとさせていただきます。とりあえず、ね。
まあ、ネットで拾う分にはそれなりに記事が見つかるんですけど、オフィシャルな性質の記事が見つからないんですよね。

毎日新聞社編『秘仏』に出てたとばかり思ってたんだけど……違った。
でも、二月堂の十一面観音に関しては、この本に載ってる論考が大基本です。

さて、とにもかくにも、ご存じない方のために、この実見のエピソードをざっとおさらいしておきましょう。
間違いの指摘、典拠のわかる方等いらっしゃいましたら、ぜひご教示ください。

えー、確か時代は明治初期です。フェノロサの影響なんかもあったのかわかりませんが、政府が神祇官等を3人ばかりを送り込んで、強引に御本尊の宮殿を開扉させたとか。
この検分の結果として伝わる話では、本尊は数十センチばかりの木造聖観音像で、かなり朽損していたらしい。確か腕はなかったとかだったかな。たび重なる火災の影響も当然あったのでしょう。ま、絶対秘仏がひどく傷んでいるというのは定番パターンのひとつですから、納得といえば納得です。

うちひとりが、なんと、実見をもとに図面を起こしています。しかしながらこの話、立ち会ったメンバーが次々に急死するというファラオもびっくりな呪い話のオマケ付きで(仏さまは呪わんと思うんだが……まあ神仏習合してるから仏罰もアリなのか)、図面を所有する遺族が「おそれおおい」ということで浅草寺に奉納、これまた厳重に秘されてしまった、とのこと。

うーむ。「絶対秘仏度」の落ちる話としておさらいしたはずなのに、今となっては、結果的にむしろ神秘性を高めるエピソードのひとつとして機能しちゃってますね。
ましてや典拠が示せないんじゃ、まんま伝説だろ、これ……。

うーん、さすがの霊験!

……って話じゃないですね。ちゃんと典拠を探せと。

ところで、空襲でほとんどの伽藍が焼けたのは、当然明治の実見より後のことになるわけですが、「御本尊はあらかじめ避難していて無事だった」との話が伝わっています。この件はちゃんとオフィシャル・ガイドブック(※注1)に書いてありましたよ、はい。
実際、本堂の中だけ見ても、江戸期以前と思われる仏像がけっこう残ってるんで、普通に信じてよさそうですね。周りに配置された仏像が残ってるのに本尊だけ焼けるってことはありえないでしょ。
以上によって、意地悪く囁かれ続ける「実は存在しない説」は却下です。

いっぽう、「一寸八分の金無垢の像」という俗説も根強く囁かれています。こっちのバージョンのみ聞きかじっている方は、上記のエピソードに、あれ?と思ったことでしょう。しかしながら、この形態は江戸期に徳川家が奉納した金銅像と一致しているとのこと。この徳川像は江戸期の出開帳などで公開されたこともあり、今も御本尊と一緒の宮殿内に現存するそうなので、目撃者からの伝聞がこのような噂を呼んだものと考えられます。もしかしたら、三井寺の弥勒菩薩の伝承も混じってるのかも(黄金の小像という点が似ている)。天台系寺院として。
なんにせよ、江戸時代から続く噂となれば、そりゃ根深いのも無理はないですな。

今回はそんなところで。
次回は、浅草寺創建の背景となる、当地の古代状況についてあれこれ考察じゃなかった妄想したりまとめてみたりしたいと思います。

いつになったらレポートに辿り着くんでしょうか……。

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プロフィール

LooseFrog

Author:LooseFrog
基本的に怠惰で、社会人として問題の多い中年男です。
でも、興味の対象には嬉々として食いつきます。

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デタラメやカン違いや不適当な素材の使用等ありましたら、ご指摘ください。
もちろん、助言や感想も歓迎いたします。

***

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P盲な私がいまさら細かいところいじるとワヤになりそうなので、ブラウザの拡大機能の使用を推奨いたします。

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